大航海物語 |
安土城 1579〜1585 天正7年〜天正13年 |
参考資料 |
フ ロ イ ス 神 父 |
・安土城 (あづちじょう) Azuti-jo Castle 住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 城郭構造:山城 天守構造:望楼型地上6階地下1階建 築城主:織田信長 築城年:1576(天正4)年 完成年:1579/5月(天正7)信長居住 主な城主:織田氏、明智氏 廃城年:1585(天正13)年 安土城は日本最初の本格的な大天守閣を持つ城郭です。織田信長は戦国時代で唯一、居城を戦場近くに移動できた戦国武将で、その当時の武田信玄や上杉謙信、 毛利元就などは兵農分離が出来ていなくて、居城が固定化されていました。信長の天下統一(天下布武)の最後の「信長の居城」としての安土城は、信長が琵琶湖東岸の安土山(現:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)の現:安土山に建造した、初めて大型の天守(天主)を持った威容を誇る山城で、建造当時は城郭が琵琶湖に接していましたが、昭和期に干拓が行われ現在は湖岸からやや離れています。現在の城址は国の特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域です。 1582(天正10)年に家臣の明智光秀の謀反(本能寺の変)の後、留守居役として在城していた蒲生賢秀が、信長の横死後、賢秀・氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子などを安土から移動させ退去しました。明智秀満率いる明智軍が入城、守備に就く。山崎の戦い(光秀の三日天下)の後、明智軍が退却後、伊勢国から織田信雄軍が到着、明智の残党を炙り出すために城下に放火。間も無く天主とその周辺建物(主に本丸)を何らかの原因で焼失しました。焼失の原因は、明智秀満軍が敗走の際に放火したとの濡れ衣説、織田信雄軍が城下に放火したのが天主に延焼したという説、略奪目的で乱入した野盗や土民が原因であるとする説(天守閣は吹抜け式で内部は金路に輝いて南蛮渡りの珍奇な珍しい物が飾ってあったといわれています)、落雷で焼失したとする説などがあります。その後、二の丸に織田秀信が入城、信長の嫡孫・秀信が清洲会議の後入城などの後に、秀吉の養子の豊臣秀次の八幡山城(滋賀県近江八幡市)築城のため、1585年(天正13年)に廃城にされました。現在は石垣などの一部の遺構を残すのみですが、当時実際に城を観覧した宣教師ルイス・フロイスなどが残した記録で焼失前の様子を知ることができます。日本の城の歴史という点で安土城は六角氏の観音寺城を手本に総石垣で普請された城郭で、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の模範になりました。その普請を手がけた石垣職人集団、いわゆる「穴太衆」はその後全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていったという点でも重要。ただ、安土城に残る当時の石垣の積み方は場所により様々で、特定の「穴太積み」なる技法はありません。 この城を築城した信長の目的は、岐阜城よりも京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝にあったことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため、あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。城郭の規模、容姿は、太田牛一や宣教師の記述にあるように天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたといわれています。 なお、安土城天主(宮上茂隆復元案)を模したレプリカ天守風建物が、三重県伊勢市にある安土桃山時代の歴史、文化を扱うテーマパーク「伊勢・安土桃山文化村」にあります。所在地〜〒519-0603 三重県伊勢市二見町三津1201-1:株式会社伊勢安土桃山文化村。 参考HP:〜 ・安土城の図 ・安土城の縄張図(曲輪配置図) ・安土城の縄張図(現在) ・こちらで岐阜城(ぎふじょう)をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 12/6/18 |