大航海物語 |
日本製のガレオン船(1) 1607、按針丸 (あんじん丸) サン・ブエナ・ベントゥーラ号 |
参考資料 |
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<日本製のガレオン船>
慶長14/9/4(1609/9/30)の朝、千葉県の御宿町田尻の浜でドン・ロドリゴ総督が乗船したスペイン船サン・フランシスコ号が、フィリピンでの任務を終え、メキシコへ帰還する途中遭難、沈没。岩和田村の人々が乗組員317人を救助(死亡・行方不明者56人)しました。ドン・ロドリゴ総督はフランシスコ会ルイス・ソテロ宣教師の助力と通訳とで徳川家康に召出されて謁見し、帰国を嘆願して許されました。 サン・ブエナ・ベントゥーラ号での帰国 その後、乗組員一行は徳川幕府が造らせた船安針丸を金貨4,000ドゥカード(Ducados=@3.4909gx4000=13,963.6gx@4,000円=55,854,400円)で貸与されて、サン・ブエナ・ベントゥーラ号と呼んで、1610年にノビスパンのアカプルコ港に無事帰還しました。 そのサン・ブエナ・ベントゥーラ号には総督一行の他に、家康側近で金座の当主(御金改役)後藤庄三郎光次(生年没年不詳)の仲介でノビスパン(メキシコ)への渡航を許された京都の貿易商人の田中勝介(生没年不詳)ら、「家康の遣墨使節」日本人22人が乗船して太平洋を大航海しました。田中勝介はメキシコで鉱山技術を学びました。 ・サン・ブエナ・ベントゥーラ号の来日 帰国したドン・ロドリゴは、有名な航海士セバスティアン・ビスカイノ船長を返礼の大使として日本へ派遣しました。使節団の内、アロンソ・ムニョス神父(Franciscan Father Alonso Munos 生年没年不詳)は家康の使節としてエスパーニャ本国に向かい、3人はノビスパンに残り、勝介ほか17人が慶長16/5/7にノビスパン副王ルイス・デ・ベラスコ(Luis de Velasco、1511-在任1550-1564)が、ヨーロッパの鉱山技術に興味があった徳川家康の要請で人選後に派遣した答礼使ビスカイノ船長と共に相模国浦賀(神奈川県横須賀市)に到着・帰国しました。ビスカイノ船長はスペイン国王フェリペ3世(Felipe III, 1578-在位:1598-1621)の親書を携えて答礼使と金銀島探索の使命を帯びて来日しており、現在の全権大使でした。そして、田中勝介らはアメリカ大陸へ渡った初めての日本人となりました。 ・サン・ブエナ・ベントゥーラ号の最後 ビスカイノ船長の帰国時(1612/11/14)、安針丸が暴風雨に遭遇して大破したので、伊達政宗が別のガレオン船建造を幕府に願い出て、承認されました。その船が伊達丸こと”サン・フアン・バウティスタ号”でした。 参考:〜
参考HP:〜 ・御宿の場所地図 ・大航海時代のスペイン(白)・ポルトル(青)の貿易航路地図(16世紀頃) ・太平洋の地図 こちらで ・支倉常長 ・サン・フアン・バウティスタ号(伊達丸) ・マニラ・ガレオン船 ・サン・フェリペ号事件 をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 12/5/7、14/8/27 |