大航海物語
日本製のガレオン船(1)
1607、按針丸 (あんじん丸)
サン・ブエナ・ベントゥーラ号
参考資料
日本製ガレオン船のモデルになったダッチ・ガレオン船
リーフデ号、1600


日本 2000/4/19 発行

琉球郵便
東南アジア、中国、日本の地図


タイ

バタビ
日本



フィリピン
昭和38年1963/9/16 発行
MEXICO
バハ半島 メキシコ
メキシコ 1915-16 発行

<日本製のガレオン船>
按針丸 (あんじん丸)
  サン・ブエナ・ベントゥーラ号
   San Buena Ventura (ship) 120tns
日本で最初に建造された西洋式の大型帆船は、三浦按針(ウィリアム・アダムス)が江戸湾に係留されていたリーフデ号(慈愛号)が沈没すると、徳川家康の命で、最初は日本の港湾を調査する船として、伊東で80屯の小型帆船を1604年に造っていましたが、やはり徳川家康の命で、1607(慶長12)年に三浦按針が指導し、リーフデ号をモデルとして、伊豆国伊東の浦賀で建造されたマニラ・ガレンオン型船「安針丸、120屯」でした。

おりしも、スペイン領フィリピン総督ドン・ロドリゴ(Governor-General of the Philippines Don Rodrigo、1564-1636)ら一行が乗船していた373人乗組のスパニッシュ・ガレオン船サン・ フランシスコ号(Spanish galleon San Francisco)が
リーフデ号

日本 2000 発行
3隻の船団を組んで、フィリピンのマニラからノビスパン(メキシコ)のアカプルコへ向けて航海中に台風に遭って、1609/9/30に房総半島の御宿(千葉県夷隅郡(いすみぐん)御宿(おんじゅく)町)海岸で遭難しました。なお、僚船サンタ・アナ号(Santa Anna)は1609/9/12に豊後の臼杵中津浦(大分県臼杵市中津浦)に緊急入港しました。もう一隻のサン・アントニオ号(San Antonio)だけがノビスパンへの航海を続けました。

慶長14/9/4(1609/9/30)の朝、千葉県の御宿町田尻の浜でドン・ロドリゴ総督が乗船したスペイン船サン・フランシスコ号が、フィリピンでの任務を終え、メキシコへ帰還する途中遭難、沈没。岩和田村の人々が乗組員317人を救助(死亡・行方不明者56人)しました。ドン・ロドリゴ総督はフランシスコ会ルイス・ソテロ宣教師の助力と通訳とで徳川家康に召出されて謁見し、帰国を嘆願して許されました。

サン・ブエナ・ベントゥーラ号での帰国
その後、乗組員一行は徳川幕府が造らせた船安針丸を金貨4,000ドゥカード(Ducados=@3.4909gx4000=13,963.6gx@4,000円=55,854,400円)で貸与されて、サン・ブエナ・ベントゥーラ号と呼んで、1610年にノビスパンのアカプルコ港に無事帰還しました。

そのサン・ブエナ・ベントゥーラ号には総督一行の他に、家康側近で金座の当主(御金改役)後藤庄三郎光次(生年没年不詳)の仲介でノビスパン(メキシコ)への渡航を許された京都の貿易商人の田中勝介(生没年不詳)ら、「家康の遣墨使節」日本人22人が乗船して太平洋を大航海しました。田中勝介はメキシコで鉱山技術を学びました。

・サン・ブエナ・ベントゥーラ号の来日
帰国したドン・ロドリゴは、有名な航海士セバスティアン・ビスカイノ船長を返礼の大使として日本へ派遣しました。使節団の内、アロンソ・ムニョス神父(Franciscan Father Alonso Munos 生年没年不詳)は家康の使節としてエスパーニャ本国に向かい、3人はノビスパンに残り、勝介ほか17人が慶長16/5/7にノビスパン副王ルイス・デ・ベラスコ(Luis de Velasco、1511-在任1550-1564)が、ヨーロッパの鉱山技術に興味があった徳川家康の要請で人選後に派遣した答礼使ビスカイノ船長と共に相模国浦賀(神奈川県横須賀市)に到着・帰国しました。ビスカイノ船長はスペイン国王フェリペ3世(Felipe III, 1578-在位:1598-1621)の親書を携えて答礼使と金銀島探索の使命を帯びて来日しており、現在の全権大使でした。そして、田中勝介らはアメリカ大陸へ渡った初めての日本人となりました。

・サン・ブエナ・ベントゥーラ号の最後
ビスカイノ船長の帰国時(1612/11/14)、安針丸が暴風雨に遭遇して大破したので、伊達政宗が別のガレオン船建造を幕府に願い出て、承認されました。その船が伊達丸こと”サン・フアン・バウティスタ号”でした。

参考:〜
フランシスコ会ルイス・ソテロ宣教師
  (Franciscan friar Luis Sotelo 1574-1624)
宣教師ルイス・ソテロ修道士はスペインのマドリードからノビスパンを経て大航海。1600年にフィリピンに渡り、マニラ近くで日本人キリスト教徒の指導に従事して日本語を学びました。1603(慶長8)年にフィリピン総督の書簡をもって来日し、徳川家康や秀忠に謁見、日本での布教に従事しました。1609(慶長14)年に上総田尻の浜で遭難して地元民達に助けられた前フィリピン総督ドン・ロドリゴの通訳や帰国の世話をしました。また、仙台藩主の伊達政宗の知遇を得て、東北地方にも布教を行いました。1613(慶長18)年に布教が禁止され捕らえられるも、伊達政宗の助命嘆願で赦され、慶長遣欧使節団の正使として支倉常長らと共にノビスパンを経てヨーロッパに大航海。スペイン王でローマ教皇パウルス5世(Pope Paulus V 1552-在位1605-1621)に謁見
フランシスコ会宣教師

スペイン 1963/9/24 発行
し、日本での宣教の援助を求めるも、目的を達せず、1617年にスペインを発ちノビスパン経由でフィリピンに入り、マニラで日本に渡る機会を待って、1622(元和8)年に長崎に密入国するも捕らえられました。この時も伊達政宗の助命嘆願があるも聞き入れられず、1624(寛永元)年に長崎の「大村のキリシタン弾圧」でフランシスコ会の宣教師2人、イエズス会とドミニコ会の宣教師各1人と共に火刑により殉教して亡くなりました。1867年にローマ教皇ピウス9世により列福され、福者ルイス・ソテロ(Blessed Luis Sotelo)神父(Father)となりました。

参考HP:〜
御宿の場所地図
大航海時代のスペイン(白)・ポルトル(青)の貿易航路地図(16世紀頃)
太平洋の地図

こちらで
支倉常長
サン・フアン・バウティスタ号(伊達丸)
マニラ・ガレオン船
サン・フェリペ号事件
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     12/5/7、14/8/27
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