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★イタリア | マルコ・ポーロ 1275 東方見聞録 |
大航海物語★ |
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REPUBLICA ITLIANA
東方見聞碌の地図を背景に マルコ・ポーロの肖像を描く マルコ・ポーロ生誕 700年 記念 イタリア 昭和39年 1954/7/8 発行 |
マルコ・ポーロの肖像の背景に 旅行のルートを示す地図。 左に獅子(Lion of St.Mark)の像。 右に中国の竜が描かれ、 ラテン語で PAX TIBI MARCO (マルコに平和を)。 中国語で「毆亞聯璧」 (欧州とアジアの玉をつなぐ) と有り。 |
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ITLIA 大都を旅立つマルコ・ポーロ 1295 マルコ・ポーロ帰国700年記念 1995 イタリア 1996/3/22 発行 |
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ホルムズ→ |
SULTANATE OF OMAN マルコ・ポーロの”帰路の航海地図” オマーン 1981/11/23 発行 |
←泉州 ←マラッカ海峡 |
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S.TOME.E PRINCIPE マルコ・ポーロの”ヴェネティア出帆の図” サントメ・プリンシペ 1982/12/21 発行 |
MALI マルコ・ポーロの”中国での活躍の図” 万里の長城 フビライ汗
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Citta del Vaticano 世界地図の上に赤線で”大都(北京)〜ヴェネティア”間を示す マルコ・ポーロの”帰路の旅行地図”全行程 若き日のマルコ・ポーロ 1296 マルコ・ポーロの中国からの帰国700年記念 1996 ヴァチカン 1996/3/15 発行 |
泉州からホルムス迄は海路 |
タイトル:”Nova Orbis Tabula/Mappe Monde ou Description Du Globe Terrestre et
Aquatique” アムステルダムで”Alexis Hubert Jaillot(1632?-1712)”が1694年に発刊した世界地図 |
マルコ・ポーロは17才でモンゴルへ向け、イタリアのヴェネティァを出発、陸路で4年かかって元(ゲン)の大都(北京)に到着(1275)、17年後に海路でペルシャのイルハーンへ14隻の船と600人の従者で出帆、3年かかって無事に着いた従者は18人だけ、その後イタリアに向け陸路で帰国(45才)しました。 |
マルコ・ポーロ (1254頃〜1324頃) Marco Polo マルコポーロはヴェネティア(イタリア)の商人の家に生まれました。当時のヴェネティアは海外貿易での世界の中心地として繁栄していました。彼の父(ニッコロ)と叔父(マッフェオ)は中国の「元」との貿易をしており、大都(中国の北京)への往復の長い旅行を経験していました。1266年には、中国に到着した彼らを、即位して間もないモンゴル帝国第5代皇帝フビライ・ハーン(Kublai Khan:1215-在位1260-1294)が好意的に迎え、彼らは数年のあいだ彼に仕えました。フビライ汗は1269年に「100人のローマ人を元に派遣してくれるように」との要請をしに、彼らをローマ教皇への使節として派遣する事にし、ローマへ向わせました。彼らが伝えたフビライ汗の要請は、ローマでは真剣に取り上げられませんでしたが、彼らは「富と冒険」を求めて再び中国へ向けて1271年に旅立ちました。 この時17才のマルコが加わりました。ヴェネティアからエルサレムまでは海路を航海し、その後は陸路で、中国の大都へ1275年到着しました。ローマの使節実現はなりませんでしたが、フビライ汗は戻ってきた彼らを温かく迎え、再び彼らを登用しました。若いマルコは聡明さを発揮、モンゴル語も習得し、その観察眼の鋭さにはフビライ汗も感心し、彼を重用するようになり、モンゴル帝国内を商用で広く旅行し、帰ってはフビライ汗にその道中の出来事を鋭い観察力で、各地の風俗習慣、商業事情、行事などを報告しました。このようにしてフビライ汗のために働いたので、フビライ汗が離さなかったため、なかなか帰国できませんでした。 1292年に帝国内のイル・ハン国の王に嫁ぐタタール族の王女をペルシャまで案内する役を命じられました。元の帆船で中国の泉州からマレー半島、マラッカ海峡を通り、スマトラ、セイロン島からインド西岸沿いにペルシャのホルムスまで航海しました。一行は14隻の船に600人の従者と2年分の補給品を積み込んで出帆し、3年後に無事にペルシャについた時には600人の従者はわずか18人に減っていたと伝えられています。当時の航海はこのように過酷で命がけの旅であったのです。ペルシャに着くと、その王はすでに亡くなっており、新たな婚儀まで約1年間ペルシャに滞在しました。役目を終えると3人はイタリアに向って陸路で旅立ち、1295年の冬にヴェネティアに着き、41才で帰国することが出来ました。24年ぶりのことでした。 1298年ヴェネティアはライバルであったジェノバと戦争になり、マルコはヴェネティア海軍の上級士官としてガレー船に乗船し指揮をとり戦いましたが、同年9月ジェノバの捕虜となってしまい、その1年余りの獄中生活で「東方見聞碌」を口述筆記し、後に出版しました。その後の彼の記録は伝わっていないようですが、商人として、その生涯を平穏に終えたのでしょう。70才だったと言われています。「東方見聞碌」は当時の全世界のほとんど全ての言葉に訳され、中国とさらに東方のジパングには黄金が満ちあふれていると伝えて、その後の大航海への冒険心を呼び起こしました。 「東方見聞録」には種々の写本があって、あのコロンブスも1440年頃に出版された1冊を持っていて、この本は今も「インド関係総文章館」に保存されており、コロンブス自身の実に366箇所の書き込みを見ることが出来ると言われています。また、1426年頃には、エンリケ航海王子の兄ペドロ王子がヴェネツィアを訪れた時に、政府からマルコの本と地図を贈られたと伝えられており、次の時代に多大な貢献をなしたのです。 ・1271年ヴェネティア出発〜1275年大都着、フビライのもとで働く。 ・1292年大都発〜海路ペルシャをへて〜1295年ヴェネティア着。 参考HP:〜 ・マルコ・ポーロの旅行地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。04/03/23追記、12/4/5、12/6/11、12/7/5、17/2/23 |