大航海物語 |
名護屋城 1592 文禄・慶長の役(壬辰倭乱・丁酉再乱) |
参考資料 |
名護屋城 (なごやじょう) 名護屋城は肥前国松浦郡名護屋(現・佐賀県唐津市鎮西町名護屋)にあった城で、豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際し、侵攻軍の動員の中心基地となる城を1591/3月から、九州の大名に命じて建設を始めえて築かれた城。国の特別史跡に指定されている。ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城であった垣添城跡があり、豊臣秀吉は大陸への進攻を企図した際、ここを前線司令部として大掛かりな築城を計画し、加藤清正、寺沢広高が普請奉行となって、九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で僅か8ヶ月後の文禄元年(1592年)3月に完成。規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なもので、本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に5重7層の天守が築かれ、城跡からは金箔を施した瓦が出土しており、派手好きの秀吉らしく戦争の為に構えた城郭であっても絢爛豪華であったことが伺える。 城郭の周辺には各大名の陣屋が配置され、西国衆を中心に総勢15万8000の兵が9軍に編成され、4/1に小西行長・宗義智率いる第一陣が朝鮮半島へ出兵したのを皮切りに、名護屋を出発した諸隊は壱岐・対馬を経て朝鮮に渡って行った。秀吉は京都聚楽第を3/26に出発し4/25に当地に到着。以後大政所の危篤時を除いてこの地が本営となる。文禄の役では最終的に20万以上の兵が名護屋から朝鮮に渡った。当地には西国衆の渡海後も東国衆と秀吉旗本衆約10万の兵が駐屯。多くの人員を養うには水源が足りなかったようで、水不足が原因の喧嘩が絶えなかったと伝えられている。 朝鮮半島で戦線が膠着すると、翌文禄2年(1593年)4月には講和交渉が開始されるが、交渉が破談すると秀吉は、再び慶長2年(1597年)2月から14万人を朝鮮半島へと上陸させた。 この慶長の役でも、補給・連絡の中継地として名護屋は重要な役割を果たした。慶長3(1598)/8/18に秀吉が没したために全軍撤収し名護屋城もその役割を終えた。出兵の期間中、秀吉が当城に滞在したのは延べ1年2ヶ月であった。面積は約17ヘクタールだった。 参考HP:〜佐賀県立名護屋城博物館公式HP
日本の石高は約1,800万石(?)と言われ、 日本の人口も同程度(1,800万人?)だったと言われています。 参考HP:〜朝鮮半島の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/6/26 |