★日 本 |
織田信長 於:二条城(1569)、安土城(1571) 信長、フロイス神父に謁見を許す |
大航海物語★ |
LESOTHO | |
織田信長公の肖像画、1583作 神戸の博物館に似た物があるらしい |
信長の妹お市の方の肖像画、1589作 高野山持明院蔵、重文 |
Phila Nippon '01、Japan レソト 2001/5/31 発行 |
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南蛮から鉄砲が伝来 戦国時代の日本での戦いが大変革を遂げ、 信長は鉄砲を有効に活用して勝利者となる
Musket マカオ 1993/9/22 発行 (200%) |
DEUTSCHE BUNDESPOST 南蛮から地球儀が伝来 信長は地球儀を見て理解していた ニュルンベルクの博物館に現存する最古の地球儀 1492 ベハイムの地球儀500年記念 1992 ドイツ 1992/9/10 発行 (200%) |
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LESOTHO 南蛮人の戦い(Battle of Lepanto)になぞらえて描かれた 長篠の合戦(1575)図 (諸説有) (香雪美術館蔵・重要文化財、日本人作画の部分図) 槍の間に鉄砲が見える Phila Nippon '01、Japan. Circa 1600-14(頃) レソト 2001/5/31 発行 |
日本 NIPPON 岐阜城 日本・岐阜県 2003/5/1 発行 |
MACAU 南蛮人の来訪 マカオ 1991/11/16 発行 |
織田信長が9才の頃に「てっぽう」が日本に伝来し、少年時代には鉄砲を持っていたといわれています。また、15才の頃にキリスト教が日本に伝来しました。26才の時に京の都に上洛しょうと攻めてきた今川義元を「桶狭間」で討ち取りました。それを知った正親町天皇が信長に「天下仰付け」になりました。その後の合戦を戦い抜き、足利義昭を奉じて京の都に攻めのぼり上洛を果たしました。都でキリスト教宣教師にも出会い、海外の技術と知識を取り入れました。この頃に宣教のために来日していたポルトガル人ルイス・フロイス神父は信長を実際に見て、その著述「日本史」に書き残しました(写本が現存)。 |
織田信長 (おだ のぶなが) 1534/6/23(天文3/5/12)〜1582/6/21(天正10/6/2) ▼幼少期 天文3年(1534年)に尾張国の戦国大名・古渡城主・織田信秀の次男として、勝幡城(那古野城説も有)で生まれました。幼名は吉法師。なお、信長の生まれた「織田弾正忠」家は、尾張守護斯波氏の被官、尾張下四郡守護代に補任された「織田大和守」家、即ち「清洲織田」家の分家で同家重臣の清洲三奉行・古渡城主の家柄でした。母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男として育てられ、2才で那古野城主となりました。幼少から青年時にかけて奇妙な行いが多く、周囲から尾張の「大うつけ」と評されました。早くから日本へ伝わった種子島銃に関心を持っていました。また、身分にこだわらず、民と同じように城下の若者と遊んでいました。 ◆織田信長と大航海時代 ▼来日していたポルトガル人宣教師ルイス・フロイス神父の記録では、 ・信長の人物像を 「長身、痩躯で髭は少ない。声はかん高く、常に武技を好み、粗野である。正義や慈悲の行いを好み、傲慢で名誉を尊ぶ。決断力に富み、戦術に巧みであるが規律を守らず、部下の進言に従うことはほとんど無い。人々からは異常なほどの畏敬を受けている。酒は飲まない。自分をへりくだることはほとんど無く、自分以外の大名のほとんどを軽蔑しており、まるで自分の部下のごとく語る。よき理解力、明晰な判断力に優れ、神仏など偶像を軽視し、占いは一切信じない。名義上法華宗ということになっているが、宇宙の造主、霊魂の不滅、死後の世界などありはしないと明言している。その事業は完全かつ功名を極めている。人と語るときには遠回しな言い方を嫌う」と記しています。 ・また、信長を日本で最も富んでいる人と評し、それを、 「多量に所有する金銀以外に、インドの高価な品、中国の珍品、朝鮮および遠隔の地方からの美しい品々は、ほとんど全て彼の掌中に帰している」とも記しています。日本に伝わってきた珍しい品々が各地の大名や有力者から、信長のもとへ献上されたということでしょうね。 なお、ルイス・フロイスの「日本史」(Historia de Iapam)は、1549年のサビエルの来日から、1593年までを記述しています。 ▼南蛮への関心 ・南蛮品を好み、正親町天皇(おうぎまちてんのう)を招き京の都で開催した「馬揃え」では、ビロードのマント、西洋帽子を着用していました。晩年は戦場に赴くときも、南蛮鎧を身に付けていたといわれています。ローマンカトリック・イエズス会派アレッサンドロ・ヴァリニャーノ巡察師の使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、彌介(やすけ)と名付けて側近にしていました。 ・イエズス会の献上した地球儀・時計・地図などをよく理解したといわれ、当時は、この世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解しました。好奇心が強く、鉄砲が一般的でないころから火縄銃を用いていました。奇抜な性格で知られていますが、ルイス・フロイスには日常生活は普通に見えたようです。ローマ教皇グレゴリウス13世に安土城の屏風絵を贈りましたが、実際に届いたのは信長の死後の1585年であったとされています。この屏風絵は紛失して現存していません。 ▼本能寺の変 天下統一を目前にした1582年(天正10/6/2)、家臣の武将・明智光秀の謀反で、宿舎にしていた京都・本能寺を13000人で攻撃されて、迎撃奮戦の後に「是非も無し」と言って火を放って、自害したと伝えられています。享年48才。 |
★日 本 |
織田信長の略年表 1534〜1582 |
大航海物語★ |
MACAU | ||||||||||||||||||
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マカオ 1997/6/9 発行 | ||||||||||||||||||
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MACAU 貢物を捧げる南蛮(ポルトガル)人 マカオ 1989/11/17 発行 参考HP:〜NANBAN (ポルトガル国立古美術館所蔵) |
日本 Nippon リスボンから極東の日本に遥々とやってきた 南蛮(ポルトガル)の帆船 1543年種子島に漂着したのが最初の南蛮船 日本・ポルトガル修好150年記念 日本 2010/10/22 発行 |
年 | 元号(和暦) | 才 | (信長) | (キリスト教伝来) |
1534 | 天文3/5/12 | 0 | 吉法師、誕生 | . |
1536 | 天文5 | 2 | 那古野城主 | . |
1543 | 天文12 | 9 | . | ポルトガル人が種子島に漂着、日本を発見 |
1546 | 天文15 | 12 | 元服、三郎信長と名乗る | . |
1549 | 天文18 | 15 | 尾張・正徳寺で斎藤道三と会見 | . |
” | 天文18/2/24 | ” | 濃姫(帰蝶)と結婚、上総介と称する | . |
” | 天文18/7 | ” | . | ザビエルが鹿児島上陸(キリスト教の日本初上陸) |
1550 | 天文19 | ” | . | 大友宗麟が洗礼を受ける(ドン・フランシスコ) |
1551 | 天文20 | 17 | 家督を相続 | . |
” | 天文20/8 | ” | . | ザビエルが豊後府内で布教許可を得る、堺に着く |
” | 天文20/11 | ” | . | ザビエルが豊後からポルトガル船でインドへ帰る |
1552 | 天文22/1/13 | 18 | 傅役の平手政秀が諫死(自殺、1553/2/25) | . |
1553 | 天文23/1/19 | 19 | (大館晴光1554/2/20書簡) | 大友宗麟が足利将軍・義輝に鉄砲を献上 |
1554 | 天文24 | 20 | 秀吉が信長の草履取りの小者として仕える | . |
1556 | 弘治2/8/24 | 21 | 尾張・稲生原の合戦、弟・信勝に勝利 | . |
1557 | 弘治3/11/2 | 23 | 清洲城で弟・信勝を暗殺 | . |
1559 | 永禄2/2/2 | 25 | 初上洛、足利(13代)将軍・義輝と面会 | . |
” | 永禄2/5 | ” | . | 将軍義輝が上洛した上杉謙信に宗麟の種子島銃と 火薬調合の秘法を伝授 |
” | 永禄2/11/末 | ” | . | ビレラが豊後府内(現大分市)から京都へ(上洛) |
1560 | 永禄3/3 | 26 | . | 義輝が宗麟に石火矢(大砲)と種子島銃の礼状を送る |
1560 | 永禄3/5/19 | 26 | 桶狭間の合戦、今川義元を討つ | . |
” | 永禄3 | ” | . | ビレラが足利将軍に謁見、夏頃に布教許可を取得 |
1562 | 永禄5 | 28 | 徳川家康と清洲同盟を結ぶ | . |
1563 | 永禄6 | 29 | . | ビレラが奈良に入る |
1565 | 永禄8 | 31 | . | フロイスが京都入(洋暦1/31) |
” | 永禄8/5 | ” | 二条御所で足利義輝が三好三人衆と 松永久秀らに襲撃され討死 |
フロイス「日本史」に将軍義輝・奮戦の様子を記す |
” | 永禄8/7/5 | ” | 正親町天皇が京都から宣教師を追放する | バテレン追放令を出すも信長は黙認 |
永禄8/8 | . | ビレラが京都から追放され、堺へ | ||
1566 | 永禄9 | 32 | 尾張守と称する | 4月ビレラが豊後へ、フロイスは堺に残留 |
” | 永禄9 | ” | 木下藤吉郎が長良川岸に墨俣城を築く | . |
1567 | 永禄10/8 | 33 | 美濃の稲葉山城を占拠、岐阜城を築城 | . |
” | 永禄10/10 | ” | 三好三人衆と松永久秀軍の戦いで 奈良・東大寺の大仏殿が焼失 |
. |
” | 永禄10/11/9 | 付 | 綸旨で正親町天皇が「天下仰付け」 | . |
1568 | 永禄11/2 | 34 | 足利義栄(14代)将軍宣下 | . |
” | 永禄11/9 | ” | 足利義昭(15代)を供奉して京都へ進撃 | . |
” | 永禄11/9/12 | ” | 安土の観音寺城の戦い、無血開城勝利 | . |
永禄11/9 | ” | 信長と義昭が上洛 | フロイスが信長から布教許可を取得 | |
永禄11/10/2 | 松永久秀が降伏臣従し、今井宋久と共に 摂津・芥川城で会見 |
. | ||
” | 永禄11/10/18 | ” | 足利義昭(15代)将軍宣下 | . |
” | 永禄11/10 | ” | 堺へ2万貫の矢銭を要求、後に堺は支払う | . |
1569 | 永禄12/3/11 | 35 | . | フロイスが再度の京都入り、布教活動を始める |
” | 永禄12/4/3 | ” | . | 二条城建築現場でフロイスが信長に謁見 |
” | 永禄12/4/20 | ” | . | 信長許可でフロイスが仏僧・朝山日乗との宗論に勝利 |
” | 永禄12/6頃 | ” | . | フロイスが安土城で信長に謁見 |
” | 永禄12/8 | ” | 生野銀山に今井宋久の代官を派遣管理 | 石見銀山は毛利氏の手中に |
1570 | 永禄13/10 | 36 | 天下布武の印を馬蹄形とする | . |
1570 | 元亀1/6/28 | 36 | 近江の「姉川の合戦」勝利 | . |
” | 元亀1/9/12 | ” | 大阪・石山合戦が始まる | . |
” | 元亀1/11 | ” | 三好三人衆など反織田諸勢力と和議 | . |
1571 | 元亀2/7 | 37 | . | スペイン人レガスピがフィリピンを植民地とする |
1571 | 元亀2/9/12 | ” | 2日間、比叡山・延暦寺を焼き討ち | . |
” | 元亀2/9/13 | ” | . | フロイスがオルガンティーノと安土城で信長に謁見 |
” | 元亀2/12 | ” | . | フランシスコ・カブラルが安土城で信長に謁見 |
1573 | 元亀4 | 39 | 足利将軍・義昭を追放 | . |
” | 元亀4/4/12 | ” | 武田信玄が病死 | . |
” | 元亀4/7/28 | ” | 元号を天正へ改めることを朝廷に奏上 | . |
” | 天正1/8 | ” | 福井「一乗谷城の合戦」に勝利、朝倉義景、 斎藤龍興が戦死で斉藤氏滅亡 |
. |
” | 天正1/9 | ” | 近江湖北・小谷城を攻略、浅井氏に勝利 | . |
” | 天正1 | ” | 佐久間信盛軍が三好義継の宗家を滅す | . |
1574 | 天正2/9/29 | ” | 伊勢・長島城が降伏開城、勝利 長島一向一揆終結、城は滝川一益へ |
. |
” | 天正2 | ” | 上杉謙信へ「洛中洛外図」屏風を贈る | . |
1575 | 天正3/5 | 41 | 長篠の合戦、武田勝頼に勝利 | . |
” | 天正3/8 | ” | 越前・加賀門徒12,250人を討つ 越前8郡を柴田勝家へ |
. |
” | 天正3/7 | ” | 1579/7/25、マカオから島原半島 南端の口之津町にヴァリニャーノ上陸 |
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ巡察師が来日、 信長が黒人を譲り受け彌介として側近にする |
1576 | 天正4/4 | 42 | 葦原の合戦、石山勢に大敗 | . |
” | 天正4/5/7 | ” | 大阪・一向一揆の「天王寺砦の合戦」勝利 | . |
” | 天正4/7/13 | ” | 大阪「木津川口の合戦」、毛利水軍に敗北 | . |
” | 天正4 | ” | . | フロイスが信長に許されて京都で教会を設立 |
1577 | 天正5/1 | 43 | . | 大砲がインド総督から大友宗麟に到着 |
” | 天正5/2 | ” | 紀州雑賀衆攻めで和睦 | . |
” | 天正5/9/23 | ” | 石川・手取川の合戦、上杉謙信に大敗北 | . |
” | 天正5/10/10 | ” | 生駒・信貴山城の合戦、松永久秀逃亡するも 観音寺城の戦い勝利で上洛の信長が救助 |
. |
1578 | 天正6/3/13 | ” | 上杉謙信が急死(病死) | . |
” | 天正6/9 | ” | 荒木村重が有岡(伊丹)城を逃亡、落城 | . |
” | 天正6/11/6 | ” | 第2次木津川口の合戦、毛利水軍を 信長考案の鉄甲船6隻で大勝 |
. |
1579 | 天正7 | 45 | 五層七重の豪華絢爛な安土城が完成 岐阜城を信忠に譲り安土城に住む |
. |
” | ” | ” | 徳川家康の嫡男・松平信康と、信康の 生母の築山殿に対し切腹を命ずる |
. |
” | 天正7/7 | ” | . | ヴァリニャーノ巡察師が再度来日 |
1580 | 天正8/1/17 | 46 | 三木合戦、別所氏に羽柴秀吉が勝利 | . |
” | 天正8/4 | ” | 正親町天皇の勅命で 本願寺が和睦、大坂から退去 |
. |
” | 天正8/8/2 | ” | 石山合戦が終結、勝利 | . |
” | 天正8 | ” | . | フロイスが安土で信長に許されて教会と修道院を設立 |
” | 天正9/2/13 | 47 | 2/4に豊後府内を出帆 | ヴァリニャーノが堺に到着 |
” | 天正9/2/25 | ” | . | ヴァリニャーノが信長に謁見、豪華絢爛の椅子を献上 |
1581 | 天正9/2/28 | ” | 京都「御馬揃え」、正親町天皇を招待 | ヴァリニャーノも招待されて「馬揃え」を見物 |
” | 天正9/3/5 | ” | 正親町天皇の要請で再度「御馬揃え」 | . |
” | 天正9/3/23 | ” | 武田軍から静岡掛川の高天神城を奪回 | . |
” | ” | ” | 鳥取城を兵糧攻め、因幡を攻略 | . |
” | ” | ” | 岩屋城を落として淡路を攻略 | . |
” | 天正9/7/15 | ” | 安土の盂蘭盆会で天主をライトアップし | ヴァリニャーノの送別会・挙行、 選別に「安土城の屏風絵」を贈呈・ローマへ |
1582 | 天正10/1 | 48 | 信長が朝廷に暦の変更(閏)を要求 |
信長死去で実現せず(グレゴリオ暦?太陽暦) |
” | 天正10/1/28 | ” | . | ヴァリニャーノ巡察師が長崎から 天正遣欧少年使節とインドへ出帆 |
” | 天正10/3/8 | ” | 織田信忠が甲府を占領 | . |
” | 天正10/3/11 | ” | 武田勝頼・信勝親子が討死、武田氏滅亡 | . |
1582 | 天正10/6/2 | 48 | 本能寺の変、織田信長が自刃 | 黒人の家来・弥助は光秀に捕らえられ、後に放免 |
” | 天正10/6 | - | 秀吉が山崎天王山の合戦で明智光秀に勝利 | . |
” | 天正10/9 | - | 欧州で暦が替わる | ユリウス暦が→(現在の)グレゴリオ暦となる |
1583 | 天正11年 | - | 羽柴秀吉が賤ヶ岳の合戦で柴田勝家に勝利 | . |
” | 天正11/4/24 | - | お市の方が越前北ノ庄城内で自害没(1583/6/14) | |
1587 | 天正15/6 | - | . | 秀吉のバテレン追放令、平戸は隠れキリシタンとなる |
1590 | 天正18/6 | - | . | 天正遣欧少年使節が長崎に帰国 |
1592 | 天正20 | - | 豊臣秀吉が朱印船をマニラへ派遣 | 秀吉の1番隊が朝鮮・釜山に上陸(文禄の役) |
1600 | 慶長5 | - | 関ヶ原の合戦、徳川家康が勝利 | . |
1604 | 慶長9 | - | 徳川家康が朱印船制度を実施して、 | スペイン領マニラと外交関係を樹立 |
1624 | 寛永元 | - | . | スペインと国交を断絶、来航を禁止 |
1633 | 寛永10 | - | 徳川家光が鎖国令を発布 | . |
参考HP:〜 ・那古野城の場所地図(信長公の生誕地) ・岐阜市公式HP「歴史めぐり」岐阜城 ・本能寺の場所地図(赤は今迄そうされてた所、緑色が本当の場所) ・信長の肖像画(兵庫県神戸市立博物館蔵、重要文化財に指定) ・お市の方の肖像画(和歌山・高野山持明院蔵、重要文化財に指定) こちらで ・豊臣秀吉を ・徳川家康をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2009/2/22、12/4/25、12/5/23、12/9/9 |