切手で綴る世界遺産シリーズ (日本 No.18
潜伏キリシタン関連遺産
平成30年(2018)世界遺産登録









大浦天主堂
日本 NIPPON
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

日本 2018/7/12 発行







黒島の集落

潜伏キリシタン関連遺産
  Hidden Christian Sites in the Nagasaki Region

 住所:日本国の長崎県と熊本県に残る12件の構成資産
 世界遺産:ユネスコの文化遺産(2018)
 (UNESCO World Heritage Site, Type:Cultural)
 正式名称:長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
 英:Hidden Christian Sites in the Nagasaki Region
 仏:Sites chretiens caches de la region de Nagasaki

<長崎県>
長崎市
(1)大浦天主堂〜国宝
大浦天主堂は二つの歴史的な出来事と関わりがあります。 一つは、1597年の日本二十六聖人の殉教です。大浦天主堂は、正式には、「日本二十六聖殉教者聖堂」と言い、1862年に二十六人の殉教者たち
が聖人に列せられたのを受け、捧げられた教会です。そのため、大浦天主堂は殉教の地である西坂に向けて建てられています。もう一つは、1865年の「信徒発見」です。大浦天主堂が1864年に建てられ、翌年2月から公開が始まったその約一ヵ月後の3月17日に、浦上の潜伏キリシタン達が信仰の告白をして名のりを挙げました。フランス出身の
国宝:大浦天主堂

観光地百選シリーズ
日本 1951/9/15 発行
カトリック宣教師ベルナール・プティジャン神父は(Bernard Petitjean, 1829-1884)が大喜びでフランスや、ローマのバチカン法王庁に報告しました。

(2)外海の出津集落
   重要文化財〜出津教会堂と旧出津救助院を含む
   重要文化的景観〜長崎市外海の石積集落景観
外海の出津集落
(3)外海の大野集落
   重要文化財〜大野教会堂を含む
   重要文化的景観〜長崎市外海の石積集落景観
外海の大野集落
南島原市
(4)原城跡
   国指定史跡
原城は、長崎県南島原市南有馬町乙にあった日本の城で、国の史跡。別名、春城、志自岐原城、日暮城、有馬城。2018/6/30に世界遺産登録が決まった長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の構成遺産です。
島原半島の南部にあり、明応5年(1496)、日野江城の支城として有馬貴純(1494頃64才没)が築城。有明海に張り出した丘陵にあり、本丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されていました。 有馬氏が日向国延岡城に転封後の、元和2年(1616)に松倉重政(54才1630没)が日野江城に入城するも、一国一城令の影響もあり不便な日野江城を放棄し島原城を築城。この際に原城も廃城となり、石垣や構築物も転用されたまし。寛永14年(1637)から寛永15年(1638)にかけての島原の乱の後に、幕府は原城
原城跡
跡に残存する石塁などを破却しました。1938(昭和13年)、原城跡は国の史跡に指定されました。発掘調査では、惨殺された一揆軍の遺骨や鉛の弾丸、十字架、ロザリオの他、万人坑(大量の人骨)が出土。2017/4/6(平成29年)、続日本100名城(188番)に選定されました。

佐世保市
(5)黒島の集落
   重要文化財〜黒島天主堂を含む
   重要文化的景観〜佐世保市黒島の文化的景観
黒島の集落
平戸市
(6)平戸島の聖地と集落〜安満岳と春日集落
   重要文化的景観〜平戸島の文化的景観
   (平戸の平戸城写真集はこちら
平戸の聖地と集落
(春日集落と安満岳)

(7)平戸島の聖地と集落〜中江ノ島
   重要文化的景観〜平戸島の文化的景観
平戸の聖地と集落 (中江ノ島)
北松浦郡
(8)小値賀町〜野崎島の集落跡
   (野首集落跡・舟森集落跡)、旧野首教会堂を含む
   重要文化的景観〜小値賀諸島の文化的景観
野崎島の集落跡
南松浦郡
(9)新上五島町頭ヶ島の集落〜
    重要文化財頭ヶ島天主堂を含む
   重要文化的景観〜
    新上五島町崎浦の五島石集落景観
頭ヶ島の集落
五島市
(10)久賀島の集落〜重要文化財〜旧五輪教会堂を含む
   重要文化的景観〜五島市久賀島の文化的景観
久賀島の集落
(11)奈留島の江上集落 (江上天主堂とその周辺)
   重要文化財〜江上天主堂を含む
奈留島の江上集落 (江上天主堂とその周辺)
<熊本県>
天草市
(12)天草のア津集落
   重要文化財〜天草市ア津・今富の文化的景観
天草の埼津集落
島原(天草四郎)の乱
  寛永14年10月25日(1637/12/11)勃発、
  寛永15年2月28日(1638/4/12)終結。
元和の一国一城令で廃城となった原城で、1637(寛永14年)に「島原の乱」が勃発。島原藩主の松倉重政・勝家(1597-1638/8/28斬首刑没)父子は島原城建設による出費などの財政逼迫によりで苛政を敷き、また、過酷なキリシタン弾圧を行ったことで農民一揆を引き起こしました。この一揆は島原半島のみならず天草にも飛び火し、島原城・富岡城が襲撃されましたが、一揆の攻城はうまく行かず、やがて一揆の
天国の鍵

バチカン 1929 発行
群衆は天草の一揆群衆と合流して約3万7千人が廃城となっていた原城に立て籠もりました。小西行長(1558-1600)の家臣の子孫といわれる天草四郎(生年不詳-1638/4/12:原城没)を総大将とし、組織立った籠城戦を展開して幕府軍と戦闘を繰り広げました。一揆軍は3ヵ月に及ぶ籠城には兵站の補給もなく、弾薬・兵糧が尽き果てました。対する幕府軍も1千人余の戦死者を出しながらも新手を投入し、ついに1638/4/11〜12日(寛永15年2月27日から28日)にかけての総攻撃で一揆軍を全滅させました。幕府軍の記録では、一揆軍の中で幕府軍に内通していた山田右衛門作だけが助命され、その他は老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされました。一揆軍は殉教を重んずるキリシタンの信仰ゆえに全員が喜んで死を受け入れたとする記録もあります。幕府軍は乱の終結後、原城が再び一揆の拠点として使用されることのないよう徹底的に破壊し、虐殺された一揆軍3万7千人の遺体は廃墟となった原城の敷地内にまとめて埋められました。その一方で、島原藩主の松倉勝家は苛政により乱を引き起こした責任から、大名としては前例のない罪人としての扱いである斬首に処せられたと伝えられる説もあります。

参考HP:〜
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 (日本語:世界遺産)
日本の世界遺産分布地図 (日本語)

こちらで世界遺産の
仁徳天皇陵 (日本)
宗像・沖ノ島 (日本)
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姫路城 (日本)

ヌビア遺跡 (エジプト)
パルテノン神殿 (ギリシャ)
ピラミッド (エジプト)
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     2019/8/23

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