日本の大航海時代(2)
★日  本
豊臣秀吉
1592〜1598
朱印船貿易
大航海物語★
LESOTHO
豊臣秀吉公の肖像画

(狩野光信筆:高台寺所蔵:重要文化財)
レソト 2001/5/31 発行
国帝本日大
御朱印船

昭和12年1937/11/1 発行
琉球郵便
東南アジア、中国、日本の地図


タイ

バタビ
日本



フィリピン
琉球昭和38年1963/9/16発行
日本 Nippon
大 阪 城

日本 2007/6/1 発行

Royaume de Laos Macau
南蛮人が象を献上
南蛮人の貿易

黒人
Trade
キリスト教宣教師

Cathoric Priests
ラオス 1958/3/17 発行 マカオ 1993/9/22 発行

秀吉の母(大政所)
天瑞院の肖像画


寶叔宗珍(1617没64才:大徳寺)筆、1615
秀吉の茶道指南
千利休の肖像画


長谷川等伯(1539−1610)筆
秀吉に関白を賜った
後陽成天皇の肖像画


泉涌寺蔵、狩野孝信(1571−1618)筆
Phila Nippon '01、Japan's Golden Age. Thw Momoyama Era (1573-1615)
レソト 2001/5/31 発行

豊臣秀吉 (とよとみ ひでよし)
  1537/3/17(天文6/2/6)〜1598/9/18(慶長3/8/18)

▼初めに
豊臣秀吉は(諸説有)
・幼 名 〜 日吉丸(ひよしまる)、後に藤吉郎(とうきちろう)
・結婚名 〜 木下藤吉郎(きのした とうきちろう)
・城持大名〜羽柴秀吉(はしば ひでよし)
・天下人名〜豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)、と名乗りを上げました。
豐臣秀吉は戦国時代(1467-1573)1493-1573から安土桃山時代(1568-1600)の武将・天下人・関白・太閤で、「織田信長」、「徳川家康」と共に戦国時代最後の三大英雄の一人で、日本の大航海時代を代表する人物の一人でもあります。幼名を日吉丸、それを秀吉とし、浅野又右衛門長勝(生年不詳〜1575天正3)の養女(実父:杉原定利:生年不詳〜1593文禄2)寧寧(ねね:高台院:1547天文16〜1624寛永元年)と結婚して木下氏を名字として名乗り、織田信長の家老の丹羽長秀(1535天文4〜1585天正13)と柴田勝家(1522大永2〜1583天正11)から一字ずつをもらって羽柴氏に改めました。天下取り後は平氏を自称するも、近衛家の養子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改めて関白太政大臣になりました。

▼侍になる
秀吉は尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)の呑百姓(どんびゃくしょう)の家で、父は鉄砲足軽の木下弥右衛門(生年不詳〜1543天文12)、母なか(大政所:1513永正10〜1592天正20)の子として生まれたともいわれていますが、農民、さらにはその下の階級かもといわれ定かではありません。その素性は「太閤素性記」、「竹中重門(1573天正元〜1631寛永8)の豊鑑」、「秀吉が大村由己(1536天文7〜1596慶長元)に書かせた伝記・天正記」などにあって、「1月1日生」と「日吉丸」は「絵本太閤記(1797(寛政9)年)」の創作ともいわれています。広く一般に知られているのは講談などの創作ですが、7才で実父・弥右衛門と死別し、母・なかは竹阿弥と再婚、秀吉は竹阿弥(ちくあみ:青年没年不詳)と折り合いが悪く、いつも虐待されており、8才で光明寺(愛知県あま市中萱津)に入るがすぐに飛び出し家を出て、針売りなどしながら放浪して、侍になるために15才の時に駿河国に行ったとなっています。木下姓も父から継いだ姓かどうか疑問視されていて、妻・ねねの母方の姓とする説もあり真相は不明で、松下家臣時代の初めに木下藤吉郎と名乗り、今川氏直臣の飯尾氏の配下で、遠江国長上郡頭陀寺荘(現:浜松市南区頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下加兵衛之綱(ゆきつな、1537天文6-1598慶長3)に仕えて(今川氏(清和天皇:在位858-876)期〜1568)から見れば陪々臣)武芸・学問・兵法を習ったとされています。藤吉郎が主人に贔屓にされるのを嫉んだ家来達の讒言で、惜しまれながらも支度金を持たせて追い払われたとなっています。なお、川並衆の頭領の蜂須賀小六(彦右衛門正勝、1526大永6〜1586天正14)と12才で矢作川の橋の上で出会ったというのは、源義経(1159平治元〜1189文治5)が牛若丸と名乗っていた頃に京の五条の橋の上で武蔵坊弁慶(生年不詳〜1189文治5)に出会ったのを真似て作った、全くの創作ともいわています。

▼天下人になる
家を出てから今川家の家臣に仕官するも其処を出て、尾張の織田信長に馬屋番の「草履取り」で仕えて、「猿」と呼ばれながらも台所奉行や、台風で傷んだ清洲城の城塀の修理に自ら普請奉行となって「秀吉の割普請」で短期間で仕上げたり、槍の名人といわれた前田利家(1538天文7〜1599慶長4)が信長の小姓で犬千代と名乗っていた頃に、「短槍か長槍か?」の議論で、長槍隊を指揮した藤吉郎が見事に短槽隊の犬千代に勝利。しかも練習期間中の木下隊の稽古は「大声を上げながら、長い槍で一斉に突いたり叩いたり」するだけで、後は呑み会で和気合い合いで過ごして、家来になった者達が大いに喜んで士気も上がったんですが、一方の前田隊は厳しい稽古で疲れはて士気は下がり、信長の前での御前試合で戦う前から負けていた(これって戦略的勝利かな?)と物語られています。このような数多くの逸話を残しながら、次第に頭角を現しました。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、「中国大返し」により京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破りました。その後、織田家内部で勢力争いを起こし、信長の後継の地位を勝取りました。大坂城を築き関白・太政大臣になり、豊臣姓を貰って日本全国の大名を臣従させ天下を統一しました。「太閤検地」や「刀狩」などの画期的な新政策で中世封建社会から近世封建社会への転換を成し遂げるも、朝鮮へ出兵(文禄の役)し、慶長の役の最中に、一人っ子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して亡くなりました。墨俣の一夜城(1566)、金ヶ崎の退き口(1570)、高松城の水攻め(1582)、中国大返し(1582)、石垣山一夜城(1590)など機知に富んだ逸話が伝わり、百姓から天下人になった生涯は「戦国一の出世頭」といわれて、庶民の憧れの的であり、大阪では絶大な人気があります。なお、織田家に仕官してから長浜城主となる迄はほとんど信長と行を共にしていますし、秀吉の行状は記録が多く残っています。

▼秀吉の対外政策について:〜
秀吉は天正15/6/1(1587)付で本願寺顕如に宛てた朱印状のなかで「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」と記し、この先例に倣って高麗(朝鮮)国王は諸大名と同じように朝廷(秀吉)への出仕義務があると考え、直後に李氏朝鮮(1392-1910)に対馬島の宗氏(12世紀〜1869(明治2/6)廃藩置県)を介して服属入貢を要求。翌天正16(1588)年には島津氏(鎌倉時代〜1869廃藩置県)を介して琉球王国(1429-1879)へ服属入貢を行い、以後複は次のように数回要求を繰り返しました。

1591年(天正19/7/25付)にはポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求。天正19/9/15付スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に服属要求し、天下取り後の1592年(天正19/7/25付)にもポルトガル領インド副王に宛てイスパニア王の来日を要求し、同年(天正19/9/15付)スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に服属要求し、また(天正19/10/14付)島津氏を介し琉球へ唐入りへの軍役を要求しました。そして、1592(天正20)年(55才)に朱印船(Red seal ship)をマニラへ派遣して、直轄貿易を初めました。

秀吉は大陸侵攻(唐入り)の準備をしつつ、上記のように周辺諸国やスペイン・ポルトガルの植民地に対し服属入貢を要求しました。秀吉の海外進出構想は1587(天正15)年の九州遠征時期に行われたことが、天正15/5/9付で秀吉夫妻に仕える「こほ」という女性への書状に記されていて、九州平定の延長として高麗(朝鮮)平定の意向があることを示しています。明(Ming Dynasty 1368-1644)への出兵については信長も語っており、秀吉にも話していたといわれています。

1592年(天正20/5/18付)関白豊臣秀次宛朱印状では高麗の留守に宮中を置き、3年後に天皇を北京に移し、その周辺に10ヵ国を進上し、秀次を大唐の関白に就け、北京周辺に100ヵ国を与えるとしていました。また秀吉自身は北京に入ったあと、天竺(インド)征服のために寧波に移るとしました。1593(文禄2)年には台湾に存在すると考えられた「高山国」宛に朝貢を促す文書を作成して原田孫七郎という商人に台湾へ届けさせ、服属入貢を要求したものの、実質的には存在せず朝貢の目的は果たせませんでした。

秀吉辞世の句:〜
「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」。

参考HP:〜
墨俣一夜城
大垣市公式HP:「墨俣一夜城」
日本の地図(安土桃山時代)
御朱印船の貿易地図(17世紀南蛮貿易)
大政所の肖像画(天瑞院(てんずいいん)像)
千利休の肖像画(長谷川等伯画、春屋宗園筆)
後陽成天皇の肖像画(泉涌寺蔵、狩野孝信筆)






★日  本
豊臣秀吉の略年表
1537〜1598

大航海物語★
LESOTHO
豊臣秀吉公の肖像
狩野永徳(1543-90)四季図の
Phila Nippon '01
レソト 2001/5/31 発行

MONACO
大阪城

大阪万国博記念、1970年
モナコ 1970 発行
NIPPON
南蛮(ポルトガル)の帆船
1543年種子島に漂着したのが最初の南蛮船


日本・ポルトガル修好150年記念
日本 2010/10/22 発行
元号(和暦) (秀吉)、合戦は敗戦を示す他は勝利 (キリスト教伝来)
1537 天文6/2/6 0 日吉丸(秀吉)誕生(1537/2/6)
1543 天文12 6 . ポルトガル人が種子島に漂着、てっぽうが伝来
1544 天文13 7 実父・弥右衛門が戦死 .
1545 天文14 8 光明寺に入るがすぐに飛び出し、奉公に出る .
1549 天文18 12 陶器屋を逃げて蜂須賀小六と岡崎城下の矢作川で出会う (創作?)
天文18/7 . ザビエルが鹿児島上陸(キリスト教の日本初上陸)
1550 天文19 13 義父・筑阿弥とのそりが合わず永楽銭一貫文を持って家出 .
1551 天文20 14 尾張から浜松方面へ木綿針売りをしていて松下と出会う .
天文20/8 大友宗麟がザビエルと会見 ザビエルが豊後府内で布教許可を得る、堺に着く
天文20/11 . ザビエルが豊後からポルトガル船でインドへ帰る
1552 天文21 15 松下加兵衛に仕官、蔵の番をして盗難が無くなる .
1553 天文22 16 松下家で納戸の番をして倹約し、同僚に嫌われる .
1554 天文23 17 松下家を、金30疋(永楽銭300文)で解雇される。
織田家(信長)に草履取りの小者として仕えて信長から「猿」と呼ばれるも、清洲城の普請奉行、台所奉行などを歴任
.
1554 天文23/1 . 大友宗麟が足利将軍・義輝に鉄砲を献上
1559 永禄2/2/2 22 信長が初上洛、足利(13代)将軍・義輝と面会 .
永禄2/5 . 将軍義輝が上洛した上杉謙信に宗麟の種子島銃
火薬調合の秘法を伝授
永禄2/11/末 . ビレラが豊後府内(現大分市)から京都へ(上洛)
1560 永禄3 23 . ビレラが足利将軍に謁見、夏頃に布教許可を取得
永禄3/3 . 義輝が宗麟に石火矢(大砲)と種子島銃の礼状を送る
1560 永禄3/5/19 桶狭間の合戦、信長が今川義元に勝利 .
1561 永禄4 24 浅野又右衛門長勝の養女(実父杉原定利)寧寧と結婚
木下藤吉郎と名乗る(?)
.
永禄4 松浦氏領の平戸港で ポルトガル人殺傷事件が起こる
1562 永禄5 25 信長が徳川家康と清洲同盟を結ぶ .
1562 . 大村純忠が自領にある 横瀬浦開港(長崎県西海市)
1563 永禄6 26 大村純忠が洗礼を受け 寺社を打て壊す
1563 永禄6 . ビレラが奈良に入る
永禄6/7/27 後藤貴明が純忠の不満分子家臣団と反乱を起し 横瀬浦港を焼討ち(1563/8/15:フロイス記録)
1565 永禄8 28 信長の朱印状の副状に木下藤吉廊秀吉と署名(初出) フロイスが京都入(洋暦1/31)
永禄8/5/19 二条御所で足利義輝が三好三人衆と
松永久秀らに襲撃され討死
フロイス「日本史」に将軍義輝・奮戦の様子を記す
永禄8/7/5 正親町天皇が京都から宣教師を追放する バテレン追放令を出すも効果なし
”  永禄8 . 8月ビレラが京都から追放され、堺へ
1566 永禄9 29 信長の美濃攻めで秀吉が長良川岸に
墨俣一夜城を築いて斉藤竜興の兵を破る
4月ビレラが豊後へ、フロイスは堺に残留
この頃、美濃から竹中半兵衛重治(1544-1579)、蜂須賀正勝(1526-1586)、前野長康(1528-1595)などを召抱える .
1567  永禄10/8 30 信長が美濃の稲葉山城を占拠、岐阜城を築城 .
永禄10/10 三好三人衆と松永久秀軍の戦いで
奈良・東大寺の大仏殿が焼失
.
永禄10/11/9 綸旨で正親町天皇が信長に「天下仰付け」 .
1568 永禄11/2 31 足利義栄(14代)将軍宣下 .
永禄11/8/5 信長が足利義昭(15代:別行動)を供奉しての上洛で岐阜城を出発、佐和山城に入るも、六角市の反抗で戻る .
永禄11/9/7 信長は1万5千で岐阜城を再出発、三河の徳川家康1千、北近江の浅井長政3千が駆付けて総数は5-6万となる .
永禄11/9/13 9/12の夜襲で箕作城が一夜で落城、安土の観音寺城の合戦は無血開城で織田軍勝利、近江守護職の六角義賢・義治父子の六角氏は甲賀郡に落ち延び、信長軍は上洛 .
永禄11/9/28 信長が芥川山城を落とし、三好康長は阿波に落ち延びる ..
永禄11/10/2 松永久秀が降伏、今井宋久と共に、
信長が摂津・芥川城で会見
.
永禄11/10/18 足利義昭(15代)将軍宣下 .
1569 永禄12 32 秀吉が京都奉行の任につく
秀吉が但馬、播磨の出兵を命じられる
正親町天皇が再度バテレン追放令を出す
永禄12/3/11 . フロイスが再度の京都入り、布教活動を始める
永禄12/4/3 . 二条城建築現場でフロイスが信長に謁見
永禄12/4/20 . 信長許可でフロイスが仏僧・朝山日乗との宗論に勝利
永禄12/6頃 . フロイスが安土城で信長に謁見
永禄12/8 信長が生野銀山に今井宋久の代官を派遣し管理 石見銀山は毛利氏の手中に
1570 元亀元年 33 肥前大村の領主大村純忠がキリスト教に改宗し イエズス会の要請で長崎を開港
元亀1/4/20 金ヶ崎崩れの合戦、越前の朝倉攻めで浅井が裏切って敗戦、
秀吉が殿軍で信長軍の撤退が成功、信長の恩賞を受領
(越前遠征・若狭攻め、敗退)
元亀1/6/28 近江の姉川の合戦、信長が家康とともに浅井・朝倉を近江の姉川に破り勝利、秀吉が横山城を守備 .
元亀1/7 信長に横山城の城代を命じられ、竹中半兵衛が与力となる
秀吉が長浜城に移ると横山城は1573年に廃城
.
元亀1/9/12 大阪・石山本願寺合戦が始まる .
元亀1/11 三好三人衆など反織田諸勢力と和議 .
1571 元亀2 34 . ポルトガル船が初めて長崎に入港
元亀2/7 . スペイン人レガスピフィリピンを植民地とする
元亀2/9/12 信長が2日間、比叡山・延暦寺を焼き討ち .
元亀2/9/13 . フロイスがオルガンティーノと安土城で信長に謁見
元亀2/12 . フランシスコ・カブラルが安土城で信長に謁見
1572 元亀3/7 35 信長が虎御前山城を築き、9/16守将が秀吉となる
1573 元亀4/4/12 36 武田信玄が病死 .
元亀4/7/3 槇島城の合戦、足利将軍・義昭が槇島城に立籠る .
元亀4/7/5 信長が琵琶湖で大船(全長30間×幅7間(約54m×約12m)、艪が100挺、船首と船尾に櫓を持つ頑丈な船)建造 .
元亀4/7/10 京の二条城が信長の勢威を恐れて無血開城 .
元亀4/7/18 槇島城の合戦、義昭が嫡男の足利義尋を人質として差し出して降伏、信長が足利将軍・義昭を追放 .
元亀4/7/20 羽柴秀吉が義昭を妹婿である三好義継の居城・河内国若江城に送り届ける .
元亀4/7/28 信長が元号を天正へ改めることを朝廷に奏上 .
元亀4/11/16 若江城の合戦、三好義継が自害、信長に滅ぼされる .
1573 天正1/8/2 第2次淀古城の合戦、信長が淀城で三好三人衆の1人岩成友通を討ち取る(第1次は1504年)
越前に出陣して朝倉義景を討ち取り(一乗谷城の戦い)、直後に北近江へ向かい浅井長政も自害させた(小谷城の戦い)。三好三人衆の残る2人三好長逸、三好政康も行方不明、松永久秀、顕如は信長と和睦、信長包囲網は瓦解した。
.
天正1/8 福井一乗谷城の合戦、朝倉義景を討ち取る、
斎藤龍興が戦死で斉藤氏滅亡
.
天正1/8/18 福井一乗谷城の合戦、信長が一乗谷の市街地を襲撃・焼き払い、1万人余の人口で繁栄を誇った街は灰燼に帰す .
天正1/8/20 秀吉が越前北部大野郡平泉寺の僧兵を寝返らせていた所へ朝倉義景がきたのを僧兵が討ち取り、朝倉景鏡はその首を持って信長に降伏、助命となる .
天正1/8 小谷城の合戦、秀吉が夜半3千の兵で奇襲し京極丸を奪う
羽柴改姓:丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらう
.
天正1/9 江湖北小谷城落城、長政自害・浅井氏滅亡。秀吉が信長に浅井氏の旧領江北の三郡を拝領、城持ち大名となる .
天正元年 佐久間信盛軍が三好義継の宗家を滅す ..
1574 天正2 37 秀吉が小谷城を拝領後、今浜に築城、信長の「長」で
今浜を「長浜」改名、長浜城の城主となり、
筑前守を名乗る
.
天正2/9/29 伊勢・長島城が降伏開城
長島一向一揆終結、城は滝川一益へ
.
天正2 信長が上杉謙信へ「洛中洛外図」屏風を贈る .
1575 天正3/5 38 長篠の合戦、武田氏(勝頼)滅亡
信長が家康と共に武田勝頼を三河の長篠に破る
.
天正3/8 信長が越前・加賀門徒12,250人討つ、越前8郡を柴田勝家
明智光秀等と一向宗徒を攻め2000余人を切り捨てる
.
天正3/7 1579/7/25、マカオから島原半島
南端の口之津町にヴァリニャーノ上陸
アレシャンドロ・ヴァリニャーノ巡察師が来日、
信長が黒人を譲り受け彌介として側近にする
天正3/7/3 筑前守を名乗る .
天正3 信長から北近江3郡を拝領、
今浜城跡に長浜城築城、不便な小谷城に代わる居城
.
1576 天正4/4 39 葦原の合戦、石山勢に大敗 .
天正4/5/7 大阪・一向一揆の天王寺砦の合戦 .
天正4/7/13 大阪木津川口の合戦、毛利水軍に敗北 .
天正4 安土城の普請が始まる フロイスが信長に許されて京都で教会を設立
1577 天正5/1 40 . 大砲がインド総督から大友宗麟に到着
天正5/2 紀州雑賀衆攻めで和睦 .
天正5/9/23 石川・手取川の合戦、謙信勝利、救援の秀吉は無断で帰国 .
天正5/10/5 生駒・信貴山城の合戦、松永久秀逃亡するも松永氏滅亡 .
天正5/10/10 第2次観音寺城の合戦勝利で上洛の信長が救助 .
天正5/9/23 手取川の合戦、柴田勝家が上杉謙信に大敗北(1577/11/3) .
1578 天正6/3月 41 三木合戦、1年10ヵ月の篭城戦
天正6/3-天正8/1/17(-1580/2/2)
.
1578 天正6/7 大友宗麟が受洗、天正遣欧少年使節派遣を決定 領内での布教活動を保護、南蛮貿易を続行
天正6/4/18 上月城の合戦、救援が間に合わず尼子氏滅亡 .
天正6/3/13 上杉謙信が急死(病死) .
天正6/9 荒木村重が有岡(伊丹)城を逃亡、落城 .
天正6/11/6 第2次木津川口の合戦
毛利水軍を信長考案の鉄甲船6隻で大勝
.
1579 天正7 42 五層七重の豪華絢爛な安土城が完成
岐阜城を信忠に譲り安土城に住む
.
  ” 徳川家康の嫡男・松平信康と、信康の
生母の築山殿に対し切腹を命ずる
.
天正7/7 . アレシャンドロ・ヴァリニャーノ巡察師が再度来日
1580 天正8 43 大村純忠が長崎港周辺を イエズス会に教会領として寄進
天正8/1/17 三木合戦、三本木城に攻め羽柴秀吉が勝利
兵糧攻め、別所長治が城兵の助命で切腹
.
天正8/4 正親町天皇の勅命で、本願寺が和睦、大坂から退去 .
天正8/8/2 石山合戦が終結、勝利 .
天正8 . フロイスが安土で信長に許されて教会と修道院を設立
1581 天正9/2/13 44 2/4に豊後府内を出帆 ヴァリニャーノが堺に到着
天正9/2/25 . ヴァリニャーノが信長に謁見、豪華絢爛の椅子を献上
天正9/2/28 信長が京都「御馬揃え」、正親町天皇を招待 ヴァリニャーノも招待されて「馬揃え」を見物
天正9/3/5 信長が正親町天皇の要請で再度「御馬揃え」 .
天正9/3/23 武田軍から静岡掛川の高天神城を奪回 .
  ” 鳥取城を兵糧攻め、因幡を攻略 .
  ” 岩屋城を落として淡路を攻略 .
天正9/7/15 信長が安土の盂蘭盆会で天主をライトアップし ヴァリニャーノの送別会・挙行、
選別に「安土城の屏風絵」を贈呈・ローマへ
1582 天正10/1/28 45 . アレシャンドロ・ヴァリニャーノ巡察師が
天正遣欧少年使節とインドへ出帆
天正10/3/8 織田信忠が甲府を占領 .
天正10/3/11 武田勝頼・信勝の親子が討死、武田氏滅亡  .
天正10/6/2 本能寺の変、織田信長が自刃 .
天正10/4-6/4 備中高松城の合戦(水攻め)、
毛利氏と講和し、6/4高松城主清水宗治が切腹
.
天正10/6/13 中国大返しで、秀吉が山城で山崎城を造り、山崎の戦い(天王山の合戦)に明智光秀を破り、勝利(光秀の三日天下) .
天正10/6/27 清洲会議、 織田家の宿老、尾張清洲城に集まり、
信長の後継を三法師(信秀)と定め、秀吉が後見につく
.
天正10/9 - 欧州で暦が替わる ユリウス暦が→(現在の)グレゴリオ暦となる
天正10/10/3 秀吉が従五位下左近衛少将(公卿補任) .
1583 天正11/4 46 賤ヶ岳の合戦柴田勝家の佐久間盛政を破り、勝利
越前「北の荘城」に柴田勝家を攻め滅ぼす
.
天正11/9 大坂城の普請始まる .
天正11/5/22 従四位下参議 .
天正11/11 本拠を大坂城に移転 .
1584 天正12/9/16 47 小牧・長久手の合戦
徳川家康、織田信雄の連合軍と戦い破れ、講和
.
天正12/11/21 従三位権大納言 .
1585 天正13/3 48 紀州征伐 .
天正13/3/10 正二位、内大臣宣下 .
天正13/6 四国攻めで四国の長宗我部元親を降伏させ、四国を平定
従1位関白に叙任し、姓を藤原と改め、関白拝賀を行う
.
天正13/7 近衛前久の猶子となる、藤原改姓 .
天正13/7/11 後陽成天皇(1571-1617)が従一位「関白」宣下、内大臣如元、
太政大臣:豊臣を名乗る
.
天正13/8 富山の役 .
天正13/10 惣無事令実施(九州地方) .
1586 天正14 49 九州征伐 .
天正14/7 妹(旭姫)を徳川家康の正室にする
家康上洛、大坂城にて秀吉に謁見
.
天正14/9/9 豊臣氏(押小路文書)賜 .
天正14/12/19 内大臣辞職 .
天正14/12/25 太政大臣兼帯 .
1587 天正15/5/9 50 秀吉が兵2万6000(総勢20万)を率いて、
九州島津氏を征伐するため大坂を出陣
.
天正15/6/1 書状「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」 .
天正15/6/19 博多でバテレン追放令制定 イエズス会所領の長崎を没収して直轄地とする
天正15/9 聚楽第が完成、
秀次事件で8年後(1595年、文禄4/8月)に取壊し
.
天正15/12 惣無事令実施(関東・奥羽地方) .
1588 天正16 51 キリシタン小西隆佐を長崎派遣し生糸独占購入 長崎代官を置く、海賊取締令を発布
天正16/7/28 刀狩令制定(兵農分離) .
天正16/8/12 島津氏を介し琉球へ服属入貢要求 海賊停止令制定 .
1589 天正17/5月 52 鶴松が誕生。鶴松を後継者に指名
側室淀殿、淀城にて鶴松を生み、大坂城に移る
.
. 淀城(淀古城)、1593(文禄3)年に廃城 .
1590 天正18 53 この頃からスペイン船が平戸や薩摩領内に来航 中国産の生糸をもたらす
天正18/2 小田原の役、小田原城の西3kmにある石垣山一夜城
小田原城の北条攻めて、北条氏直が織田信雄の陣に投降、北条氏滅ぶ
.
天正18/2/28 . 琉球へ唐・南蛮も服属予定として入朝要求
天正18/7 奥州仕置 .
天正18/11 . 朝鮮へ征明を告げ入朝要求
1591 天正19 54 羽柴秀長(秀吉弟)と鶴松が没し、秀次を養子とする .
天正19/2/28 千利休が切腹(1522-1591/4/21) .
天正19/3/3 天正遣欧少年使節が聚楽第で秀吉に
西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏
.
天正19/7/25 . ポ領インド副王に宛てイスパニア王の来日を要求
天正19/8/21 秀吉が身分統制令を発布 .
天正19/9/15 . ス領フィリピン諸島(小琉球)に服属要求
天正19/10/14 . 島津氏を介し琉球へ唐入への軍役要求
天正19/12 秀次が関白左大臣となり、秀吉が太政大臣如元・太閤を名乗る .
1592 天正20 55 . 豊臣秀吉が朱印船をマニラへ派遣
天正20/7/22 大政所(母なか)没(1513-1592/8/29) .
1592 文禄元年 関白秀次の名で、人掃令制定(兵力把握、兵農分離) .
文禄1/4/12 朝鮮出兵開始15万余、諸大名に朝鮮出兵を命ずる 文禄の役
文禄1/7/21 . スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に約を違えた
朝鮮を伐ったことを告げ服属要求
文禄1/8 秀吉が指月山に伏見城(指月山伏見城)を築城 .
1593 文禄2/8 56 本拠を伏見城に移す、秀頼が誕生
側室淀殿が大坂城で捨丸(のちの秀頼)を生んだ
.
文禄2/11/5 . 高山国(台湾)へ約を違えた朝鮮を伐ち
明も和を求めているとして服属入貢を要求
1595 文禄4/7/8 秀次の関白左大臣の官職を奪わい高野山に追放 .
文禄4/7/15 福島正則らを高野山に送り、秀次に切腹を命ずる .
文禄4/8/2 秀次の子女5人・妻妾侍女34人を三条河原で処刑 .
1596 文禄5 59 閏7/13、畿内の大地震で被害続出、伏見城が地震で崩壊、木幡山(木幡山伏見城)に再建
文禄5/10/27 元号が文禄から慶長に .
1596 慶長元年 家康以下諸大名30人の連署血判をとり、
捨丸に忠誠を誓わす
.
慶長元4/4 浅間山大噴火 .
慶長元8/28 . 1596/10/19サン・フェリペ号事件
慶長元/9/1 明(中国)の講和使節が大坂城で秀吉に謁見 .
1597 慶長2/2/21 60 再度の朝鮮出兵開始、14万余 慶長の役
慶長2/12/19 二十六聖人の殉教 1597/2/5日本二十六聖人殉教
慶長2/7/24 . ルソン使節が秀吉にゾウを献上
慶長2/7/27 . マニラに神国日本ではキリスト教禁止を通告
慶長2/3/7 京などの犯罪防止のため五人組・十人組の制度を創設 .
慶長2/4/12 麦を年貢の対象に指定 .
慶長2/5/24 . フロイス神父が長崎サンパウロ教会付属コレジオで没
慶長2/7/18 長野市善光寺の本尊を京都市方広寺に移動 .
慶長2/9 . 長崎奉行・寺沢広高が宣教師をフィリピンに送還
慶長2/9/28 京都市豊国神社門前に鼻塚を建立(施餓鬼供養) .
慶長2/10/2 近畿地方で大地震発生、被害続出 .
1598 慶長3年 61 太政大臣辞職 .
慶長3/1/9 朝廷にツルを献上 .
慶長3/3/15 秀頼らと醍醐寺三宝院で観桜の宴を開く(1598/4/20) (醍醐の花見)
慶長3/7 . イエズス会宣教師が日本語辞書「落葉書」を刊行.
慶長3/8/17 秀吉正室・ねねが善光寺の本尊を信濃に返還 .
慶長3/8/18 徳川家康、前田利家ら5大老に秀頼を託し、石田三成ら5奉行と誓書を交換して後を託し、伏見城で秀吉が没す、秀頼が後を継ぐ .
慶長3/11/18 - 「慶長の役」最後の戦闘が勃発、
その後に日本軍が撤退、帰国
.
1600 慶長5/3/16 - (1600/4/29) リーフデ号が豊後の臼杵に漂着
1600 慶長5/9/15 - 関ヶ原の合戦、徳川家康が勝利(1600/10/21) .
1604 慶長9 - 徳川家康が朱印船制度を実施して スペイン領マニラと外交関係を樹立
1609 慶長14 - . 平戸にオランダ商館が開設
1624 寛永元 - . スペインと国交を断絶、来航を禁止
1633 寛永10 - 徳川家光が鎖国令を発布 長崎の出島にオランダ商館だけが残る
1915 大正4/8/18 - 秀吉に贈正一位 .
こちらで
織田信長
徳川家康をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     12/4/30、12/5/12     
スタンプ・メイツ
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