★ポルトガル メンデス・ピントの東洋遍歴記
1537〜1558
要約
大航海物語★

MACAU
メンデス・ピント

ポルトガル領マカオ 1951/827 発行

MOCAMBIQUE
PORTUGAL
16世紀ポルトガル・カラベル船

ポルトガル 1943 発行


火縄銃を担う→
ポルトガル人

←火縄銃
ポルトガルの
マスケット火縄銃
(Musket Rifle)
ポルトガル領モザンビーク 1967/1/12 発行

SULTANATE of OMAN
インド洋の地図

オマーン 1981/11/23 発行
琉球郵便
東南アジア、中国、日本の地図

日本 昭和38年 1963/9/16  発行

中国のジャンク船

グレナダ 1998/4/26 発行
マレー半島南部 ←タイ領ルグル

←タイ領シンゴラ
←タイ領パタニ
←コタバル


←パン

←シンガポール
マラッカ海峡
スマトラ


ケダー
マレー 1957/5/5 発行

メンデス・ピントは28才で、ポルトガルが開拓していた東インドの香料貿易地域へ、一攫千金を夢見て大航海に出帆しました。ピントはインド方面で、21年間に渡って大冒険をなし、ポルトガルに無事に帰国しました。帰国したピントはテージョ河々口付近南方のプラガル(Pragal)に隠居して「東洋遍歴記」(Peregrinacao "Pilgrimage", written in 1570)を書き残していました。それは没後31年後の1614年に出版されました。

それを日本語に訳した「東洋遍歴記」が1979年に平凡社から発行されていたのが図書館に有ったので読んでみると、”メンデス・ピント”としてポルトガル編に作成していたHPとは違った点が多々有りましたので、ここに「メンデス・ピントの東洋遍歴記」(要約)として新HPを作成してみました。
フェルナン・メンデス・ピント (1509年頃〜1583/7/8)
 Fernao Mendes Pinto

メンデス・ピントの「東洋遍歴記」東京外大の岡村多希子先生訳(東洋文庫)平凡社によると、解説書などの記述とは違ったところがあり、要約すると以下の通りでした。

メンデス・ピントの大航海:〜1537/3/11(28才)
▼インドへの大航海
(01)ポルトガル、リスボンを出帆
  ・アフリカ、喜望峰を回航
(02)アフリカ、モザンビークに寄港
(03)インド、西海岸ポルトガル植民地ディウに到着
(04)アフリカ、エチオピアの港町マッサワで、ポルトガル人傭兵隊と接触
(05)紅海、マッサワ沖で、海戦に敗れて捕虜となりイェーメンのモカで奴隷に売り飛ばされる
(06)アラビア半島東部をキャラバンで横断、
   ペルシア湾、ペルシャのホルムスで、ポルトガルの総督に救出される
(07)インド西岸、ダブル港で、オスマン船隊を焼き討ち勝利、インド、ゴアへ戻る。
▼インドからマラッカへ、そして極東アジアへの大航海
(08)インド、ゴアを出帆、マレー半島のマラッカへ行く総督の乗船に便乗
(09)スマトラ島、バタ王国でバタ王に謁見
(10)マレー半島、ケダー王国でケダー王に謁見
(11)マレー半島、マラッカに帰着、出帆、アアル国でアアル王に謁見
(12)スマトラ島、アアル港を出帆後、船が難破し遭難、
    シアカで奴隷に売ってもらいムスリム商人が買取る
(13)マレー半島、マラッカに帰着、出帆
(14)マレー半島、パン国で駐在員アントニオ・デ・ファリアに会うも、パン王が暗殺され急きょ出帆
(15)マレー半島、パタニ王国でパタニ王に謁見
(16)マレー半島、シャム国ルゴル港、海賊コージャ・アセンに襲われ貴婦人に助けられる
(17)マレー半島、パタニ国に帰着、アントニオ・デ・ファリアが船隊長となって海賊退治に出帆
(18)マレー半島、サレイジャカウ湾ドバゾイ川でジャンク船と戦い勝利、日本丁銀を獲得
(19)コーチシナ、トンキン湾、海賊を捜索航海
(20)中国、アイナン(海南)島東方で嵐に遭遇、
   ・泥棒島(グアム島)で難破・遭難、奇跡的に裸一貫で助かる
(21)東シナ海、中国のニンポー(寧波)、中国人キアイ・パンジャン船長と出会う
(22)中国、ティンラウ川上流、コージャ・アセンと激戦、勝利
(23)中国、ノーダイ、街を攻撃して13人のポルトガル人捕虜を救出
(24)東シナ海、中国のニンポーに帰着、出帆
(25)中国、カレンプルイ島で帝王の墓所を暴く
(26)中国、ナンキン湾で大嵐に見舞われ難破、辛うじて助かるもタイポル町で逮捕、捕縛
▼ペキンへ、極東アジアへの大航海
(27)中国での虜囚、上訴したペキン市で判決を申し渡される
(28)タルタリア人の侵攻
(29)タルタリア人の捕虜となりタタールへ
(30)タタールからコーチシナへ
(31)イリヤ・デ・タニシュマ(種子島)に上陸
(32)種子島のナウタキン王に「てっぽう」を献上
(33)豊後王に拝謁
(34)リャンポー港から再び日本へ大航海、遭難
(35)リャンポーからマラッカへ
(36)マルタヴァン王国の滅亡
(37)マルタヴァンからペグへ、2年半の虜囚
(38)大使と共にペグからティンプランへ
▼東南アジアから、極東アジアへの大航海
(39)ゴアからスンダへ、ジャワへ
(40)ジャワからスンダへ帰島
(41)スンダから中国へ出帆して難破
(42)スンダからシャムへ
(43)ペグ王国からマラッカへ、そして日本の豊後王国へ
 ・シャム(タイ)、アユタヤ
 ・中国、北京
 ・東シナ海、中国の寧波(ねいは:ニンポー)
 ・日本、種子島
 ・ジャワ、バンタ港でスパイスを買い付け
 ・ビルマ、マルタバンのドゥマク王国
  などからインドへ戻る。
・(3)インドから母国への大航海
 ・アフリカ、喜望峰
 ・ポルトガル、リスボンへ戻る:1558/9/22(49才)

▼最初のインドへの航海
(1)リスボンを出帆〜1537/3/11
 ・ポルトガル、リスボンを5隻のナオ船で出帆
  1)戦艦・女王号〜ドン・ペドロ・ダ・シルヴァ船長、
    ヴァスコ・ダ・ガマ令息でガマの葬礼を終えていた
  2)戦艦・聖ロッケ号〜ドン・フェルナンド・デ・リマ船長、
    1538年にホルムス司令官で没する
  3)戦艦・聖バルバラ号〜ジョルジュ・デ・リマ船長、
    ドン・リマ船長従弟でシャウル司令官に赴任
  4)商船・海の花号〜ロポ・ヴァス・ヴォガド船長。
    ガレガ号は後にペドロ・デ・ソーサが遭難
南蛮(ポルトガル・ナオ)船の図

パナマ 1968/5/7 発行
  5)商船・ガレガ号〜マツヒンス・デ・フレイタス船長、ダマンで部下35人と殺害される

(2)アフリカ、モザンビークに寄港
メンデス・ピントは1537/3/11にリスボンを出帆、アフリカの喜望峰を回航してポルトガル領モザンビークに寄港すると、ゴアがイスラムの攻撃を受けることが解ったので、インド副王からのディウへ向かうようにとの命令を受領し、戦艦3隻はディウへ向かい、商船2隻はゴアへ向かう許可を取得しました。インド洋を航海して、1537/9/5に、2年前の1535年にポルトガルが占領したインドのボンベイの北西にある要塞島に建設されたディウ要塞に到着し、700人以上の兵士・乗組員はディウ司令官の大歓待を受けました。その後にこの3隻はゴアへ行き、先着の商船2隻と合流して、東洋の富の積荷を満載した5隻はリスボンに無事の帰港を果たしました。モザンビークで出会ったドアルテ・デ・トリスタン船長の聖ミゲル号は母国への帰途に行方不明となりました。

(3)インドのディウに到着
ピントがディウに着いた当時のディウ付近は東洋貿易の独占のためにポルトガル勢力を退けようとしたオスマン・トルコ帝国スレイマン1世(Suleiman I 、1494-1566)が奪回を策していました。

ピントがディウに着いても、これという仕事が無く無為に17日を過ごしました。すると、ムスリム(Muslims、イスラム教徒)の貿易船の襲撃隊に加わりイスラム船を襲い、その船から財宝を奪うという儲け話をしている船長に出会い、その儲け話にとびつき、紅海のメッカ海峡への2隻のフォイスト船(Fusta)でのポルトガル偵察隊に加わりディウを出帆することになりました。そして、ピントはポルトガルのインド副王(Viceroy of the Estado da India)ヌーノ・ダ・クーニャに、親書をアビシニア(エチオピア)に居るポルトガル人傭兵隊に手交する任務を命じられ、1537/9/22にフォイスト船2隻の”茨号”でディウ港を出帆しました。
ディウの地図

ポ領インド 1956/3/24 発行
季節はずれで荒れ狂うアラビア海を航海し、1507年にアルメイダ提督が建設したソコトラ島要塞に流れつき、物資の補給をしました。ソコトラ島出帆9日間の好天後に紅海のマッサワ近くに着き、1隻のナオ船の船影を発見。追いつき交戦となり、敵乗組員80人中64人が死亡、残りは5人の重傷者を残して逃亡。重傷者を捕虜とし、船長が居たので拷問にかけてイスラムの情報を取得。トルコ艦隊はアデン攻撃のため既に紅海のジェッダ(Jeddah)港を出帆していることが判明。捕虜はキリスト教への改宗を拒んだので、石の重しを付けて海中へ投げ捨て、船は「大青の染料」の積荷もろとも海の底へ沈めました。

(4)エチオピアのマッサワ
当時のヨーロッパでエチオピアにプレステ・ジョアン(Prester John)がいると思われていましたが、そのプレステ・ジョアン、ダウィット2世(Dawit II of Ethiopia 1501-1540)の母であるエチオピアのティグレマオン王女(ヘレナ、Eleni エレニ)が山中に雇っていたポルトガル人傭兵隊に副王の親書を手交するため、エチオピアの港町マッサワ(Massawa、現エリトリア領)に入港。ピント達4人のポルトガル人は、知らせで王女が寄こしたアビシニア人の案内人達とジレイドル宮殿に向かいました。宮殿の近くのフンバウ村で40人のポルトガル人傭兵
エチオピアの村(Gondar、1632)
隊に出会うと、彼らは涙を流して喜びました。1537/10/4に王女に謁見。9日間滞在して、王女からドッサリお土産の財宝をもらって帰途につき、港で船底に水漏れ防止タールを塗ったりと修理のため数日滞在しました。

(5)海戦に敗れて奴隷となる
1537/11/6にメッカ海峡へと早朝夜明け前にマッサワを2隻で出帆。夕方まで海岸沿いに帆走すると、3隻の船が見えたので近づくと、なんとそれはトルコの小型ガレー船でした。彼らは風上に立ち大砲の一斉砲撃をしてきました。激しい戦いで生存者11人となり敗北を喫しました。翌日に死んだ2人は勝利の印しに四つ裂きにされて帆桁の先に吊るされ、アラビア半島の南西にあるモカ(Mocha, Yemen)に到着。生き残り9人は1本のクサリに繋がれて街中を引き回され、街中の人々の罵りと嘲り笑いされ小便壺まで投付けられて、日暮れ近くに地下牢に放り込まれました。翌日、頭に深傷を負っていた2人が死に、午後に地下牢から引き出された残りの7人は奴隷としてオークション(競売)にかけられ売り飛ばされました。

(6)アラビア半島東部をキャラバンで横断
メンデス・ピントはギリシア人ムスリムに買い取られ、鞭打ちとかで残酷に当たられたため買主が損するようにと、何度か毒をあおって自殺を試みましたが、3ヵ月後に損してはならぬと12000レアル(Real、30ドカート Ducat)金貨相当のナツメヤシ(Date Palm)と交換でユダヤ人に売り飛ばされました。そのユダヤ人はピントを連れてホルムス(Hormuz)へ陸上のキャラバン交易路で連れて行きました。着くとポルトガル人の要塞司令官ドン・フェルナンド・デ・リマとインド副王ヌーノ・ダ・クーニャの命令で来ていたインド陪席判事ペロ・フェルナンデス博士によって、200パルダウ(Parudau、300ドカート Ducat)金貨相当が支払われて救出され、自由の
アラビア半島・マスカット港

オマーン 1981/11/23 発行
身になりインドのゴアへ行こうとしました。陸路はオスマン帝国によって封鎖されていましたが、海路はポルトガルがインドのゴアに海軍基地を建設して以来、香辛料貿易航路を完全に掌握していましたので、16日後にジョルジェ・フェルナンデス・ダボルダ船長のゴア行きのナオ船に便乗して、インドへと出帆しました。

(7)インド西岸、ダブル港で、オスマン船隊を焼き討ち勝利
17日間の順調な航海を続け夜になってディウ要塞が見えると、何か様子がおかしいことに気付きました。夜が明けるとイスラムの大三角帆船が要塞を包囲して、砲撃しているのが解りました。その内の5隻が接近してきたので、慌てて逃げ出し、2日後にシャウル港に到着、司令官に報告しました。翌日ゴアへと出帆し、ゴア港外で着任間もないインド副王ガルシア・デ・ノローニャの命でダブル港(Dabul)へと向かうフェルナン・デ・モライス司令官の3隻のフォイスト船隊に出会いました。司令官は人員不足なので人手を要求し、ピントと11人を船隊に乗船させました。ナオ船がゴアへと去って行くなか、ダブル港に停泊しているオスマン船隊を拿捕するか破壊するために出帆し、翌日早朝に到着。停泊中のマラバル人のパゲル船を捕え、船長と水先案内人を拷問して聞き出したところ、トルコ船隊はディウ要塞を陥落させ、現地のマラバル王も屈服させるだろうと白状したので、モライス司令官はゴアへと引き返し、2日後に到着、報告。そこに嵐を避けて停泊中のゴンサロ・ヴァス・コーティーニョ司令官の5隻のフォイスト船隊の船長の一人に雇われて、モライス船隊からコーティーニョ船隊に乗り換えて乗船、従軍することになりました。

コーティーニョ船隊はインド西海岸マハーラーシュトラ州ダブル港に入港、5隻の戦艦が礼砲を放ってマラバル海岸オノールの女王へ謁見を求めました。拒否されたので、トルコのガレー船を焼き討ちし、80人の兵を率いて強硬上陸、イスラムの傭兵と激戦を交え勝利。女王と謁見し、トルコ人の国外追放の約束を取り付けました。その勝利後、ピント達はゴアへ出帆しました。コーティーニョ船隊は翌日ゴアに帰還し、ノローニャ副王の歓迎を受けました。

報告を受けたノロ−ニャ副王は、イスラムの包囲攻撃を受けているディウ要塞の救援のために、1万人の兵士と3万人の乗組員が乗船した225隻のポルトガル艦隊を編成し、1539/1/16にディウに到着。イスラムが撤退する時に破壊しつくしたディウ要塞を再建しました。
ゴアの地図

▼インドからマラッカへ、そして極東アジアへの大航海
(8)ゴアを出帆、マラッカへ行く総督の乗船に便乗
メンデス・ピントはマラッカ要塞のポトガル総督に指名されたペロ・デ・ファリア(Pero de Faria)のナオ船8隻、フォイスト船4隻、ガレー船1隻で600人の兵を乗せた船隊と共に、1539/4/13にゴアを出帆、1539/6/5にマラッカに到着しました。到着すると新任のマラッカ総督に近隣の王国から着任祝賀大使が派遣されてきました。その中のスマトラ島のバタ王の大使が、「イスラムの援軍を得た北スマトラのアシェン(Achin)のイスラム教国アチェ王国(Sultanate of Aceh)からの攻撃」の救援を求めに来ていました。
マラッカイスラム寺院モスク

マラッカ 1957 発行
ペロ・デ・ファリア総督は東方のポルトガルの未開拓地域と外交関係を持とうと、ピントを外交使節に任命し、バタ人アンジェシリ・ティモラジャ王に謁見する使命を与えました。交易品を満載したジュルパンゴ船にムスリムの商人コージャ・アレ(マラッカ生れ)と水先案内人を伴ってマラッカを出帆。

(9)スマトラ島、バタ王国でバタ王に謁見
スマトラ島北部のアアル港に上陸。イカンドゥレ川を遡上、途中で始めてみる数多くの珍しい生き物を目撃して、バトレンダン村でアシェン王国との国境への迎撃準備中のバタ王に謁見。アシェン王はメッカ海峡から4隻のナオ船と2隻のカレオン船で、トルコ人、クジャラート人、マラバル人など300人と数門の鋳物製大砲と数十箱の弾薬を持つイスラム軍でさらに増強されていました。バタ王はアシェン王の攻撃で3人の王子を殺され、弔い合戦だと苦渋の決断をした時だっただけに、献上品の鉄砲と弾薬を持ったポルトガル人の来訪に大喜びでした。バタ王はさっそく竹矢来で囲まれた陣営内を案内してくれましたが、大砲はあっても青銅製の旧式な物だったり、弓と槍で武装したバタ人兵の武装の様子を見たピントは、これでは スマトラ島
イスラムの増援を得たアシェン軍には勝てないだろうと思いました。バタ王は翌日、15千の兵を連れて出陣しましたが、その兵力構成はバタ人兵は僅かに800人で、他はメナンカボ人、ルソン人、アンドラギレ人、ジャンベ人、ボルネオ人など近隣小王国からの援軍部隊でした。

戦象40頭と小型大砲20門を伴っての出陣は勇ましいものでしたが、ピントは一抹の不安を感じました。アシェン軍の斥候を捕え拷問にかけて、アシェン軍にはトルコ人160人、ムスリムのマラバル人200人、クジャラート人、アビシニア人など多くの外国人イスラム兵が加わっていること、トンダクルの町で待ち伏せしていることが解りました。アシェン軍と町はずれの平原での戦いとなり、両軍入り乱れての白兵戦で一進一退を繰り返すこと数時間、アシェン軍が町へと後退したので、バタ王軍は近くの山で態勢を立て直すことになりました。その後、町を包囲攻撃すること23日間、勝 戦象の図

北ベトナム 1971/6/1 発行
利を確信したバタ王軍の将軍の一人がその兵と共に町に突入、アシェン王自らが迎撃に打って出て、両軍合わせて4千人以上の死者を出す大激戦となり、バタ王軍が敗退。そこへ町横のぺナカン川に、シャム王国へ遠征していたトルコ人アメテカン・パシャ提督率いる86隻のアシェン王船隊が、故国の急を聞いて帰国したのが出現。これを知り、3500人以上の戦死者と同数以上の負傷者を抱えたバタ王は帰国を決断。パナジュに帰国すると「悲嘆の神」パコダに14日間籠って祈りました。ムスリムの商人コージャ・アレが交易した商品をジュルパンゴ船に積み終えたので、バタ王に謁見すると、パセン港はアシェンの手に落ちたので近寄らぬようにと話し、戦で手ひどい打撃を受けたので、これだけの土産しか用意できなかったと、金装飾アザガイア(短槍)6本と小粒真珠で満杯の金装飾鼈甲小箱と大粒真珠16粒のペロ・デ・ファリア総督への贈り物、そしてピントには黄金2カテ(金1250g)と金装飾テルサド(幅広短剣)を土産として差出し、出帆許可をくれました。

(10)マレー半島ケダー王国でケダー王に謁見
スマトラ島パナジュ港をマラッカに赴任するバタ王の義弟アクアレン・ダボライ大使と共にジュルパンゴ船で出帆。マラッカ海峡の対岸マレー半島のケダー王国(Sultanate of Kedah)パルレス川口に到着、風待ちで停泊。そこでは前王の葬儀が厳かに執り行われいて、町は静まりかえっていました。コージャ・アレが交易した町の商人の勧めで、献上品を持ってケダー王に謁見。なお停泊していると王からの迎えの使者が来て宮殿に連行され、着くとコージャ・アレの屍が転がっているのに驚き、聞くと「ケダー王が父王を殺害した」と王の悪口を言ったかどで処刑されたことが解りました。ケダー王に謁見し、命乞いをして許されたので、日暮れ時でしたが逃げるように急ぎ出帆しました。3日後にプロ・サンピラン島で3隻のポルトガル・ナオ船に出会いました。ベンガルからの2隻と、アルメイダ提督の令息でインド西岸シャウル港口の海戦で戦死したドン・ロレンソの守り役(養育係)だったトリスタン・デ・ガ船長のペグからのナオ船でした。ピントの話を聞いたりトリスタン・デ・ガ船長は何くれとなく世話をしてくれて、3隻のポルトガル・ナオ船でマラッカまでの航海の護衛もしてくれました。

(11)マレー半島、マラッカに帰着、出帆、アアル国でアアル王に謁見
マラッカに着くとファリア総督にバタ王国やケダー王国での出来事を詳しく報告。特に命じられていた黄金の島については詳しい場所(南緯5度カランドル川沖)を報告するも、その後の探索はことごとく失敗でした。ピントが帰着したとき、アアル王国からの使者が救援を求めると共に、イスラムの艦隊でマラッカ要塞攻撃を準備している情報をもたらしに来ていました。そこで、ファリア総督はピントに好条件でのアアル国王との謁見を要望しましたので、1539/10/5の朝に弾薬などの救援物資を積み込んだ櫂漕付ランシャラ船(Lanchara)でマラッカを出帆。5日後にプネティカン川口のアアル港に到着、上陸。防御用の竹矢来工事中のアアル王は喜んで謁見、ファリア総督の親書を手交すると、贈り物と救援の武器弾薬に大喜びで、兵器庫などへ案内してくれましたが、トルコ人やマラバル人混成で押し寄せるアシェン軍130隻の艦隊を防ぐには貧弱そのものに見えました。5日後にアシェン軍の攻撃が真近かとの報に接し、王に謁見しファリア総督への親書と僅かばかりの土産物を受け取って、日暮れ近くにプネティカン川口まで漕ぎ下ってポカウシリン村に宿泊。

(12)スマトラ島、アアル港を出帆後、船が難破し遭難
翌朝アアル港を出帆。その夜半に猛烈な嵐に見舞われ、ランシャラ船のマストは圧し折られ、船は竜骨に裂け目が出来て船首から真坂さまに沈没してしまいました。乗船者28人の内、ピントと水夫4人だけが近くの岩に叩き付けられて、重傷を負ったものの命拾いをしましたが、翌日一人が亡くなり、近くの海岸の川(アリスンエー)を渡る時に2人がワニに襲われて亡くなりました。4〜5日後にパルカサ船(平底船)で7人の漁師が通りかかり、半死半生の遭難者なので救助して欲しいと頼ん
難破船

フォークランド 1982/2/15 発行
でも、何の得にもならぬと聞き入れてくれませんので、マラッカ総督の身内のポルトガル人だから奴隷として売ったら高く売れると泣きながら懇願しました。船中で黒人の水夫が虐待で死亡しました。
翌日午後にスマトラ島イアンペ王国シアカ町(藁屋根の大集落)に到着。27日間に何度か競売にかけられても買い手がつかず放置され、物乞いでやっと生き延び36日後に、この辺では珍しい重病のポルトガル人に興味を持った一人のムスリム商人に出会い事情を話すと、漁師達から14百レアルで買い取ってくれました。

(13)マレー半島、マラッカに帰着、出帆
取り立てを免除しましたので、商人は大満足で帰って行きました。総督の命令でマラッカ商館付書記官の所で、1ヵ月療養したピントは病気がすっかり回復し健康を取り戻しました。その頃、アアル国では12千人の兵と5千人の乗組員を乗せた

インドネシア  発行
160隻のアシェン王の大艦隊(アシェン王の妹婿エレディン・マフメデ総司令官率いる多数のランシャラ船、櫂漕小型がレー船と、ジャワのカラルス船数隻、補給船の高弦ジャンク船など)の攻撃を受け、激戦の末に一度は撃退しましたが、再度の総攻撃で内通裏切りもあってアアル国アリポンカル王は戦死、避難していたアンシェズィニ王妃はマラッカに脱出。ファリア総督に救援を乞うも、ポルトガルは動かず、此処に至ってアアル王国は滅亡しました。

王妃はマラッカを去りビンタンに上陸、ジャンタナ国シリビ・イアイア・ケンドー・プラカマテ・デ・ラジャ王に謁見、持参金の「王国の権利」と「身」を呈して救援の約束を取り付け、ジャンタナ王は王妃と結婚し、アシェン国シリ・スルタン・アララディン王に最後通牒を突きつけました。拒否の返書で宣戦布告、大ラケ・シェメナ提督を総司令官とする多数のランシャラ船、ジョアンガ船、カラルス船と高弦ジャンク船15隻で編成した200隻の大艦隊に1万人の兵士と4千人の乗組員を乗船させて、スマトラ島アアル国プネティカン川要塞を攻撃しました。迎え撃ったトルコ人モラド・アライス司令官以下トルコ人傭兵2百人とアシェン兵など15百人以上が戦死。要塞を占領し、直ちに要塞を修復、強化して、アシェン国からの攻撃部隊を待ち構えました。

インドネシア  発行
アシェンからはエレディン・マフメデ総帥が多数の帆船、フォイスト船、ランシャラ船、小型ガレー船と、15隻の25漕座ガレー船など、180隻の艦隊に兵士1万2千人と3千人の乗組員で、プネティカン川口の海戦を戦いました。大海戦の末に総帥は戦死、アシェン艦隊は散りじりになり、ほぼ全滅の大敗北を喫し残るは15隻だけとなり、アシェンへ逃げ帰りました。

こうしてジャンタナ王がアアル国とアアル王妃を手に入れたのも束の間、1564年にアシェン王が率いる200隻の大艦隊の急襲を受けたアアル国滞在中のジャンタナ王は生捕られ、アシェン国で残虐な刑罰でその一族と共に殺害され、シンガポール海峡に面する諸島でインドネシアのリアウ諸島(Riau)の中でもっとも広い島のビンタン島 (Bintan)を中心とするジャンタナ王国は滅亡しました。

(14)マレー半島、パン国で駐在員に会うも、パン王が暗殺され急きょ出帆
シアカで罹った病気がすっかり回復したピントはペロ・デ・ファリア総督の好意で、総督の商品1万クルザドをパン王国へ運び、その先のパタニ王国で王に総督の親書と贈物を手交し、シャム国で王の義兄弟のパンシャ・モンテオ(司法官)の捕虜となっているポルトガル人の釈放交渉に行くため、商品を満載してポルトガル人4人が乗った櫂漕付ランシャラ船でマラッカを出帆。パン港口近くのプロ・ティマン島付近で、モルッカ諸島テルナテ(Ternate)要塞から丁子を満載して140人乗組みの遭難ジャンク船の筏に掴ったポルトガル人14人と奴隷9人の生存者を救助。真夜中にパン港に到着、夜が明けると商品をポルトガル ジャンク船

グレナダ 1998/4/26 発行
駐在員アントニオ・デ・ファリアに渡し、ポルトガル人3人と下男5人が亡くなったので水葬にふしました。残りの生存者は駐在員がマラッカへの便船で出帆させました。パタニへの出発間際の夜間に、突然パン王が暗殺され街が騒然と騒乱状態になって駐在員商館が襲撃を受けましたので、ランシャラ船で一夜を明かし船積前の積荷を放棄して出帆。

(15)マレー半島、パタニ王国でパタニ王に謁見
パタニに6日で到着、そこのポルトガル人にパン王国での顛末と一切の財産を失ったことを話すと、暖かく迎えてくれて、パタニ王との謁見をとりはからってくれました。パタニ王に一部始終を訴えると、ピント達の財産の奪回に理解を示しました。そこでパタニ在住のポルトガル人300人の内80人が加わって、近くのカランタン川の港に嵐を避けて停泊中の3隻の大型ジャンク船を襲撃しようと、フォイスト船2隻とナヴィオ・レドンド(円形船)で出帆。翌日カランタン川で激戦の末にジャンク船3隻を捕獲、翌日6隻はパタニに到着、するとムスリムの訴えを聞いたパタニ王がピント達の財産を弁済するので、ジャンク船を返して欲しいと申し入れてきました。快く承知して3隻を返還すると、パンで失った商品対価5万クルザドは戻り、ポルトガル人の信用も増したところに、マラッカからの友好使節がフォイスト船で到着、新たにパタニ王と友好条約を交しました。

(16)マレー半島、シャム国ルゴル港、海賊コージャ・アセンに襲われ貴婦人に助けられる
シャム国ルゴル港での交易を狙って出帆、5日後に到着すると、大ジャンク船の海賊に襲われて船は奪われ、3人だけが命からがら海に飛び込んで逃げ、海岸の湿地に隠れ1人が死にました。7日後に川口にジャンク船を止め塩を川上の町に運んでいるバルカサ平底船が通りかかり、ジャワ島のクワイジュアン王に夫を殺された高貴な家の夫人に助けられ、その話で私達を襲ったのはポルトガル人を憎んでいるコージャ・アセンというクジャラート人イスラムの海賊で、アイナン(海南島)へ行ったことを知りました。

(17)パタニ国に帰着、アントニオ・デ・ファリアが船隊長となって海賊退治に出帆
ルグルの貴婦人の家で療養、23日後に貴婦人の身内のカラルス船で7日後にパタニ港に到着。
アントニオ・デ・ファリア駐在員に事態を報告。コージャ・アセンを探して6万クルザド分の積荷を取り戻すことになり、アントニオ・デ・ファリアが船隊長となってロルシャ船でピントと54人の兵士と、1540/5/9にアイナン島へとパタニを出帆。シャンパ港外の沖でプロ・コンドル島を視認、上陸、飲料水などを補給、3日後に出帆。シャンパ王国とカンボジャ領とを分けるプロ・カンピン川に5/31に到着、川を遡上して大集落カティンパルに12日間補給で滞在、川の水源のキティルヴァン王国で黄金が産出との情報を得ました。

(18)サレイジャカウ湾ドバゾイ川でジャンク船と戦い勝利、日本丁銀を獲得
サレイジャカウ湾を抜けドバゾイ川で大ジャンク船1隻とジャンク船2隻との戦いとなり勝利。戦利品は日本の丁銀5万4千クルザド分と多数の雑貨6万クルザド分でした。急いでドバゾイ川をそのジャンク船3隻を従えて出帆、ティナコレウ川のタイキレウ村に投錨。3日間滞在後、シャンパ港からコーチシナ沿岸を航行、トンキン湾を横断してアイナン島を視認、ロルシャ船で偵察、パルカサ船の真珠採集を目撃後、ジャンク船と戦いとなり勝利。捕虜のシナイ(パレスティナ)生まれの白人から、アイナン島カモイ湾に中国の役人がジャンク船40隻と櫂漕付ヴァンカン船25隻で5千人の兵士と2千人の乗組員で真珠採集の期間の3月から8月まで来ている情報を得て、アイナン島の豊かさを知りました。
日本の丁銀

日本 2008/10/23 発行

(19)コーチシナ、トンキン湾、海賊を捜索航海
ロルシャ船の水漏れがひどくなり、兵員は大船に乗換え、タナウキル川に到着。大ジャンク船海賊2隻と交戦、勝利、ポルトガル人2人と15人のキリスト教捕虜を救出。人員不足で1隻を焼き捨て、ジャンク船3隻とロルシャ船に戦利品を満載してトンキン湾を航行、ティラウメラ岬に停泊。花嫁行列の櫂漕ランテア船4隻と出会い、花嫁と船を捕獲、迎えの花婿のランテア船5隻と擦れ違うもことなきを得て航海。ムティピナン港口に到着、ランティア船で川を遡上する偵察隊を派遣、交易で賑わっている大集落にナウタレル(中国の税関長)がいるのを見つけて帰還。大ジャンク船の水漏れがひどくなったので、急いで商品を売りさばき船を軽くしてアイナン島マデル港へと出帆し嵐になりました。

(20)中国、アイナン(海南)島東方で嵐に遭遇、泥棒島(グアム島)で難破・遭難
1540/9/8に嵐を避けて多数の避難船がいるマデル港に避難。その中に中国の海賊イニミラウのジャンク船がいて、海戦となりジャンク船とランティア船とで戦い勝利。コージャ・アセンの消息を求めて7ヵ月航海して大嵐に遭遇、泥棒島(ラドロネス島、マゼランがそう呼んだグアム島)で4隻の船隊は暗礁に激突、乗船者586人もろとも沈没。アントニオ・デ・ファリア船隊長とポルトガル人21人と、水夫と奴隷31人が生きて浜辺に打ち上げられました。15日後に奇跡的に食料に有りついて助かり、7日後に中国人のランティア船が水の補給と休息に立ち寄ったのをスキを見て無抵抗で奪い、28人が乗り込み4千クルザド分の積み荷と十分な食料と共にリャンポウー港へと出帆しました。パラオ船漁師の情報でシャモイ村に行き、中国人7人の水夫しか乗っていなかった小ジャンク船を奪い出帆。ルシタイ島で半月間滞在し健康を回復して、ランティア船2隻でニンポー港へと出帆。

(21)東シナ海、中国の寧波(ニンポー)、中国人キアイ・パンジャン船長と出会う
ラマウ沿岸を航海中にレキオ(琉球)からのパタニのジャンク船に出会い、ファルカン(鷹砲)とロケイロ(石の弾丸を打つ射石砲)15門の砲撃を受けるも、こちらがポルトガル人と解るとパラオ船で2人のポルトガル人が接舷乗船。こちらのポルトガル人と知り合いだと解り、中国人キアイ・パンジャン海賊船長の傭兵30人で、リャンポウー港からマラッカへの航海中だと話しました。パンジャン船長がサンパン(三板船)で傭兵20人と乗船してきて、クォアンジャパル銀山への遠征航海話に乗って傭兵は勿論百人の部下と一緒に行くことになり、三分の一の分け前をやる契約書を作成、出帆し、アナイ川で装備を整えました。10万人が400隻のジャンク船大艦隊でリャンポーのポルトガル人を一掃するため航海中との噂を確かめるため、シンシュウ港に投錨。在泊中のスンダ、マラッカ、チモール、シャム、パタニからのナオ船5隻から、その噂はゴトウ(五島列島)のことで、リャンポウー港にはポルトガル人居住地も有り安全だと知らされ、9日後に35人の兵士を加えて出帆ました。

ポルトガル人8人と下男5人のパラオ船に出会い救出。彼らはリャンポウー港からマラッカへの途中で、ジャンク船3隻とランテア船4隻で500人の海賊コージャ・アセンに襲撃され、激戦で海賊船1隻を焼き、繋いでいたマンシュア船で逃げ延びたと話しました。ピントら一同は大いに驚き、あれほど探し回った敵コージャ・アセンが近くに居ることを知り、復讐の念に燃えて出帆。

豊かな中国のライロ港で装備と水夫を整えました。小ジャンク船2隻と交換した大ジャンク船2隻、
新造の橈漕ランテア船2隻を加え水夫と漕手160人に、ポルトガル人95人、戦闘員と雑役夫405人の堂々たる陣容でライロ港を出帆。装備は鉄砲160丁、青銅砲40門、ファルカン砲12門、ロケイロ砲5門、カメロ(駱駝砲)2門、エスペラ(球砲)1門、ペルソ(揺籃砲)、ロカ・デ・ペドラ(火縄式投石器)、弾薬は火薬60キンタル、大砲火薬54キンタル、鉄砲火薬6キンタルと、火薬筒4百本、中国人用粉末無水石灰筒500本、多数の石弾丸、矢、槍、レパント式ポンパ・デ・ホゴ(戦闘花火)、引掛け鉤用鉄穂先付投槍4千挺、パテル(艀舟)6隻分の戦闘用小石、長い小錨付鉄鎖引掛鉤12、アルティシオ・デ・ホゴ 大砲と砲弾

セント・クリストファーネヴィスアンギラ 1970
(火を用いた仕掛)多数。ライロ港をランテア船2隻とロルシャ船を合わせて7隻とキアイ・パンジャン船長のジャンク船との堂々たる艦隊で出帆。

(22)中国、ティンラウ川上流、コージャ・アセンと激戦、勝利
パラオ船の漁師の情報でコージャ・アセンがジャンク船1隻の修理のためジャンク船2隻でティンラウ川の上流にロルシャ船4隻とランテア船で上陸していることを知り、明け方にキアイ・パンジャン船長とクリストヴァン・ポラリョ船長のジャンク船2隻とロルシャ船2隻で襲撃に出撃、大激戦の末にコージャ・アセンと海賊380人を打ち取り、味方は戦死42人負傷者92人の損害軽微で勝利しました。海賊が奪っていた修理済のジャンク船は積み荷と共に戦利品として奪わずに、味方に加わっていた持主のポルトガル人に返してやると大変な喜びようでした。この海賊がスンボルからフシュー(福州)にかけて1年以上略奪した莫大な積荷は戦利品として、ニンポー港で売りさばくことにし、その後はクォアンジャパル銀山へ行くことにして、負傷者の回復を待って24日後にティンラウ川を出帆しました。

(23)中国、ノーダイ、街を攻撃して13人のポルトガル人捕虜を救出
ところが夜になって大嵐となり、メン・タルボダ船長とキアイ・パンジャン船長のジャンク船との3隻とペロ・ダ・シヴァ・デ・ソーザ船長の大ジャンク船とランティア船の4隻だけが助かるという災難になりました。13人のポルトガル人捕虜の消息を得るためノーダイの入江へと向かい、バラン船2隻で偵察を敢行、ノーダイのシファンガ(中国牢獄)にポルトガル人捕虜が居ることが分かり、ノーダイのマンダリン(中国役人)と釈放交渉を始めました。仲介の地元の中国人に親書を持たせて行かせると、その使者の耳を切り取って「直ぐ退去せよ!」と返事してきました。礼をつくした交渉に対する非礼な返事に怒ったアントニオ船隊長は漁師のパルカサ船4隻を加えて、ジャンク船3隻ロルシャ船に300人の攻撃隊で、城壁に囲まれたノーダイのマンダリン攻撃に出発。大激戦の末にマンダリンを打ち取り、多くの徴用兵は逃げ去り勝利。捕虜を解放し街を略奪、美しい娘を攫って街に放火、財宝を満載したジャンク船3隻とロルシャ船3隻は意気揚々と引き揚げました。

(24)東シナ海、中国のニンポーに帰着、出帆
5日後にイスラム海賊プレマタ・グンデルの大ジャンク船2隻200人の兵と交戦。キアイ・パンジャン船長のジャンク船が海賊のジャンク船に突撃、両船ともに沈没。もう1隻と激戦の末に海賊プレマタ・グンデルを打ち取り捕獲、勝利。海賊の積荷の日本丁銀12万クルザドを加えたジャンク船4隻の船隊は、6日後に豊かな街ニンポーに到着。在住のポルトガル人の大歓迎を受けました。キアイ・パンジャン船長が亡くなり、クォアンジャパル銀山付近が戦争中との情報に接し、水先案内人の海賊シミラウの話で金山のあるカレンプルイ島へ行くことなりました。1542/5/14にカレンプルイ島へとニンポーをピントとアントニオ船隊長とポルトガル人53人と神父ディオゴ・ロバト師、パタニ人水夫47人、奴隷42人、水先案内人シミラウの146人が橈漕帆船パノーラ船2隻でニンポーを出帆。

(25)中国、カレンプルイ島で帝王の墓所を暴く
南京湾(杭州湾?)を抜け、珍しい魚を見ながら中国沿岸の東シナ海を航海、パテペナン川に仮泊、珍しい動物を見ながら沿岸航海しガンジタノー山で奇怪な人種と出会い、ナンキン湾(上海?)に到着。川を遡上しタンキレンで水先案内人が逃亡、中国人水夫45人中の32人も逃亡。中国人5人乗りのパルカサ船を捕え水先案内として、ニンポー出帆後83日振りに城壁をめぐらしたカレンプルイ島に到着。鉄砲持参の兵士40人と奴隷20人と通訳として捕えた内の中国人4人とで上陸してみると、カレンプルイ島は360もの聖堂のある荘厳な聖堂に安置されている帝王の墓所で、棺を開けると銀貨と銀製品がビッシリ副葬されていました。聖堂守の老坊主が一人しかいなかったので、略奪してランティア船2隻に積み込み一夜を明かし、再度上陸して金制品が副葬してあると聞いた聖堂へ行こうとすると、お堂の金が打ち鳴らされ大勢がこちらに向かって来たので、船に引き返し慌てて出帆し川を下りました。

(26)中国、ナンキン湾で大嵐に見舞われ難破、辛うじて助かるもタイポル町で逮捕、捕縛
ナンキン湾を航海して大嵐に見舞われ2隻とも難破、沈没。その嵐で、1542/8/6にポルトガル人25人中14人生存、11人と下男18人と中国人水夫7人が溺死。人家を求めて放浪していると生存者中のポルトガル人3人と下男1人が死亡して、11人と下男3人となり、貧しい小村で助けられ飢えをしのぎ、シレイジャカウ町の貧民救済の大きな施療院で助けられ、18日間過ごして全快しました。ナンキンの街へと出発し、村々で物乞いしながら進み、4ヵ月後に着いたタイポル町に着くと、見たことも無い外国人の一団を見るや、泥棒として逮捕、捕縛され、26日間を牢獄で過ごし、1人が虱に食われて死亡、裁判のため1本の鎖に繋がれて他の囚人30〜40人と帝国第2の都市ナンキン(南京)へと船で送られました。次の停泊地でペキン(北京)へ上訴している囚人ドイツ人に出会いました。ナンキンの囚人4千人を収容する大監獄で1ヵ月半過ごして、「生活を矯正」するためとして「両手親指切断」と公開での「尻に笞打ちの刑」を宣告され、笞刑が執行され9人が生き残りました。監獄の病室に収容され慈善院修道士の手厚い看護を受け、11日後に慈善訪問の高貴な王子の上訴で「指切断」の刑をまぬかれました。上訴でペキン市へ送られる他の囚人30〜40人とランティア船に乗船。道中は漕座に鎖で繋がれての船漕ぎで壮麗な大都市を目撃しながら、サンピタイ市でキリスト教徒の貴婦人に出会い丁重な喜捨を受けました。(巻の一完)

▼ペキンへ、極東アジアへの大航海
(27)中国での虜囚、上訴したペキン市で判決を申し渡される
サンピタイ市を囚われのまま漕ぎ手で出帆、パタンピナ川を遡上してトゥシェンギン銀山からの銀を精錬する町レキンパウに到着。その次のミンド市は銅の生産所でした。ナンキン市からペキン市までの航海の間に見たパタンピナ川沿岸には珍しい風物や大きな都市が交易で栄えており、大きな十字架を建てたキリスト教徒の街まであり、川には様々な船が行き交い賑わっていました。
1541/10/9に王宮のある帝国第1の都市大ペキン市に到着。鎖に繋がれて6ヵ月半の間も牢獄にぶち込まれました。私たちの話を聞いてくれた慈善院の修道士が代訴人として何くれとなく取り計らってくれて、「私達が他人の物を強奪するのを見たという信頼に値する証人がいない上、禁じられている武器を携帯していたわけでもなく、ただ単に難破した貧者のように裸体で裸足でいたに過ぎないから血を見る様な刑罰を宣告出来ない」として、高等裁判所の長が「1年間クアンジ市の事業に従事し、その維持のために働くものとする」流罪刑、そして「8か月が経過したら、何処へでも望むところへ行ける旅券を発行する」との判決がくだし、鎖、手枷、足枷、首枷を外して、投獄簿に出獄の署名をしました。 万里長城

中国 1979/6/25 発行
ペキン市で2ヵ月半経た後、1544/1/13にクアンジ市で流罪刑に服するため連れて行かれました。そしてピント達9人は鉾槍兵団に組み入れられ、楽な仕事で報酬も良く、何よりも旨い上等の食事に喜びました。ところが、仲間割れの喧嘩で7人が重症を負い、それをを見咎められて、笞打ちの刑30杖を打たれ、地下牢に鎖・手枷・足枷・首枷で食うや食わずで繋がれいること46日間、裁判所の呼び出しで、笞打ちの刑30杖を打たれ、別の牢獄で2カ月拘置され、恩赦で出されました。3人ずつ繋がれて鍛冶屋に連れていかれて、5ヵ月間(1544/5/13頃?)着るものも寝具も無く放置され、虱にたかられ、餓死寸前になって昏睡病にかかりました。それは伝染病だと捕縛を解いて放り出され、4ヵ月以上(1544/9/末頃?)も物乞いしましたが、大凶作の年だったので、滅多に施しにありつけませんでした。今度は9人全員が一致協力して、たまの食料を分け合って仲良く暮らすことになりました。森で薪になる小枝を集めて販売する方途を見出し、それと物乞いで凌いだり、ガスパル・デ・メイレスが歌舞音曲の才を発揮して宴会や葬列で奏でて金品に有りついたりしました。ピントが薪を集めて帰る番となり、森から帰る途中でヴァスコ・カルヴォという銀の十字架を持ち現地中国人と結婚して家族(妻と子供4人)を持ったポルトガル人に出会いました。

(28)タルタリア(韃靼)人の侵攻
こうして8ヵ月半が経過した1544/7/13の夜半に、タタール人が60万の騎兵を持つ180万人の大軍で、歩兵120万人はラウレ船とジャンガ船1万6千隻でパタンピナ川から下ってペキンに迫り、国王は南京へ逃亡。その内の七万騎がクアンジに迫っていると町中が大騒ぎになりました。夜が明けると攻撃してきて、町衆は皆殺し同然となり、町は焼き払われ、7万人ともいう死体で埋め尽くされ、ピント達は捕虜になりました。クアンジを攻め落とすとニシアンコ砦の攻撃を実施し、3千人以上の犠牲を出して敗退。ピント達はを捕えていた隊長が「お前達は何処から来たのか?お前達の国では戦をするのか?」と尋ねましたので、問われた仲間のジョルジェ・メンデスが「私達の国では戦をしょっちゅうしており、子供の頃から軍事訓練を受けた兵士なんだ。あんな砦など攻め落とすのは簡単だが、我々を自由の身にして、故国に帰れるようにアイナン島への通行証を出してもらわないと言えない!」と答えたので、喜んで総司令官ミタケルの幕舎へ9人
タタール兵

アセンション  発行
全員を連れていき、ミタケルの尋問を受けました。ピント達は攻城戦に失敗した時は4裂きにされると鳥越苦労の心配をしましたが、ジョルジェの答えに納得したミタケルは3日間何も口にしていなかった9人へ御馳走を振る舞い、その食べっぷりの良さを喜び、未だ取れていなかった足枷と首輪を外されました。翌朝その砦の下見にジョルジェを30騎で案内させました。そしてジョルジェの攻城術通りに、堀を埋め、3百脚の3列昇り幅広梯子で城壁に取り付き、大激戦の末に敵の中国兵の損害2千人戦死、タルタリア損害120人で砦を陥落させましたので、ピント達の心配は稀有と消え去り、ジョルジェは隊長扱いで騎馬を与えられ、その他の8人も優遇されて徒歩で従いました。3日後にペキンに近い砦に着き、タタール国王との謁見のため14日間待ちました。国王の幕舎に着くと、モゴル人・ペルシャ人・カラミニャン人・シャムのプラマ人がいて、40才位で細っそりと背が高く、短い顎鬚とトルコ風の口髭を生やし、幾らか中国風の目をした厳しい荘重な顔つきで、ダイヤとルビーを交互に飾った鍔つきの紫色の襦子の冑をかぶった国王に謁見。「この連中が故国からこんな遠方の国を征服しにくるとは、彼らのもとでは物欲が強く正義が無いに違いない」と話しました。

(29)ペキン包囲を解き引揚げ帰国
タタール軍は、冬の初めとなり、川の流れはすざましい勢いとなり、陣地内にも川の氾濫が始まり、全野営地の垣根と矢来の大部分を破壊し去っており、多数の兵士が病死し、その数が毎日増加し、食糧の欠乏も甚だしくなり、日に4〜5千人が死ぬ事態に立ち至り、撤退を決意しました。6ヵ月の包囲の間にペストでの病死者、餓死者、戦死者が45万人、寝返りや投降者30万人と75万人が減って108万人の帰国となって、1544/10/17にペキン撤退を開始しました。17日目に1万人以上の街を攻撃して造作なく占領し、街に火を放って哀れな住民を皆殺し状態にして欠乏していた食料を略奪で補給。次の大きな街では5万人の兵隊が居て、中でも強力な傭兵部隊、モンゴル人・コーチシナ人・シャンパ人1万が居るとの情報で、損害を嫌って素通りしました。さらに進んでいると中国とタタール帝国を分かつ大城壁に到着。国境の「万里の長城」を無抵抗で超えて、2日後にシパトル町で軍隊を解散。7日滞在して褒賞と給料支払いと捕虜裁判を行い、国王は1万人位の軍を漕ぎ船ラウレ船120隻に乗船させてランサメ町へと向かい、6日後の夜半に到着し、ヒッソリと上陸ました。26日間滞在して歩兵と騎兵の到着を待ち、全軍が集結すると王都トゥイミカンへ出発。到着するとそこにはシャムの王をはじめ「白象の王」や、ペルシャに近い領地を持つカラン皇帝の大使で赤毛で背の高い王など6人の王がおり、この大使の王は金銀で飾った馬具をつけた騎馬兵で、飾り立てた口輪をはめ真鍮の留め金で銀の鎖を留めたグレーハウンド犬を連れている虎の皮の大きな服を着たとても背の高い大男12人などをを伴っていました。大使の使命は「豪華なサファイア」と呼ばれる慈悲深い絶世の美女のタタール王の妹君メイカヴィダウ王女との婚儀のために派遣されてきていました。王宮に帰ったタタール王は敗戦の汚名をそそぐべく、再びペキン攻撃を思い立ち近隣諸国と同盟を結び始めましたので、ピント達9人の世話人となっていたミタケルに釈放をせがんで、国王への謁見をとりなしてもらい、豪華絢爛たる王宮で再びタタール王に謁見。するとコーチシナへ大使を派遣する時に同行が予定されていると聞かされ喜びましたが、ジョルジェ・メンデスはタタール王に乞われて残留することになり、涙の別れをしました。国王の喜捨と、ジョルジェからの多額の選別を貰って旅費となし、1544/5/9にコーチシナ王の大使に同伴してコーチシナのウザンゲに向かって大使の船でトゥイミカンを出帆しました。

(30)タタールからコーチシナへ
トゥイミカンから船で数日後に着いた小さな町には塔と堡塁と切り石製の堅固な橋を持つ広い濠と、無数の木製で僅かに装填部だけ鉄でできている大砲で守られていました。大砲は誰が発明したのかと大使に問うと、なんとデンマーク王が国外に追放した王の寡婦が3人の息子と非常に広い塩水湖(カスピ海)を9隻の櫂船で渡って逃げて来た人達をタタール王の曾祖父が救ったモスコのマリアネ族なのだと答えました。そして川を下って旅を続けていると、長い塀を巡ぐらした倉庫のように長くて幅広のパコダ(家)164棟の中に髑髏を天井一杯まで積み上げた大寺院に着き、家の外は骨で埋もれており、屋根より高く積み上げられていました。ここに供え物を施せば福が得られるとタタール大使が教えてくれました。

ピント達8人はクアンジナウ町を出帆、国境の町レンデカレンを通って川を下り、ショロル町でコーチシナ王の銀山が年8000キンタルを生産していると聞きました。コーチシナ王に謁見したコーチシナ王コーチシナ王タタール大使が航海期になると送り出してやるとの回答得たと話しましたので、ピント達は喜びました。

1545/1/12にウザンゲ街をロルシャ船で出帆、豊かそうな町々を通過してシャンパン(中国の上川)港に着くもマラッカ行きの便船が無かったので、ランパカウ(浪白墺)港に行きパタネとルゴルからのマラッカか行きの船がいました。その船には乗船できず、26日を過ごしたとき、海賊サミポシェカ船長のジャンク船2隻がシンシェウのアイタオの艦隊に追われて敗走してきて、補給のために寄港しました。海賊の乗員が戦いで不足していたので、中国の海賊船長のジャンク船に3人、サミポシェカ船長の甥のジャンク船に5人がくみして乗船できました。出帆後5日目に7隻の海賊ジャンク船隊に襲撃され、交戦し1隻は炎上、ピント達の船は破損しながらも逃亡できました。3日後に大嵐に遭遇、23日間流されて琉球諸島のイリヤ・デ・タニシュマ(種子島)の海岸近くで投錨。陸から来た偵察船に中国から交易に来たことを話すと了承して、ミアイジマというう大きな村落のある入江に案内され、無数のパラオ船が食料を持って来たので、それを買いました。

(31)イリヤ・デ・タニシュマ(種子島)に上陸
そうこうする内にイリヤ・デ・タニシュマの王が大勢の家来を連れ交易用の銀を持って来船して、船長に「この異形の者たちは何者か?」とピント達3人のことを中国語通訳の琉球女を通じて問いかけました。船長は「3人はマラッカという土地の者でポルトガルという国からマラッカに来て何年にもなる。3人から聞いたところによると、ポルトガルの王は世界の果てに住んでいる」と答えました。「では、なぜ連れて来たのか?」と聞かれると、「ランパカウで途方に暮れていたので、船乗りの私はいつも通り、施し物をやって助けて船に乗せ、商売のためにきた」と答えました。ジャンク船内を見て回った王はピント達を屋敷に招待して満足して下船しました。
琉球の種子島

昭和38年 1963/9/16 発行
一夜明けると大きなパラオ船に梨、ブドウ、メロンなどの産物の食料を満載してよこしましたので、皆は大喜びし、使者に返礼の中国の豪華な織物数巻と耳飾りを渡し、商売の見本を持って屋敷に行くと伝えてもらいました。翌日、夜が明けると船長はピント達3人と友を連れ、王に謁見、ピント達はそのまま残り、船長達は船に戻りました。翌日、大商人の屋敷で商取引が行われ、中国の珍しい数々の商品は3日間で売り切れとなり、船長は2千5百タエルの元手で銀3万タエル以上を売上、海賊にやられた船長の持ち船26隻分を稼ぎだし、御馳走にありついて12日間を過ごしました。

(32)種子島のナウタキン王に「てっぽう」を献上
ピント達は日々御馳走をふるまわれ、魚釣り、狩猟、パゴダ寺院の見物に明け暮れていましたが、狩猟で「てっぽう」をを使って、射撃の上手なディオゴ・ゼイモトが沼に群れていた鴨を26羽しとめるのを見た住民が王の元へ急報したので、王が来て「てっぽう」の試射を見物しました。王が「てっぽう」をいたく気に入ったのを見てとって、王に「てっぽう」を献上すると喜んで何度も試射をしました。そして、火薬が無いと使えないと解ると、2千タエルを下賜くださり火薬の製法を教えるようにと言われたので、「てっぽう」と「火薬」の製法を教えました。その後、5ヵ月半の後に島を去ることになりましたが、その間に「てっぽう」がなんと6百丁の「てっぽう」が造られていました。後に聞くところによれば、首府の府中だけで3万丁以上の「てっぽう」があり、日本全体では30万丁の「てっぽう」があったということでした。
ポルトガルの火縄銃
その上に交易品として2万5千丁の「てっぽう」を6度にわたり琉球にもたらしたとのことでした。厚遇のお礼として献上した1丁の「てっぽう」が元で、「てっぽう」がこの国中に満ち溢れたのでした。この国民は生来どんなに武事を好むかがわかるというものです。

釣と狩猟に明け暮れるのんびりとした日々を送って23日後、ナウタキン王の叔父で豊後の国王から、「世界の果てから来たという天竺人」を見たいので使者のフィンジェアン殿と共に豊後へ送って欲しいと行って来ました。ピントが指名されてフンセ(Funce)櫂船(Funee)で種子島を出帆、一晩でイアマンゴ(山川)入江に到着、立派な町クアンギシュマ(鹿児島)に行き、穏やかな季節風で翌日に立派な部落タノラ(Tanora 外浦)着、翌日ミナト(Minato 湊)という部落に着き、宿泊後にフィウンガ(日向)に向かい、オスキ(臼杵)の豊後王の要塞に着き上陸しました。フィンジェアン殿と2日滞在、陸路で町に行き、フィンジェアン邸で昼食の御馳走をふるまわれて、晴れ着に着替えて国王への拝謁準備を整えました。

(33)豊後王に拝謁
フシエオ(府中)の町でフィンジェアン殿の一行と宮殿に着くと、美しい庭園で9才位の国王の息子が痛風で病臥していた王に代わって出迎えに出ていました。国王に拝謁すると、「世界の果てから来て見聞を広めていると聞くので、余の病に効く薬を教えなさい」と教えを乞うて来たので、自分が乗船してきたジャンク船に中国の木が有、その汁が良い薬になることを話したところ、直ぐに種子島に取りにやらせ、その薬を飲んで30日すると、2年間も身動きすらままにならずに苦しんだ病がすっかり治りました。(どんな薬だったんだろう? 俺の痛風も直して欲しいもんだ!)

府中に滞在すること20日間を、王とその周りの人々からの質問攻めに遭いながらも、祝祭・祈祷所・軍事訓練・艦船・釣り・狩猟を見物したり、彼らが見たことも無い「てっぽう」の実演をしたり、母国のと同じような鷹狩りを見物して気ままに過ごしていました。豊後王の次男で16才位のアリシャン殿が「てっぽう」の打ち方を教えて欲しいと再三に渡って言ってきましたが、難しいからと取合わずにいると、王に訴えたので、王が2発ほど打たしてやってくれと言ってきました。王のご命令なら何発でも打って下さいと返事して、王宮の行事が終わるのを与えられた立派な家で待っていました。すると(1543/8/4?)にうたた寝をしている間に、その少年がやって来て勝手に「てっぽう」に見よう見まねで装填して家来に火縄に火をつけさせたものだから、大暴発して少年は伸びてしまい死んだように動かなくなりました。家来は驚愕して外に飛び出し、「外人の「てっぽう」が王子を殺した」と道々走りながら大声で叫んで、王のもとへ急報しましたので、大勢が家に入って来て恐ろしい剣幕で抜き身の刀を突き付け、ピントを縛りあげました。王と王妃の一行がやって来て悲嘆にくれていると、王子が息を吹き返して、ファカタ(博多)の坊主を呼んでいては1ヵ月はかかる、その間は自分の手当てをしないのかと、憤慨して家来を追い出し、ピントに手当てを頼みました。ピントは取れかけてぶら下がっていた親指を7針縫い、額の傷は5針縫って治療すると、20日後に親指に軽い麻痺が残っただけで完治しました。王は喜んで6百タエルをくれましたので、前の分と合わせて千5百クルサド以上の金を手に入れました。種子島から順九千が出帆するとの知らせが来たので、王に暇乞いをするとアッサリと許され、フンセ櫂船を仕立てくれ、府中を出帆し7日後に種子島に到着しました。残っていた仲間の2人は大喜びし、15日後にジャンク船でリャンポー港へと出帆しました。

(34)リャンポー港から再び日本へ大航海
リャンポー港に着くと在住のポルトガル人に大歓迎を受け、日本での話とそこには大量の銀が有ることを話しました。すると日本へ行こうと交易品の絹を街中で買い集め、8日で4倍に値上がりするほどでした。交易品の準備は整いましたが、十分な船乗りがいないままジャンク船9隻でリャンポー港を出帆。水先案内人が乗っていない船団は真夜中に大雨と嵐に遭遇すると、たちまちの内に7隻が暗礁に乗り上げて沈没、裕福なポルトガル人140人と460人の乗船者は積荷もろとも海の藻屑となりました。助かった2隻は航海を続けましたが、総勢92人が乗船していたピント達のジャンク船は琉球島の近くで大風に見舞われマストを切り倒した時に下敷きになった14人が犠牲となりました。
次の大波で暗礁に乗り上げ船体が2つに割れると船体がばらばらになり、62人が溺れ死に、24人と6人の女が辛うじて助かり、幽かに浮いている木片にすがって浅瀬に流れつきました。そこは「火の島」とタイダカン山が見えたことから、レキオ・グランデ島(大琉球島)の何処かだと解りました。浅瀬を涙ながらに胸まで海水につかって5日間歩いたり泳いだりして進み、ついに陸地に着きました。森に入って草を食べながら3日間を過ごし、家畜の番をしている少年に見つかって、村に知らせに逃げて行き、14騎の人を先頭に200人程の村人が走ってきました。船長をはじめ24人の生き残りが裸の丸腰で亡くなった2人の女の遺体の前で泣いていると、騎馬の6人 琉球列島

琉球政府 1950 発行
が憐れみをかけてくれたのか村人が危害を加えることを防ぎ、役人に引き渡しました。3人ずつを縛りあげられて、「レキオ王は慈悲深い王だから命は取らない」と言い、生き残って衰弱と恐怖でボーとなっている3人の女を抱えてシパトルへ連行し、パゴダ(寺)に収容しました。夜が明けるとその部落の立派な夫人たちが慈善事業として食用の沢山の米と煮魚と果物を持ってきてくれました。そしてピント達の裸の様子を見て、村で施しをしてくれるようにと呼びかけて回り、多額の喜捨を持ってきてくれましたので必要な物を豊富に揃えることが出来ました。そして王国の総督ブロケンがいるボンゴル町へ数日かかって連行されました。そこでブロケンのピナシラウ総督の尋問を受けました。報告を聞いた王は使者を密かに使わしてさらにこまごまと質問し、その知らせで中国人に聞いていたことは間違いで信頼できる者と理解し、喜捨を施してくれ釈放に向かうことにました。ところが運悪くポルトガルの宿敵で、王と戦利品を山分けしいる中国の海賊が4隻のジャンク船で入港してきて、王に有ること無いことを告げ口して釈放を思い留まらせ、極悪非道の悪人として四裂の刑で屍を晒しものにすると判決させました。王の判決文を持った使者がポンゴル町に着くと、判決を密かに打ち明けられた貴婦人が、その家に居たポルトガルの寡婦に耳打ちして教えました。ポルトガル寡婦の嘆きは尋常では無く失神するほどで、それを知った町中の女達が同情して王の母君の王妃に町中の女達の署名付きの助命嘆願書を乙女に託して出発させました。乙女は王妃の召使頭をしている叔母を頼り、王妃に面談を許され、王母の王妃のとりなしで極刑取消の証明書を貰い受けましたので、刑執行まであと2日しか残っていなかったので、急ぎ取って返し、ポンゴル町に着くと直ぐにピナシラウ総督に手交し、ピント達は釈放され45日間も町の女達の喜捨に恵まれ、季節風に乗って入港してきた中国のリャンポー港行きのジャンク船に王命で乗船させてもらい出帆できました。

(35)リャンポーからマラッカへ
リャンポー港に無事に入港、同地在住のポルトガル人の大歓迎を受け、ポルトガル・ナオ船でマラッカへ出帆しました。船は無事にマラッカに入港し、そこで未だ総督をしていたペロ・デ・ファリアに再会しました。ファリア総督はピントにマルタヴァンへの利益の上がる航海を任せると言って、ムスリンのマムダ船長のジャンク船に乗船させてくれて、3つの使命を託しました。
@ジャワ戦で欠乏していた食料の補給のためにマルタヴァン王と講和すること、
Aアシェン王のマラッカ攻撃に備えて、タナウサリン海岸に居るランサロテ・ゲレイロ船長の
  フォイスト船4隻とその百人のポルトガル兵の救援を取り付けること、
Bまたベンガルからの船舶に危急を知らせて攻撃に備えさせることでした。

1544/1/9にマラッカを出帆、スマトラ島からの急流と浅瀬を乗り切り、プロ・サンピラン諸島に到達。マンシュア船を降ろして、マレーの水路と海岸線とを偵察。23日目にピサンドゥレ小島で補給のため一日を過ごし、森で狩りをしていて埋葬されていたアシェン人を見つけ、タイ王との戦争でタナウサリンから敗退してきたものと推察し、船長が副葬品多数、金の腕輪と豪華なクリス短剣を剥ぎ取って1千クルサドを儲けて、櫂船パラン船をマラッカへ報告に行かせました。プロ・イニョルという小島の王を助けて、櫂船3隻にファルカン大砲1門とペルソ大砲3門に60人のジャンク船のジャワ人とルソン人とで無法者どもと交戦、全滅させ村を救助して、ポルトガルの装備の良いフォイスト船4隻の船隊が、トルコとアシェンの船隊のフォイスト船5隻、小型ガレー船4隻、29漕座ガレー船1隻にクジャラートの傭兵船大ナウ船5隻(計15隻)に大勝利したことを聞いたり、アラカンの浅瀬で難破してボートで漂流中のポルトガル人5人のうち3人を救助したり、ベンガルからマラッカに行く5隻のポルトガル・ナオ船に総督からの知らせ、「アシェンの攻撃」が迫っているので船団を組んで航行するようにと伝えると、お礼に補給品をふんだんにくれたりしました。

1545/3/27に、タナサウサリン、トヴァイ、メルギン、ジュンカイ、プロ・カムデ、ヴァガルを通って百人のポルトガル人を探しながらマルタヴァン港口に到着、大型砲の砲声が聞こえたので、パテル(?舟)で偵察して、プラマ王のもとでマルタヴァンを包囲攻撃中のポルトガル艦隊を発見。先方のパテルと会見し、プラマ王の百隻のガレー船と6百隻の櫂船の艦隊がベンガル方面に出没していることを聞き、マラッカ総督ペロ・デ・ファリアと親しいというポルトガル人司令官ジョアン・カイエイロの所へ会見に行きました。彼らは7百人のポルトガル人で、カイエイロ司令官は探していたポルトガル人司令官4人にマラッカ救援を話してくれましたが、彼らの話によると、「アシェンのピジャイアゾラ海軍大将の艦隊130隻は、当地で70隻のランシャラ船と5千人の兵を失って敗退して、向う10年は立ち直れないだろう」ということだったので、タナサウリン、ひいてはマラッカ救援は必要ないことと分りました。

(36)マルタヴァン王国の滅亡
マルタヴァンのシャウパイニャ王がカイエイロ司令官のもとに救援を要請してきましたが、拒否されたため失望落胆して、町に火を放って逃れようとするとシャウパイニャ王の隊長の一人が4千人の兵と共にプラマ王の陣営に投降するにいたり、早朝に城壁に白幡を掲げて無条件降伏と講和を求めました。プラマ王は無条件降伏と助命嘆願を受入れ、降伏の式典を執り行うためにシェミンブルン総司令官に命じて、国王の野営地トポに86の豪華な幕舎を張り、その周りを2580頭の飾り立てた戦象で守らせ、豪華絢爛の馬具と覆いで飾った騎馬に胴鎧、鎧、鎖袴、槍、テルサド(幅広短剣)、金色盾で武装したプラマ人騎兵で4重に囲み、その外側にプラマ人歩兵2万人を4列に並ばせました。シャウパイニャ王が投降してくる城壁の前にはポルトガル人、ギリシャ人、ヴェネティア人、トルコ人、ユダヤ人、アルメニア人、タルタリア人、モゴル人、アビシニア人、ライズブト人、ノビン人、コラソネ人、ペルシャ人、トゥパラ人、ジザル人、アラビア・フェリスノタノコ人、マラバル人、ジャワ人、アシェン人、モン人、シャム人、ボルネオ島のルソン人、シャコマ人、アラカン人、プレディン人、パプア人、セレブレ人、ミンダナオ人、ペグ人、プラマ人、シャラン人、ジャケザラン人、サヴァディ人、タング人、カラミャン人、シャレウ人、アンダマン人、ベンガル人、クジャラート人、アンドラギレ人、メナンカポ人、その他名も知らぬ42ヵ国36000人の外国人が2列に立ち並んでいました。その中をシャウパイニャ王と一族が通って、プラマ王のもとに降伏しました。

城壁と24の門で守られていたマルタヴァンの町は略奪され、16万人の町衆が飢えと刃にかかって殺害され、ほぼ同数が捕虜になりました。焼失したのは家屋14万戸と寺院16百棟と六万体の金箔偶像で、包囲中に食用にされた戦象は3千頭。町に残っていたのた鉄と青銅製の大砲6千門、胡椒10万キンタル、それとほぼ同量の薬物、白檀、安息香、漆、茗荷、蘇合香、沈香、樟脳、絹、その他の豪華な品々、そして全インド各地、カンパイア海峡、アシェン海峡、メリンデ海峡、セイロン海峡、メッカ海峡、琉球、中国、などから百隻以上の船で運ばれた無数の衣類。金、銀、宝石は隠していたりしていたので判別できず、がアシェン陣営の野営地の兵士達に略奪されました。プラマ王自身も金コント以上を懐に入れましたことは確かでした。町が略奪され、破壊され、焼かれ、滅ぼされた翌日の朝、丘の上に21の絞首台が立てられたので、ピント達6人と野営地の全兵士の間で大きなざわめきが起こり、プラム王の騎馬護衛兵が街路を走って、「大声を出す者は死刑だ!」と怒鳴って回りましたので、シャウパイニャ王妃と一族、王が手元に置いていた隊長達の妻や娘140人が処刑されるとわりました。この処刑の執行と護衛に歩兵1万人、騎兵2千人、象2百頭があたっていました。プラマオ王の陣営に居た70万人の兵と民衆が見守る中で女達は丘の上で逆さ吊りでむごたらしく処刑され、その夜にはシャウパイニャ王と五,六十人の臣下の男がクビに石を付けらて海中に投じられ、こうしてマルタヴァンの町を中心して栄華を誇っていたシャウパイニャ王国は滅亡しました。

(37)マルタヴァンからペグへ、2年半の虜囚
ペロ・デ・ファリア総督のシャウパイニャ王宛の親書をかつてシャウパイニャ王のもとでは働いていてプラマ王に寝返ったゴンサロ・ファルカンという新マルタヴァン司令官へ同国人のよしみで見せて豪華な献上品を船に積んでいることを話しました。するとファルカン新司令官はプラマ王のご機嫌取りで、有ること無いことを告げ口しましたので、マラッカから乗船してきたジャンク船は拿捕され、乗組員164人は船長もろとも逮捕投獄され、1ヵ月の内に鞭打ち刑と飢えと渇きと昏睡病で119人が死亡しました。生き残った45人は櫂も帆もとられて無いサンパン(三板)船で川へ流されましたが、なんとか2人だけが生き延びて2カ月以上かかってマラッカに帰りつき、ファリア総督にピントは死刑を宣告され、ジョアン・カイエイロ司令官と7百人のポルトガル人がプラマ王と共にペグに向かったことなどの一部始終の顛末をを話しました。

ジャンク船長が捕されると、ピントは不衛生でひどい牢に枷を付けて36日間ぶちこまれ、身勝手な訴訟書を作成して、法廷で公に尋問し、無実を主張するピントの返答に憤って、公開で鞭打ち、熱い漆を垂らしつけられ死んだようになりました。20日以上放置されましたが奇跡的に助かり、ペグに移されプラマ人のディオゾライ国王出納官の手に渡され、2年半の虜囚となりました。プラマ王はマルタヴァンからペグ(パゴーともいう)へ70万の兵を率いて帰り、その間に8万6千の兵を失いましたが、タング王国を攻めるため新たに90万の兵でパゴーの町をセロ船、ラウレ船、カトゥール船、フォイスト船など21千隻を含む1万2千隻の櫂船で、1545/3/9にプロンの町へと出撃しました。4/13にプロンの町の見える所に停泊。偵察でフロンの町の女王の父王の援軍のモン人、タレ人、シャレン人など60万が進軍してくると解り、速やかに攻撃。1万9千人で猛烈に防衛したプロン町攻撃で甚大な損害を乞お無理ましたが、プロン町防衛隊長の一人が裏切って町の門を開け放ったので、プラマ軍が侵入して町の人たちは皆殺しとなり、女王は捕えられ、後にむごたらしく処刑されました。その後、プラマ王はアヴァ王子と3万の兵がたてこもるメレイタイ町を襲撃、勝利。1545/10/13にアヴァの町に着き、シアモンのアヴァ王救援を阻止するためにカラミニャン帝国へ大使派遣を決めてディオゾライ出納官を特命全権大使に指名し、ピントと8人のポルトガル人を与えました。

(38)プアマの大使と共にペグからティンプランへ
1545/10月にラウレ船1隻とセロ船12隻でアヴァを出帆。ティナゴのパゴダで大規模な祭礼を見物したり、パゴダの上で苦行者を見たりして、カラミニャン帝国の入口の港町シンジラバウに上陸して司令官の許可を取り、千人の乗る櫂漕ラウレ船と共に川一杯に真鍮の鎖を渡して通れなくしてあるタヴァングラに到着、軽やかなセロ船で来た男に親書を見せて上陸し、3人の貴人の尋問を受けて60万クルサドの象の宝石を進物として持ってきているのを見せて許され、9日間の滞在中に御馳走をふるまわれティンプランへ向かいました。途中で驚いたことにヨガの行者と23年間連れ添って寡婦となってパゴダに居たポルトガル人の女と出会いティンプラン町からペグへ行きそこからコロマンデル地方行きの船でサン・トメへ帰れるように取り計らう約束をしましたが、それっきりになりました。タヴァングランに戻りクアンパノグレン町からの迎えと共にセロ船80隻とラウレ船を従えてカンパララジャへ行き上陸しました。

豪壮華麗なカラミャンの宮殿で帝王に謁見し32日間に渡り豪華な供応でもてなされて滞在。ピント達家来は魚釣り、狩猟、その他の娯楽、素晴らしい建物や壮麗なパゴダ、立派な建造物のある寺院を見物したりして毎日を楽しく過ごし、1ヵ月後に再度の謁見で同盟の返書を受領しました。1546/11/3にピドルの部落で大層立派な送別の宴会が行われ、ペグのプラマ王の元へと12隻で出帆。大ピトゥイ川を下って7日後にパヴェルの町に停泊、3日間滞在。翌日に出帆し、ペグ王国とシャム王国へ安息香を出荷しているルンソル村に到着。さらに大河を9日間下ってヴェントラウ川に着きジャングマ王国のペナウシン部落を経てパンカノル王のラウディテンで上陸宿泊、5日後にマルタヴァンに漆を輸出しているマガダレウ町に到着。マドゥオル海峡を5日間航行、ペグ王国のモーシェル村で装備の良い30隻のセロ船と精兵のシャラゴニン海賊に襲撃され、率いていた船の内5隻とポルトガル人2人と兵士180人を失い、大使は片腕を切られ、カラミャンの進物10万クルサド以上を奪われ、3日後にマルタヴァンに到着し、ペグのプラマ王の元に急報しました。プラマ王は直ちに120隻のセロ船艦隊に百人のポルトガル人と精兵を派遣してきて、海賊の隠れ家の要塞を攻撃し、120人を生け取りにしてプラマ王の元へ送りました。王は海賊を像に踏みつぶさせました。この攻撃で隠れ家に満ち溢れていた海賊の宝物でポルトガル人は一人当たり2千から3万クルサド以上の大儲けをしたということでした。大使がペグのプラマ王の元に帰りつくと王は同盟締結に大喜びしました。

プラマ王はカラミャン帝国と同盟がなったことで、時期の悪いシアモンのアヴァ王国攻撃に変えてサヴァディ王国を攻撃することにして、外人の傭兵部隊3万人を含む15万人と象5千頭の軍で、シャウミグレン総司令官が3/5に13百隻の櫂船で出帆。14日にサヴァディの見える所に到着上陸。6日間滞在し陸路の象部隊の到着を待って、城壁を3度に亘って攻撃するも守りは固く失敗、逆に城壁から出撃してきた守備軍に野営地を折檻されて大損害をこうむりました。総司令官はピント達9人を連れていたディオサライ出納官をコロネル(大佐)として5千人の司令官にして出撃させましたが、大惨敗でほとんどが討死してしまいました。

ピント達は辛うじて戦場から逃げ延び、老いた寺守の山寺の和尚さんに助けられ2日を過ごし、山を下り川沿いに人に見つからぬようにビクビクしながらの哀れな17日の流浪の旅を続けました。夜に動く火を見つけ隠れていると夜が明けてそれは9人乗りの船であることが解り、船は岸に停泊して火を焚いて食事をし、全員が休息で眠り込んでしまいましたので、こっそりと船を盗んでピント達8人が乗り込んで川を下りました。ビクビクしながら警戒をしていましたが、不運にも13隻の海賊パラオ船に見つかり攻撃されて、仲間3人が殺され、海に飛び込んで逃れましたが、2人が死亡し、陸に上がって進んでいると、木綿を積んでコスミン町に行く船が通りかかりました。船に乗っていたヴィオランテというキリスト教徒の貴婦人に助けられ、5日でペグ王国海港コスミン町に到着。ベンガル行きのルイス・デ・モンタロイロ船長のナウ船に乗船。ベンガル王国の ゴアの地図
シャティガン港に着き、フォイスト船でゴアに行き着きました。

ゴアでペロ・デ・ファリアに出会い、一部始終の顛末を話すと自分がシャウパイニャへ派遣したことでもあり、大いに同情して幾らかの物をくれました。そこで、ひと儲けの為に再度の中国と日本行きを決意しました。(巻の二完)

▼東南アジアから、極東アジアへの大航海
(39)ゴアからスンダへジャワへ
ピントはスンダへ行くペロ・デ・ファリアの商船に乗船してゴアを出帆して、前マラッカ総督が亡くなった日にマラッカに到着し、そこからスンダへと出帆、17日でポルトガルが交易所にしているパンダ港に着きましたが、ここには中国へ積み出す胡椒が非常に不足していたので翌年の収穫を待つことになりました。平穏に過ごしていると全ジャワ、アンジェニア、パレ、マドゥラ、パンダ群島などの島々の皇帝のデマ王からの使者である年配の貴婦人がやって来て、バサルヴァン王国への出撃のためジャパラ町へ馳せ参じよとスンダ王タガリルに命じました。カラルス船で出迎えたタガリル王は貴婦人を宮殿でもてなし、食料、弾薬を十分備えたカラルス船30隻とジュルパンゴ船10隻に7千人の戦闘員を乗せ、ピント達ポルトガル人40人も何かと便宜を図ってくれた王の要請を受けて乗船しました。1546/1/5にパンダ港を出帆しました。1/19にジャパラの町に着くと、そこではデマ王が80万人の軍隊を連れて出陣の準備中で、160隻のカラルス橈船とボルネオのルソン人のランシャラ船90隻を率いた艦隊大将パナルカ王が出迎えました。到着14日後にデマ王は高舷側ジャンク船1千隻と櫂船千七百隻を率いてパサルヴァン王国へと出発、2/11にイカンドォレ川の港口に到着、川を遡上できない大船ジャンク船の乗船者を上陸させ、櫂船で港内の船舶を焼き討ちしました。上陸部隊はバサルヴァン王国の町の城壁の前面に陣地の構築、特に砲兵陣地多数を設置し、2日後には町を高い垣で囲んだ頑丈な桁の城壁ですっかり包囲。城壁の上には無数の大砲が据えられ、その青銅砲の中にトルコとアシェンで鋳造の金属砲のアギア(鷲砲)とレアン(獅子砲)が数門ありました。その夜に町から12千人の精鋭がアモーコ(鬼人)と成って打って出て来て、不意を突かれた野営地では戦死3万人と多数の負傷者を出す始末になりました。これを見たデマ王は大いに憤って、味方の損害を3ヵ所の槍傷で重傷を負ったスンダ王のせいにして、包囲攻撃をやり遂げると各司令官に檄を飛ばしました。3ヵ月も攻撃しても落城しないので、軍のマリョルカ人技師長はさらに攻城柵をかさ上げ補強し、その上から町を見下ろして大型砲40門と多数のファルカン(鷹砲)とペルソ(揺籃砲)でもう砲撃を加え、パサルヴァン王が率いる精鋭1万人が突撃しましたが、町の防御は固く4千人の損害を出して2万人の援軍も役立たず退却の余儀なきに至り、その夜は両軍ともに激戦で負傷した兵士の手当てや戦死者の遺体を川に投ずる仕事で一夜を明かしました。明け方近くに町に兵糧を運ぶ近隣住民を待ち伏せて捕えた6人中を拷問にかけていると中の一人が自分はポルトガル人だと言うので、ピント達が呼ばれその身をスンダ王に平伏してこい願って下げ渡してもらい、ポルトガル人の手当てをしている所へ連れ帰リました。その男は自分の名はヌーノ・ロドリゲス・タボルタで、1513年にサン・ジョアン号でポルトガルからインドへ来て、アフォンゾ・デ・アルブケルケ将軍の命によりベルガンティン船サン・ジェルジェ号の船長になり、ゴアとマラッカの占領やその他の作戦に参加し、ビンタン島を出帆後に大嵐に遭遇してジャワ島で難破、23年間になったと話しましたので、スンダへ一緒に行くことを約しました。

(40)ジャワからスンダへ帰還
デマ王が諸王を集めての作戦会議中に側近の小姓の奴隷少年に暗殺されてしまったので、全軍がデマ王国へ撤退となり、それを知った敵が襲って来たので大激戦となり、スンダ王に率いられた軍が、陸に引き上げられて負傷者を収容していた4百隻の船を焼き払い1万2千人を戦場に倒しました。スンダ王は4百人を失っただけで、3/9中に全軍を乗船させデマへと出帆しました。遺体はポルトガル人の提案で樟脳と石灰を詰めた棺を、土を一杯入れた大ジャンク船に安置してデマに運ばれました。デマに着くと全住民が泣き叫んでパンゲイラン王の棺が涙の内に迎えられました。翌日に戦死者数の調べが行われ、デマ人13万人とパサルヴァン人2万5千人の戦没が数えられました。

デマ王パンゲイランは後継者を設けていなかったので、全住民を代表して王国の領主で町の有力者16人の中からパンゲイランを互選で選ぶことになりましたが、7日たっても選挙人の意見が千路に分かれてなかなか決まらず、それに業を煮やした一bの町の衆と艦隊の兵士が構内に居た商人を襲いはじめ、4日で百隻のジャンク船を奪い5千人を殺害するという事態に立ち至りました。それを知ったパルナカ王でパランブアンの王子の海軍大将が駆けつけ、盗品を手にしていた80人を見せしめのために海岸で絞首刑で処刑しました。すると町の総督のシェルボンのパテ、キアイ・アンセダがパルナカ王の宿舎を7千人で襲撃、パルナカ王が敬意に満ちた陳弁にもかかわらず攻撃してきたので、戦闘となり王の部下40人を殺害した頃には両者の縁戚や関係者が集まり大騒動になりましたが、夜の帳が下りたので引き上げていきました。それを知った海軍大将パルナカ王の艦隊の兵士60万人が、王の恥辱をはらさんとて全軍が上陸しキアイ・アンセダの屋敷を襲撃、さらに町を攻撃して略奪の限りを働き、3日間で10万棟の家を焼き払い30万人が殺害され、同数の捕虜が方々で売りとばされました。このようにして若きデマ王のしでかした遠征は、その軍隊に多くの損害を出しただけでは無く、町を破滅へと追いやる結果となりました。

(41)スンダから中国へ出帆して難破
その後の2日間で大暴動の首謀者達は2千隻の船と共に港から姿を消し、残るは商人のジュルパンゴ船だけとなり道は灰燼に消え去っていましたので、生き残りの人々はジャバラの町へ移り住み、スロバイアの王子パテ・シダイがパンゲイラン(皇帝)に選出され、9日後にカラルス船とジュルパンゴ船15百隻に乗船した20万人以上を集めて、全ジャワ・パレ・マドゥラのパンゲイランとして全住民に歓迎されて戴冠式を挙行し、デマの町の再建にとりかかりました。デマでは略奪に加わった町衆の内の逃げ損なった5千人を捕えて、串刺しの刑と船体焼殺しの刑を4日間続けました。それを見たピント達はスンダ王に自分達のジャンク船が停泊しているパンダ港への帰還を乞うと快く許し、商品の関税を免除した上に一人当たり百クルサド、そして戦死した14人には遺族への弔慰金3クルサドを下賜しましたので、喜んで受け取りパンダ港へ帰還しました。パルサヴァンで出会ったジョアン・ロドリゲスも一緒に帰還し中国へ伴い、彼はそこからマラッカに渡り、聖カトリックの許しを得て、贖罪として不治病人の病院で1年間働供養命ぜられ、贖罪を果たした時に善きキリスト者として天国に召されました。

12日間滞在して準備の整った我がジャンク船と4隻のジャンク船は5隻の船団でスンダ港を出帆、ポルトガルの交易地の中国シンシュウ(新州)に到着、3ヵ月半滞在するも、暴動の多発と日本人海賊(倭寇)の出没の警護の大艦隊がいたので、交易は不出来で、しかたなくシャバケ港へ移動すると、港口に停泊中の120隻のジャンク船の抗争に巻き込まれ、3隻を奪われ、82人のポルトガル人と4百人のキリスト教徒が殺害されました。奇跡的に助かったピント達の2隻は、季節風で海岸に近寄れず、やむなくジャワに向かい、26日後に大風でカンボジャ王国の西北東南のプロ・コンドル島に吹き寄せられ難破。帆を張らずに風任せにすすんでいると、大波に翻弄されてリグア島の岩礁にで座礁して船がばらばらになってしまいました。ポルトガル人全員が茫然自失している間にと、勤勉な中国人船乗りが船体の破片を集めて筏を造りましたが、小さいので全員は乗れませんでした。そこで筏に乗っていた中国人40人とポルトガル人28人が戦いとなり、ポルトガル人が中国人を皆殺しにして筏を奪いましたが、重傷者12人が生き残り、奪った筏に全生存者38人が乗り込んで、1547/1/6に岩場を離れ波まかせに進むことになりました。航海すること4日間は何も食べる物が無くポルトガル人4人が飢えと傷の悪化で死にました。5日目には死んだカフル人を食べて命をつなぎましたが、さらに死人が出て生存者はポルトガル人7人と下男4人にになってしまいました。

そうこうする内に浜辺に打ち上げられましたので、岩間に有ったマリスコ貝を食べて空腹をいやして様子を見ると、無人で像と虎が多数生息しているのが解りました。用心しながら森の奥を進んでいると小川に行き当り、そこに木と薪を満載してジャワとパプアの黒人が乗っているパルカサ平底船が通りかかりました。好意的な様子だったので、難破したいきさつを話しマラッカで自分達を奴隷に売ると
儲かることなどを話しましたが、信じようとせず船に乗せてくれませんでしたので、川岸から泳いで行ったポルトガル人2人ともう1人がワニに食われて水底へ沈んでしまいました。それを見て呆然となり川岸の泥に足を獲られていた残り8人は、彼らに捕えられ縛りあげられて船に放り込まれました。そして、出帆後、シェルボン村でポルトガル人6人と中国人とカフル人下男の8人を3千9百レグアで島の異教徒のセレブレ人商人に売り渡しました。26日間は商人のもとで衣服と十分な食物を与えられて厚遇され、1万8千レアルでカラバ王に売られました。その王は私たちを丁重に遇してくれてスンダ港まで無料で送り届けてくれました。スンダ港にいたポルトガル・ナオ船3隻の総司令官ジェロニモス・ゴメス・サルメントは私達を
手厚くもてなしてくれました。

(42、181)スンダからシャムへ
1ヵ月後に中国への航海期が到来してナオ船は中国シンシェウへと出帆。残ったピント達3人はパタネからのジャンク船に交易品を積んでシャムへとスンダ港を出帆し、26日後にシャムのソレナウ帝国首府オディアに到着、そこのポルトガル人の歓迎を受け、ピントは借用した百クルサドを投資して日本向けの商品を準備し、日本に行くポルトガル商人7〜8人と航海期が到来するまで1ヵ月滞在していると、故郷の町キティルヴァンがシアマイ王の襲撃にあっているとの急報がきて、オディア在住の全男子が徴兵されることになり、ポルトガル人10人を残して120人が従軍することになりました。3千隻のセロ船、ラウレ船、ジャンガ船に外国人7万人を含む40万人が乗船。包囲攻撃を受けているキティルヴァンへと出帆、9日目に国境の町スロピゼンに到着、7日間は陸路の4千頭の象部隊を待ち、点呼をとるとシャム王の軍は兵50万、象4千頭、砲車2百台となっていました。敵は2千隻の船で4万騎を持つ30万人が川岸に溢れていて、救援軍の進発を知ると騎兵を先頭に突撃をかけてきました。シャム王軍は緒戦で敗退するも、敵が持たない象部隊を先頭に反撃、シアマイ王軍を川畔へ追い詰め追い落として勝利しました。

大勝利したシアマイ王は国境の町(キティルヴァン?)の防備を固め直し、兵力を調べると強制徴発の5万人が消えていて、敵兵は13万人が戦死していました。ギベン王国へ出撃、そこを通過し、フンバコルの部落を破壊しつくし住民を皆殺しにして、ギベン王国首府のギトル町を包囲すると、女王があえて抵抗せずに年6万クルザドの貢物を差出し5年分を先払いして朝貢国となり、一人息子の幼王を人質に差し出しましたので、包囲を解きシャムへ連れて行きました。そしてタイシラン町へ向かい、あらゆる部落を略奪して全ての男子を殺害しながら6日行軍、シングアパルモ湖に到着。26日滞在して12部落を征服。、冬の到来で戦病者が出始めたので、キティルヴァン町へ撤退、23日滞在して、町の周りに城壁を深い堀を造営。その後にシャムへと3千隻の船で出帆。9日後にオディア町に到着。シャム王の凱旋を町中総出で出迎えました。

ところが留守中の王妃が側近と情を通じて身籠っていて、それを王に知られることを恐れ、飲み物に毒を仕込んで飲ませ、シャム王は重体に陥りましたが、シアマイ戦後の論功行賞はどうにか済ませました。ポルトガル人120人にはギベン女王の半年分の貢物を分け与え、関税を3年間免除、キリスト教の布教を許すとしたためさせ、長男にソルナウ帝国の後を継がせることを言い残して亡くなりました。盛大な葬儀が執り行われ、9才の新王が誕生しました。母の王妃は子供を産み、愛人と結婚しょうとしました。そしてコーチシナ人とレキオ(琉球)人からなる王宮近衛兵600人の他に、歩兵2千人と騎兵5百人の警備兵を組織して生まれた子の父親の従弟を司令官にして、結婚に反対する貴族たちを処刑しました。このようにしてシャム王国ソルナオ帝国は王妃のものとなり、愛人を王にするため新少年王を毒殺しました。1545/11/11に王妃は愛人で仲買人のウクンシェトラと結婚して彼を王に擁立しました。ところが、1546/1/2の太陽原子の神キアイ・フォグラウの寺院での宴会で、オイア・パシコロとカンボジャ王に殺害され、聖職者だったプレティエンが新王になりましたが、住民にはかかわりなく平穏のうちにくらしていました。新王は軍事的才能も知識経験をも持ちあわさず、極めて千セ的支配をして国民に嫌われました。
(42、185)
ペグの専制君主プラマ王はソルナウ帝国の状況を知ると、シャム王国攻撃を計画しマルタヴァンの町で、2ヵ月半で、ドン・ガルシア・デ・ノローニャ副王の艦隊のソファラ司令官エヴォラのジョアン・デ・セプルヴェダ船長のジュンコ号で1538年にインドへ渡航してきて1548年にプラマ王からペグ王国総督に任命されていたディオゴ・ソアレス・ダルベルガリアが率いるポルトガル人千人を含む外国人傭兵10万人と70万人の軍勢を集め、1548/4/7にシャム王国へと進軍を始めました。4万人の騎兵と6万人の火縄銃隊、5千頭の戦象、荷駄用象隊、4千対の野牛と犀が運ぶ千門の大砲、食糧運搬用牝牛4千対が行軍。シャム王領のタプラウ要塞に着くと、緒戦で甚大な被害をこうむり、ディオゴ・ソアレスの進言で大型砲40門の鋳鉄砲弾で町を砲撃、多数のトルコ人、アビシニア人、マラバルのイスラム教徒、アシェン人、ジャワ人、マライ人など1万人の外国人傭兵隊と共に攻撃し、城塞中の6千人のシャム人を全滅させ、3千人の損害を出し、その復讐で全ての女を刃に掛けるという残虐行為をしました。ソルナウ帝国首府オディアの町へと進発し、ジュンカランの海岸のケダ王国近くのティラウ部落に到着、ジュロピザンの町の司令官が降伏して町を引き渡したので占領し、9日後にオディアが見える所に野営陣地を構築しました。

(42、186)1548/6/19にプラマ王の攻撃が始まり、5千頭の戦象部隊を先頭に猛攻を加えるも損害多くして城壁を破れず、重傷を負ったディオゴ・ソアレズの意見を入れて攻撃を中止しました。王も矢傷を負っていたので包囲を解かずに12日間たって王の傷がいえると、再び攻撃を開始、8度の総攻撃を加えるも落城せず、4ヵ月を費やし14万人を失い、戦病死が多かったので、王は最後の攻撃とばかり、ある嵐の夜半に城壁に向かって大軍で突撃をかけさせました。今回も損害が多く突撃を頓挫。軍議を開き各司令官の忠誠を確かめた王は、ディオゴ・ソアレズと技術者たちの提案で城壁よりも高い陸をこしらえて、そこから町中を猛砲撃し、攻城梯子を掛けて町へ総攻撃をかけようとした、まさにその時にモーシャン領主シャウゼロからの急使のコレイオ(飛脚)が飛び込んできました。それによるとペグ王国でシェミンドが反乱を起こし、1万5千人のプラマ人が殺され、王の要衝マルタヴァンが奪われたというものでした。プラマ王はこれを知ると大いに慌て狼狽して、直ちにオディア町の包囲を解き、野営地の矢来と宿舎のすべてに火を放て、1548/10/5にマルタヴァンの町に向けて全軍を出発させました。大急ぎの功軍で17日でマルタヴァンに着くき、後続の部隊を待っていると、40万人の内の12万人のペグ人部隊が逃亡をはじめ、ペグ人新王の元へ走りました。これを知った臣下の要請で、プラマ王はペグへと軍をすすめ、マシャン原野で35万人でシェミンド軍の60万人と対峙しました。1548/11/26未明に両軍は激突し猛烈な大会戦の後、シェミンド軍は30万人の戦死者を出して敗退、シェミンドはアンセダ川から小舟で上流へ逃れました。プラマ軍の損害はポルトガル人280人を含む6万人でした。ペグの町は住民の安全を約束され降伏無血開城したので、町でプラマ軍の甚大な数の負傷者の手当てをしました。

プラマ王は戦後処理を行い反乱に加担したとみなされた人を容赦なく残忍な処刑を続けること2ヵ月半後に、マルタヴァンの町でシェミンドに与する暴動が勃発、プラマ人2千人が殺害されました。その報に接した王はペグを発し、モーシャン村で軍の到着を待ち再編しょうとしましたが、暴動の首謀者シェミンデ・サタン(マルタヴァン司令官)とその一族が小人数でプラマ王を急襲、用足し中の王を殺害し、騒ぎを聞きつけた衛兵部隊と戦闘になり勝利すると、多くのペグ人が味方に加わりプラマ人を打ち取って行き、ポルトガル人300人の内80人も殺害されましたがディオゴ・ソアレスと残りは降伏し許され、彼らの配下になりました。シェミンデ・サタンはペグで王の戴冠式を挙行し、住民に大歓迎されました。

(42、191)
平和裏に国王となったシェミンデ・サタン王はディオゴ・ソアレスを以前のペグ王国総督と同等の生活を許しましたので、ディオゴ・ソアレスは前にも増した栄華を極めた生活を送ることが出来ました。それが奢りとなり何でもできると思って、町の大商人同士が結婚式の準備をしている屋敷の前を通りかかり、賑やかな様子の屋敷のことを尋ねると、挨拶に出てきた商人が連れていた花嫁衣装の娘が気に入り取りあげようとしました。父親の商人が取り返そうとすると警邏のトルコ人に命じて切らせようとしましたので逃げましたが、傍に居た花婿や親戚の者たちはテルサド(幅広短剣)で切り殺されてしまいました。それを悲しんだ花嫁は腰の帯で自ら首を絞めて死んでしまいました。それから4年経ち、屋敷を取りあげられ乞食で生きのびた花嫁の父親の商人は、悩める者たちの寺院キアイ・フィンタレウ寺の前で、参詣の群衆にディオゴ・ソアレスが行った悪行の限りを訴えました。5万人以上にも膨れ上がった大群衆の騒ぎを聞きつけた新国王は、ソアレスをパザル(市場)に連行させ、大群衆の真っ只中に放りだしました。怒り狂った群衆が石を投げつけましたので、ソアレスは石に埋まって死んでしまいました。それでも治まらなかった群衆は遺体を石の下から引き出し細切れに切り刻んで、ハラワタ(内臓)を取り出し引きずり回しました。ペグ国王から「王の兄弟」の照合を許され、80万軍隊の総司令官に任命され、14王国の総督になり、栄耀栄華を極めた一人のポルトガル人も、その奢りから、身を滅ぼし、このような末路となりました。

シェミンデ・サタンは国王になると貪欲な専制君主に豹変し旧来の領主や大商人の財産を奪い、従わぬ者を殺すという残忍非道ぶりを発揮したので7ヵ月で6千人の商人を殺害したため、住民の多くがシェミンドの元へ去りました。シェミンドは20万人と5千頭の戦象からなる軍隊を率いて、ペグの町へ攻めかけ、町を包囲して矢来と頑丈な垣根で囲み、数度の攻撃をかけましたが、頑強な防禦にあい、20日の休戦となりました。休戦期間中に町からの逃亡者が続出し、6万人になったため、シェミンデ・サタンは残る8万人で5つの門から開城突撃をなし、両軍合わせて4万人の損害を出す血みどろの大激戦の末、シェミンデ・サタンはセトゥバル生まれのポルトガル人ゴンサロ・ネトの火縄銃に打たれて乗っていた戦象から落ちて落命しました。町は安全を保障されて降伏しましたので、直ちに入城し、1551/2/23にシェミンドがペグの大寺院で戴冠式を挙行して新国王になりました。ゴンサロ・ネト
ラオス 1958/3/17 発行
と80人のポルトガル人は恩賞を与えられ、3年間の関税免除を保障されました。

(42、194)
シェミンド国王はペグ王国を平和に治めましたが、3年後の1552/3/9にシェミンデ・サタンに殺されたプラマ王の乳兄弟シャウミグレンがプラマ人5万人とモン人、シャレウ人、カラミャン人、サヴァディ人、パンクる人、アヴァ人の外国人傭兵25万人の軍で攻撃にタングを進発しました。その知らせを受けたシェミンド王はペグの町で90万人を集めましたが、戦争には向かないペグ人ばかりでした。メレイタイ川から先のポンタレウ川を挟んで睨み合い、1552/4/7早朝に激突とし、大激戦の末にシェミンド軍が深追いしすぎて反撃され、90万人のペグ人軍は全滅して40万人の損害を出して敗北、シェミンド王は戦場から逃れて消え去りました。かくしてシャウミグレンがプラマ王の後を継いで、その場で戴冠し、ペグの町を外国人傭兵の略奪から救うためしばらく留まりました。町で戦利品を奪ってよいとの約束をした王が町に入ろうとしないのに、業を煮やした外国人傭兵のシャラン人、メレイタイ人、サヴァディ人がが野営地で反乱を起こしました。王の説得で休戦となり、町に居た180人のポルトガル人の司令官ゴンサロ・パシェコと王の良く知っているポルトガル人ヌーノ・フェルナンデス・テイシェイラを呼びに行きました。翌早朝に貢物を持ってポルトガル人が付くと、王がタングで約束していた戦利品としての町の略奪の代わりに、各国の司令官に金千ピザを支払い、全員に給料と20日分の食料を支払い、部隊の全ての司令官に多くの恩賞を与えましたので、全員が喜び、反乱を起こした3カ国の傭兵は北東の山奥へ帰国しました。2人のポルトガル人には金10ピザが与えられ、商品への免税を認めた上に、シェミンド王とは違ってインドへの自由通行を認めました。

(42、197)
あのよきシャム王の死と、その妻である邪悪な王妃の不貞が、このペグとシャムの2国に起こったあらゆる葛藤と、あらゆる残忍な戦争の根源と端緒になって、3年半続きプラマ王シャウミグレンがペグ王国の絶対君主になることで終焉すると、 シャウミグレン王はかつてない大軍隊、兵百万人、象1万6千頭、荷役用象9千頭、戦闘用象7千頭を率いて再びシャム王国を襲撃しました。その戦役でドミニコ会修道僧などのポルトガル人280が犠牲となったと後ほど知りました。

(43)ペグ王国からマラッカへ、そして日本の豊後王国へ
ペグ王国の新王シャウミグレン王がピント達全てのポルトガル人160人に全ての財産を返還してくれましたので、ペグの町を去り、コスミン港にいた5隻の船に乗船し、これはと思う儲かりそうな所へと散りじりになりました。ピントはポルトガル人25人の仲間とマラッカへ行き、1ヵ月後に要塞司令官シマン・デ・メロの持ち船で日本に交易に行くフレイシェ・デ・エスパダ・シンタ生まれのジョルジェ・アルヴァレス船長と一緒に日本へと再び船出しました。そして航海期の穏やかな順風に乗って大航海
26日後に日本の一番端から南方9レグア(海里)のタニシュマ(種子島)を望見、翌日にグアンシロ町の入江に停泊。島の王ナウタキンがそこへきた珍しい船を見物にきましたが、交易はせずに翌日、そこを発ち北方百レグアにある豊後王国に向かい、5日後にフシエオ(府中)の町の港に投錨し、王と住民に大歓迎され、商品の関税を無料にしてくれました。

ところが、豊後王の宮廷に滞在していた有馬王の甥のアシラン殿とフカラン殿の娘との結婚話が持ち上がり、豊後王が頼まれて狩場でアシラン殿
琉球の種子島
に話すと承知したので、フカラン殿にその旨を知らせました。喜んだフカラン殿は一族を上げて婚儀の支度と喜びの宴会を催しましたが、祝いの席から娘が思い人の所へと逃げ、探しても見つからなかったので、娘の母親は急死し、事情を知っていそうな侍女たち百人を斬首しました。娘をかくまっていそうな屋敷を調べに行って、関係無い屋敷が調べを断ると、「これら日本人というのは世界の殿国民よりも名誉心が強い」ので、調べを強行して屋敷の者たちと騒動となり、両者合わせて1万2千人が殺されつことになりました。騒ぎを鎮めようと王宮からはせ参じた豊後王と小人数の衛兵では静まらず、王宮に戻ると追って来た謀反人どもに王妃と五百人の女達もろとも殺害され、町に放った火は折しもの突風に煽られてものすごい勢いで町を焼き、2時間で焼き尽くしました。ピント達17人のポルトガル人は辛うじて船に逃げ込み海へ出て助かりました。暴徒達1万人は街中を略奪して2隊に分かれて山奥へ引きこもり守りを固めました。フカラン殿は槍で喉を突かれて死亡していました。

府中から7レグアのオスキ(臼杵)にいた豊後王の王子は王のぼ砲の知らせを聞くとすぐさま府中に駆けつけようとしましたが、忠老臣フィンジェイン殿に諫められて、人数を集めるために、日本では法螺貝が要所に用意されていて、喧嘩は1回、火事は2回、泥棒は3回、謀反は4回、吹き鳴らす決まりになっていましたので、法螺貝を4回吹き鳴らさせました。王子は森の中の僧坊に3日間籠って祈り、兵が集まると13万人の軍を率いてオスキを進発し、フシオで父王の葬儀を遺体が安置されていたパゴダでしめやかに2晩に亘って燈明を絶やさず執り行い、16万人の軍で謀反人が立て籠もっている山を取り巻きました。食料も無く逃げるに逃げられないと悟った謀反人達1万人は、潔い死を選び雨の夜陰に山から四方に打って出て、待ち構えていた王児の部隊と大激戦となり、謀反人全てと合わせて3万7千人が死にました。戦いが終わると王子は部隊を町へ引き揚げ、負傷者の手当てをしましたが3万人が死亡したと聞きました。

騒ぎを見届けて交易が出来ないことが解ると、カンゲシュマ(鹿児島)湾のイアマンゴ(山川)に航海して行き、2ヵ月半滞在しましたが、日本の島中の港湾、入江には40〜50隻のジャンク船が停泊していて、ミナト(湊)、タノラ(外浦)、フィウンガ(日向)、ファカタ(博多)、アングネ(阿久根)、ウブラ(大村)、カンゲシュマ(鹿児島)のような所には百隻以上が居ましたので、それらの土地には何処も中国の商品があふれ、元値の4分の1以下になっていました。その年はシナからの交易船は特に多く、品物が値下がりしていました。途方に暮れていると、12月の新月(5日)に、雨風をともなう激しい嵐が(台風)が起こり、ジャンク船1972隻が失われ、ポルガル人五百人や大勢の人が犠牲になり積荷の商品も失われ、奇跡的に助かった12隻だけの船の商品は高値で取引されました。大いに儲けたピント達は1/6に出帆しょうとしましたが、前檣帆桁が折れたり錨綱が切れたりしたのを、地元の大工などを頼んで翌朝までかかって修理していると、浜から助けを呼ぶ声が聞こえたので、マンシュア船に2人を乗せて追手から逃れて乗船、イアマンゴで見知っていた者に名を聞くとアンジロと言いました。

(203)1547/1/16にカンゲシュマ湾イアマンゴの川を出帆、順調な季節風に乗って14日後にシナ王国シンシェウ(新州)に到着。その港の河口に400隻の大船と60隻の堯漕のヴァンカン船に2万の水夫と4万の海賊を従える海賊シェポシェカがいたので、入港せず近くで幾らかの食糧の補給をして、直ぐマラッカへ出帆しました。マラッカに着くと、数日前にマルコから着いたインド地方のイエズス会全体の上長で、奇跡をおこなって住民から聖者呼ばれているメストレ・フランシスコ・シャヴィエル師に出会いました。ピント達が釣れている日本人に興味を示していると聞き、神父に会わせると、ドン・ジョアン・デ・カストロ副王のいるインドへ連れて行き、ゴアで洗礼を授けパウロ・デ・サンタ・フェという洗礼名を授け、もう一人には洗礼名ジョアネを授けました。

1547/10/9真夜中にランシャラ船、フォイスト船60隻、櫂船の小型ガレー船10隻を率いたアシェン王の大艦隊がマラッカ港に到着、5千人のバイレウ戦闘員で攻撃するも防備が固く町へは入れず、港内の船に火を放ち6〜7隻を炎上させ、港のウペ島へ退却しました。哀れにもその近くにいた漁師のパラオ船が捕えられ、乗っていた妻子連れの7人の男が耳と鼻を削ぎ取られ、ある者はアキレス腱を切られて司令官へ脅迫状を届けるために追い返されました。要塞司令官シマン・デ・メロは脅迫状を皆の前で公に読ませました。そこへ美佐からの帰りに通りかかったザビエル師に、修理の必要なフォイスト船7隻とカトゥール船1隻がありますが、どうすればよいかと尋ねました。ザビエル師の指導で町の人たちが勇気づけられ、1ヵ月はかかると思われていた船の修理が、フォイスト船1隻に百人以上がかかって修理をしたので、わずか5日で完成しました。フォイスト船1隻が転覆沈没するという事故に見舞われましたが、折よく通りかかった60人のポルトガル人が乗り組むフォイスト船2隻の応援がザビエル師の指導で加わり、フォイスト船8隻と伝令用のカトゥール船が準備万端整い230人のポルトガル人が乗り組み、艦隊司令官に指名された要塞司令官の義理の兄弟フランシスコ・デサが率いて、アシェン王軍の艦隊を探しに、1547/10/25にマラッカを出帆しました。

4日後にプロサンピラン島に到着するも、アシェン艦隊を見つけられず、3隻のパラン船で捜索中にアシェンの4隻のパラン背を発見し戦闘となり、3隻を捕えました。連れ帰った捕虜を拷問に掛けて聞き出したところ、アシェン艦隊はパルレス川に要塞を造りインドからマラッカへ来るポルトガル船を待ち構えていることがわかりました。フランシスコ・デサ提督はマンシュア船で各艦を回って檄を飛ばし待ち構えていると、敵艦隊が提督のランシャラ船に随行のトルコ人の小型ガレー船3隻を先頭に1列に6隻づつ並んで9列、合わせて58隻が、多数のペルソ(揺籃)砲、小型砲、カメレテ(小駱駝)砲、メイア・エスペラ(半球)砲、ファルカン(鷹)砲で砲撃しながら川を下ってきました。ジョアン・ソアレス船長のフォイスト船のカメロ(駱駝)砲が火を噴くと的提督が乗っているランシャラ船に命中、沈没して百人以上のイスラム教徒が水中に姿を消しました。すると上流にいた艦隊の他の船が流れに押されてぶっつかり大混乱に陥ったところを、フランシスコ・デサ提督艦隊がロカ・デ・ペドラ(石)弾で砲撃を正確に3回すると9隻のランシャラ船が沈没。4隻のフォイスト船が敵6隻を引掛け鍵で引き寄せて鉄砲を射かけて、僅か半時間の間に2千人を打ち取りました。敵の水夫は恐怖のあまり船を捨てて水に飛び込んで逃れ、濁流にのまれてしまいました。これで勝利が決まり、乗り手のいない46隻を拿捕し、フォイスト船14隻と小型ガレー船3隻、他8隻の25隻を操船し、人手が足りないので積荷を移した残りの空船に火を放ちました。敵の損害は4千人以上に上り、味方は軽微な損害、戦死26人で負傷者は多数となりました。戦利品の積荷は分配され、ポルトガル人達も大金持ちになりました。

1547/12月にこの大勝利を知るとメストレ・ザビエル師がアンジロを連れて日本へ行く準備のためインドへとマラッカを出帆しました。ゴアへ着くとカストロ副王が1548/6に亡くなったので、出発できずにいると、後継者ガルシア・デ・サ副王がマラッカ司令官ドン・ペドロ・ダ・シヴァへ二歩乳木の船を仕立てる命令書を書いてくれましたので、1549/4月に出発し5発末日にマラッカに到着。中国人の小さなジャンク船で出帆、8/15にアンジロの故郷のカンゲシュマ(鹿児島)に上陸、住民に歓迎され、王も歓迎してくれたので布教していると、彼らの司祭のボンゾ(坊主)が体操憤慨し、彼らの掟に甚だしく反する掟を布教することを寛大にも許したことについて、たびたび王を非難しました。ザビエル師は身分の高い人にキリストの聖なる皆を広めるためにフィランド王国(平戸)へ移りました。鹿児島で改宗させた800人のもとへパウロ・デ・サンタ・フェ(アンジロ)を残していましたが、5ヵ月以上も辛抱強く教義を説いていましたが、坊主達に迫害されたので、中国へ渡り、リャンポー王国で兆領していた海賊に殺害されました。鹿児島の新とは神父も修道士もいないのに、7年間もザビエル師の書き残していた教えを守り続けていました。

ザビエル神父は平戸に、1544年にヌエバ・イスパニャ副王がパナマ経由で派遣した艦隊でマルコにいた兵士をザビエル神父がゴアに連れて行ってイエズス会に入門させたカスティリャ人コスメデ・トレス師と、コルドバ町の出身の俗人修道士でカスティリャ人ジョアン・フェルナンデスを伴っていました。ザビエル神父が平戸に着いて20日経つとコスメデ・トレス師を残してジョアン・フェルナンデス修道士を連れて日本のミオコ(都)にいるというクブンカマ(公方様)に会いに出発しました。道中では外国人に税をかけている関署を通る金がないので貴人の足軽となってつき従って通ったりと、苦労に苦労を重ねて都に着きました。ところが公方様に会うためには6百クルサドを献上しなければならなかったが、その金が工面できなかったので、かくも望んでいた会見は実現しませんでした。その頃、部族が互いに戦争と紛争を繰り返していたため、この土地では何の成果もあげることはできませんでした。神父は無駄に時を費やさないためにシカイ(堺)の港から平戸へと出帆しました。平戸へ着くと道中の骨休めをするわけでは無く、オマングシェ(山口)王国へ移り、1年ちょっとの間に3千人以上をキリスト教に改宗させました。豊後王国にポルトガル船が入港した知らせに、1551/9/1に使者に手紙を託して走らせました。

ザビエル尊師から手紙をもらったフィンジェ(日出)川港のポルトガル船に乗っていたピント達は、今後の予定、1ヵ月後に中国の港へ出帆すること、1月にはゴアへ向かうことなどを神父に知らせました。5日後に山口に着いた使者は大歓迎で迎えられ、神父は30人のポルトガル人が交易していた府中へと出発しました。ところが途中のビンラシャウ村で神父が足を腫らし病気になったので、彼が載る馬が入用になたとの知らせが来ました。それを知ったピント達が迎えに行くと途中で、歩いてくる神父たちの一行に会いました。着き従っていた2人のフィダルゴ(武士)は改宗したため、山口王から領地を没収されていました。ピント達は正装して馬に乗っていましたが、神父は馬に乗ろうとしなかったので歩いて着き従いました。日出川港に着くとザビエル尊師は、3隻の船のペルソ砲、ファルカン砲、カメロ砲など全 正装のポルトガル人
大砲が63発の礼砲を放ち、ドゥアルテ・ダ・ガマ船長をはじめ全乗組員に最大の礼讃をもって迎えられました。礼砲の物凄い音に驚いた町にいた王は、海賊と対決しているのかと使いを派遣してきましたが、聖者ザビエル尊師への礼砲であると聞くと、ザビエル尊師に会いたいと申し入れてきました。快く聞きいれた尊師をどのようにして豊後王に謁見させるかを一同で相談して、土地の坊主達に軽蔑されないように最高の正装で着飾って行ってもらうことに衆議一決、尊師に話すと心ならずも同意してもらったので、賑々しく行列を整ええて府中へと進み、無事に謁見しました。尊師の教えに感心した王は、溺愛していた性的関係のあった傍小姓を遠ざけ、坊主達の指導で行っていた女達が産んだ子供を殺すことを禁止したり、貧者を救ったりと徳を積むようになりました。滞在すること46日が経ち、その間に坊主と問答なども行い、多くの改宗者を導きました。大僧正と尊師が問答した時には、尊師の理路整然とした言葉に対して、欺瞞に満ちた大僧正の言葉に王が起って外へ放り出させました。そして坊主の先導で暴動がおこる気配がしたので、一刻も早く乗船して出帆しょうとしましたが、尊師はそのようなことが起こればそれは神の御心のままにと乗船しませんでしたので、一同待機することになりました。坊主達の企てを王が止めさせ、度々問答して抑えましたが、季節風の航海期が来ましたので、乗船出帆することになり、名残を惜しむ王と分れて府中の町を出発しました。メレイトルというミナコ王の島まで陸を見ながら航海。順風に乗って7日間航海した時に嵐に遭遇しましたが、奇跡的に1551/12/17に収まりました。

13日後に中国のサンシャン港に到着。尊師は中国へ行き準備のためマラッカからインドへ渡り、再びマラッカへ戻ってきました。そしてサンシャンに渡り、そこで高熱と赤痢のために具合が悪くなり、1552/12/2に亡くなりました。遺体はマラッカに運ばれ1553/3/17に埋葬され、12/11までの9ヵ月間そこに安置され、12/11に掘り出されて、1554/2/13にコシンに到着。インドから迎えにきたカトゥール船に遺体を移し替えてゴアへと出帆。ゴアに着いた聖なる遺体は厳かに聖パウロ学院に埋葬されました。ドン・アフォンゾ・デ・ノローニャ副王は着き従って来た宣教師たちから日本の山口での出来事を聞くと、メストレ・ベルシオル師に日本へ行き布教することを命じました。1554/4/16に上長メストレ・ベルシオル師はかつてのガルシア・デ・ノローニャ副王の令息のドン・アント二・デ・ノローニャが要塞司令官として赴任するための船でマラッカへと出帆しました。ドン・アント二司令官はマラッカ司令官ドン・アルヴァロ・デ・アタイデを逮捕する命令を帯びていました。

6/5にマラッカに到着した新司令官ドン・アント二は前任者を逮捕して全財産を没収し、その一族と加担者を逮捕しょうとしましたので、その者たちはイスラム教徒の所へ逃げ去り、マラッカは手薄となり危急存亡を迎えました。ところがドン・アント二は到着後2ヵ月で赤痢にかかって亡くなってしまいましたので、騒ぎは収まりました。1555/4/1にメストレ・ベルシオル師はキャラベル船で日本に向けてマラッカを出帆、3日後にシンガポール海峡の入口のプロ・ピザン島で船が岩礁に乗り上げてしまい修理に手間取って、7日後にパタネ港に到着、王に挨拶に行って厚遇され、不足の品々を積み込んで、出帆。ルゴルとシャムの海岸沿いに航海、2日後にプロ・カンピンへ向かってタイの港口をすようとしている時に嵐に襲われマライの海岸で難破しました。折よく通りかかったスンダからのポルトガル人の船3隻に救われ、プロティマン島を1555/6/7に出帆、シャンパ王国の沖を通って、12日後にコーチシナ湾のプロ・シャンペイロ島に停泊。そこで給水して、ザビエル尊師が初めに埋葬されていたカンタン島に上陸、敬虔な祈りを捧げ、それまで無人島だったマカオで交易が盛大に行われているのを見て、サンシャン島へ行き、ランパカウ港へ向かいました。そしてリャンポーで起こったことを知りました。リャンポーででは、貸金を持ち逃げした中国人への復讐で村を略奪した上、村人の妻子を奪い、13人殺害したので、大騒ぎとなり、6万人が乗り組むジャンク船3百隻、尭漕のバンカン船80隻の大艦隊が救援に来て、ポルトガル人町を襲い、8百人ポルトガル人と一万千2百人のキリスト教徒が殺され、35隻のナオ船、42隻のジャンク船が乗組員もろとも焼き払われました。一人の貪欲なポルトガル人の所為で町がほとんど全滅したということでした。ランパカウ港に3隻が着くと、土地の商品が流通していなかったので、日本へ行く船は1隻も無く、翌年の5月まで10ヵ月後まで越冬することになりました。

1556/5/7にドン・フランシコ・デ・マスカレニャス船長の持ち船でランパカウ港を出帆、14日間航海して種子島諸島の最初の島を望見出来る場所で、水先案内人が方向を間違っているのに気付き、ミナト(湊)の山の見える方向に転じて、タノラ(田浦)の海岸に着き、フィウンガ(日向)の港まで海岸沿いに航行しました。ところが潮の流れが速く、その上に逆風(向かい風)でmザス所を通りすぎて、15日後に港に辿り着きました。着くと、豊後王が異教徒と親しくしているとて反乱を起こしている地域でしたので、商品と命を危険に晒しながら苦労しすることになりましたが、ピント達の友人の豊後王の首府で日本中で現在キリスト教が最も盛んな町のフシエオ(府中)についに到着できました。王はオスキ(臼杵)要塞にいるということで、ピントが行くことになりましたが、そこでは暴動が起っているというので危険を感じながら、ドン・フランシコ船長から5百クルサド分の貢物を預かって、船を後にして上陸すると、アルミランテ・ド・マル(海軍大将)のクァンジオ・アン殿の屋敷に行きました。すると、暖かく迎えてくれましたので、一安心しました。翌日、要塞へ行くための人馬の提供を受けて出発し、フィンガウ部落に着き、要塞司令官のオスキン殿にインド副王の使節の任を帯びた者が来ていることを王に伝えて、いつ謁見がかなうかを聞いて欲しいと頼みました。すると王はシエケ(関)の島で大きい魚を仕留めるため入江に追い込んでいる最中なので、止まって待って欲しいと言ってきて、マラッカ、コシン、ゴア同様にポルトガル王のものなのだと思って休んで下さいと、アミダンショというパゴダへ案内して、そこのボンゾ(坊主)達から御馳走のもてなしを受けました。知らせを聞いた王はその島から3隻の堯船のフネエ(船)を出し、気に入りの侍従オレタン殿を派遣してきましたので、ピント隊一行はその島へ行きました。王が二百人以上の家来と大鯨を仕留めている所に着き、始めてみる大きい魚を浜に引き上げると大喜びで迎えてくれ、臼杵要塞に戻り大歓迎をしてくれました。

6日後に37才の豊後王ヤレタン殿が臼杵要塞から六百人の歩兵と二百人の騎兵を連れて、府中の立派で壮麗な宮殿に移ってきました。王宮にはレキオ(琉球)王の大使、コーチシナ王の大使、トサ(土佐)島の大使、ミオコ(都)の皇帝クブカマの大使や高官が居並び、庭には千人以上の火縄銃兵、馬衣で飾られた良馬に跨った四百人の家来その他数知れぬ一般住民が見守る中で、謁見を許されたメストレ・ペルシオル神父が来訪の目的は、王に仕え、王に救済の確かな道を指し示すために、副王が自分を派遣したということを話しました。王は大変喜び貢物の礼として副王への贈り物をくれました。1556/11/14にシエケ(関)港を出帆。12/4にランパカウ港に到着。そこには6隻のポルトガル船がいて、ドン・ペドロ・デ・マスカレニャスの後を継いでポルトガル領インドを治めていたフランシスコ・パレドのフェイトル(代弁人)の商人フランティスコ・マルティンスがカピタン・モル(総司令官)をしていました。そこで補給した後、2/17にゴアに到着、豊後王の親書と進物をフランシスコ・パレドに渡しました。喜んだフランシスコ・パレド副王からの恩賞は受け取らず、今迄の労苦と費やした費用に付いてのポルトガル国王への書類をしたためてもらいました。

(3)インドから母国への大航海、帰国
1558/9/22にリスボンに到着。ドナ・カテリナ王妃に拝謁しインド副王からの親書を渡し、自ら報告。その任の役人に委ね、4年半経った。これが、このピントのかくも長い遍歴記で、不幸な出来事のために13度捕虜になり、16度売られた、労苦、虜囚、飢餓、危険という21年の長きにわたる奉公の結果となって、故郷のモンテモルに隠棲しました。

・上記は、「東洋遍歴記」1979/11/22〜フェルナン・メンデス・ピント(岡村多希子)〜(東洋文庫)平凡社(全3巻)より、スタンプ・メイツが意訳し(独断と偏見で)要約、抜粋したものです。

参考:〜訳者の後記より
・1554/12/5付「マラッカ発の在インド・イエズス会フェルナン・メンデス修道士の、在ポルトガルイエズス会神父および修道士に宛てた長い書簡」が残されています。その中に、日本でメストレ・フランシスコ・シャビエル師に金を貸して最初の教会とイエズス会の家が建てられたこと、シャビエル師の遺体がゴアに運ばれてきたのを迎えてベルシオル師と教会に安置し立派ん葬儀を執り行ったこと、ベルシオル師に日本でのザビエル尊師のことを話し日本行きを決意させたことシャム王国やソルナオ王国での出来事、その他のことが詳しく書き記されています。

・1555/11/20付マカオ発、フェルナン・メンデス修道士の、ゴアの学院長(聖パウロ学院)に宛てた長い書簡も残されています。そこには、メストレ・ペルシオル師のランパカウ(浪白澳)やカンタン(広東)、マラッカ、パタネ、サンショアン(上川)などでの業績が詳しく書かれています。

これらによりピントが帰国しょうとしたのは、品や日本に行って「損をしていました」ので、「インドに戻り、そこからポルトガルに帰る用意をするのがよい」、「私の栄光と幸福は9千ないし1万クルサドを持ってモンテモルに入ることにある」と考えたからだと訳者が書いています。また、ザビエル尊師の遺体のゴア到着が報じられ、で迎えに行ったピントが「教会の聖杯かクストディア(聖体顕示器)を盗まず、あるいはイスラム教徒にならない限り、決して地獄を恐れる必要はなく、キリスト教徒であるというだけで充分であり、神の慈悲は大きい」としか思ったことのない様な信仰心の薄い冒険商人ピントが突如敬虔の念に襲われ回心におもむいたのは、遺体が死後1年半を過ぎていたにもかかわらず少しも損なわれること無く、むしろ方向を放っていたという奇跡を目にした時であった、とも述べています。この回心から日本渡航に至る経緯は、1554年の書簡に書かれており、第3者の証言として「1554/12/23に在ポルトガル・イエズス会神父、修道士に宛てたアイス・ブランダン修道士が書いた長い書簡」に詳しく書かれていると訳者が書いています。

上記は、「東洋遍歴記」1979/11/22〜フェルナン・メンデス・ピント(岡村多希子)〜(東洋文庫)平凡社(全3巻)より、スタンプ・メイツが意訳し(独断と偏見で)要約、抜粋したものです。

(3)インドから母国への大航海
・帰国
1558/9/22にピントは帰国しました。1555年にイエズス会との書簡が発行されたことで、ピントはすでに西洋では名を知られた人物となっていました。その後、ピントは今までの国王への奉仕に対する報償を要求しましたが、ピントが1583年に亡くなる数ヵ月前にやっと与えられました。

帰国後にピントはマリア・コレイア・デ・ボレットと結婚し、少なくとも2人の娘をもうけました。1562年にアルマダの近くにあるプラガルに隠居し農場を経営しながら、1569年(60才)頃から自伝を書き始めたものと言われています。この本は生前は刊行されず、1583年(74才)没後から31年を経て1614年に刊行されました。

・「東洋遍歴記」の完全な題名:〜
「我々西洋では少ししかあるいはまったく知られていないシナ王国、タタール、通常シャムと言われるソルナウ王国、カラミニャム王国、ペグー王国、マルタバン王国、そして東洋の多くの王国とその主達について見聞きした多くの珍しいこと、そして、彼や他の人物達、双方に生じた多くの特異な出来事の記録、そして、いくつかのことやその最後には東洋の地で唯一の光であり輝きであり、かの地におけるイエズス会の総長である聖職者フランシスコ・ザビエルの死について簡単な事項について語られたフェルナン・メンデス・ピントの遍歴記」

「東洋遍歴記」については、大法螺話といわれてきた大冒険物語ですが、そこに書かれていることは「事実関係よりも、実際に大倭寇の世界を生きた冒険商人が語る「混沌」の現実性と言って良く、彼が記す人や街や港の実態や航海とか戦闘の描写は本当に見聞した者でなければ描けない生々しさがある」とも言われています。

参考:〜
タビンシュエーティー王 (1517〜在位:1531〜1551)
 Tabinshwehti


王 直 (生年不詳 〜1559)
 Wang Zhi


テオドロス2世 (1818〜在位:1855〜1868/4/13)
 Tewodros II


参考HP:〜
 ・ポルトガルの地図
 ・インド植民地の地図
 ・ディウの場所地図
 ・ゴアとディウとホルムズの場所地図
 ・マッサワ付近の地図(エリトリアの地図)
 ・エチオピア、イェーメン・モカ、イラン・ホルムス付近の地図
 ・イェーメン(モカ)の地図
 ・ジェッダの場所地図
 ・マレーシアの州区分地図
 ・ビンタン島の場所地図
 ・南シナ海および現在の近隣諸国の場所地図
 ・東シナ海の場所地図
 ・日本の場所地図
 ・タイ(シャム)の地図
 ・ビルマ(ミャンマー)の場所地図
 ・インドシナ(仏領インド)の地図

上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     2009/12/25
スタンプ・メイツ
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