大航海物語 |
コルネット城包囲攻撃の海戦 1643-1651 Siege of Castle Cornet |
参考資料 |
イギリス革命軍の海軍が城攻撃に出帆 | イギリス海軍のコルネット城攻撃 | コルネット城からの砲撃に驚く島民 |
コルネット城が本島を砲撃 | コルネット城に王党派が篭城 | 名誉の退却・城明け渡し |
ガーンジー 1993/5/7 発行 |
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チャネル諸島の場所地図 | 島の沖にある城 | |
イギリス→ ガーンジー島→ ジャージー島→ フランス→ |
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ジャージー 1969/10/1 発行 | ||
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ガーンジー島、1787 | ||
←コルネ ット城 |
1642年にイギリスで市民革命が勃発すると、ガーンジー島のオズボーン総督は王党派に留まりガーンジー島沖のコルネット城に籠城、議会派も応援に駆けつけたので、革命軍の攻撃を受けました。島の王党派はジャージー島王党派から船で補給を受けて、9年近くも包囲攻撃に耐えましたが、ついにコルネット城は1651年に降伏、陥落しました。 |
・ガーンジー島王党派コルネット城の包囲攻撃戦争 (1643〜1651) Siege of Guernsey's Castle Cornet (1651 of Guernsey's Castle Cornet) 結果:イギリス革命軍の勝利:コルネット城は1651年に陥落。 1642年1月早くチャールス1世(Charles I 1600/11/19生:在位1625/3/27-1649/1/30没)は反国王派の5人の議員を逮捕しようとして失敗。チャールス1世がロンドンを離れて、ついに議会派と王党派の内戦が勃発しました(イングランド内戦)。市民革命(English Civil War 1642/8/22-1651/9/3)の勃発後、1649年にピューリタン革命で共和国政府(1649-1660)が成立しました。 内戦当初は互角あるいは王党派が優位でしたが、イングランド内戦最初の戦闘のウォリックシャー州エッジヒルでのエッジヒルの戦い(Battle of Edge Hill 1642/10/23)の敗戦(引き分け?)直後に編成されたオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599/4/25-1658/9/3)率いる「正直で真面目なキリスト教徒」の鉄騎隊(Ironside Troopers)の活躍で王党派が各地で打ち破られました。鉄騎隊はウィンスビーの戦い(Battle of Winceby 1643/10/11)では「詩篇を歌い感謝しつつ」突撃してリンカンシャー(county of Lincolnshire)から王党を一掃し、マーストン・ムーアの戦い(Battle of Marston Moor 1644/7/2)でカンバーランド公ルパート(Rupert, Count Palatine of the Rhine, 1st Duke of Cumberland, Prince Rupert of the Rhine, KG, FRS 1619-1682)の騎隊兵と直面して壊滅的打撃を与えて敗走させ、武名をあげました。1646/5月にチャールズ1世はスコットランド軍に降伏して囚われ、一度は脱出したものの、1648/11月に再び議会軍に投降しました。1649/1/27に裁判でチャールズ1世の処刑が宣告され、1/30に自らルーベンスに内装及び天井画を依頼したホワイトホール宮殿(Palace Whitehall 1530-1698)のバンケティング・ハウス(Banqueting House)前で国王チャールズ1世は斬首の刑で公開処刑されました。 イギリス市民革命戦争でチャールズ1世に対して立ち上がったイギリス議会軍が、1643年にガーンジー島に攻めてきたので、島の王党派はコルネット城に集結して籠城し、9年に渡る包囲攻撃戦争が始まりました。コルネット城の狭間胸壁の長い歴史の中でも英国人(Briton)の英国人に対する勇気と我慢強さの証明が試されることになりました。後の総督エドモンド・アンドロスは1643年からのガーンジー島王党派コルネット城の包囲攻撃戦争を6才で遭遇し、1645年に母に連れられてガーンジー島を脱出しました。
1646年にカートレット総督がジャージー島を離れ、サー・ロジャー・ブルガス大佐(Col. Sir Roger Burgess)が後継者になりましたが支援は続けられました。オズボーン総督の後継者サー・ボールドウィン・ウェーク総督(Sir Baldwin Wake)は、チャールス2世が即位すると1649年にその職を解かれて、国王と親交のあったカートレット卿のよしみで、ロジャー・ブルガス大佐(Col. Roger Burgess)が王党派の総督となって最後の2年間を戦いました。1651/12/19にジャージー島の王党派が降伏。それはガーンジー島への支援物資の補給が途絶えたことを意味し、遂にコルネット城は白旗を掲げて降伏しました。苦戦にもめげず勇敢に闘った総督ブルガス大佐とその部下達は助命されて、太鼓を打ち鳴らしながら整然と隊列を組んで城を後に退却して行った(drums beating, ensigns displayed)と伝えられています。 ▼ガーンジー島略年表:〜 1643/3月、 ガーンジー島王党派はイギリス議会派(Parliament)に コルネット城の防衛(Siege of Castle Cornet)を宣言 1643/12/3、 コルネット城の牢獄から3人のガーンジー島コミッショナー(Guernsey commissioners)が逃亡 1644年、 第5代ウォリック伯爵ロバート・リッチ (Robert Rich、Earl of Warwick:1620-1675)がガーンジー島総督 (Governor of Guernsey)にイギリス議会派人(Parliamentarian)を指名 1644-45年、 イギリス議会派ロバート・ラッセル(Robert Russell, Guernsey's Parliamentary) 副総督に対する暴動が起こる 1646年、 長老教会派の会員教会(Presbyterian Church)がイングランドに紹介される サー・ボールドウィン・ウェーク(Sir Baldwin Wake)が王党派総督に指名される 1649年、 イングランドで国王チャールズ1世の処刑(1/30)と共和政の樹立(5/19:宣言) ロジャー・ブルガス大佐(Col. Roger Burgess)が王党派の総督に指名される 1649/10/22、 アルバン・コックス大佐(Col. Alban Coxe)が議会派総督に指名される 1651/12/15、 コルネット城がイギリス議会派軍に降伏して陥落 1652-54年、 第1次英蘭戦争(First Dutch War) 1653-56 ジュラット(Jurats)が執行官事務所(office of Bailiff)を毎月持ち回りで開設 1653/12/16、 クロムウェル(Oliver Cromwell)が護国卿(Lord Protector)に就任 1655-60年、 スペイン戦争(Anglo-Spanish War 1654-1660)の余波が到来 1656年、 ピエール・デ・ビーヴァー(Pierre de Beauvoir)が執行官(Bailiff)に指名される 1658/9/3 クロムウェルが亡くなる 1660年、 ヘンリー・ワンゼイ少佐(Major Henry Wanseye)が議会派総督に指名される 1660/5/3、 チャールス2世が即位宣言 December 1660 ヒュー・ポラード卿(Sir Hugh Pollard)がガーンジー島総督に指名される 1661年、 アミアス・アンドロス(Amias Andros)が執行官(Bailiff)に指名される. 1661-70年、 ジョン・ランバート大佐(Col. John Lambert)がコルネット城牢獄に投獄される 1662年、 英国国教会の教義の施行 5人の大臣が辞任 特別裁判所(Ecclesiastical Court)が復興 1662/5月、 ハットン卿(Lord Hatton)がガーンジー島総督に指名される 1665-67年、 第2次英蘭戦争(Second Dutch War) 1665年、 ハットン卿がガーンジー島総督を解任される 1666年、 積荷満載のフランス東インド会社船ヴァージ・デ・ボンポート号(Vierge de Bonport, 300tons)が 拿捕された後に、ガーンジー島沖合で沈没 1668/2/11、 チャールス2世のガーンジー憲章がガーンジー島に届く 1670年、 ハットン卿クリストファー(Christopher, Second Lord Hatton)がガーンジー島総督に指名される 1672-74年、 第3次英蘭戦争(Third Dutch War) 1674年、 サー・エドモンド・アンドロス(Sir Edmund Andros)が執行官(Bailiff)に指名される 1682年、 ハットン卿が子爵家(Viscount)の始祖となる 1685/2/8、 ジェームス2世(James II)が即位 1688/12/12〜1689/2/12 総督の空位期間 13 February 1689 ウィリアム3世(William II)とメアリー2世(Mary II)が即位 1689年、 私掠船の活動期 1699年、 ガーンジー島に多くの火打石銃兵(light flintlock musket)大隊が結成される ▼17世紀のガーンジー島総督列伝:〜 (Governors of Guernsey) ・ジョージ・カルー初代トットネス伯爵 George Carew, 1st Earl of Totnes (1610-1621) ・ヘンリー・ダンヴァース初代ダンビー伯爵 Henry Danvers, 1st Earl of Danby (1621-1644) ・ロバート・リッチ第2代ウォーウィック伯爵 Robert Rich, 2nd Earl of Warwick (1643-1644) ・サー・ピーター・オズボーン Sir Peter Osborne (1644-1649) ・ヘンリー・パーシー、アルンウィック男爵 Henry Percy, Baron Percy of Alnwick (1649-1650) ・アルバン・コックス大佐 Colonel Alban Coxe (1649-1650) ・ジョン・ビンハム大佐 Colonel John Bingham (1651-1660) ・ヘンリー・ワンゼイ少佐 Major Henry Wanseye (1660) ・サー・ヒュー・ポラード Sir Hugh Pollard (1660-1662) ・クリストファー・ハットン初代キルビー男爵 Christopher Hatton, 1st Baron Hatton of Kirby (1662-1665) ・サー・ジョナサン・アトキン大佐 Colonel Sir Jonathan Atkins (1665-1670) ・クリストファー・ハットン初代グレドン子爵 Christopher Hatton, 1st Viscount Hatton of Grendon (1670-1706) 参考HP:〜 ・ガーンジー島の地図(St.Peter Port と Castle Cornet有) ・チャネル諸島の地図(英領) ・チャネル諸島の場所地図 ・ウォリックシャー州の場所地図(イングランド地図の赤印) ・リンカンシャー州の場所地図(イングランド地図の赤印) ・ウスターシャー州の場所地図(イングランド地図の赤印) ・イングランド内戦(市民戦争) ・清教徒革命 (ピューリタン革命、1641-1649) ・名誉革命 (1688-1689)、以上はこちらでお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 12/2/12 |