大航海物語 |
チャールズ2世 在位:1660-1685 Charles II |
参考資料 |
1642年にイギリスで市民革命(名誉革命)が勃発すると、ピーター・オズボーン総督(Peter Osborne)は王党派に留まり、島の議会も応援に駆けつけましたので、革命軍の攻撃を受けました。島の王党派はジャージー島王党派(Royalist Jersey)から船で補給を受けて、9年近くも包囲攻撃に耐えましたが、ついに、1651年に降伏、陥落しました。 |
・チャールズ2世 (1630/5/29-1685/2/6) 54才ロンドン没 Charles II of England (在位:1660/5/29-1685/2/6) チャールズ2世は王政復古期ステュアート朝のイングランド、スコットランド、アイルランドの王。 ・大陸へ亡命 1630年、チャールズ1世と王妃でフランス王アンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリアの次男として生まれた。兄は幼くして亡くなったので、実質的な嫡男だった。弟にジェームズ2世、妹にオラニエ公(オランダ総督)ウィレム2世妃メアリー・ヘンリエッタとオルレアン公フィリップ1世妃ヘンリエッタ・アンがいる。フランス王ルイ14世は母方の従弟で、イングランド王兼オランダ総督ウィリアム3世は甥に当たる。 ピューリタン革命の危険が高まったため、1646年に母達とフランスに亡命し、1648年に義弟のウィレム2世を頼ってオランダのハーグに住んだ。翌1649年1月30日、イングランドを離れなかった父は処刑され、イングランドは護国卿オリバー・クロムウェルらが指導する共和国となった。同年にイングランド共和国と接近していったオランダ連邦議会の圧力でフランスへ移っている。 革命に反対するスコットランドは2月5日、チャールズをスコットランド王として推戴すると宣言したため、6月にスコットランドに上陸、1651年1月1日にスクーンで正式に戴冠式を挙げた。しかし、同年にスコットランドへ侵攻してきたクロムウェル軍に敗れ(ウースターの戦い)、再び大陸に亡命した。 1654年に第一次英蘭戦争(1652年 - 1654年)で争っていたイングランド共和国とオランダがをウェストミンスター条約を締結、和睦条件の1つとしてステュアート家とオラニエ家の援助を断る点が盛り込まれ、チャールズに援助していた妹メアリーがオランダ国内退去になり、1650年のウィレム2世死去と合わせてチャールズにとって打撃となった。フランスもスペインの戦争(フランス・スペイン戦争)でイングランド共和国に近付くことを考えたため、チャールズはフランスを去ってドイツのケルンに亡命宮廷を構えた。 1656年にはスペインと同盟を結びスペイン領ネーデルラントのブリュージュへ宮廷を移し、後にブリュッセルに移動した。1659年のフランスとスペインの講和条約であるピレネー条約に加わろうとしたが失敗、フランスは共和国との同盟を継続、スペインも関心がポルトガル王政復古戦争の鎮圧へ移ったため王位復帰の可能性は途切れたままであった[2]。 ・王政復古 1658年にオリバー・クロムウェルが死去すると、息子のリチャード・クロムウェルが後を継いだが、混乱を収拾できずに1659年に辞任、スコットランド駐留軍の司令官ジョージ・モンクがスコットランドから進軍して1660年3月16日にイングランド議会を解散、チャールズら王党派と連絡を取り復帰を要請した。これを見てチャールズはブリュッセルからオランダのブレダに移り4月4日にブレダ宣言を発して復位を提案、この宣言が4月25日に選挙で王党派が多数派になった仮議会に受諾され(5月1日)、チャールズは5月29日にロンドンに入城してイングランド王チャールズ2世となった。 即位直後に王党派への論功行賞が行われ、モンクはアルベマール公・大将軍に就任、側近のエドワード・ハイドはクラレンドン伯爵・大法官となり、エドワード・モンタギューはサンドウィッチ伯爵に叙爵、他の家臣にも叙爵・官位の授与が行われた。また、仮議会はブレダ宣言に基づく政治に取り組み、恩赦で議会派への罪は問われず(チャールズ1世の裁判に関わった人物は除く)、革命中に没収された土地の回復も行われ、チャールズ2世の財源は中世以来の国王大権の1つで、革命政府の最重要施策の1つであった徴発権が廃止される代わりにクロムウェルが導入していた消費税・関税を王室収入に充てる事に決定、チャールズ2世も同意したことで宣言の多くは実現した。しかし、イングランド国教会以外の宗教の寛容は認められなかった。 12月に仮議会は解散、1661年4月23日にウェストミンスター寺院でチャールズ2世は正式に戴冠式を挙行、同じ日に戴冠式に先立ってウェストミンスター寺院に埋葬されていたオリバー・クロムウェルの遺体は国王殺しの罪で剖棺斬屍され、晒しものとされた。5月8日に議会が召集され、「騎士議会」(1661年5月8日 - 1679年1月24日)と呼ばれる議会が治世の大半に開かれることになった[3]。 ・結婚 1662年、ポルトガルのブラガンサ王朝初代国王ジョアン4世の王女カタリナと結婚した。カタリナはイギリスではキャサリン・オブ・ブラガンザ(Catherine of Braganza)と呼ばれ、インドのボンベイ(ムンバイ)や北アフリカのタンジールを持参金とした。このため、これらの領土はイングランド領となる。カタリナはカトリックでプロテスタントのイングランド国教会の儀式には参列しなかったので、イングランドでは人気がなかった。チャールズ2世との間に子は生まれなかったので、後継者は弟のヨーク公ジェームズと目されるようになった。 チャールズ2世には結婚前からシャティヨン公爵夫人イザベル・ド・アンジェリク、ルーシー・ウォルター、エリザベス・キリグルー、キャサリン・ペグ、バーバラ・パーマーなど数多くの愛人があり、以後もネル・グウィン、ルイーズ・ケルアイユ、オルタンス・マンチーニ、フランセス・ステュアート、モル・デービスなど多くの愛人を持った。また、認知しただけでも14人の庶子があり、愛人及び彼女達が産んだ庶子達に大盤振る舞いの叙爵や屋敷をあてがい「陽気な王様」の渾名を取った(但し、庶子に王位継承権はなかった)[4]。 なお、あまりの艶福家だった王を見かねた殿医のドクター・コンドームが王のために牛の腸膜を使った避妊具を開発したのがコンドームの始まりというのは広く普及した俗説で、そうした医師が存在したことを示す史料はなく、コンドームの原型もチャールズ2世の時代から約100年前に既に存在している。 ・治世 チャールズ2世期のイングランド議会(騎士議会)は王党派が主導権を終始握り続けた長期間にわたる体制下にあった。しかし、騎士議会はチャールズ2世を終始支持したものの、財政問題や対フランス外交を巡って国王と議会の間の意見対立が次第に深刻化して、後の名誉革命の遠因となった。 議会とは別に、チャールズ2世の側近クラレンドン伯が政権を取り仕切り、1667年にクラレンドン伯が失脚、フランスへ亡命した後は5人の側近(クリフォード男爵、アーリントン伯、バッキンガム公、シャフツベリ伯、ローダーデイル公)が政権を担った。彼らはその頭文字から、キャバル政権(CABAL-陰謀を意味する)と呼ばれた。1673年からはダンビー伯がそれに替ったが、1679年にダンビー伯が失脚してからはハリファックス侯が側近となった。 1661年に議会は常備軍を解散させたが、国王警備など一定の範囲で存続と再軍備は認められ連隊が次々と創設された。しかし宗教問題で議会は寛容を認めず、1661年から1665年にかけて非国教徒を弾圧する一連の法案(クラレンドン法典)が議会で可決され、1662年のチャールズ2世の信仰自由宣言も却下された。同年、財政上の必要から、1658年にフランス・スペイン戦争でイングランド領になったダンケルクを4万ポンドでフランスに売却した。 オランダとの間に第二次英蘭戦争(1665年 - 1667年)が起こり、ブレダの和約によってオランダの北アメリカ植民地ニューアムステルダム(現在のニューヨーク州)がイングランド領となった。しかしこの戦争中にペストが流行したり(1665年)、ロンドン大火が発生し(1666年)、オランダ艦隊がテムズ川に侵入して沿岸の町々を砲撃した結果、財政は常に火の車であり、政府借入と返済のための炉税の徴収を巡って議会やシティとの紛糾が絶えなかった。 特に第三次英蘭戦争最中の1672年には、軍事関係以外の国庫支出の一時停止(事実上の財政破綻)を宣言したため、国内経済は大混乱に陥った。 1667年に英蘭戦争と災害の責任を取らされクラレンドンが失脚、CABALの5人が台頭したが、チャールズ2世は5人の上に立ち政治を取り仕切ることを図った。また、1667年に大蔵卿委員会(後の大蔵省)の委員にクリフォードとシャフツベリら5人が任命され、政府の支出監視と収入の改革を行い権限が強化され、余剰利得を接収するために徴税請負人を廃止して、中央による税の直接徴収を開始した。これによって税収は増加したものの、逆に税制の透明化が進んだ事によって、歳入に対する官庁・議会のチェックが容易となり、結果的には議会による課税承認権を盾にした税制や財政への関与が進み、却ってチャールズ2世の思惑であった自立的な財政運用(財政的側面からの絶対王政確立)を不可能とする効果を生む事になった。大蔵卿委員会の台頭で筆頭格の第一大蔵卿の権威も大きくなり、後に第一大蔵卿が首相へと変化する先駆けにもなった。 1668年にはスウェーデン・オランダと対仏三国同盟を結びネーデルラント継承戦争でスペイン領ネーデルラントを侵略するフランスを阻んだが、これは貿易上の競争相手であるフランスの台頭を嫌う議会の要求によるもので、フランスで亡命生活を送り、親仏的思考の持ち主であったチャールズ2世の本意にはそぐわないものであった。オランダ占領を狙うフランス王ルイ14世は1670年5月22日、チャールズ2世とドーヴァーの密約を結び、22万5千ポンドの年金と引き換えにイングランドがフランス側に参戦するように求めた。ルイ14世が美貌のフランス娘ルイーズ・ケルアイユをロンドンの宮廷に送り込んだのもこの頃のことである。この秘密条約では、チャールズ2世や後継者ジェームズのカトリックへの改宗も約束している。同年9月には三国同盟を締結した駐ハーグ大使ウィリアム・テンプルがイングランドへ召還された(1671年に正式に辞任を発表)。 1672年、フランス軍はオランダ侵略戦争を起こしてオランダに侵攻したが、オランダはオラニエ公ウィレム3世(チャールズ2世の甥)をオランダ総督に立て、オーストリアやスペインと同盟を結んだため、フランス軍は撤退した。チャールズ2世はこの戦争の初期に大艦隊を編成して第三次英蘭戦争(1672年 - 1674年)に踏み切ったが、オランダのミヒール・デ・ロイテル提督に敗れた上、1672年に発した信仰自由宣言を議会に非難され翌1673年に戦費承認と引き換えに撤回、非国教徒を職から排除する審査律の承認も強いられた。1674年には貿易再開を主張する議会の反発によりオランダと和睦、戦争を切り上げるほか無くなった。1677年にはダンビー伯の勧めにより議会の信用を回復すべく一転してウィレム3世に姪のメアリーを嫁がせてオランダと結んだが、定まらない外交姿勢と非国教徒及びカトリックへの寛容から生じた国民の不信感は消えなかった[5]。 なお、1673年にリターン号を日本に派遣して、1623年以来途絶していた貿易関係の再開を求めている。だが、当時の江戸幕府はかつての関係途絶が貿易不振によるイングランド側の判断によることやチャールズ2世が幕府の鎖国政策の直接的なターゲットとして考えていたポルトガルから王妃を迎えている事、日本側にも第三次英蘭戦争の情報が伝わっており、戦争に巻き込まれる危険性がある事を理由にこれを拒絶している。 治世の晩年はカトリック信仰を宣言したヨーク公ジェームズの王位継承問題で議会が紛糾し、カトリック陰謀事件やライハウス陰謀事件が起こり、王位排除法案が提出されるまでになった。ジェームズの排除により代わりにプロテスタントで庶子のモンマス公ジェームズ・スコットが王位継承者に想定されたが、チャールズ2世は王権の侵害として頑なにモンマスへの継承を認めようとしなかった。この際、ジェームズの王位継承を認めるグループが「トーリー党」(後の保守党につながる)、認めないグループは「ホイッグ党」(後の自由党につながる)と称され、これが二大政党制の起源ともいわれる。しかし、これらのグループ内で離合集散が繰り返されており、この段階で今日のような政党が成立していたわけではない。 1678年、カトリック陰謀事件でシャフツベリ率いるホイッグ党が反カトリックを掲げ政府批判を行い、ダンビー伯とフランスの密約を暴露して弾劾、カトリックのジェームズの非難に及んだ。チャールズ2世は翌1679年1月24日に騎士議会を解散させたが、解散後の選挙でホイッグ党が多数を占めた3月の議会はダンビー伯をロンドン塔へ投獄、王位排除法案提出でジェームズへの非難を止めなかったためジェームズをブリュッセルへ出国させた上で7月に2度目の解散を行い、翌1680年10月まで議会を開かなかった。3度目の議会でも排除法案を巡って大論争で収拾がつかなくなったため1681年1月に解散、3月21日にオックスフォードで開会した議会も排除法案の審議で僅か一週間の3月28日に解散、以後死ぬまで議会を開かなかった。 スコットランドでは即位からイングランドからの指令による間接統治を行い、CABALの1人であったローダーデイル公が国王代理として統治していたが、宗教制度を長老制から監督制に変えようとして1679年に反乱を起こされたため、ブリュッセルに亡命していたジェームズと交替、スコットランドはジェームズが実質的に統治することになった。 議会解散後、チャールズ2世はルイ14世からの資金援助と消費税・関税収入により議会不在でも政権運営が出来るようになり、ホイッグ党の切り崩しを図り自治都市の権利特許状の再交付を通してホイッグ派からトーリー派に切り替えさせ、各地の治安判事もトーリー党に交替させた。一方のホイッグ党はシャフツベリが反乱計画の容疑でオランダへ亡命、ホイッグ党の他の指導者層もライハウス陰謀事件で処刑され衰退、モンマスも事件の関与を疑われオランダへ亡命した。1682年にスコットランドからジェームズがイングランドへ帰国、1684年にダンビー伯の釈放により最晩年はチャールズ2世とトーリー党の優勢が築かれた[6]。 1685年2月、ホワイトホール宮殿(Palace of Whitehall、London 1530-1698) で心臓発作のため倒れ、死の床でカトリックに改宗、54才で死去した。後継の国王にはジェームズがジェームズ2世として即位した。 ・子女 王妃キャサリンとの間に子は無かったが、庶子として14人の子が確認されている ・ルーシー・ウォルター(1630-1658)との間に1人の子を儲けた 1.ジェームズ・スコット(1649-1685)〜モンマス公、バクルー公。バクルー公家の祖 ・エリザベス・キリグルー(1622-1680)との間に1人の子を儲けた 1.シャーロット・ジェミナ・フィッツロイ(1650-1684)〜 ジェームズ・ハワードと結婚、ヤーマス伯ウィリアム・パストンと再婚 ・キャサリン・ペグ(1635-?)との間に2人の子を儲けた 1.チャールズ・フィッツチャールズ(1657- 1680) - プリマス伯 2.キャサリン・フィッツチャールズ(1658) ・バーバラ・パーマー(1641-1709)との間に6人の子を儲けた 1.アン・フィッツロイ(1661-1722)〜サセックス伯トマス・レナードと結婚 2.チャールズ・フィッツロイ(1662-1730)〜クリーヴランド公。クリーヴランド公家の祖 3.ヘンリー・フィッツロイ(1663年 - 1690)〜グラフトン公。グラフトン公家の祖 4.シャーロット・フィッツロイ(1664年 - 1717) 5.ジョージ・フィッツロイ(1665-1716)〜ノーサンバランド伯、ノーサンバランド公 6.バーバラ・フィッツロイ(1672-1737)〜 修道女 ・ネル・グウィン(1650-1687)との間に2人の子を儲けた 1.チャールズ・ボークラーク(1670-1726)〜セント・オールバンズ公。セント・オールバンズ公家祖 2.ジェームズ・ボークラーク(1671-1680) ・ルイーズ・ケルアイユ(1649-1734)との間に1人の子を儲けた 1.チャールズ・レノックス(1672-1723)〜 リッチモンド公。リッチモンド公家の祖 ・モル・デービス(1648-1708)との間に1人の子を儲けた 1.レディ・メアリー・テューダー(1673-1726)〜デルウェントウォーター伯エドワード・ラドクリフと結婚。 14人の子供のうち、ルイーズ・ケルアイユとの間に出来たリッチモンド公、バーバラ・パーマーとの間に出来たグラフトン公の系統は、スペンサー伯爵家と婚姻を重ねてダイアナ元妃に至ることになった。従って、ダイアナ妃とチャールズ王太子との間に生まれたウィリアム王子とヘンリー王子は、チャールズ2世の血を引くことになる。 また、バーバラとの間に出来たレディー・アン・パーマーの系統とルーシー・ウォルターとの間に出来たモンマス公(後にバクルー公)の系統はセーラ元妃に至ることになり、セーラ妃とヨーク公アンドルーとの間に生まれたベアトリス王女とユージェニー王女もチャールズ2世の血を引くことになる。現在、チャールズ2世の子孫でバクルー公家、グラフトン公家、セント・オールバンズ公家、リッチモンド公家が存続している。 参考HP:〜 ・グロア島の場所地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 12/2/12 |