★日  本
文禄・慶長の役
1592〜1598
壬辰倭乱・丁酉再乱

大航海物語★
日本 Nippon 便郵国帝本日大 MARSHALL ISLANDS
日本の御朱印船

日本 昭和50年1975/9/25 発行
朝鮮半島と日本の地図

日本 昭和5年 1930/9/25 発行
亀甲船が豊臣秀吉侵略軍を撃破
李舜臣の亀甲船 壬辰倭乱
マーシャル 1998 発行

文禄・慶長の役(1592/4〜1598/12)は、韓国では「壬辰倭乱・丁酉再乱」と呼ばれています。豊臣秀吉が倭国を平定して後、その侵略軍が朝鮮に侵入して、倭軍と朝鮮・明援軍の連合軍が戦った戦争です。

前期が「文禄の役」(1592(文禄1年)〜1593)と呼ばれて、宇喜多秀家を総大将として16万の軍勢を朝鮮に出兵するも休戦となりました。

その後、明との講和交渉が決裂、小早川秀秋を総大将として14万の軍を再出兵したのが、後期の「慶長の役」(1597(慶長2年)〜1598)と呼ばれています。





文禄の役
1592〜1593
壬辰倭乱

日本 Nippon
日本の千石船

日本 昭和51年 1976/3/11 発行
日本の甲冑

日本 2003/5/23  発行

明のジャンク船

グレナダ 1998/4/26 発行

文禄の役 (1592年(文禄元年)〜1593年(文禄2年)・休戦)
 壬辰倭乱
 (じんしんわらん、イムジンウェラン)=韓国
▼あらまし
豊臣秀吉が文禄元年(1592年)に中国「明」の征服と朝鮮(李氏朝鮮)の服属を目指して宇喜多秀家を総大将として16万の軍勢を、九州の名護屋城から壱岐島と対馬を前線基地として、朝鮮に大航海して出兵したのです。初期は朝鮮軍を撃破、漢城(現・ソウル)、平壌(現・ピョンヤン)などを占領して圧倒するも、各地の義兵の抵抗や「明」の援軍の到着によって戦況は膠着状態となり、文禄2(1593)年に「明」との間に休戦交渉が開始され、文禄5(1596)年に講和交渉を始めて休戦になりました。

▼倭軍を編成
1582年の本能寺の変で織田信長(1534-82)が倒れた後、倭国の支配者となった豊臣秀吉(1536-98)は、次なる目標として「明」の征服を決意。十分な海軍力を持たない秀吉は、1586年から2000隻の船の建造を始めました。1587年には朝鮮軍の強さを測るため、26隻からなる襲撃部隊を朝鮮南岸に派遣し、朝鮮軍は問題にならないと結論づけていましたが、朝鮮半島を通り陸路「明」に侵攻する計画を立て、そのために李氏朝鮮を倭国に服属させる交渉を側近の小西行長(?-1600)と対馬の宗義智(1568-1615)に命令。当時、「明」の冊封体制下にあった朝鮮との交渉が決裂すると、1591/8月に秀吉は「唐入り」を宣言し、一番隊から九番隊までの9軍団総勢15万8000人からなる朝鮮出兵の軍勢を編成し、大阪城から名護屋城(現・佐賀県唐津市鎮西町名護屋)の前線司令部に旧暦4/25に出ばりました。

▼倭軍の上陸
1592(文禄1)/4/12に小西行長率いる一番隊1万8700が釜山浦に上陸。倭軍は翌13日より攻撃を開始。戦国の世に鍛えられ多数の「てっぽう」(火縄銃、ポルトガル伝来のマスケット銃)を装備した倭軍は、その日の内に釜山城を攻略すると北上を開始。これに対して朝鮮側は、急遽8000の兵を編成し、漢城(漢陽・現在のソウル)の南方約100kmの忠州で倭軍を迎撃、1592/4/27にこの部隊は倭軍の「てっぽう」による一斉射撃を浴びて壊滅。倭本軍の侵攻への対応が遅れた朝鮮軍は連戦連敗や無血撤退・逃散を重ねました。釜山鎮の戦い(鄭撥の戦死)、東莱城の戦い(宋象賢の戦死)、尚州の戦い(李鎰の敗走)、弾琴台の戦い(申リツの戦死)などで倭軍は連戦連勝。一番隊(小西行長、他)、二番隊(加藤清正、他)、三番隊(黒田長政、他)を先鋒に三路に分かれて急進。忠州での朝鮮軍大敗の報が届き、首都・漢城(漢陽・現在のソウル)に倭軍が迫ると朝鮮国王・李氏朝鮮の宣祖は首都・漢城を放棄して平壌に移り、5/1に小西行長率いる一番隊が漢城を無血で占領。このとき朝鮮の民衆は既に王や大臣を見限り、倭軍に協力する者が続出。また後日、明の朝鮮支援軍が駆けつたときには、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民でした。景福宮・昌徳宮・昌慶宮の3王宮は、倭軍の入城前にすでに灰燼となっており、奴婢(ぬひ、奴隷)は倭軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放っていました。

その他の部隊もすぐ後に続き、4/17に釜山浦に上陸した加藤清正(1562-1611)率いる二番隊も、5/3に漢城に入城。5/8までに八番隊までが漢城への入城を果たしました。容易に李氏朝鮮の首都である漢城が陥落すると、倭軍の諸将は5月に漢城で軍議を開き、各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決め、朝鮮八道を分担統治することにしました。
(1)平安道(ピョンアンド):一番隊:小西行長他、
  (平安北道 ピョンアンブクト)〜(新義州市 シニジュシ
  (平安南道 ピョンアンナムド)〜(平壌(ピョンヤン)市)(安州(アンジュ)市)
(2)咸鏡道(ハムギョンド):二番隊:加藤清正他、
  (咸鏡南道 ハムギョンナムド)〜(咸興(ハムフン)市)
  (咸鏡北道 ハムギョンブクト)〜(鏡城(キョンソン)郡)
(3)黄海道(ファンへド):三番隊:黒田長政他、
  (黄海北道 ファンヘブクト)〜(開城 ケソン)(黄州(ファンジュ)郡)
  (黄海南道 ファンヘナムド)〜(海州(ヘジュ)市)
(4)江原道(カンウォンド):四番隊:毛利吉成他〜(江陵(カンヌン)市)(原州(ウォンジュ)市)
(5)忠清道(チュンチョンド):五番隊:福島正則他、
  (忠清南道チュンチョンナムド)〜(大田(たいでん(テジョン)広域市)
  (忠清北道チュンチョンプクド)〜(忠州(チュンジュ)市)(清州(チョンジュ)市)
(6)全羅道(チョルラド):六番隊:小早川隆景他、
  (全羅南道 チョルラナムド)〜(羅州(ナジュ)市)
  (全羅北道 チョルラプクド)〜(全州(チョンジュ)市)
(7)慶尚道(キョンサンド):七番隊:毛利輝元他、

北朝鮮 2007 発行
  (慶尚南道 キョンサンナムド)〜(釜山(プサン)広域市)(蔚山(ウルサン)広域市)
  (慶尚北道 キョンサンプクド)〜(慶州(キョンジュ)市)
(8)京畿道(キョンギド):八番隊:宇喜多秀家他、〜(水原(スウォン)市)(広州(クァンジュ)市)
  (漢城(漢陽・ソウル)、現在はソウル特別市)と
  (仁川(インチョン)広域市)〜(江華(カンファ)郡=江華島、喬桐島、席毛島などを除く)。

倭軍の進撃が平壌に迫ると、国王・宣祖は遼東(りょうとう(リャオトン)半島との国境である北端の平安道北道の義州へと逃亡し、冊封に基づいて明に救援を要請。その間にさらに北上した日本の一番隊と三番隊は1592/6/16に平壌を占領して進撃を停止しました。一方、開城の攻略まで行動を共にしていた二番隊は咸鏡道に進路を転じ、同地に避難していた朝鮮国王の王子2人(18才の臨海君(イムヘグン)と14才の順和君(スンファグン)を捕虜にし、倭軍は北西部の平安道の平壌より北方と全羅道を除く朝鮮全土を制圧し、加藤清正の一隊は威力偵察のため国境を越えて明領・オランカイ(兀良哈)へ攻め入りました。

▼海戦(#)
陸上では破竹の進撃を続ける倭軍でしたが、海上では朝鮮水軍に苦戦。倭軍に大きく後れを取った朝鮮軍でしたが、釜山を基点として支配領域を広げていた倭軍後方部隊のうち、海岸移動を行っていた倭軍船団に対して李舜臣(1545-98)率いる朝鮮水軍が5月6月の2回の出撃で積極的に攻撃を加え、備えのない倭軍船団は大きな被害を受けました。海戦用の水軍や朝鮮沿岸を西進する作戦を持たなかった倭軍は、陸戦部隊や後方で輸送任務にあたっていた部隊から急遽水軍を編成して対抗しました。

こうして編成された倭水軍は、朝鮮名将の李舜臣率いる朝鮮水軍と、1592/5/2に玉浦沖で、5/29には泗川浦で戦い、朝鮮水軍に撃破されました。秀吉は脇坂安治(1554-1626)、九鬼嘉隆(1542-1600)、加藤嘉明(1563-1631)の三水軍大将に海上の警固を命令するも、脇坂安治の抜け駆けで敗れ去りました。7/7に閑山島付近海戦にて91隻の朝鮮水軍に遭遇した脇坂船隊73隻が惨敗を喫して敗北、続いて援護のために進出し駆けつけた加藤嘉明と九鬼嘉隆の水軍船隊も大打撃を受け、李舜臣の泊地攻撃に耐えかねて後退。そのため倭軍は海戦の不利を悟って、積極的な出撃戦術から消極的な水陸共同防御戦術へ方針を変更しました。(※)

▼朝鮮・明連合軍の反撃
1592/7月、援軍に来た祖承訓率いる遼東半島の明軍が最前線の平壌を急襲するも、小西行長隊が撃退。さらなる明の救援によって戦況は膠着状態となり、交渉優先の状況となりました。朝鮮へ派遣された諸将は八道国割を目標に要衝を制圧していくも、小西行長は当初は李氏朝鮮、後には明との和平交渉を優先して平壌で北進を停止。また小早川隆景は忠清道方面から全羅道に侵入しましたが「権慄」の反撃によって進撃を阻まれ、直後に南下する明軍の攻撃に対応するために漢城へ転出したため、全羅道の制圧は進みませんでした。

日本軍は釜山西方の制圧を画策して、第一次晋州城攻防戦(1592/10/4〜10/10、細川忠興の倭軍と金時敏の朝鮮軍)を生起させるが苦戦したうえ、攻城に失敗。なお、この戦闘は閑山島海戦(1592/7月、脇坂安治の倭軍と李舜臣の朝鮮軍)、幸州山城攻防戦(1593/2月、宇喜多秀家の倭軍と権慄の朝鮮軍)とあわせて韓国では「壬辰倭乱の三大捷」と呼ばれています。

沿岸の制海権を失っていた倭軍は、漢城や平壌へ海路兵糧を輸送することが不可能になり、そのうえ陸上でも各地で決起した義兵がゲリラ戦を展開したため、倭軍の物資の輸送路は寸断されました。倭軍は朝鮮半島南部支配を確保するため、10/4に細川忠興(1563〜1645)率いる2万の軍勢で晋州城を包囲(第二次晋州城攻防戦)するも、籠城する3800の朝鮮軍の激しい抵抗に加え、全羅道の義兵2000が背後から倭軍を牽制したため攻略に失敗、10/10に晋州城から撤退しました。

朝鮮国王からの援軍要請を受けた明は、祖承訓率いる5000の援軍を朝鮮へ派遣するも、この部隊は平壌の小西行長の反撃を受け壊滅。事態を重く見た明はひとまず倭軍と停戦協定を結び、その間に李如松(?〜1598)が指揮する4万3000の軍勢を編成。12/23に鴨緑江を渡り朝鮮に入り、李如松はさらに朝鮮軍1万を加え、1593(文禄2)/1/5に平壌を包囲。不意を突かれた小西行長率いる倭軍1万5000は1/7に総攻撃で平壌城外壁を明軍に突破されて漢城へ退却し、李如松が率いる明軍が平壌を奪還しました。李如松はさらに漢城攻略を目指し、明軍2万を率いて南下するも、宇喜多秀家(1572-1655)を総大将とする倭軍4万1000が、1/26に漢城城外の碧蹄館で迎撃。この戦いで騎馬を主力とする明軍は日本軍の「てっぽう」隊の前に大敗北。碧蹄館の敗戦によって李如松は戦意を失い、これ以降は積極的な攻勢には出なくなりました。一方の倭軍も、2/12に幸州山城の攻略に失敗、また兵站の不足にも悩まされていました。この段階で両者の戦線が行き詰まり、和平交渉が始められました。そのため、明軍と倭軍の間で講和が締結され、4/18に倭軍は漢城から撤退しました。

▼和平交渉開始と義兵の決起
秀吉は明との交渉を有利にするために、慶尚南道の沿岸に待機している倭軍に特使を送り、前年攻略に失敗した晋州城への再攻撃を命令。本国からの増援部隊を加えて9万3000もの大軍を投じた倭軍に対して、朝鮮側は官・義兵約7000を集中して迎撃体制を整え、城将の金千鎰は明軍に救援要請を出すも、和議を進める明側はすでに戦意を喪失していて支援しませんでしたので、苦戦しました。

この段階で両者の戦線が行き詰まり、和平交渉が始められました。占領各地では義兵の決起が生じ、このため武器・兵糧不足に悩まされました。この義兵は流民も多く、朝鮮の民衆や軍隊も襲う事もありました。漢城に集結して和平交渉を始めていた倭軍は、本土から釜山までの海路の補給は維持していました。釜山から漢城までの陸路の治安が悪化して食糧などの補給が滞りがちであったため、加藤清正が捕虜にした李氏朝鮮の2人の王子(臨海君・順和君)の返還と引き替えに釜山周辺の南部へ4月頃までに移陣しました。こうして兵力と補給に余裕が出てきたことにより朝鮮南部の支配を既定事実とするため、朝鮮南部へ布陣した諸将を動員して倭軍は6/19より進撃開始(第二次晋州城合戦)、宣寧に集結していた平安巡辺使・李賓、全羅巡察使・権慄、全羅兵使・宣居怡などの朝鮮軍が敗走。21日に晋州城は包囲され、1593/6/22から本格的に開始された倭軍の猛攻にさらされ、26日には宇喜多秀家が降伏勧告を行うも朝鮮軍には容れられず、6/29に晋州城は激戦の末に城壁が突き崩され陥落し、城内に居た者は数万の一般民衆にいたるまで皆殺しにされました。

晋州城を攻略(当初は漢城戦線を維持したまま倭国本土からの新戦力を投入する計画)した倭軍は、更に全羅道を窺うも明軍の進出(1593/6/13に明の琳虎が兵4万で進軍)によって戦線は膠着し、長い休戦期に入りました。

・上陸時の倭軍の編成:〜
番隊 倭軍の武将 兵力
小西行長、宋義智ら 1万8700
加藤清正、鍋島直茂ら 2万2800
黒田長政、大友義統 1万1000
島津義弘ら 1万4000
福島正則、蜂須賀家政、長宗我部元親ら 2万5000
小早川隆景、小早川秀包ら 1万5000
毛利輝元 3万0000
宇喜多秀家 1万0000
羽柴秀勝、細川忠興 1万1500
合 計 15万8000

・1592年の主な合戦:〜(文禄の役の主な合戦
04/14 釜山鎮の合戦
04/15 東莱城の合戦
04/25 尚州の合戦
04/.28 忠州弾琴台の合戦
05/03 漢城陥落
05/07 巨済島・玉浦合浦海戦
05/08 赤珍浦海戦
05/18-28 臨津江の合戦
05/29 開城陥落
05/29 泗川の合戦
06/02 唐浦海戦
06/05 唐項浦海戦
06/05 龍仁の合戦
06/07 栗浦海戦
06/15 平壌陥落
07/08-09 錦山(熊峙・梨峙)の合戦
07/08 閑山島海戦
07/10 安骨浦海戦
07/17 平壌攻撃(祖承訓の攻撃)
07/18-19 海汀倉の合戦
08/22 延安の合戦
09/03 釜山浦海戦
09/16 鏡城の合戦
10/06-10 晋州城の合戦(第一次)
10/16 咸興の合戦
11/15 吉州長平の合戦
・1593年の主な合戦:〜
01/06-09 平壌の合戦
01/25-27 碧蹄館の合戦
02/12 幸州山城の合戦
06/19-29 晋州城の合戦(第二次)

▼倭軍の動員兵力〜「文禄の役」
1番隊:1万8700人
 小西行長 7000人(肥後宇土 20.0万石)
 宗義 智  5000人(対馬府中 1.0万石)
 松浦鎮信 3000人(肥前平戸 6.3万石)
 有馬晴信 2000人(肥前日野江 4.0万石)
 大村喜前 1000人(肥前大村 2.5万石)
 五島純玄  700人(肥前五島 1.4万石)
2番隊:2万2800人
 加藤清正 10000人(肥後熊本 19.5万石)
 鍋島直茂 12000人(肥前佐賀 35.7万石)
 相良頼房  800人(肥後人吉 1.8万石)
3番隊:1万1000
 黒田長政  5000人(豊前中津 18.0万石)
 大友吉統  6000人(豊後府中 23.6万石)
4番隊:1万4000人
 毛利吉成  2000人(豊前小倉 6.0万石)
 島津義弘 10000人(薩摩大隅 60.5万石)
 高橋元種  600人(日向県 5.0万石、以下4名で計2000人)
 秋月種長  400人(日向財部 3.0万石)
 伊東祐兵  600人(日向飫肥 5.7万石)
 島津豊久  400人(日向佐土原 2.8万石)
5番隊:2万5000+100人
 福島正則 4800人(伊予今治 20.0万石)
 戸田勝隆 3900人(伊予大洲 7.0万石)
 長宗我部元親 3000人(土佐浦戸 22.2万石)
 蜂須賀家政 7200人(阿波徳島 17.7万石)
 生駒親正 5500人(讃岐高松 15.0万石)
 来島通総  700人(伊予風早 1.4万石)
6番隊:1万5000人
 小早川隆景 10000人(筑前名島 35.7万石)
 小早川秀包  1500人(筑後久留米 3.5万石)
 立花宗茂  2500人(筑後柳川 9.9万石)
 高橋直次  800人(筑後内山 1.8万石)
 筑紫広門  900人(筑後山下 1.8万石)
7番隊:3万0000人
 毛利輝元 30000人(安芸広島 120.0万石)
8番隊:1万0000人
 宇喜多秀家 10000人(備前岡山 57.4万石)
9番隊:1万1500人
 羽柴秀勝 8000人(美濃岐阜 24.0万石)
 細川忠興 3500人(丹後宮津 23.0万石)
諸隊:1万2250人
 中川秀政 3000人(播磨三木 14.0万石)
 宮部長煕 2000人(因幡鳥取 13.1万石)
 南条元清 1500人(伯耆羽衣石 6.0万石)
 稲葉貞通 1400人(美濃郡上 4.0万石)
 亀井茲矩 1000人(因幡鹿野 1.4万石)
 木下重堅  850人(因幡若桜 2.0万石)
 斎村広英  800人(但馬竹田 2.2万石)
 明石則実  800人(但馬城崎 2.2万石)
 別所吉治  500人(但馬八木 1.5万石)
 垣屋恒総  400人(因幡浦住 1.0万石)
水軍:8500人
 藤堂高虎 2000人(伊予粉河 2.0万石)
 九鬼嘉隆 1500人(志摩鳥羽 3.0万石)
 脇坂安治 1500人(淡路洲本 3.0万石)
 加藤嘉明  750人(淡路志知 1.5万石)
 菅平達長  250人(淡路岩屋 1.0万石)
 桑山一晴 1000人(紀伊和歌山 2.0万石)
 堀内氏善  850人(紀伊新宮 2.7万石)
 杉若氏宗  650人(紀伊田辺 1.9万石)
奉行隊:7200人
 石田三成 2000人(近江佐和山 19.4万石)
 大谷吉継 1200人(越前府中 5.0万石)
 増田長盛 1000人(近江水口 5.0万石)
 加藤光泰 1000人(甲斐甲府 24.0万石)
 前野長康 2000人(但馬出石 5.3万石)
総合計:18万6050人。
なお、上記9軍団の内の2軍団21,500人は予備として、それぞれ対馬と壱岐島に駐屯。

▼参考:〜
・晋州城(しんしゅうじょう、チンジュソン)の攻防戦
  (1592/10/6〜10、1593/6/21〜29)

晋州城攻防戦は、文禄の役における二回の攻城戦で、
朝鮮半島の晋州城(現在の晋州市)を守る朝鮮軍を倭軍が攻撃。
第1次晋州城の合戦は、文禄元年(1592年)10月4日から10日までで、朝鮮軍が守りきり、
第2次晋州城の合戦は、文禄2年(1593年)6月21日から29日までで、倭軍が攻城。


・幸州山城(こうしゅうやまじろ、ヘンジュサンソン)の攻防戦
 (1593/2/12)

碧蹄館の戦いで明軍を破った倭軍は、漢城の付け城的な存在である幸州山城の攻略を狙って幸州山城攻防戦を起こすが、短期決戦の見通しが無く、援軍の動きを見た倭軍は攻略を諦めて撤退、権慄は幸州山城を守りきった。権慄が率いた2千余人の朝鮮軍が、宇喜多秀家・小早川秀包・小早川隆景・黒田長政・小西行長・石田三成・吉川広家の合計3万人の軍勢を打ち破ったことは朝鮮軍の士気を高めた。韓国では幸州大捷として三大大捷の一つに数えている。ただし、朝鮮軍も攻城戦後、日本からの圧力に耐えかねて権慄は幸州山城から退去している。この戦いで婦女子がヘンジュ(エプロン)姿で石を投げたという話が言い伝わり、この城の名前が幸州山城になったと言われている。現在は正門が残っているだけ。この山の名前は徳陽山。

(#)▼文禄の役の海戦
文禄元(1592)/4月の釜山上陸以来、見るべき抵抗の無かった朝鮮南岸に対し、侵攻作戦こそ無いものの策源地の釜山を中心に番外の所隊が支配領域拡大のために展開をしていた。 これらの部隊の海上移動にあたっていた海運部隊が、李舜臣を中心とする朝鮮水軍の5月迎撃6月迎撃の二度の出撃で大きな被害を出していた。 これに対処するために豊臣秀吉は6/23付けの書状で陸戦や後方輸送に従事していた脇坂安治(動員定数1500人)、九鬼嘉隆(動員定数1500人)、加藤嘉明(動員定数750人)の三大名を招集し朝鮮水軍を討つように命じた。 6/14に三大名は釜山浦に集結したが、功名に逸った脇坂安治は抜け駆けをして7/7に巨済島へ単独出撃。

一方、二度の出撃で戦果を上げた朝鮮水軍の全羅左水使・李舜臣(24隻)は7/6に倭水軍の動きを察知すると直ちに出撃し、慶尚右水使・元均(7隻)と全羅右水使・李億祺(25隻)の水軍と合流した。 7/8に倭水軍を発見した李舜臣は出撃を主張する元均を抑え、囮と潮流を使った迎撃作戦(閑山島海戦)を展開。また、この船隊には亀甲船三隻が参加。囮と海流に乗って出撃した脇坂水軍は有力な朝鮮水軍の迎撃を受け大きな被害を出し、脇坂安治も窮地に陥るが、座乗船(安宅船)の大きさと櫂の数による機動性を生かして撤退に成功。李舜臣は自身の記録である乱中日記に、倭水軍の発見数を大船36隻・中船24隻・小船13隻、撃破数を63隻と記録。だが、脇坂安治の動員数が1500人であることを考えると攻撃側から見た発見数と戦果は過大評価(翌年5月の晋州城攻撃時の脇坂軍の点呼員数は900人) 。しかしながら、この海戦で脇坂安治は、武将の脇坂左兵衛と渡辺七衛門を失い、また、海賊出身の真鍋左馬允は船を失って上陸後に責任感から切腹しているので大きな被害を受けたことは確実。また脇坂水軍の内、海戦中に船を放棄して閑山島に上陸した者が200人生還。

脇坂の抜け駆けを知った九鬼と加藤の水軍は7/6に釜山出帆、7日に加徳島、8日に安骨浦に停泊して後を追った。安骨浦に倭水軍が停泊しているとの報告を受けた李舜臣は悪天候で足止めされた後、10日に停泊中の倭水軍を安骨浦で襲撃。安骨浦は浅瀬で大型船の運用に危険が伴うため、李舜臣は倭水軍を誘引する作戦を取ったが日本水軍は誘いに乗らず、やむなく順次突入して大砲を放つ作戦へ変更後、朝から晩まで攻撃を繰り返した。攻撃を受けた倭水軍は夜の内に安骨浦を脱出して釜山浦に帰投、朝鮮水軍も翌日から閑山島の根拠地へ帰投。李舜臣は自身の記録である乱中日記で倭水軍の発見数を大船21隻・中船15隻・小船6、と記録。

(※)なお、倭軍は海戦の不利を悟って、積極的な出撃戦術から消極的な水陸共同防御戦術へ方針を変更、当時の船は航海力も攻撃力も未熟であり、陸上への依存が強いため、水陸共同防御戦術は有効に機能し、以降の李舜臣の攻撃は戦果があがらず精彩を欠くようになり、出撃も滞ることとなったとの説も有り。それは朝鮮水軍が長年の倭寇対策で船体破壊のための遠戦指向に対して、船員制圧のための近戦指向の倭水軍では装備や戦術の差もあって、正面衝突の海戦をすると倭水軍が不利であったことによる。しかし当時の船は航海力も攻撃力も未熟であり、陸上への依存が強いため水陸共同防御戦術は有効に機能し、以降の李舜臣の攻撃は戦果があがらず精彩を欠くようになり、出撃も滞ることとなった。

閑山島の海戦 (文禄元年、1592/7/7)
 かんざんとうのかいせん
閑山島の海戦は文禄の役における海戦の一つで、閑山島と巨済島の間の海峡で単独出撃をした脇坂安治の水軍が、朝鮮水軍の誘引迎撃戦術により撃破された海戦。

参考:〜
・韓国:2005年の面積・人口:〜:参考地図HP:〜韓国の行政区画
行政区域 庁舎所在地 面積(ku) 人口(人)
 1 ソウル特別市 中区 605.40 9,820,171
 2 釜山広域市 蓮堤区 764.43 3,523,582
 3 大邱広域市 中区 884.46 2,464,547
 4 仁川広域市 南洞区 994.12 2,531,280
 5 光州広域市 西区 501.41 1,417,716
 6 大田広域市 西区 539.78 1,442,856
 7 蔚山広域市 南区 1,057.14 1,049,177
 8 京畿道 水原市勧善区 10,130.86 10,415,399
 9 江原道 春川市 16,613.46 1,464,559
10 忠清北道 清州市上党区 7,431.44 1,460,453
11 忠清南道 大田広域市中区 8,600.52 1,889,495
12 全羅北道 全州市完山区 8,054.62 1,784,013
13 全羅南道 務安郡 (南岳) 12,073.46 1,819,819
14 慶尚北道 大邱広域市北区 19,025.96 2,607,641
15 慶尚南道 昌原市 10,520.82 3,056,356
16 済州特別自治道 済州市 1,848.27 531,887
(T)大韓民国 (2008年) 98,480 48,333,000
朝鮮民主主義人民共和国 (2008年) 120,540 23,906,000

参考地図HP:〜対馬朝鮮八道

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。    09/5/26

スタンプ・メイツ
Copyright(C):Nicky
無断転載禁止