大航海物語 |
サン・フェリペ号の遭難 1596/10/19 San Felipe Incident |
参考資料 |
ESPANA ルソンからノビスパンへお宝を運んだ 船団を組むマニラ・ガレオン船が嵐で遭難 Manila(Spanish)Galleon パナマ 1968/5/7 発行 |
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マニラ・ガレオン船 | サン・フェリペ号の航海地図 | ||
マニラ→ |
←アカプルコ |
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土佐沖に吹き寄せられて浦戸湾沖に漂着 フィリピン 2010 発行 |
・サン・フェリペ号の遭難 (1596:文禄5/9/28) San Felipe Incident マニラ・ガレオン船サンフェリペ号の遭難事件 Spanish Manila-Acapulco Galleon ”San Felipe” shipwreck ▼初めに マニラ・ガレオン船サン・フェリペ号事件は、1596(文禄5)年に起こった日本の四国土佐でのスペイン船の漂着事件で、豊臣秀吉の命で取調べた五奉行の一人の増田長盛(1545天文14〜1615元和元)が「スペインはルソン(フィリピン)やノビスパン(メキシコ)を征服する前に宣教師を送り込んでいた」という報告で、秀吉の唯一のキリスト教徒への直接的迫害(日本二十六聖人殉教)のきっかけとなったといわれています。この事件についての日本の資料は「長曾我部元親記、1632」、「土佐物語、1708」、「甫庵太閤記、1626」、「天正事録」などがあります。スペイン側の資料は、サン・フェリペ号の航海日誌は日本で没収されたため現存しないも、後にマティアス・デ・ランデーチョ船長(Cpt. Matias de Randecho)が「サン・フェリペ号遭難報告書」を記し、それは現在スペインのセビリア(Sevilla)で旧商品取引所(Casa Lonja de Mercaderes、1598)に置かれている「インディアス総合古文書館(Archivo General de Indias、1785-現在)」に現存。他にフィリピン総督府記録はじめ、宣教師による記録など、多数存在しています。 ▼サン・フェリペ号の遭難 1596/7月(文禄5)にフィリピンのマニラ港(Manila)からスペインのガレオン船サン・フェリペ号(Spanish Galleon San Felipe、250tns、大砲14門、小型砲4門)、マティアス・デ・ランデーチョ船長、乗組員他の乗船者233人が積荷を満載し、メキシコのアカプルコ港(Acapulco)を目指して太平洋横断大航海に出帆しました。同船に帰国中のキリスト教宣教師7人、フランシスコ会(Franciscans)司祭フェリペ・デ・ヘスース(Felipe de Jesus)とファン・ポーブレ(Juan Poble)の2人、アウグスチノ会4人、ドミニコ会1人が乗船。サン・フェリペ号は太平洋上の貿易風に乗ろうと黒潮に乗って北に進路をとっての航海中に、3回に渡り台風に遭遇(東シナ海説有)、メインマストを切り倒し、四百個の積荷を放棄するも、船は甚大な被害を受け、船員達も負傷し、舵を失い、船体は大破・漂流して、1596/10/19(文禄5/9/28)に四国の土佐沖に吹き寄せられて浦戸湾沖に漂着しました。 遭難して漂流する南蛮船の大船を見た地元の漁師の知らせを受けた領主の長宗我部元親(1539天文8〜1599慶長4)は、水軍(小舟)200艘余りを率いて自ら検分に赴きました。日本人に危害を加えられるのを心配していたサン・フェリペ号の船長は、元親から安全を保証されて安堵し、浦戸湾への入湾を決意。多くの小舟に曳かれたサン・フェリペ号は、桂浜を回り満潮を待って浦戸湾内に入るも、船底が岩礁に乗り上げて、湾内の砂州に座礁。座礁したのは満潮時には水没して見えないクルス岩(岩礫(クリ)のある州の意)といわれ、その場所は湾口より500m程奥の西岸、アコメのすぐ近くといわれています。 満載の積荷は、台風遭遇時に流失したり放棄した一部(400個)はあるも、それでも膨大な量で、多くの舟を使って、数日がかりで近くの浜へ幾度も往復して陸揚げしました。領主は陸揚げされた積荷を厳重に監視。乗組員・宣教師達は全員上陸を許され、宣教師と上級船員は浦戸の大きな屋敷に、その他は座礁場所近くの村に分散して収容され、領主の監視下におかれるも、宣教師や上級船員達の扱いは寛容で、宣教師達は近くの廃寺を借りて仮教会として祈りを許されました。その仮教会は、現在の「唐人畑」(桂浜近く)にあったとの説があります。 船員達は長浜(現:高知市長浜)の町に宿を与えられ、一同で協議の上、船の修繕許可と身柄の保全を求める使者に贈り物を持たせて秀吉の元に差し向け、船長のランデーチョは長浜に待機。しかし使者は秀吉に会うことを許されず、使者の一人ファン・ポーブレが戻ってきて、積荷が没収されることと自分達も処刑される可能性があることを伝えると船員一同は驚愕としました。そこへ五奉行の一人の増田長盛が浦戸に派遣されてきました。 ・秀吉の処置 領主の元親はサンフェリペ号遭難に関し、事の次第を秀吉に報告し、積荷の内容なども細かに書き送りました。秀吉は積荷の内容に必要品の多くを見つけ、没収を決意して、秀吉は積荷接収のために、五奉行の一人の増田長盛を土佐に派遣しました。増田らは、同伴の黒人男女にいたるまで船員全員の名簿を作成し、積荷の一覧を作ってすべてに太閤の印を押しました。船員達は「種崎」の竹矢来に囲まれた一画に移され、厳重な監視を受け、幽閉された上、所持する金品をすべて提出するよう命じられました。さらに増田らは「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる3人のポルトガル人ほか数人に聞いた」という書状で秀吉に告げました。増田らの一行は積荷と船員の所持品をすべて没収し、航海日誌などの書類をすべて取り上げて破棄すると、都に戻りました。 無一文となったランデーチョ船長はすぐに都に上って秀吉に直接抗議しようと決めるも、長宗我部元親の許可がなかなか得られず、12月になってようやく都に上りましたが、都では交渉の仲介を頼もうとしたフランシスコ会などスペイン系の宣教師たちが捕らえられていました。その宣教師はやがて処刑されることになりましたし、サン・フェリペ号乗船の宣教師たちのうち、不運はフランシスコ会のフェリッペ・デ・ヘスス修道士。彼はメキシコで司祭叙階を控え、サン・フェリペ号に乗船するも、途中難破により土佐に上陸し、乗船者数人とともに、秀吉に乗員と積荷の安全を懇願すべく大坂に赴き果たさず、滞在中に捕らえられ、翌年に二十六聖人の一人として殉教しました。 ▼サン・フェリペ号のその後 その後、船員たちの度重なる申し出を受けて、サン・フェリペ号の修繕が許され、修理に必要な資材は、増田奉行に願い出て3ヵ月ほどの期間で修理を完了、食料を土佐側から給付されて、一同は1597/4月に浦戸を出帆し、5月にマニラに到着。マニラではスペイン政府によって本事件の詳細な調査が行われ、船長のランデーチョらは証人として喚問されました。その後、1597/9月にスペイン使節としてマニラからドン・ルイス・ナバレテらが秀吉の元へ送られ、サン・フェリペ号の積荷の返還と二十六聖人殉教での宣教師らの遺体の引渡しを求めるも、果たせませんでした。 ・当時の海事法(廻船式目)との関連 当時日本にいた宣教師ルイス・フロイスもこの事件の顛末を述べており、そこでは「漂着した船舶は、その土地の領主の所有に帰するという古来の習慣が日本にあったため」積荷が没収されたと記述。なお、廻船式目とは鎌倉時代に当時の海上の慣習を文章化した上で鎌倉幕府の裁可を得たもので、後に長宗我部元親がこれを発見して豊臣秀吉の「海路諸法度、1592」の元になりました。その「廻船式目」では、第一条で難破船の積荷の扱いについては、難破船に生存者がいない場合はその資産を漂着地の神社仏閣の造営費にあててもかまわないとされ、「海路諸法度」では漂着船がでて積荷を入手したものがいても、船主から請求があった場合、ただちに積荷を返さなければならないとされていました。それはサン・フェリペ号の場合、廻船式目でも海路諸法度でも積荷の権利はスペイン人船員たちに保障されていたのを、秀吉が特別の理由で没収しました。 ・サン・フェリペ号事件と二十六聖人殉教との関係は、サン・フェリペ号事件が直接的に引き起こしたという単純なものではなく、都の周辺での活動を自粛していたイエズス会(Society of Jesus:IHS)に対して、新進のスペイン系フランシスコ会(Franciscan)やアウグスティノ会(Augustinians)が活発に活動をしていたことが秀吉の目についたこと、イエズス会とそれらの托鉢修道会の間にも意見の相違や相克があったこと、事件当時の秀吉が明の冊封使の対応に忙殺されていたこと、呂宋国(フィリピン)との外交関係に関して秀吉に明確な方針がなかったことなど多くの原因が複合して起こったものと考えられています。 参考HP:〜 ・サン・フェリペ号(1690年頃の模型の写真) ・大航海時代のスペイン(白)・ポルトル(青)の貿易航路地図(16世紀頃) ・太平洋の地図 ・こちらで日本二十六聖人の殉教を、 ・こちらで南蛮船を、 ・こちらで日本製のガレオン船(2)サン・フアン・バウティスタ号を、 ・こちらでマニラ・ガレオン船を、お楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 12/5/4、14/10/9 |