Japan 国連 1982 発行 |
遣唐使 630頃〜894頃 |
大航海物語 ★日本編 |
琉球郵便 中国と日本の地図 国際青年会議所沖縄会議記念 昭和38年 1963/9/16 発行 |
日本郵便 NIPPON 遣唐使船 ”第一次船シリーズ” 昭和50年 1975/8/30 発行 |
・遣唐使 (けんとうし) 舒明天皇2年頃〜寛平6年頃 (Japanese missions to Tang China、630-894) 遣唐使は、日本の飛鳥時代(118年間(広義)592(崇峻天皇5〜和銅3)710)に始まり、平安時代(約390年間、794(延暦13〜文治1)1185)に廃止された使節団のことです。618年に中国の隋王朝(Sui dynasty, 581-618)が滅んで 唐王朝(Tang dynasty, 618-907)が建国されたので、それまで派遣していた「遣隋使」(600(推古8〜推古26)618)に替えてこの名称となりました。 遣唐使の目的は、中国の先進的な技術や政治制度や文化、ならびに仏教の経典等の収集が目的とされました。白村江(はくそんこう:韓国第三の河川の錦江(クムガン:Geum River, 388km)河口付近)の戦い(はくすきのえのたたかい、Battle of Baekgang, 663/10/4-10/5)で日本が大敗した後は、3回が交渉任務でした。遣唐使は日本からは原材料の朝貢品を献上し、唐皇帝から質量の高い返礼品の工芸品や絹織物などが回賜として下賜されるうまみのある公貿易で、物品は正倉院にも残っています。それだけでは需要不足で、私貿易は許可が必要で市場出入りも制限されているも、遣唐使一行は調達の努力をしていました。旧唐書倭国伝には、日本の吉備真備( 695-775)と推察される留学生が、唐朝から受けた留学手当は全て書物に費やし、帰国していったと言う話が伝わっています。 飛鳥時代の舒明天皇2年(630)から〜平安時代の寛平6年(894)の間に、日本から中国の唐王朝へ派遣された公式の使節(朝貢使)である遣唐使は、およそ20回任命されました。そのうち、実際に渡唐したのは16回でした。遣唐使の長官は大使です。その上に執節使や押使の置かれた場合もありました。大使の下に副使があり、大使・副使は通常1人でした。その下に判官・録事若干名ずつ。このほかに知乗船事・造舶都匠・訳語(おさ)・医師・陰陽師・画師・史生・射手・船師・新羅訳語・奄美(あまみ)訳語・卜部(うらべ)・雑使・音声生・玉生・鍛生・鋳生・細工生・船匠・激師(かじとり)・域人(けんじん)・挟抄・水手らがあり、これに留学生・留学僧らが加わり、1隻に120人ほど乗っていました。はじめの頃は1隻か2隻の帆船で渡海するも、8世紀に入いると遭難に備えて4隻となり、多い時は一行全員で500〜600人にもなりました。船は鉄釘はほとんど用いず、平板をつぎあわせて造っていました。そのため波切りが悪く不安定で、強風や波浪に弱いという欠点がありました。また、航期や航路をあやまることが多く、遭難する船が少なくなかったのです。なお、近年の研究では遭難の最大の原因は、定員オーバーや積載オーバーではなかったかとみられています。 ・遣唐使船の乗船者:〜
※平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)延喜式(えんぎしき)による。 ※四等官:〜 諸官司には一般に長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の四等官が置かれ、他に各種の品官(ほんかん)(以上は官位相当官)や史生(ししょう)・伴部(ともべ)・使部(しぶ)などの雑任(ぞうにん、下級職員)が所属。 ・遣唐使船の装備:〜時代によって各種あり
唐への航路は、はじめ朝鮮半島沿いに渡海し、山東半島に上陸して唐の都・長安に向かう北路をとりましたが、朝鮮半島にあった新羅(BC57-935)との関係が悪化した8世紀以後は東シナ海を横断して、直通で行くか、又は南の奄美大島に寄って行く航路で、揚子江の河口付近に上陸し、長安に向かう南路(南島路)をとるようになりました。遣唐使船は無風や逆風の際は帆をおろし、櫓を用いたので多数の漕ぎ手を乗せており、また漂着した場所での安全を守るため、同じく多数の射手を乗せていました。また、奈良朝、平安朝の時代に遣唐使船は18回出港しましたが、無事任務を果たして帰ってきたのはたったの8回だとも言われています。まだ、季節風の利用がありませんでした。 南路(南島路)を考えるときは、非常に危険なので、当然船は大きくする必要がありました。それで使われたのが、実は新羅に滅ぼされた百済から技術を移入したジャンク船で、ジャンク船型というのは、船底いっぱいに幅の広い厚い板を横に使ったもので、かなり大きな船でした。また一説では、初期の遣唐使船は藁(わら)で編んだ「筵(むしろ)」の帆を使用していたと伝えられています。従って、雨や波で水を吸い込み重くなって、トップヘビーの原因になり、転覆の危険が増しました。 その後、菅原道真(845/8/1(承和12〜延喜3)903/3/26)が遣唐使に任じられましたが「自分はおそらく帰ってこれないだろう」ということで、色々と理屈を付けて遣唐使船をやめさせたといわれているのが890年頃。平安時代(794(延暦13〜文治1)1185)もずっと終わりに近い時代で、菅原道真がやめるまで、そのジャンク船型が日本の大型船として国外との交流を行っていました。こうした多くの危険があるにもかかわらず、派遣される人物には、貴族の子弟のすぐれた人物が選ばれ、留学生や学問僧も、傑出した人材が選ばれました。そのため入唐経験者のなかには、帰国後わが国の政治や文化に、かけがえのない役割をはたした山上憶良( 660頃-733頃)・吉備真備(695-775)・最澄(767-822)・弘法大師(空海)といった人物が多くみられます。また、遣唐使が帰国の時に伴ってきた鑑真和上をはじめとする多くのすぐれた渡来人や文物は、わが国の政治や文化の発達に大きく貢献しました。現在まで伝えられている日本文化の基底は、この遣唐使船に乗っていった人々や、その人々がもたらした文物によって築かれたといっても、過言ではありません。 ・遣唐使派遣一覧表:〜
参考:〜 3〜5世紀には、日本でもすでに簡単な帆が使用されていた(例〜神宮皇后の朝鮮への大航海)ようですが、本格的に帆が用いられるようになったのは7〜9世紀(奈良時代〜平安時代)にかけて中国へ渡った「遣唐使船」からのようです。中国のジャンクに似た120〜150人乗りの船でした。ただ、遣唐使船は構造的に未完成で、また航海に際しての季節風は未だ知られていませんでしたし、航海術も未熟だったため、多くの遭難船を出しました。当時の渡航はまさに命がけでした。船はキール(竜骨)が無く船底が平底で、まるで箱が海に浮いているようなもので、波を受けるとあっけなく沈んでしまいました。八世紀の遣唐使のうち全ての船が往復できたのは、なんとたった一回だけという遭難率でした。遣唐使船が四隻なのは、どれか一隻でも中国に着くためだったともいわれています。遣唐大使に任命されても嫌がって拒否する人もいたようで、まさに命がけの 航海でした。 参考HP:〜 ・遣唐使の航路地図 ・北路(630-665) ・南島路(702-752) ・南路(773-838)。 こちらで ・遣明使 世界遺産の ・サンマリノ ・ヌビア遺跡 (エジプト) ・ピラミッド (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・姫路城 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和 R.2/1/21 (2020)追記 |
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