大航海物語 |
日本製のガレオン船(2) 1613、伊達丸 (だて丸) サン・フアン・バウティスタ号 |
参考資料 |
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<日本製のガレオン船>
復元船の住所:石巻市渡波大森30-2 ・慶長遣欧使節団の出帆 その大航海は、使節団など乗員184人(将軍家の侍が10人、仙台の侍が12人、日本人商人と水夫と家来が120人、スペイン人とポルトガル人が40人、フランシスコ会ルイス・ソテロ宣教師とビスカイノ船長が便乗)が、1613/10/28(慶長18/9/15)にサン・フアン・バウティスタ号で陸奥国は仙台藩牡鹿郡・牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市月浦)を出帆して、ノビスパン(ヌエバ・エスパーニャ:新スペイン:メキシコ)の太平洋岸アカプルコへ向かいました。出帆してから3ヵ月後の1614/1/25(慶長18/12/16)に無事アカプルコ港に入港しました。支倉ら使節団はヨーロッパへ出発。サン・フアン・バウティスタ号は1年間の停泊の後、1615年に仙台地域の鉱山産業の発展のため、約50人の鉱山業・銀精製業の専門家を日本に送り届けました。1616(元和2)/9月に横沢将監船長の指揮で、再びアカプルコを目指して出帆。その航海中に約100人の水夫が亡くなりました。 ・使節団の帰路(サン・フアン・バウティスタ号の最後) 1617/7/4にスペインのセビリアを出発し、大西洋を横断してノビスパンまで戻り、ソテロと再会した支倉らは、1618/4/2(元和4)に迎えのサン・フアン・バウティスタ号でアカプルコ港を出帆。1618/8/10にフィリピンのマニラ港に到着しました。支倉常長がサン・フアン・バウティスタ号をマニラ港で、オランダ軍への防衛を固めていたスペインへ売却。スペイン戦艦としてミンダナオ島方面へ向かった伝えられていますが、その後の消息は不明。支倉常長らは便船で1620/9/20(元和6/8/24)に日本へ帰国しました。 ・記念碑の設置と復元船の建造 1987(昭和62)年に県道石巻鮎川線沿いの月浦バス停付近に支倉常長像が設置され、慶長遣欧使節船サン・ファン・バウティスタ号出帆380周年の1993(平成5)/5/22に寸法図通りに復元船が建造されて、石巻新漁港に仮係留され一般公開された後、2006(平成8)/8/10に石巻市渡波にある第3種漁港・渡波漁港に開館したテーマパーク「宮城県慶長使節船ミュージアム」(愛称:サン・ファン館)に係留・展示されています。 2011(平成23)/3/11の東日本大震災と、2011/4/27深夜から翌28日早朝にかけての台風(暴風)でマストが折れるなど被災するも、カナダのブリティッシュコロンビア州の製材会社ウェスタン・フォレスト・プロダクツ社の寄贈でフォアマスト用のベイマツ4本(約10-15m)及びメインマスト用のスギ1本(約14m)で修復されました。(復元船修復費2億1200万円)。 ・サン・フアン・バウティスタ号の装備:〜 San Juan Bautista (ship) 500tns、1613
参考HP:〜 ・サン・フアン・バウティスタ号(伊達丸)復元船(写真) ・支倉常長のローマ旅行地図(日本語) 参考:〜
1593年にカリフォルニア湾西海岸で係争中の真珠採りを有利に解決しました。1596年にバハ・カリフォルニア・スル州ラパス(La Paz, Baja California Sur)への航海を3隻の船団で成功して、現:サンタ・クルス(Santa Cruz)に入植を試みましたが、補給の問題、士気の低下などで放棄しました。1601年にメキシコ市総督(Viceroy in Mexico City)モンテレー伯爵(Gaspar de Zuniga Acevedo y Fonseca, 5th Count of Monterrey 1560-1606)が、マニラからアカプルコに戻るスペインのマニラ・ガレオン船にとって、アルタ・カリフォルニア(Alta California:Upper California)で安全な港を探す探検隊の司令官に指名して、60年前のロドリゲス・カブリロ船長(Juan Rodriguez Cabrillo)のカルフォルニア探検地図の、より詳細な地図作成を命じました。 1602/5/5に3隻の船隊、旗艦サン・ディエゴ号(San Diego)、僚船サン・トーマス号(San Tomas)とトレス・レイェス号(Tres Reyes)とでアカプルコ(Acapulco)を出帆。1602/10/10にサンディエゴ湾(San Diego Bay)に入りました。そこは、1542年にポルトガル人のブリロ船長(Burilo)がスペイン船でロマ岬 (Point Loma) に到着後に、ヨーロッパ人として初めてサンディエゴに足を踏み入れたとされている所で、カブリロはそこをサン・ミゲル(San Miguel) と名づけていましたが、1602年に植民地開拓にきたビスカイノ船長が、1602/11/12の「サン・ディエゴ・デ・アルカラ」(San Diego de Alcala)の祭りの日に因んで、町の名前を「サン・ミゲル」を「サン・ディエゴ」に変更・命名しました。それ以来米国カリフォルニア州のサン・ディエゴがその街の名前となりました。1542年にカブリロ船長が呼んでいた所を、新たにポイント・ロボス(Point Lobos)、サンタカタリナ島(Santa Catalina Island)、カルメル・ヴァレー(Carmel Valley)、モンテレー湾(Monterey Bay)、シィエラ岬(Sierra Point)、コヨーテ岬(Coyote Point)などと命名して、それらが現在の名前になりました。ビスカイノ船長はポイント・ロボスのモンテレー・イトスギ(Monterey Cypress)など、カリフォルニアでの生態学の特徴を最初に記録した人物となりました。ビスカイノ船長はカタリナ島(Catalina Island)、サンタ・バーバラ(Santa Barbara)の名付け親にもなりました。なお、トレス・レイェス号のマーチン・ドゥアグィラー船長(Martin d'Aguilar)はビスカイノ船長達と分かれて別行動をとり、さらに北上を続け、現:オレゴン州まで航海しました。 ・ビスカイノ船長の日本航海記 フィリピン前総督ドン・ロドリゴ一行が、帰還のためアカプルコへ向けての航海中台風に遭い上総国岩和田村(現御宿町)田尻の浜で難破し救助され、按針丸ことサン・ブエナ・ベントゥーラ号で1610年に帰国したことへの答礼使として、1611年ヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコにより派遣され、サン・ブエナ・ベントゥーラ号(サンフランシスコ2世号説有)で来日しました。なおこの人選は、ヨーロッパの鉱山技術に興味があった徳川家康の要請に沿ったもので、同時にエスパーニャ側にも日本の金や銀に興味があったことによるとされ、日本近海にあると言われていた「金銀島」の調査も兼ねていました。 ビスカイノ船長は1611/3/22にサン・ブエナ・ベントゥーラ号でヌエバ・エスパーニャのアカプルコを発ち、1611/6/10に浦賀に入港。6/22に江戸城で徳川秀忠に謁見、8/27に駿府城で家康に謁見しました。しかし第一に通商を望んでいた日本側に対し、スペイン側の前提条件はキリスト教の布教であり、友好については合意したものの、具体的な合意は得られませんでした。家康から日本沿岸の測量についての許可はとりつけ、11/8に仙台に着き、11/10に伊達政宗に謁見。11/27から奥州沿岸の測量を始めました。12/2に気仙郡越喜来村(現:大船渡市)沖を航海中に慶長三陸地震の大津波に遭遇するも、海上にいたため被害はありませんでした。次いで南下し九州沿岸まで測量を実施。日本沿岸の測量を終え、1612/9/16に家康、秀忠の返書を受け取り、ヌエバ・エスパーニャへの帰途に着きました。帰途に金銀島(Rico de Oro、Rico de Plata)を探すも発見できず、11/14に暴風雨に遭遇し、サン・ブエナ・ベントゥーラ号が破損して浦賀に戻りました。乗船を失ったため、ヌエバ・エスパーニャへ帰るための船の建造費の用立てを幕府に申し入れるも、日本側の外交政策の変更もあって断わられ、1613年にルイス・ソテロや支倉常長ら慶長遣欧使節団のサン・フアン・バウティスタ号に同乗して帰国しました。 ・その後 1616/11/11にメキシコのメキシコ・シティー遥か西方のサラグア港(port of Salagua)を200人で守備していると、200隻のオランダ私掠船隊が襲撃してきました。午後に両者が砲門を開いて戦いとなり、最初はオランダの猛攻に後退しましたが、弾薬を補給して守り抜きました。最期については、何処で亡くなったか定かではありませんが、1624年にメキシコシティー(Mexico City)で亡くなったという説があります。 参考HP:〜 ・大航海時代のスペイン(白)・ポルトル(青)の貿易航路地図(16世紀頃) ・太平洋の地図 こちらで ・支倉常長 ・サン・ブエナ・ベントゥーラ号(按針丸) ・マニラ・ガレオン船 ・サン・フェリペ号事件 をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2012/5/7、14/8/28、14/11/13 |