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★日 本 | 鑑真和上 753/12/20 薩摩”坊の津”に上陸 |
大航海物語★ |
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中国人民郵政 | |
鑑真和上坐像 |
遣唐使船・ジャンク型 |
鑑真和上像帰国巡回展記念 中国 1980/4/13 発行 |
中国人民郵政 | 日本郵便 | |||
万里長城 | 中日両国人民世世代代友好下美 |
富士山 | 中国の鑑真和上記念堂 |
唐招提寺 |
鑑真和上像帰国巡回展記念 中国 1980/4/13 発行 |
国宝シリーズ 2次 日本 1977/1/20 発行 |
鑑真和上 (ガンジン ワジョウ) 688〜763/6/25 (持統天皇2年〜天平宝字7年5月6日) Ganjin (Jianzhen) 鑑真は唐の時代の中国で揚州江陽県に生まれました。14才で出家。当時律宗が盛んで、
鑑真は、奈良時代(710-794)の帰化僧、日本における律宗の開祖、俗姓は淳于で、日本への渡海は、最初に渡海しようとしたのは742年冬のことでした。このときは、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は海賊だ」とウソの密告をしたため、日本僧は追放され、鑑真は留め置かれました。 2回目の試みは744年1月で、周到な準備の上で出航しましたが激しい暴風にあい、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなり、再度、出帆を企てましたが、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕され、3回目も失敗に終わりました。 その後、栄叡は病死を装って出獄に成功。江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かいました。しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴え出て、そのため、官吏に出航を差し止めされ、4度の失敗をしました。 748年、栄叡がふたたび大明寺の鑑真を訪れ、来日を懇願すると、鑑真は5回目の渡日を決意しました。6月に出帆し、舟山諸島で数ヵ月風待ちした後、11月に日本へ向かい出帆しましたが、激しい暴風にあい、14日間の漂流の末、はるか南方の海南島へ漂着してしまいました。鑑真は当地の大雲寺に1年以上滞留し、海南島に数々の文化・医薬の知識を伝えました。そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡が残されています。750年、鑑真一行は揚州へ戻るため海南島を離れました。その途上、端州の地で栄叡が死去しました。動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしましたが、周囲に慰留されました。この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまいました(完全には失明していなかったとする説も有る)。 752年、必ず渡日を果たす決意をした鑑真のもとに、遣唐使の藤原清河(生年没年不詳)らが訪れたので、日本への渡海を約束しました。しかし、当時の玄宗皇帝は鑑真の才能を惜しみ、渡日を許しませんでした。そのため、753年に遣唐使が帰日する際、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否しました。それを聞いた副使の大伴古麻呂(生年不詳-757)は密かに鑑真を副使の船に乗船させました。11月16日に遣唐使船が出帆、ほどなくして暴風が襲い、清河の大使船は南方まで漂流したが、古麻呂の副使船は持ちこたえ、
鑑真は唐(618-907)で、すでに一流の高僧であり、仏舎利、律・天台の経典、王羲子の書、建築・彫刻・薬学など幅広い知識をもたらし、日本文化に大きな影響を与えました。その生涯を伝えるものに、779年(宝亀10)の淡海三船(おうみのみふね)の「唐大和上東征伝」(通称「東征伝」)や、その詞(ことば)による「東征絵伝」が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっています。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2006/9/20、2019/9/19 |