★ポルトガル 鉄砲の伝来
1543

種子島銃(火縄銃)
大航海物語★

Portugal
ポルトガル人が「てっぽう」を伝授
Musket

「ポルトガル人の日本到着四五0周年」
(上を切手面に縦書き印刷)
ポルトガル 1993/9/22 発行
ESTARD da INDIA
火薬入れ→
牛の角製

種子島銃

コートジボアール 1976 発行の小型シートより作成


←火縄銃→

←火縄銃
ポルトガル伝来の
マスケット火縄銃
(Musket Rifle)
ポ領インド1967/1/12発行

ポルトガル人と鉄砲(種子島銃・火縄銃)
1543(天文12)年に種子島時堯が引見したポルトガル人は、長さが4尺?(約120cm)ほどの重そうな棒を持っていました。中に穴が通っていて片方の端(はし)は塞がっていました。中に不思議な薬を入れ、さらに小さな鉛玉をそえて入れ、その棒を取り上げて身がまえ、火縄に火をつけて、片目をつぶって的をねらって指を引くと、一瞬、雷のような光りと轟きが起き、見事に的を射ぬいてしまいました。彼らの鉄砲の試し打ちに感心した時堯は鉄砲2丁を2000両(現在のお金で2億円?)で購入したと伝えられています。そのポルトガル伝来の「てっぽう」はマスケット銃だったといわれています。

時堯は、ポルトガル人から手に入れた鉄砲をもとに、篠川(ささがわ)小四郎という家来に火薬の調合法を学ばせました。また、数名の鍛冶屋職人を集めて鉄砲の造り方を研究させました。しかし、筒の底を塞ぐ方法がわかりませんでした。これはネジを用いる方法で当時の日本では、このネジの造り方がまだ知られていませんでした。しかし、ちょうど次の年にやって来た外国船に鍛冶屋職人が一人乗っていましたので、八板(やいた)金兵衛清定に底を塞ぐ方法などを学ばせ鉄砲を造らせました。その後わずか1年あまりのうちに数十挺の鉄砲を製作することができたと伝えられています。

この鉄砲が当時、種子島と貿易上の交流があった根来寺の根来衆経由で堺にもたらされました。こうして、鉄砲が伝来してわずかの間に、近江の国友村、紀伊の根来寺、摂津(せっつ)の堺、伊豆などの各地に鉄砲製作の技術が伝わり、製造が開始されたのでした。そして、20年後には日本は鉄砲保有数が50万丁におよぶという、当時の鉄砲保有数、世界一となりました。種子島の海岸は現在でも砂が砂鉄で所々黒くなっています。昔は砂浜一面を覆い、真っ黒な砂浜のようだったと伝えられています。

・鉄砲伝来についての「南種子町役場」の見解は;
ポルトガル人の漂着と鉄砲伝来、1543年(天文12)年8月25日、1隻の明(現在の中国)の船が門倉岬に漂着した。その船にはポルトガル人が乗っており、「鉄砲」という不思議なものを持っていた。当時の島主であった種子島時たかは、その鉄砲の威力を知るやいなや2丁買い入れ、早速刀鍛冶の八板金兵衛に鉄砲の製作を命じた。そして天文13年、苦労の末、ついに国産の鉄砲が誕生したのである。鉄砲の完成には金兵衛の娘「若狭」の秘話も口碑として語り継がれている。
:となっています。参考HP:〜南種子町役場HP

・鉄砲製造の広がり:
<国友へ>
種子島時堯はポルトガル人から手に入れた2挺の鉄砲のうちの1挺を薩摩の島津義久(よしひさ1533〜1611)に献上しました。義久は、それをさらに将軍足利義晴に献上しました。義晴は鉄砲に無関心だったようですが、その子の足利義輝は大変興味を持ちました。そこで管領の細川晴元(1514〜63)を通じて近江の坂田郡国友村の鍛冶、善兵衛、藤九左衛門を呼び手元の鉄砲を貸し渡して製造を命じたと伝えられています。
<根来へ>
また、種子島に来島していた津田監物(つだけんもつ)によって紀伊にもたらされ、根来寺杉之坊明算がが堺出身の芝辻清右衛門という者に製造させたと伝えられています。
<堺へ>
これとは別に、堺の商人橘屋又三郎が種子島に滞在し技術を習得して帰り、堺で広めたと伝えられています。
<伊豆へ>
また種子島から出航した船が伊豆に流れ着き、乗船していた時堯の家臣松下五郎三郎によって鉄砲が関東地方にも伝えられたと伝えられています。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。  09/7/7追記
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