United Kingdom

国連 1983 発行
切手で綴る イギリスの冒険大航海(Great Adventure Voyagee)オーストラリア(VIII-11
エドワード・エーア牧場主
1839、南オーストラリ北部を探検、エーア湖発見
1840、グレート・オーストラリアン・バイトの探検

エーア湖 グレートオーストラリアンバイト エーア・クリーク
大航海物語
オーストラリア編

AUSTRALIA
ヴァンクーヴァー船長 グレート・オーストラリアン・バイト

図案はレベキュー岬の眺望
オーストラリア 1986/8/4 発行



エーア
オーストラリア 1986/4/1 発行

オーストラリア現地人アボリジニと出会う
ヴァンクーヴァー船長 & エーアー
オーストラリア 1986/4/1 発行

NEDERLAND
オーストラリアの州別区分地図
ノーザンテリトリー(北部準州)
EIRE
オーストラリアの地図

アイルランド 1988/3/1 発行 (200%)



ウェストオーストラリア→

サウスオーストラリア



←クィーンズランド

←ニューサウスウェールス
←ヴィクトリア
タスマニア
オーストラリア100年記念
オランダ 1988/8/30 発行

イングランド生れのエーア牧場主は17才でオーストラリアに移住し、羊や牛の陸送という牧畜業で成功して資金を蓄え、それを未知の放牧場好適地の探索に投じて、サウス・オーストラリア州北部からニュー・サウス・ウェールス州西部一帯を探検して広大な内陸乾燥塩湖の”エーア湖”を発見して名を上げました。その後、サウス・オーストラリア州政府の要請で西部への探検に、6人の隊員と原住民のアボリジド2人でアデレードを出発、エーア半島ゴーラー山を横断、ナラーバー平原からストリーキー湾、ファウラー湾を経て、グレート・オーストラリアン・バイトの縦断を試み、飲料水の欠乏で難渋しながらユークラ、エスペランサ岬からオルバニーへ到達という約3,220kmの行程を1年以上かかって踏破に成功しました。

エドワード・ジョン・エーア牧場主
 Edward John Eyre (1815/8/5〜1901/11/30)
エーア牧場主はイングランド・ベッドフォードシャー州(Bedfordshire, #A13)のウィプスネード村(Whipsnade)で3番目の息子として生れ、地元で教育を受けて、17才の時に軍隊に入るつもりでしたが、父親の勧めで大航海してオーストラリアに移住しました。

1833/3/20にエレン号(Ellen)でシドニーに着きました。シドニーで仕事が見つからなかったので、NSW州東部ハンター・バレー(Hunter Valley)地域ハンター川地区(Hunter River district)のヘンリー・ダマレスク大佐(Colonel Henry Dumaresq 1792-1838)の斡旋で、ビクトリア州北東部アッパーキングバレーのチェシャント(Cheshunt, King Valley, Victoria #CVIC)のウィリアム・ベル(William Bell, 1797-1875)の所で農業に従事し、牧畜経営の経験を積みました。1833/7月に400頭の羊を買って、そこで牧畜経営を始めました。

1834年にマランビジー河上流域クィーンベアン(Queanbeyan)近くのモロングロ平原(Molonglo Plains)に510haの土地を取得。1835年にロバート・キャンプベル(Robert Campbell 1769-1846)と共同経営で、羊3.000匹と牛600頭をリバプール平原(Liverpool Plains)からモロングロ川平原へ運びましたが羊が病気になって危うく大損害を出 マランビジー川
すところでしたが、1836年21才に探検の資金を蓄え、放牧場(grazing lands)の必要性を感じて、その後にエーア半島から西オーストラリアへの探検をなしました。1837/1月に家畜をシドニーに陸送し、ウッドランズ(Woodlands)を基地として、さらに遠路はるばるポート・フィリップ(Port Phillip, #CVIC)へ陸送してから、牛78頭と羊414匹などの家畜を組み合わせ、1837/4/1に船でポートフィリップを発って、8/2にメルボルン(#CVIC)に着いて売りさばき大儲けしました。

1837/10月シドニーに戻りました。牛300頭をサウスオーストラリアのアデレードからリムストーン平原(Limestone Plains)を経てポート・フィリップへ陸送することをもくろみました。1838/1/3にアデレードを出発、1/15に後日に探検仲間となるジョン・バクスター(John Baxter)と合流。ミッチェル探検隊ルートをたどりながら、ヴィクトリア州西部ウィメラ(Wimmera)を経て、ヒンドマーシュ湖(Lake Hindmarsh)を発見し 牛の追込み

オーストラリア 1959-64 発行
て名付け、マレー河の北へ出ようと試みましたが失敗しては戻って、水の欠乏に悩まされました。ポート・フィリップから直接アデレード(Adelaide, #BSA)へ出ようとしても行けず、ジョセフ・ハウドン(Joseph Hawdon 1813-1871)のルートをマレー河沿いに進み、アボリジニに助けられました。アデレードでの短期間の滞在の後にシドニーに戻り、羊1,000匹と牛600頭の陸送を計画、首都キャンベラ(Canberra, #ACT)近郷のモナロ(Monaro、New South Wales, ANSW)から、14週間の苦闘の末にライト川バレー(River Light valley, #BSA)基地を経て、アデレードで家畜を売って£4,000ポンド以上を儲けました。アデレードで土地0.4haを買ってコテージ(Cottage:山小屋風の別荘)を建てました。

1839/5月に北部への探検に出かけ、アデレードからスペンサー湾岸(Spencer Gulf)沿いに進み、フリンダース山脈へと向かいました。アーデン山(Mount Arden)のキャンプから、ついに乾いて暑い土地、乾燥した不毛の地トレンズ湖(Lake Torrens)へと進みしました。さらに北方へ行くと、行く手の湿地(swamps)が乾燥して塩泥(salty mud)に覆われてい フリンダース山脈
る広大な土地を発見しました。そこは後に南エーア湖(Lake Eyer South)とさらに北方の広大な乾燥地帯は北エーア湖(Lake Eyer North)と名付けられました。そこで行く手を阻まれましので、当方へ進みフリンダース山脈からマウント・ホープレス(Mount Hopeless)へ向かい、アデレードに戻りました。

アデレードからポート・リンカーン(Port Lincoln)へ船で航海して、1839/8/5(24才)にそこをバクスターと2人のアボリジニの少年と発って、現エーア半島(Eyer Peninsula, #BSA)を西へと横断、エーア半島北西のストリーキー湾(Streaky Bay)海岸、ゴーラー山脈(Gawler Range, #BSA)を発見して名付けて東へ横断、フリンダース山脈西方のトレンズ湖から南へ向かい、スペンサー湾岸沿いにアデレードへと966kmを踏破して帰りました。

1840/1月にアデレードからキングジョージ砂洲(King George Sound)へ2チームが羊と牛を海路で運び、そこからスワン川(Swan River 72km, #@WA)居住地(現パース)へは陸送しました。1840/5月にオルバニーからアデレードへ戻った時にアボリジニのワイリー(Wylie)を連れてきました。

1840/6/18にサウス・オーストラリア州政府のジョージ・ガウラー総督(George Gawler 1795-1869)の要請で、助手のバクスターとスコット(E. B. Scott)など男5人、そして2人のアボリジニを連れて、馬13頭、羊40匹と3ヵ月分の物資でアデレードをオーストラリ内陸探検へと出発、スペンサー湾で政府のカッター帆船ウォーターウィッチ号(cutter Waterwitch)でさらなる補給物資を受け取りました。フリンダース山脈沿いのアーデン山を踏破、幾多の困難と渇きと戦い
ながらエーア湖(Lake Eyre)南麓に続く西方のトレンズ湖に到着。マウント・ホープレスを東へ。ストリーキー湾を西方へ向かおうと思って、バクスター他2人と1人のアボリジニをストリーキー湾へ送ってから、エーアは残りの仲間とポート・リンカーンへ進みました。そこで、エーアはさらなる西方への探検のために、スコットとワイリーを船(boat)でアデレードの委員会(committee)へ十分な食料の支援を要請に行かせました。11/3までにエーアはストリーキー湾でバクスター達と再会し、西方へ進み、ファウラーズ湾(Fowler's Bay)で補給所(depot) オーストラリアの乾燥地帯

図案はウィランドラ湖群地域

国連 1999 発行
を見つけました。3度目の試みでエーアはバクスター他4人の男と、3人のアボリジニのワイリーともう2人(計9人)、馬13頭と3ヵ月分の食料の羊40匹を連れてそこを出発。スペンサー湾で政府の船による補給を受けて、海岸沿いに東へと進みエーア半島へ。疲労と渇きで、バクスターと3人のアボリジニを残してアデレードへ引き返しましたが、ファウラーズ湾へ進み、ファウラーズ湾で4人と馬11頭と羊6匹を残して、ナラーバー平原の荒れ果てて日陰の無い土地を僅かの水で1300km進みました。

グレートオーストラリアンバイト(Great Australian Bight)を進みながら砂丘(sand dunes)で水を見つける方法を親切なアボリジニに教わりながらも、5日間水なしで湾岸を初横断に成功しました。水がほとんどなくなった時に、西オーストラリアと東オーストラリアの境界付近のユークラ(Eucla)でアボリジニが井戸を掘りあてました。12日間の休息の後に出発。海岸沿いに進んでいると、再び水が欠乏した時に、アボリジニが水を掘り当てました。馬は砂に足を獲られるので捨てて食料にして行き、次第に装備を捨てて進みました。ウィリーが海岸で見つけた 乾燥地帯で水を補給した所

図案はカカドゥ国立公園

国連 1999 発行
ペンギンカンガルーを食糧にしました。1841/2/25にファウラーズ湾へ進み、3/12にユークラ(Eucla)で飲料水を見つけましたが、その後の217kmは砂漠のような乾燥地帯で一滴の水もありませんでした。4/29にバクスターが2人の原住民に殺害されましたが、岩盤だらけで埋葬できず、毛布にくるんで葬りました。その後の1ヵ月間はエーアとワイリーは西へと進み、グレートオーストラリア湾のエスペランス岬近くのシストル・コーヴ(Thistle Cove)付近でフランスの捕鯨船を見かけました。

1841/6/2にエスペランサ岬東のケープ・ル・グランド(Cape Le Grand National Park)のロシッター湾岸(Rossiter Bay)に停泊していたフランスの捕鯨船(whaling ship Mississippi)にエーアとウィリーが救助されました。そしてイギリス人船長ロシッター(captain Rossiter)のはからいでワインとブランデーと食料の提供を受けました。2週間休息をとり、衣服を改め十分な食料を持って探検を再開しました。7月になると季節は冬季になり陽射しは楽になりましたが、豪雨と寒期の中を4.5ヵ月間もの苦難な冒険を続けて、1841/7/7にオルバニーに到着しました。それでエドワード・エーアはアデレードから、フリンダーズ山脈を抜けた端の町セドゥナ(Ceduna)、エーア半島の横断、そしてナラボー平原の横断とグレート・オーストラリアン・バイトの縦断というオルバニーまでの約3,220km(2,000mls)の踏破に成功したのでした。なお、その後のワイリーはオルバニーで屋敷を貰って、幸せに暮らしました。

1841/10月に原住民アボリジニがの居住している地域の行政長官に指名され£300ポンドの給料で引き受けて、マレー河モーランディー(Moorundie)地域で原住民と白人移住者の平和に貢献しました。1847年にエーアは王立地理学会(Royal Geographic Society)の金賞を受賞しました。1848年33才でニュージランド副知事(Lieutenant-Governor of New Munster province、
1848〜1853)となり、1850年35才で英海軍艦長ジェームス・オルモンド(James Ormond)の令嬢アデレイド(Adelaide Ormond)と結婚、4人の息子と娘1人の5人の子供に恵まれました。1854年セントヴィンセント副総督(Lieutenant Governors of Saint Vincent、1854〜1861)になり、1862年にジャマイカ総督(Governor of Jamaica、1862〜1865)になりました。1872年にイギリス政府から年金を支給され引退し、1874年にイングランド・デヴォン州 ジャマイカ島
タヴィストック近郷ワルレドン・メイナー(Walreddon Manor, near Tavistock Devon)に屋敷(pension)を支給されて生涯暮しました。1901年オーストラリア・NSW州からクラーク賞(Clarke Medal、the Royal Society of New South Wales)を探検の功績(Natural sciences)で受章し、1901年にイギリスにて86才で亡くなりました。

参考:〜
グレート・オーストラリアン・バイト
  別名:グレートオーストラリア湾
   Great Australian Bight
グレート・オーストラリアン・バイトはグレートオーストラリア湾のことで、オーストラリア大陸の南にある大きな湾。グレートオースト
グレートオーストラリアンバイト

図案はレベキュー岬の眺望
ラリア湾を初めて探検したのは、イギリスのマシュー・フリンダース船長で、オーストラリア大陸一周航海にあたって西から東へと航海し海岸線を記した海図を製作した。陸地からの調査は、1840年から1841年にかけてエドワード・エーアによって初めて行われた。

グレート・オーストラリア湾の海岸線は、高さ60mにもおよぶ断崖とサーフィンに適した砂浜、ならびに岩山などからなる。水深は深くなく、海底部は大陸棚となっているが、一般的な大陸棚とは異なり海生生物は豊富でない。この湾に面している陸地の大部分は降水量の少ないナラボー平原であり、わずかな降水も塩湖へと流れ込んだり地下水となったりで、海に流入する分はほとんどない。そのため陸地から流れ込む養分が乏しく、結果として貧栄養状態を招き、「海の砂漠」となっている。そのような中にあって、セミクジラ類やサメ類の数は多く、理想的なホエールウォッ クジラの汐吹

パナマ 1968 発行
チング・スポットとなっている。沿岸にあるエーア国立公園では、この地域の自然史について特によく知ることができる。かつては捕鯨が盛んだった。

エーア湖
  
Lake Eyre
エーア湖は、1839年にエドワード・エーアが発見した南北に分かれている内陸湖で、湖面は海面下約15mとされている流出河川がない塩水乾湖(内陸湖)。南オーストラリア州の北部にあるオーストラリア最大の湖。面積は約9,400u、貯水量その時期の降水量によって異なり、乾季にはほぼ完全に干上がることもある。エーア湖は、乾燥したエーア湖盆地(en:Lake Eyre Basin)の中心にあって、低い部分はプラヤ(en:playa)と呼ばれる「塩の原」になっている。湖水の水流の多くは、クイーンズランド州のアウトバック(未開拓奥地)である北西から流れて来るが、エーア湖盆地がほとんど平らであるため、水量は途中で減少する。数年毎に起こる洪水の時期には、短期間の多彩な生命活動が営まれる。クィーンズランド州(Queensland)、南オーストラリア州(SA)、北部準州(Northern Territory)、ニューサウスウェールス州(NSW)にまたがる「エーア湖湿地帯」(Lake Eyre Basin)には、1844年にスタート大尉が名付けたスタート・ストーニー砂漠(Sturt's Stony Desert)、1866年にヨーロッパ人が発見したチラリ砂漠(Tirari Desert)、ポーランドの探検家ストルセルスキ伯爵の名にちなんだストルセルスキ砂漠(Strzelecki Desert)がある。北岸一帯にはエーア湖国立公園がある。

エーア・クリーク (サウス・オーストラリア)
  Eyre Creek (South Australia)
エーア・クリークはワインの産地のクレア・ヴァレー(Clare Valley)の中にある。

参考HP:〜
エーアの探検地地図(アデレード、マウント・ホープレス、オルバニー)
エーア湖付近の地図(南北エーア湖、チラリ砂漠)
マレー川の地図(シドニーからアデレード)
マランビジー河付近の地図(アデレード、メルボルン、シドニー、ブリスベーン)
  (北からダーリング河、ラチラン川、マランピジー川、マレー河)
オルバニーの地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   10/2/15、令和7年 2025/12/30

スタンプ・メイツ
Copyright(C):StmpMate
無断転載禁止