★イギリス |
エドワード・エーア
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大航海物語★ |
AUSTRALIA ヴァンクーヴァー |
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エーア→ |
AUSTRALIA グレート・オーストラリアン・バイト 図案はレベキュー岬の眺望 オーストラリア 1986/8/4 発行 |
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オーストラリア 1986/4/1 発行 | ||
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NEDERLAND ノーザンテリトリー(北部準州) |
EIRE オーストラリアの地図 アイルランド 1988/3/1 発行 (200%) |
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ウェストオーストラリア→ |
サウスオーストラリア |
←クィーンズランド ←ニューサウスウェールス ←ヴィクトリア ←タスマニア |
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オランダ 1988/8/30 発行 |
イングランド生れのエドワード・エーアは17才でオーストラリアに移住し、羊や牛の陸送という牧畜業で成功して資金を蓄え、それを未知の放牧場好適地の探索に投じて、サウス・オーストラリア州北部からニュー・サウス・ウェールス州西部一帯を探検して広大な内陸乾燥塩湖の”エーア湖”を発見して名を上げました。その後、サウス・オーストラリア州政府の要請で西部への探検に、6人の隊員と原住民のアボリジド2人でアデレードを出発、エーア半島ゴーラー山を横断、ナラーバー平原からストリーキー湾、ファウラー湾を経て、グレート・オーストラリアン・バイトの縦断を試み、飲料水の欠乏で難渋しながらユークラ、エスペランサ岬からオルバニーへ到達という約3220kmの行程を1年以上かかって踏破に成功しました。 |
エドワード・ジョン・エーア (1815/8/5〜1901/11/30) Edward John Eyre エドワード・エーアはイングランド・ベッドフォードシャー州(Bedfordshire, England)のウィプスネード村(Whipsnade)で3番目の息子で生れ、地元で教育を受けて、17才の時に軍隊に入るつもりでしたが、父親の勧めで大航海してオーストラリアに移住しました。 1833/3/20にエレン号(Ellen)でシドニーに着きました。シドニーで仕事が見つからなかったので、ハンター川地区(Hunter River district)のヘンリー・ダマレスク大佐(Colonel Henry Dumaresq 1792-1838)の斡旋で、チェスハントパーク(Cheshunt Park)のウィリアム・ベル(William Bell)の所で農業に従事し、牧畜経営の経験を積みました。1833/7月に400頭の羊を買って、そこで牧畜経営を始めました。
アデレードからポート・リンカーン(Port Lincoln)へ船で航海して、1839/8/5(24才)にそこをバクスターと2人のアボリジニの少年と発って、現:エーア半島(Eyer Peninsula)を西へと横断、エーア半島北西のストリーキー湾(Streaky Bay)海岸、ゴーラー山脈(Gawler Range)を発見して名付けて東へ横断、フリンダース山脈西方のトレンズ湖から南へ向かい、スペンサー湾岸沿いにアデレードへと966kmを踏破して帰りました。 1840/1月にアデレードからキングジョージ砂洲(King George Sound)へ2チームが羊と牛を海路で運び、そこからスワン川(Swan River)居住地(現:パース)へは陸送しました。1840/5月にオルバニーからアデレードへ戻った時にアボリジニのワイリー(Wylie)を連れてきました。 1840/6/18にサウス・オーストラリア州政府のジョージ・ガウラー総督(George Gawler 1795-1869)の要請で、助手のバクスターとスコット(E. B. Scott)など男5人、そして2人のアボリジニを連れて、馬13頭、羊40匹と3ヵ月分の物資でアデレードをオーストラリ内陸探検へと出発、スペンサー湾で政府のカッター帆船ウォーターウィッチ号(cutter Waterwitch)でさらなる補給物資を受け取りました。フリンダース山脈沿いのアーデン山を踏破、幾多の困難と渇きと戦い
1841/6/2にエスペランサ岬東のケープ・ル・グランド(Cape Le Grand National Park)のロシッター湾岸(Rossiter Bay)に停泊していたフランスの捕鯨船(whaling ship Mississippi)にエーアとウィリーが救助されました。そしてイギリス人船長ロシッター(captain Rossiter)のはからいでワインとブランデーと食料の提供を受けました。2週間休息をとり、衣服を改め十分な食料を持って探検を再開しました。7月になると季節は冬季になり陽射しは楽になりましたが、豪雨と寒期の中を4.5ヵ月間もの苦難な冒険を続けて、1841/7/7にオルバニーに到着しました。それでエドワード・エーアはアデレードから、フリンダーズ山脈を抜けた端の町セドゥナ(Ceduna)、エーア半島の横断、そしてナラーバー平原の横断とグレート・オーストラリアン・バイトの縦断というオルバニーまでの約3220km(2000mls)の踏破に成功したのでした。なお、その後のワイリーはオルバニーで屋敷を貰って、幸せに暮らしました。 1841/10月に原住民アボリジニがの居住している地域の行政長官に指名され£300ポンドの給料で引き受けて、マレー河モーランディー(Moorundie)地域で原住民と白人移住者の平和に貢献しました。1847年にエーアは王立地理学会(Royal Geographic Society)の金賞を受賞しました。1848年33才でニュージランド副知事(Lieutenant-Governor of New Munster province、
参考:〜
グレートオーストラリア湾の海岸線は、高さ60mにもおよぶ断崖とサーフィンに適した砂浜、ならびに岩山などからなる。水深は深くなく、海底部は大陸棚となっているが、一般的な大陸棚とは異なり海生生物は豊富でない。この湾に面している陸地の大部分は降水量の少ないナラボー平原であり、わずかな降水も塩湖へと流れ込んだり地下水となったりで、海に流入する分はほとんどない。そのため陸地から流れ込む養分が乏しく、結果として貧栄養状態を招き、「海の砂漠」となっている。そのような中にあって、セミクジラ類やサメ類の数は多く、理想的なホエールウォッチングスポットとなっている。沿岸にあるエア国立公園では、この地域の自然史について特によく知ることができる。かつては捕鯨が盛んだった。 ・エーア湖 Lake Eyre エーア湖は、1839年にエドワード・エーアが発見した南北に分かれている内陸湖で、湖面は海面下約15mとされている流出河川がない塩水乾湖(内陸湖)。南オーストラリア州の北部にあるオーストラリア最大の湖。面積は約9,400u、貯水量その時期の降水量によって異なり、乾季にはほぼ完全に干上がることもある。エーア湖は、乾燥したエーア湖盆地(en:Lake Eyre Basin)の中心にあって、低い部分はプラヤ(en:playa)と呼ばれる「塩の原」になっている。湖水の水流の多くは、クイーンズランド州のアウトバック(未開拓奥地)である北西から流れて来るが、エーア湖盆地がほとんど平らであるため、水量は途中で減少する。数年毎に起こる洪水の時期には、短期間の多彩な生命活動が営まれる。クィーンズランド州(Queensland)、南オーストラリア州(South Australia)、北部準州(Northern Territory)、ニューサウスウェールス州(New South Wales)にまたがる「エーア湖湿地帯」(Lake Eyre Basin)には、1844年にスタート大尉が名付けたスタート・ストーニー砂漠(Sturt's Stony Desert)、1866年にヨーロッパ人が発見したチラリ砂漠(Tirari Desert)、ポーランドの探検家パヴェル・エドムント・ストルセルスキ伯爵の名にちなんだストルセルスキ砂漠(Strzelecki Desert)がある。北岸一帯にはエーア湖国立公園がある。 ・エーア・クリーク (サウス・オーストラリア) Eyre Creek (South Australia) エーア・クリークはワインの産地のクレア・ヴァレー(Clare Valley)の中にある。 参考HP:〜 ・エーアの探検地地図(アデレード、マウント・ホープレス、オルバニー) ・エーア湖付近の地図(南北エーア湖、チラリ砂漠) ・マレー川の地図(シドニーからアデレード) ・マランビジー河付近の地図(アデレード、メルボルン、シドニー、ブリスベーン) (北からダーリング河、ラチラン川、マランピジー川、マレー河) ・オルバニーの地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/2/15 |