大航海物語 Canada

国連 1983 発行
切手で綴る カナダ(Canada) No.4
ルイスバーグ
(Ohio Valley Theater)
オハイオヴァレー戦域
ルイズバーグの戦い(4)
United Kingdom

国連 1983 発行
France

国連 1980 発行
地図

CANADA
ルイズバーグ要塞

カナダ 1985 発行

オハイオ川の発見者
ラ・サール


フランス 1982 発行
ペンズクリークの発見者
ウィリアム・ペン


USA 1932 発行


現地先住民とヨーロッパ人の交易所(4)

封緘カバーの図柄
1608 ケベック建設400年記念 2008
カナダ 2008 発行

・ルイスバーグ
  Louisbourg、Cape Breton Island, NS, Canada
, Canada
  場所:カナダ・ノバスコシア州(NS)ケープブレトン地方ケープブレトン島東部ルイスバーグ
  (Louisbourg, Cape Breton Island, NS, Canada、略称:CBRM)。(仏:ルイブール)
<ルイズバーグを巡る戦い>:〜
・北アメリカでの七年戦争
 (Seven Years' War in North America, 1754-1763)
  別名:フレンチ・インディアン戦争(北米七年戦争)
  (French Indian War, 1754-1755/9-1763)
(4)オハイオバレー戦域
 (Ohio Valley Theater)
4-1)ジュモンヴィルグレンの戦い(Battle of Jumonville Glen, 1754/5/28)
4-2)ネセシティ砦の戦い(Battle of Fort Necessity, 1754/7/3)
4-3)ブラドック遠征の戦い(Battle of Braddock Expedition, 1755)
川沿いの現地人集落

ウィガム     カナダ 1993 発行
4-4)モノンガヒラの戦いの戦い(Battle of Monongahela. 1755/7/9)
4-5)ペンズクリークの戦い(Battle of Penn's Creek, 1755/10/16)
4-6)トラフの戦い(Battle of Trough, 1756)ポトマック川南支流(
4-7)サイデリング ヒルの戦い(Battle of Sideling Hill, 1756/4/4)
4-8)グレートカカポンの戦い(Battle of Great Cacapon, 1756/4/18)ヌーベルフランス総督(
4-9)キタニングの戦い(Battle of Kittanning, 1756/9/8)オハイオ領土(
4-10)血の泉の戦い(Battle of Bloody Springs, 1757)サスケハナ川(
4-11)フォーブス遠征の戦い(Battle of Forbes Expedition, 1758)
4-12)デュケイン砦の戦い(Battle of Fort Duquesne, 1758/9/14)
4-13)フォート リゴニエの戦い(Battle of Fort Ligonier, 11758/10/12)

・オハイオバレー
(Ohio Valley)
オハイオバレーはオハイオ川(Ohaio river, 1759km)渓谷一帯の肥沃な土地で、1669年にフランス人探検家ラ・サールがオハイオ川を初めて発見して以降、1700年代の前半に交易業者がオハイオ川を旅し、周辺の渓谷が豊富な狩猟場であることに気づきました。毛皮貿易(ビ−バーなど)が盛んになり、この地域はフランスとイギリスの両方にとって切望された所になりました。
ビーバー

カナダ 1954 発行
アメリカ独立戦争 (1775-1783) の前の北アメリカでの最後の主要な紛争である北米七年戦争(フレンチ・インディアン戦争、1754-1763) を含む、数多くの戦いが谷で行われました。オハイオ川渓谷(Ohio River Valley)は
1763年にフランスからイギリスの支配下に移されました。1783年にはアメリカ合衆国の新しい共和国の一部となりました。4年後にアメリカ合衆国政府は北西部準州(現オハイオ州(OH)ミシガン州・インディアナ州・イリノイ州・ウィスコンシン州・ミネソタ州の一部)を設立しました。すぐに多くの入植者がオハイオ川を西に移動しました。1820年までに、60隻以上の蒸気船(Steam Boats)がオハイオ川を往復して、1825年までこの地域への主要な西向きルートでした。 蒸気船

 USA 1989 発行
オハイオ川は、オハイオ州・ウェスト バージニア州・インディアナ州・イリノイ州・ケンタッキー州にまたがる肥沃な流域に流れ込んでいます。この川はアレゲニー川(Allegheny river, 523km)を源流としてペンシルバニア州ピッツバーグで合流し、モノンガヒラ川(Monongahela river, 209km)も合流して形成されています。そこからオハイオ川が南西に流れ、オハイオ州とウェスト バージニア州の境界を形成しています。その後、川は西北西に曲
がり、オハイオ州とケンタッキー州の境界を形成し、インディアナ州とケンタッキー州の間、イリノイ州とケンタッキー州の間で再び南西に曲がります。オハイオ川はイリノイ州カイロ(Cairo, IL)でミシシッピ川(Mississippi River, 3779km)に合流します。現在はオハイオ川周辺は豊かな農地で、主要な水路に沿った輸送が増加するにつれて成長した貿易センターの商業都市も、この地域に点在しています。オハイオ川は歴史的に重要な川で、流域一体のアメリカ先住民達は、この川を主要交通手段としていました。入植した白人は河岸にいくつもの河港をつくり、都市を建設して水上交通の拠点とし、流域の豊富な鉄鉱石や石炭を利用して産業を興しました。また南北戦争前には、南部の黒人奴隷にとってこの川を渡ることは「自由への道」を意味していました。 ミシシッピ川

USA 1960 発行

4-1 ジュモンヴィルグレンの戦い
(Battle of Jumonville Glen, 1754/5/28)英勝利
カナダ先住民

カナダ 1972 発行
別名ジュモンヴィル事件(Jumonville affair)は北米七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)の最初の戦いで、現ペンシルベニア州ファイエット郡ユニオンタウン(Hopwood & Uniontown, Fayette County, PA)の近くで、ワシントン中佐(Lieutenant Colonel George Washington)のバージニア植民地軍(Virginia provincial troops)と同盟軍カナダ先住民ハーフキングことタナグリッソン酋長(Tanaghrisson, 1700-1754, "Half King")のミンゴ族兵(Mingo warriors)が、ジュモンヴィユ隊長(Joseph Coulon de Jumonville, 1718-1754)のヌーベルフランス民兵(Nouvelle France volunteer army)を待ち伏せした戦い。元々イギリスがオハイオ川(Ohio River 1,579km)の起点の地域(現ピッツバーグ:Pittsburgh, PA)に砦を建設していたところ、フランスがこの地の領有を主張し、これを受けてバージニア植民地軍がフランス兵の野営地を取り囲んだもので、フランス軍に数人の戦死者がでて、大部分が捕虜となりました。ジュモンヴィユ隊長は殺害されたこと
になっています。これにより北米七年戦争の火ぶたが切られ、ワシントン中佐はこの戦いの後にネセシティ砦の戦いで、再びヌーベルフランス軍と対戦して降伏し、降伏文書に署名するもフランス語の文書の意味を把握できないまま「ジュモンヴィユは暗殺された」とする旨に同意したこととなって、ワシントン中佐がジュモンヴィユ暗殺を企んだという非難が浴びせられたといわれています。

4-2 ネセシティ砦の戦い
(Battle of Fort Necessity, 1754/7/3)仏勝利
別名グレイトメドウズの戦い(Battle of Great Meadows)は現ペンシルベニア州ファイェット郡ファーミントン(Farmington, Fayette County, PA)の山の頂上にある集落で行われた戦い。これは北米七年戦争の端緒となる戦いの一つで、ワシントン中佐にとって唯一の降伏であり、同年のジュモンヴィルグレンの戦いと並んで、戦争が軍事的拡張を遂げる一因となりました。ワシントン中佐はアレゲニー山脈(Allegheny Mountains)を通る峠の、頂上の西にあるアルパインメドウ・ツンドラ(Alpine Meadow Tundra)にネセシティ砦を建設。近くを通る他の峠道は、アレゲニー・プラトー(Allegheny Plateau)の比較的低い土地に沿ってペンシルベニア州コンフルエンス(Confluence, PA)、そしてペンシルベニア州ユニオンタウン(Uniontown, PA)に端を発するネマコリンズトレイル(Nemacolin's Trail)の西、そしてファイエット郡(Fayette County)の他の地域に通じていました。

4-3 ブラドック遠征
(Braddock expedition, 1755/5月-7月)仏勝利
別名ブラドックの敗戦(Braddock's Defeat)はイギリス軍事遠征の失敗で、1755年の夏にフランスのデュケイン砦 (Fort Duquesne 1754、現ピッツバーグ(Pittsburgh, Allegheny County, PA)ダウンタウンに有) を占領しようとした遠征。イギリス軍はモノンガヒラの戦い(Battle of Monongahela, 1755/7/9)で敗北して生存者は撤退。この遠征隊の名前は、イギリス軍を率いて戦死したブラドック将軍(General Edward Braddock, 1695-1755) にちなんで名付けられました。ブラドックの敗北はフランスとの戦争の初期段階におけるイギリスにとって大きな後退でした。

4-4 モノンガヒラの戦い
(Battle of the Monongahela, 1755/7/9)仏勝利
別名ブラドックの野戦(Battle of Braddock's Field、荒野の戦い:Battle of Wilderness)は北米七年戦争の開始時に現ペンシルベニア州ブラドックのブラドックフィールド(Braddock's Field, Braddock, PA, ピッツバーグの東16km)で戦われた戦闘。ブラドック将軍のイギリス軍はデュケイン砦を奪取しようと動くも、フランスのボージュ大尉(Captain Daniel Lienard de Beaujeu, 1711-1755/7/9戦死)とカナダの軍隊とその同盟北米先住民連合軍の、アベナキ族(Abenaki)レナペ族(Lenape、デラウェア族:Delaware)ワイアンドット族(Wyandot)ウェンダット族(Wendat、ヒューロン族:Huron)ポタワトミ族Potawatomi)オジブワ族(Ojibwa)などに敗北。この敗北で英軍はデュケイン砦を占領して戦略的なオハイオ領土()の支配権を獲得することを望んでいたブラドック遠征が終了しました。ブラドック将軍とボージュ大尉の両方が戦闘中に戦死し、ブラドック将軍は戦闘で致命傷を負い、現ペンシルベニア州ユニオンタウン(Uniontown, PA)近くの退却中に戦死。残りの部隊は南東に後退し、砦とその地域は1758年に英に占領されるまでフランスの手に留まりました。フランスと同盟を結んだ北米先住民は奇襲で、地形を有利に利用して多数の英軍が死傷。フランス軍は戦闘の準備が整っていたため、イギリス軍を待ち伏せして、この戦いに勝利。

4-5 ペンズクリークの戦い
(Battle of Penn's Creek, 1755/10/16)レナペ族勝利
ウィリアム・ペン
別名ペンズ クリークの虐殺(Penn's Creek massacre)は米国北東部ペンシルベニア州中部のサスケハナ川の支流で、ウィリアム・ペン(William Penn, 1644-1718)が発見したペンズクリーク川(Penn's Creek, 108km)に沿った入植地(Penn's Creek settlement, PA)に対してデラウェア州先住民レナペ族(Lenape, Delaware)による襲撃でした。これは北米七年戦争でフランスと同盟を結んだアメリカ先住民によるペンシルベニア入植地(Pennsylvania settlements)に対する一連の致命的な襲撃の最初のものでした。
レナペ族はペンズクリークに住んでいる入植者26人中、14人を殺し、11人を捕虜にした(1 人は負傷するも逃亡)。捕らえられた少女達(プレティーン:Preteen girls)中3人は何年にもわたる奴隷の後、自由を取り戻しました。その物語は幾つかのアダルト小説や映画に描かれました。レナペ族は、何年にもわたってヨーロッパからの入植者が自分たちの土地に侵入してきたことに腹を立てているも、リーハイバレー(Lehigh Valley, PA東部4郡)の伝統的な土地を、不正な取引のウォーキングパーチェス(Walking Purchase)でペンシルベニア州政府に渡して失い、その後イロコイ族の許可を得て、多くの移住者が、ニューヨーク州・ペンシルバニア州・メリーランド州のサスケハナ川に接する低地の地域で構成されたサスケハナバレー(Susquehanna Valley)に移住しました。ペンズクリークの虐殺の1年前、イロコイ族はレナペ族に相談することなく、ペンシルベニア州とコネチカット州の政府にサスケハナバレーの大部分を売却していました。ペンズ クリークの虐殺とその後の襲撃の直接的な結果として、ペンシルベニア州議会議員のフランクリン(Benjamin Franklin)は州知事と州議会を説得して、クエーカー教徒(Quaker pacifism)の平和主義に根ざした植民地を放棄し、入植地を保護するために軍事力と一連の砦を設立しました。フランクリン自身、最初のペンシルバニア連隊(Pennsylvania regiments)の編成と訓練に貢献しました。1758年に部族とイギリス人の間でイーストン条約(Treaty of Easton 1758)が調印されるまで、レナペと他の追放されたアメリカ先住民は入植者への攻撃と州軍との戦いを3年間続けました。

4-6 トラフの戦い
(Battle of Trough、1756/3 or 4月)先住民勝利
トラフの戦いは、北米七年戦争の初期の小競り合いで、現米国ウェストバージニア州ハーディ郡(Hardy County, WV, USA)北部にあるポトマック川(Potomac River 616km)南支流(South Branch )の険しいトラフ渓谷(Trough valley)で、アメリカ先住民と英入植者の間で勃発した戦い。その朝、十分に武装して騎乗した白人の熟練したタフな英先住民狩人(Indian fighters)16〜18人がワグナー砦(Waggener Fort)と約8km上流のバターミルク砦(Buttermilk Fort)とプレザント砦(Fort Pleasant)から出動して先住民攻撃へ出撃しました。「挟み込み」アプローチ("pincer" approach)で馬を降り、2つの部隊に分かれて先住民の背後で北に移動し、ポトマック川に入る小さな支流のサウスブランチバレー(South Branch valley)へ入るも、先住民のうるさい犬のため、険しく通行不能な斜面から「トラフ峡谷」に下って、直ぐにショーニー族キルバック酋長(Shawnee chief Killbuck)の戦士約 60〜70人と出会いました。ショーニー族と1〜2時間の銃撃戦となって、英狩人は戦死7人と負傷4人となり、ショーニー族は戦死3人と数人の負傷者でした。馬は原住民のところに行き、生き残った白人はプレザント砦へ撤退して、戻って砦の守備任務に就き、次の夜中までずっと警戒を続けました。キルバック酋長と白人入植者との次の出会いはグレートカカポンの戦い(1756/4/18) として知られる待ち伏せで、白人にとってはもう 1 つの災難となりました。

南支流ポトマック川(South Branch Potomac River 224km)はウェストバージニア州ハンプシャー郡グリーンスプリング(Green Spring, Hampshire County, WV)東でポトマック川(Potomac River 652km)を形成する北支流ポトマック川(North Branch Potomac River 43km)と合流。バージニア州ハイランド郡北西部ハイタウン近くのアレゲニーフロント(Allegheny Front)東端のメリーランド州フェアファックスストーン(Fairfax Stone, MD)に源流が有。アレゲニーフロントはペンシルベニア州南部・メリーランド州西部・ウェストバージニア州東部・バージニア州西部のアレゲーニー山脈の南東または東向きの主要な断崖。 ポトマック河畔の桜花の並木

USA 1969 発行

4-7 サイデリングヒルの戦い
(Battle of Sideling Hill, 1756/4/4)先住民勝利
サイデリング ヒルの戦いは、1756/4/1にデラウェア(Delaware)のキャプテン・ジェイコブズ(Captain Jacobs, 1756/9/8没)ことレナペ族テウェア酋長(Lenape chief Tewea)か、レナペ族シンガス酋長(Lenape chief Shingas, 1740-1763, DE, USA)の戦士約100人が、現ペンシルベニア州西部のマッコード砦(Fort McCord)を攻撃し、植民地入植者27人を捕らえるか殺害しました。その3日後、英ペンシルベニア植民地民兵(Pennsylvania colonial militia)3中隊が原住民戦士を追跡して追いつき、カルバートソン大尉(Captain Alexander Culbertson)の中隊約50人と交戦。2時間の戦いで、カルバートソン大尉は戦死し、中隊は8割の死傷者を出し、原住民戦士も大きな犠牲者を出して追い払われました。サイデリングヒルの戦いはマデンズビル(Maddensville, PA)の近く、リトルオーウィッククリーク(Aughwick Creek)とサイデリングヒルクリーク(Sideling Hill Creek)が合流する場所で、現アンダーソンズグローブ(Anderson's Grove)として知られている場所で行われたと推定されています。

4-8 グレートカカポンの戦い
(Battle of Great Cacapon, 1756/4/18)先住民勝利
別名マーサーの虐殺(Mercer's Massacre)は、ワシントン中佐のバージニア連隊(Virginia Regiment)と、フランスと同盟を結んだアメリカ先住民ショーニー族とデラウェア族との戦いで、1754年に北米七年戦争が勃発し、1755年に英ブラドック将軍の遠征が失敗した後、オハイオカントリー仏総督ピエール・デ・リゴー侯爵は同盟先住民に英植民地の開拓地を襲撃するよう促しました。バージニア北西部 (現ウェストバージニア州を含む地域) は、頻繁に先住民の襲撃を受けた地域の1つでした。これらの襲撃を防御するため、英ディンウィディ総督(Virginia Governor Robert Dinwiddie, 1692-1770)は一連の防御要塞の建設を命令。それらの砦にはワシントン中佐のバージニア植民地民兵が配置されていました。1756/4/18に先住民ジョン・キルバック(John Killbuck)ことデラウェア族ベミノ酋長(Bemino)とショーニー族で構成されていた戦士100人が、現ウェストバージニア州ハンプシャー郡(Hampshire County, WV, USA)カカポン川(Cacapon River, 130km)からそう遠くないフォートエドワーズ(Fort Edwards)の近くで白人男性2人を殺害の一報を受けて、マーサー大尉(Captain John Mercer)が民兵隊約60人で追跡。先住民はカカポン川上流の堤防に沿って待ち伏せ。銃撃戦の後に、マーサー大尉と民兵16人が戦死。その場所はウェスト バージニア州ハンプシャー郡のカポン橋(Capon Bridge, Hampshire County, WV)に遺跡が有。その後も先住民はこの地域を襲撃し続けました。

ヌーベルフランス総督
 (在任1663-1760:Governor General of New France):〜
ルイ14 世(Louis XIV)
1663-1665:オーカスティン・デ・サフレ・ドゥ・メシー(初代)
 (Augustin de Saffray de Mesy)
1665-1672:ダニエル・デ・レミ・ドゥ・コールセル
 (Daniel de Remy de Courcelle)
1672-1682:ボーデ・ドゥ・フロンテナック
 ルイ・デ・ボーデ、フロンテナック・パルオー伯爵
 (Louis de Buade, Comte de Frontenac et de Palluau)
フロンテナック総督

カナダ 1972 発行
1682-1685:アントワーヌ・ルフェーブル・デ・ラ・バール
 (Antoine Lefebvre de La Barre)
1685-1689:ドノンヴィル侯爵ジャック・ルネ・デ・ブリセイ
 (Jacques-Rene de Brisay de Denonville, Marquis de Denonville)
1689-1698:ボーデ・ドゥ・フロンテナック
 (Louis de Buade de Frontenac)
1698-1703:ルイ・エクトール・デ・カリエール
 (Louis-Hector de Calliere)
1703-1725:ヴォードルイユ侯爵ルイ=フィリップ・デ・リゴー
 (Louis-Philippe de Rigaud, Marquis de Vaudreuil)
ルイ 15 世(Louis XV)
1725-1747:ボアルノワ侯爵シャルル・デ・ラ・ボワッシュ
 (Charles de la Boische, Marquis de Beauharnois)
1747-1749:ガリソニエール侯爵ロラン=ミシェル・バラン・デ・ラ・ガリソニエール
 (Roland-Michel Barrin de La Galissoniere, Marquis de La Galissoniere)
1749-1752:ジョンキエール侯爵ジャック・ピエール・デ・タファネル・デ・ラ・ジョンキエール
 (Jacques-Pierre de Taffanel de la Jonquiere, Marquis de la Jonquiere)
1752-1755:ミシェル=アンジュ・デュケヌ・デ・メンヌヴィル
 (Michel-Ange Duquesne de Menneville)
1755-1760:ヴォードルイユ=カヴァニアル侯爵ピエール・デ・リゴー(最終)
 (Pierre de Rigaud, Marquis de Vaudreuil-Cavagnial)
ニューフランス総督アカディア総督

4-9 キタニングの戦い
(Kittanning Expedition, 1756/9/8)英ペンシルベニア植民地州兵の勝利
別名アームストロング遠征(Armstrong Expedition)は、北米七年戦争でのオハイオ領土の支配をめぐる闘争としてペンシルベニア辺境で始まった戦いの一つ。1754年のネセシティ砦でのワシントン中佐の降伏と1755年のブラドックの敗北でペンシルベニ国境地帯の入植者は軍事保護がなくて困っていました。モノンガヒラでブラドック将軍を破ったフランスと同盟を結んだアメリカ先住民は主に北の五大湖地域出身でした。地元の先住民は主にデラウェア族とショーニー族
先住民のウィグアム(テント)村

カナダ 1971 発行
で、白人入植者が東に土地を定住させた後、この地域に移住してきて、英仏どちらが勝つかを見守っていました。デュケイン砦が確保されると、勝利したフランス軍はデラウェア族とショーニー族に、土地を占領した人々に対して「手斧を取り上げる」よう促しました。1755/10 月頃から、デラウェア族とショーニー族は、しばしばフランスの協力を得て、ペンシルベニアの入植地を襲撃し始めました。ヨーロッパ系アメリカ人も残忍な戦争を繰り広げましたが、彼らは先住民の戦争が特に残忍で恐ろしいものであることに気づきました。先住民の襲撃者の中で注目に値するのは、デラウェアのレナペ族シンガス酋長(Lenape chief Shingas, 1740-1763)とジェイコブス大尉ことデラウェアのレナペ族テウェア酋長(Delaware (Lenape) chief Tewea, Captain Jacobs, 1756/9/8没)であり、どちらもキタニング村(Kittanning village)に住んでいました。英ペンシルベニア州とバージニア州の植民地政府は、彼らの頭皮に報奨金を掛けました。テウェア酋長は仏ヴィリエ大尉(Louis Coulon, Sieur de Villiers 1710-1757/11/2 Quebec)が率いる遠征に参加し、1756/8/2朝、グランビル砦 (Fort Granville:現ルイスタウン近く) に降り立ち、1756/8/3にヴィリエ大尉と共にがグランビル砦を攻撃。守備隊長を殺害して占領し、翌朝に女性と子供を含む守備隊を降伏させました。シャーリー砦(Fort Shirley)にいた守備隊長の兄弟アームストロング中佐(Lieutenant Colonel John Armstrong)はその知らせに接すると即座にキタニングに対する遠征を組織。アームストロング中佐は1756 /8/31にシャーリー砦から英ペンシルベニア植民地州兵(Pennsylvania Provincial soldiers)300人で出発。1756/9/8早朝、先住民の村キタニングに奇襲攻撃を仕掛け、先住民のキタニング村を破壊しました。
その有様は、ウィグアム(Wigwams)製の小さな先住民テント村が奇襲されると、キタニングの住民の多くは逃げるも、テウェア酋長は妻と家族と一緒にウィグアムの中に閉じ込められて防御し、降伏を拒否すると、放火されて内部に保管していた火薬が爆発。周りの幾つかのウィグアムも爆発し、先住民の死体の破片が空高く舞い上がり、近くのトウモロコシ畑に落下。テウェア酋長は炎から逃れようとしてウィグアムから飛び出た後、殺されて頭皮を剥がされました。村全体が炎に包まれた時に戦いは攻撃軍にも多くの犠牲者を出して終了。9/13にアームストロング中佐と残りの部隊はラウドン砦(Fort Loudon)に帰還。アームストロング中佐は ウィグアムの中

カナダ 1971 発行
先住民30〜 40人を殺し、頭皮報奨金を目当てに11人の頭皮(scalps)を取り、女性と子供11人の捕虜を解放したと報告。その後、アームストロング中佐は「キタニングの英雄」として知られるようになりました。

オハイオ領土(Ohio Country、Ohio Territory)
18世紀北アメリカで、アパラチア山脈の西、仏ラ・サールが発見したオハイオ川(Ohio Rever 1,579km)の北およびエリー湖(Lake Erie)の南の地域の呼称。米国にとっては最初の辺境の一つであり、おおまかに、現オハイオ州、インディアナ州の東部、ペンシルベニア州の西部およびウエストバージニア州の北部に跨っていました。この地域への開拓者の入植が北米七年戦争の主要な原因となり、アメリカ独立戦争に繋がることになりました。
5大湖、右下エリー

USA 1966 発行

4-10 血の泉の虐殺
(Bloody Springs massacre, 1757)先住民の勝利
別名:スパッツ家の虐殺(Massacre of Spatz family)は地元の言い伝えで、北米七年戦争の2 年目の、1757/10/1にオハイオバレーのレナペ族が、現ペンシルバニア州トゥルペホッケンタウンシップ(Tulpehocken Township, PA, USA)のノースキル砦(Fort Northkill)の近くを再び攻撃。そこはサスケハナ川東の現ペンシルバニア州シュトラウスタウン(Strausstown, Upper Tulpehocken Township, PA)近くの泉で、スパッツ家が虐殺され、その水が血で赤く染まって、その小さな水滴は「血の泉」として知られるようになりました。それ以来、この出来事は「血の泉の虐殺」と呼ばれました。その虐殺の話はスパッツ家の隣に農場を持っていたデグラー家が伝承しました。ことの起こりは、オハイオ バレーに住んでいた先住民レナペ族がスパッツ家の誰かに殺されて、報復として先住民の仲間がフランスに支援されてスパッツ家の家族全員を殺したというものでした。

サスケハナ川
 (Susquehanna River, 715km)
アメリカ合衆国北東部を流れる河川で東海岸では最も長く、全米でも16番目の長さ。流域はニューヨーク・ペンシルベニア・メリーランドの3州(NY, PA, MD, USA)にまたがっています。河岸にはペンシルベニア州々都ハリスバーグ(Harrisburg)やウィルクスバリ(Wilkes-Barre)ニューヨーク州ビンガムトン(Binghamton)などの都市が有。サスケハナ川は上流域では北支流(North Branch)と西支流(West Branch)に分かれるも、通常はニューヨーク州中東部のオチゴ湖(Otsego Lake)を水源とし、ペンシルベニア州北東部を流れる北支流のほうが本流として見られています。北支流よりも短い西支流はペンシルベニア州西部アルトゥーナ(Altoona)の西約30kmにあるカンブリア郡キャロルタウン(Carrolltown, Cambria County)に端を発し、アルゲイニー台地(Allegheny Plateau)上の農村地帯からウィリアムズポート(Williamsport)の市街地を流れ、同州中央部ノーサンバーランド(Northumberland)付近で北支流と合流。合流した2本の川は刻まれた谷間をジグザグに流れながらアルゲイニー山脈(Allegheny Mt.)を横切り、ペンシルベニア州南部からメリーランド州北東部へと南下し、チェサピーク湾(Chesapeake Bay)最奥部の入り江に注ぐ。17世紀にデラウェア川(Delaware River 579km)流域を中心に住みついていた先住民のレナペ族がサスケハナ川流域をその居住地域の西端として、1682年にはペンシルベニア植民地を創設したウィリアム・ペンがレナペ族と友好関係を結び、白人の入植地を創るためにレナペ族と交渉して、デラウェア川とサスケハナ川の間の土地を購入しました。

4-11 フォーブス遠征
(Forbes Expedition, 1758/11/24)イギリスの奇跡的な勝利、フランスの戦略的崩壊
フォーブス遠征は北米七年戦争中にフォーブス准将(Brigadier-General John Forbes, 1707-1759/3/11)がカンバーランド砦()とメリーランド西部で兵を集め、ワシントン中佐のバージニア分遣隊(Virginian's contingent)2000人を含むイギリス軍約6,000人の兵士となって、ピッツバーグ中心街(downtown Pittsburgh)を還流するアレゲニー川(Allegheny River 523km)とモノンガヒラ川(Monongahelar River 210km)の合流点(Junction)に建設された仏のデュケイン砦(Fort Duquesne, 1754)を占領するための遠征で、1755年にブラドックの遠征隊モノンガヒラの戦いで終わったブラドックロード(Braddock's Road 177km)の建設と違って、ペンシルベニア州カーライル(Carlisle, PA, USA)からラウドン砦(Fort Loudon)リトルトン砦(Fort Littleton)ベッドフォード砦(Fort Bedford)リゴニア砦(Fort Ligonier)を経由し、今では歴史的痕跡(トレイル:Trail)のフォーブスロード(Forbes Road 354km)を建設。1758/11/24に遠征隊は砦に到着。ところが、イーストン条約(Treaty of Easton 1758/10/26)でフランスに対するアメリカ先住民の支援を失ったフランスがモントリオールからの補給線を断たれたため砦を維持できなくなって破壊し、それに続いてオハイオカントリーからフランス人が撤退していて、カナダ侵攻の道が切り開かれました。なお、フォーブス准将は赤痢で指揮できず亡くなりました。フォーブス遠征の先遣隊によるデュケイン砦の戦いが有。

4-12 デュケイン砦の戦い
(Battle of Fort Duquesne, 1758/9/14)仏勝利
別名デュケイン砦の攻撃(Attack on Fort Duquesne)は、北米七年戦争でのフォーブス准将のイギリス軍によるフォーブス遠征の先遣隊(英第77連隊スコットランドのバリンダロッホ領主グラント少佐(Major James Grant, Laird of Ballindalloch, 1720-1806, 77th Regiment)の兵850人)が、フランス兵500人と同盟先住民兵300人が駐屯する仏デュケイン砦 (後のピッツバーグ:Pittsburgh) を攻撃して敗退した戦い。グラント少佐は捕虜になり、生き残ったイギリス軍はリゴニア砦(Fort Ligonier)に撤退。この先遣隊を撃退した後、フランスは同盟先住民国の一部に見捨てられ、迫りくるフォーブス准将兵の数に圧倒され、弾倉を爆破してデュケーヌ砦を焼き払いました。11 月にフランス人はオハイオバレーから撤退し、イギリス人入植者はその場所にピット砦(Fort Pitt)を建設しました。戦いは、まず9/13に先遣隊の50人が偵察して、砦の中に敵は見当たらず、中の倉庫を焼いて、砦から3kmのグラント少佐のいる拠点に帰還。次いで9/14に3部隊に分けられて子激したイギリス軍は、イギリス兵とニューイングランド植民地兵は342人の死傷者を出し、77連隊はグラント少佐を始め232人が捕虜。バージニア分遣隊の8人の士官の内5人が戦死、1人が負傷し、分遣隊長は捕虜。それでもグラント軍は殆どの兵が逃亡して本隊に合流。フランスと先住民の連合軍の被害は、8人戦死、8人負傷のみ。フランスの退却は、最初のイギリスの攻撃こそ撃退するも、フランス司令官は600人程度の兵では、その10倍もの人数のイギリス軍相手にはデュケーヌ砦を守れないと判断。フランス軍は11/24まではデュケーヌに留まるも、駐屯軍はその夜、砦に火をつけ、暗闇にまぎれて去り、部隊をボートに乗せ、火炎にまぎれてオハイオ川にまで退却。その夜、進軍中のフォーブズ准将イギリス軍は、先住民の斥候から、砦の近くから煙が上がっていると報告を受領。フォーブズ軍は調査のため騎兵隊を派遣し、本体の兵もそれに続く。翌9/25にイギリス軍が火がくすぶり続けている砦の跡地に進軍してきた時、仏同盟の先住民たちが英高地連隊兵の遺体から首を切り取り、その首を砦の、先の尖った支柱に突き刺していた恐ろしい光景を目の当たりにしました。兵たちのキルト上衣がその下に吊るして有。イギリス軍はデュケーヌ砦を再建してその名前を、この戦略上重要な土地の攻略を命じたピット首相にちなんでピット砦と命名。その後、この砦の周辺の町はピッツバーグと呼ばれるようになりました。また、元々のデュケーヌという名はヌーベルフランスの提督デュケーヌ総督にちなむものでした。

4-13 リゴニエ砦の戦い
(Battle of Fort Ligonier, 1758/10/12 )英勝利
別名ロイヤルハノンの戦い(Battle of Loyal Hannon)は北米七年戦争での戦いで、近くのデュケイン砦から派遣されたフランス軍と同盟先住民兵は、当時まだ建設中だったイギリス前哨基地リゴニエ砦(Fort Ligonier)への攻撃で撃退されました。それは、北米七年戦争初期の悲惨なブラドック遠征でフランスのデュケイン砦をイギリスが占領できなかった後、1758年にイギリスはついにフォーブス准将指揮の下、その砦を占領するための2回目のフォーブス遠征を開始。先住民同盟兵は、イギリスの植民地開拓地に対する襲撃を始めていました。フォ−ブス遠征隊はアレゲニー山脈を横断するフォ−ブス道路を建設し、9月上旬までにロイヤルハノン (現ペンシルベニア州ロイヤルハナタウンシップ(Loyalhanna Township, PA)近く) として知られる安全な場所に到達。フォーブス准将の先遣隊ブーケ大佐(Henry Bouquet 1719-1765/9/2)部隊約1,500人は、冬の宿舎を設置するためリゴニア砦の建設を開始するも、デュケイン砦からきたフランスと先住民兵の襲撃隊にさらされていました。その襲撃に対してブーケ大佐が、グラント少佐に750人の兵でデュケイン砦の偵察を命令。9/14にグラント少佐はデュケイン砦を攻撃。グラント少佐はデュケイン砦の守備隊に反撃されて捕らえられ、部下の半数近くが戦死または負傷。フランス守備隊は物資が不足しており、イギリス軍がフロンテナック砦(Fort Frontenac, Kingston, ON, Canada)を占領したことで補給線が断たれていたため、イギリス軍の前進を弱め、物資の一部を奪取することを期待してイギリス軍リゴニエ砦陣地を攻撃。フランス隊は海兵隊440人と先住民デラウェア兵150人の全兵力を投入して戦いが始まりました。フランス軍と先住民兵はイギリス軍の大砲に追い返されて撤退し、暗闇を待って攻撃を再開するも、さらなる大砲によって撃退されました。フランス軍と先住民兵は夜通し砦の近くに留まり、歩哨を狙撃して防御を調べてデュケイン砦に撤退する前に約200頭の馬を殺したり奪ったりしました。フランス攻撃隊の損害は比較的少なかったと、攻撃隊の上官モンカム将軍が戦死2人、負傷7人と報告。

参考HP:〜
フレンチ・インディアン戦争の地図
ビーバー戦争の地図(右上側に ”Louisbourg” 有)
セントジョン川の地図(米国からカナダ・セントジョン港(St. John)をへてフンディ湾(Fundy bay)へ)
ケネベック川の地図(メイン州北部ムーズヘッド湖から南へ州を縦断してメイン湾へ)
メイン州の地図米国)
サスケハナ川の流域地図(流域ニューヨーク・ペンシルベニア・メリーランドの3州をへてチェサピーク湾へ)
ノバスコシア州の場所地図(カナダ)
アカディアの地図(大陸部と島部に有)1754頃
ニューブランズウィック州の場所地図(赤の東がノバスコシア州)
ペンシルベニア植民地の場所地図(1681-1776)
フォーブスロードの場所地図(ブラドックロード有)
ケープブレトン島の地図

こちらで
フレンチ・インディアン戦争(ビ−バー戦争)
第一次ルイスバーグの戦い(Siege of Louisbourg 1745)
第2次ルイスバーグの戦い
サフレン提督
マゼラン (海峡)
スパイス (香辛料)
コーヒー (嗜好飲料)
ラッコ(絶滅危惧種)
クリッパートン島(絶海の孤島)
カリブ海の地図(島国シリーズ)
フランスの王と王族(ブルボン朝)
切手コレクションの
イギリス皇太子ご成婚
・切手で綴る東海道五十三次
全米50州アメリカ
・世界で1番美しい 蝶々
・ギリシャの民族衣装
・スペインの画家ゴヤ
世界遺産
フランス
法隆寺日本
ヌビア遺跡エジプト
ピラミッド (エジプト)
パルテノン神殿ギリシャ
モヘンジョダロパキスタン
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       令和 R.4/12/15(2022)
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