France 国連 1980 発行 |
切手で綴る 殖民大航海(Great Colonisation
Voyage)
ボーデ・ドゥ・フロンテナック総督 1672 ケベックに着任 |
大航海物語 フランス編★ |
Saint-Pierre-et-Miquelon
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Canada 1608 ケベック400年記念 2008 アメリカ 2008 発行 |
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CANDA POSTAGE ケベックの眺望、1700 1608 ケベック300年記念 1908 カナダ 明治41年 1908/7/16 発行 |
Canada 中央がハドソン湾 カナダと付近の地図 カナダ 1981/6/30 発行 |
←ハドソン湾 ←ラプラドル半島 ←ニューファウンドランド島 ←セントローレンス河 ←ケベック、アカディア ←モントリオール |
ボーデ・ドゥ・フロンテナック はフランス王宮の忠臣で、ヌーヴェル・フランスの総督を1672〜82年の間と1682年から亡くなるまで、2度に渡って務め、数多くの砦を5大湖周辺に建設してイギリスとイロコイ族インディアンとの戦いを勝利に導きました。1673年にはフロンテナック砦を建設してフランスの毛皮貿易を支援しました。 |
ルイス・ドゥ・ボーデ=コンテ・ドゥ・フロンテナック (1622/5/12〜1698/11/28) Louis de Buade, Comte de Frontenac et de Palluau フランス王宮の忠臣、ニューフランス総督(French courtier、Governor General of New France) ボーデ・ドゥ・フロンテナック総督はフランスのイル・ド・フランス地域圏イヴリーヌ県(パリの西部)の都市サン=ジェルマン=アン=レー(Saint-Germain-en-Laye)で、ナバラ連隊(regiment of Navarre)大佐アンリ・ドゥ・ボーデ(Henri de Buade)の息子として生まれました。1635年にオランダのオレンジ公王子(prince of Orange)の下で、オランダそしてイタリアと転戦して数々の傷を負い、1643年にノルマンディ連隊(regiment of Normandy)で大佐になりました。3年後にオルビテロの戦い(siege of Orbitello)で腕を折りました。1648年の三十年戦争(1618-1648)の講和条約ウェストファリア条約(Peace of Westphalia)まで闘い続け、戦後はパリの父の家に帰ってアン(Anne de la Grange-Trianon)と結婚し、息子が生まれました。 ボーデ総督は大西洋を越えて新大陸ヌーヴェル・フランスの総督として、1672/9/12にケベック(Quebec)に着任。カタラクィ砦(Cataraqui)を現キングストン(Kingston, Ontario)に建設し、オタワ族(Ottawas)とヒューロン族(Hurons)とは敵対関係になりましたが、イロコイ族とは友好同盟となりました。1673年にはカナダのオンタリオ州南東部でオンタリオ湖の北岸セントローレンス川沿いの現キングストン市(Kingston)に、は毛皮交易所及び要塞「フォート・フロンテナック」(Fort Frontenac、セントルイス砦 Chateau St. Louis)をケベックに建設しました。その後の七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)の終盤ころの1758年に起こった「フォート・フロンテナックの戦い」で、この砦はイギリス軍に滅ぼされました。ボーデは1682年に任期が終って大西洋を越えてフランスに帰国しました。 1689/8/5に、500人のモホーク族(Mohawk)がオタワ河とセントローレンス河の合流点にあるモントリオール島(Ile de Montreal)の、住民375人のラチン居住地を早朝に急襲、住居に火をかけ、多くの住民を殺し、また捕らえて連れ去るという「ラチンの大虐殺」(massacre of Lachine)事件が起こりました。 1689/10/15にボーデは総督として、再度、ケベックに着任。モントリアール(Montreal)の総督職を引き継いだボーデは1690年の冬季間、はるかに遠いモホーク族の土地を目指して、近くの南カナダにあるイギリス植民地の居住者から、「ラチンの復習の戦い」を開始しました。それがフレンチ・インディアン戦争(1689-1763、広義:1608-1763、狭義:1754-1759)の始まりとなる戦いの始まりでした。1696年にはボーデ総督は1000人の軍隊で「ラチンの復讐戦」を、まずは近くのイロコイ族の土地にしかけました。1690/10/16にイギリスのマサチュセッツ総督ピップ卿(Sir William Phips、1651-1695)指揮の艦隊が姿を見せて砲撃を始め、オルレアン島(Island of Orleans)に上陸、降伏を要求してきました。恐れを知らぬボーデ総督は「我が砲口と銃口が火を噴くのが答えである」と返答してケベックの戦い(Battle of Quebec、1690/16-24)の火蓋が切って落とされました。10/22に英軍は大砲を置き去りにして退却してフランスの勝利となりましたが、その後はイロコイ族インディアンなどを巻き込んだ血で血を洗う凄惨な戦闘が断続的に続き、1759年にモンカム将軍が闘った最期の大会戦「アブラハム平原の戦い」へと引き継がれることになりました。 ボーデ総督は急な病で故国フランスに帰ることも無くケベックのシャトー・セントルイス(Chateau St-Louis)で、間もなく(1698)亡くなりましたので、復讐戦は後任の総督に引き継がれることになりました。 参考:〜 ・ヌーベルフランス総督 (在任1663-1763:Governor General of New France):〜(ニューフランス総督) 1663-1665:オーカスティン・デ・サフレ・ドゥ・メシー (Augustin de Saffray de Mesy) 1665-1672:ダニエル・デ・レミ・ドゥ・コールセル (Daniel de Remy de Courcelle) 1672-1682:ボーデ・ドゥ・フロンテナック ルイ・デ・ボーデ、フロンテナック・パルオー伯爵 (Louis de Buade, Comte de Frontenac et de Palluau) 1682-1685:アントワーヌ・ルフェーブル・デ・ラ・バール (Antoine Lefebvre de La Barre) 1685-1689:ドノンヴィル侯爵ジャック・ルネ・デ・ブリセイ (Jacques-Rene de Brisay de Denonville, Marquis de Denonville) 1689-1698:ボーデ・ドゥ・フロンテナック (Louis de Buade de Frontenac) 1698-1703:ルイ・エクトール・デ・カリエール (Louis-Hector de Calliere) 1703-1725:ヴォードルイユ侯爵ルイ=フィリップ・デ・リゴー (Louis-Philippe de Rigaud, Marquis de Vaudreuil) ・アカディア総督 (在任1603-1710:Acadian governors):〜総督 ピエール・ドゥグア・ドゥ・モンス(1603-1608:Pierre Dugua, Sieur de Monts) ・ヌーベルフランス副総督 (在任1603-1627:Lieutenant General of early New France、and Acadia):〜 サミュエル・ドゥ・シャンプラン(1613-1627:Samuel de Champlain)。 参考HP:〜 ・ケベック州の地図 ・アカディア(Acadia 1754)の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/11/20、2007/3/30、 |