切手で綴る世界遺産 (ヨルダン)
ペトラ遺跡
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岩山を刳り抜いて造られた僧院と呼ばれるエド・ディル The Rose City, Petra ヨルダン 1995/8/11 発行 |
エド・ディル 世界遺産シリーズ、ペトラ キューバ 2007 発行 |
エド・ディル El Deir Temple, Petra ヨルダン 1954 発行 |
最上段オベリスクの墓 The Obelisk Tomb, Petra ヨルダン 1975 発行 |
宝物殿と呼ばれるエル・カズネ Treajury, Petra ヨルダン 1975/5/1 発行 |
シークの先はエル・カズネ |
宝物殿と呼ばれるエル・カズネ |
ローマ劇場 |
出土品 |
ヨルダン 1995/8/11 発行 |
・ペトラ遺跡 Petra Ruins 所在地:ヨルダン南部マアーン県ペトラ (Petra, Ma'an Governorate(province), southern Jordan) 世界遺産:ユネスコの文化遺産(1985/12/6) (UNESCO World Heritage Site, Type:Cultural) 正式名称:日:ペトラ遺跡 英:Site of Petra 仏:Site de Petra ペトラはヨルダン南部で、死海(Dead Sea)と紅海のアカバ湾(Gulf of Aqaba, Red Sea)の間にある渓谷にあって、死海から約80km南に有。アラブ人の一族で、北アラビアを起源とする遊牧民族ナバテア人の古代隊商都市(Nabataean caravan-city)遺跡です。またペトラ(petra)とは、ギリシャ語で崖(英cliff)を意味し、1985/12/6にユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録され、2007/7月には「新・世界七不思議」に選出されました。 ペトラの地は自然の要害で、また西にガザ(Gaza)、北にダマスカス(Damascus)、紅海にも近く、中東での人や物の行き交う要衝の地でした。ナバテア人の王国のナバテア王国(Nabataean Kingdom:BC168建国〜BC63ローマ属国、AD106ローマ帝国アラビア属州併合)首都で、砂漠を移動していたキャラバン隊の中継基地であったと伝えられています。立地条件の良さのため、BC1世紀ごろから、古代ナバテア人の有力都市として栄えました。ペトラの特徴として、スパイス交易の拠点機能と治水システムがあげられます。 完全な岩礁地帯なので、農業には不向きでした。また雨が降ると、鉄砲水となって渓谷内を通過していくのを、ナバテア人はダムを作って鉄砲水を防ぎ、さらに水道管を通して給水設備を作り上げていました。 ・ナバテア人 BC1200年頃から、古代パレスチナに居住したセム系民族で現在はエジプト人のエドム人(Edom:詳細不明)がペトラ付近に居住していたと考えられています。(旧約聖書の創世記第36章からの文書データによると、アブラハムの孫・エサウ系の子孫と、その地のセイル(セラ) 山地に先住していたホリビとセイルの子孫らとの一部混淆による人たちであろうと推定されています)。BC1世紀ごろから、エドム人達を南へ追いやったナバテア人が居住をはじめました。ナバテア人はアラビア付近の貿易を独占。それにともないペトラも古代ナバテア人の有力都市として栄えました。BC64年からBC63年ごろ共和政ローマ期の軍人で政治家の将軍ポンペイウス(Gnaeus Pompeius Magnus, BC106-BC48)が、ナバテア人をその支配下におきました。ローマはナバテアの自治は認めたものの徴税して、砂漠から進入してくる異民族の緩衝地帯にしました。また、ローマ風の建築物の造営がこのころ始まりました。AD105年にペトラが反乱を起こすも、ローマ皇帝トラヤヌス(Marcus Ulpius Nerva Trajanus Augustus、在位98-117)が鎮圧して降伏させ、106年にはペトラとナバテア人はローマのアラビア属州として完全に組込まれました。 ・馬を導入 ナバテア人は元来北アラビアを起源とする遊牧民族であり、羊の放牧や盗賊稼業、ラクダを利用した貿易などを行いながら、当時エドム人が居住していたペトラを拠点に生活していました。BC4世紀前後には1万人弱だったナバテア人の人口はBC2世紀頃になると20万人近くに膨れ上がり、深刻な人口増加問題を抱えるようになりました。この頃のナバテア人は馬を連れて遊牧していたことからナバテア人はアラブ史上初の馬を導入した民族であるとされ、ナバテア人は騎馬部隊で商隊の護衛を行うことで交易の安全を確保していました。もはや遊牧生活では立ち行きが難しくなったナバテア人はその頃から定住生活に移行を始め、エドム人の住むペトラに腰を落ち着けるようになり、BC168年にナバテア王国が誕生しました。 ・ペトラの発見 ペトラは、1812年にスイス人の探検家ルートヴィヒ・ブルクハルト(Johann Ludwig Burckhardt, 1784-1817)が発見し、12世紀の十字軍以降、最初にヨーロッパへ紹介しました。ブルクハルトによる紹介以降、20世紀初頭から発掘調査が行われ始め、現在も続いています。2000年の調査段階でも、未だ遺跡の1%程度しか完了していないと推定されています。 <主な遺跡> ペトラの砂岩をくり抜いて造られた遺跡群に到達するには、断崖絶壁に囲まれた「シーク」と呼ばれる一本道を通って行きます。頭上に迫る断崖の高さは約60〜100mですが道幅は狭く、ひと一人が通るのがやっとの所も有。両側には美しいピンク色の岩肌が、何層にもなって延々と続いています。砂漠の真ん中に3万人もの人々が暮らしていたとは信じがたい所ですが、岩壁に残る水路跡を見れば納得します。この細く暗い道を30分ほど進むと、突然光が差し込み、岩と岩の裂け目から神殿のような建造物が徐々に姿を現します。映画「インディ・ジョーンズ:最後の聖戦」の舞台となったエル・カズネは、高さ約30m、間口約25m、ヘレニズム様式の影響が色濃い2階構造の建物です。BC1世紀頃の創建で、宝物庫(Treasury)というものの、葬祭殿(Mortuary temple)、霊廟(Mausoleum)、寺院(Temple)など諸説があり、その使用目的は今もって謎とされています。さらに奧へ進むと、円形劇場(Amphitheater)をはじめとするローマ遺跡が現れ、列柱通り(Colonnaded Street)の右手には王家の墓(The Royal Tombs)と呼ばれる岩窟墳墓群が建ち並び壮観な眺めです。800段もの石段を上り詰めた先にあるのは、ペトラ最大の遺跡エド・ディル。山と一体となった荘厳な神殿の周囲には、修道僧が住んでいたと思われるおびただしい数の洞穴住居が有。正面の丘から見渡す景色は雄大で、谷がバラ色に染まる夕暮れ時はひときわ美しく感動的で、バラ色の街:ローズシティ(The Rose City, Petra)と呼ばれていす。
・ローマ人街 (Roman City) ローマ劇場を抜けてさらに進むと、ローマ人たちによって作られた街の跡に出ます。 そこは、石畳が敷かれた路が通り、脇には水路が作られ、路の両脇には巨大な列柱が立ち並んでいます。周囲の岩と砂の景色さえなければ、ローマやギリシャの遺跡そのものです。列柱の並ぶ通路を抜けると、精緻な彫刻装飾で飾られた凱旋門が立ち、遠い過去にローマの軍隊がここをくぐって凱旋してきたのだろうと想像できます。 ・その他 ・王家の墓(The Royal Tombs) ・宮殿の墓(The Palace Tomb) ・列柱通り(Colonnaded Street) ・凱旋門 (Triumphal Arch) ・大神殿(The GrandTemple) ・ダム(Petra Dam) ・シルクの墓(The Silk Tomb) ・ローマ兵の墓(Tomb of Roman Soldiers) ・ビザンティン教会(Petra Church) など。 ・映画のロケ地 ・エル・カズネ(宝物殿)がインディ・ジョーンズ「最後の聖戦」 ・エド・ディル(僧院)がトランスフォーマー「リベンジ」 ・ペトラがシンドバッド「虎の目大冒険」(実写部分) のロケ地となりました。 参考:〜 ・新・世界七不思議 (New Seven Wonders of the World) (1)万里の長城、中国、BC700建造 (2)ペトラ、ヨルダンのマアーン県、BC312建造 (3)コロッセオ、イタリアのローマ、80建造 (4)チチェン・イッツァのピラミッド、メキシコのユカタン州、600建造 (5)マチュ・ピチュ、ペルーのクスコ県、1450建造 (6)タージ・マハル、インドのウッタル・プラデーシュ州アーグラ、1643建造 (7)コルコバードのキリスト像、ブラジルのリオデジャネイロ、1931建造 ・世界の七不思議(Seven Wonders of the Ancient World)はこちら。 参考HP:〜 ・ペトラ遺跡の場所地図(世界遺産) こちらでヨルダンの ・ジャラシュ遺跡 こちらで世界遺産の ・バールベック遺跡 (レバノン) ・ヌビア遺跡保存 (エジプト) ・法隆寺 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2017/1/19 |