Namibia No.20 国連 1997 発行 |
ヒンバ族 (Himba people) |
ヒンバ族の女性 | |
ナミビア 2002 発/行 |
ヘレロ族は、1904/8/11の第二次ウォーターバーグの戦いで、大砲30門と機関銃14門を使ったドイツ植民地軍に敗北し、残りのヘレロ族(女性、子供、高齢者を含む)はナンビア中東部オマヘキ州のカラハリ砂漠(Kalahari Desert)に追いやられました。何万人ものヘレロ族が渇き、飢餓、または病気で亡くなりました。降伏しようとした人たちは撃たれました。民族浄化の命令がベルリンから要求された後、捕らえられた生存者はカラス州リューデリッツ(Luderitz)にあるシャーク島の強制収容所(Shark Island Concentration Camp, 1905-1907/4)に送られ、多くが亡くなりました。 ドイツは1904/8月、ロタール・フォン・トロータ将軍の指揮でヘレロ族を攻撃(2nd Battle of Waterberg, 1904/8/11)、三方から包囲してカラハリ砂漠に追い込みました。英領ベチュアナランド(現ボツワナ)を目指して脱出したヘレロ族は途中で多くが渇きのために死亡。ベチュアナランドに辿り着いたのは1,000人以下だといわれています。1904/10月にはナマクア族(ホッテントット人)も蜂起するも、同様の結果に終わりました。 第二次ウォーターバーグの戦い (2nd Battle of Waterberg, 1904/8/11-) 場所:ナミビア中部オチョソンデュパ州 オチワロンゴ南東68kmのウォーターバーグ台地 (Waterberg Plateau, 68km South-east of Otjiwarongo, Otjozondjupa Region, Namibia) ・ドイツの装備:〜1904/6月
・ヘレロ族の装備:〜
ヘレロ族が集中していたオチョソンデュパ州ウォーターバーグ台地(Waterberg Plateau)は、ドイツの物資の供給源から東に100キロ離れていたので、ドイツ補給部隊は予想される場所に牛車で軍隊や物資を運ぶのに約3ヵ月(6月、7月、8月の一部)を費やしました。その間にヘレロ族は、約60,000人の男性、女性、と子供たちが、同数の牛を飼っていて、ドイツ人からの攻撃を受ける前に、ほんのわずかな草と水しかありませんでした。 戦後、ドイツは先住民を強制収容所へ収容したり強制労働に従事させました。結果、戦後の人口統計からみて、約6万人のヘレロ族(Herero、全人口8万人の内、80%)、1万人のナマクア族(Namaqua、全人口2万人の内50%)が死亡。ヘレロ族の死者数は24,000人〜最大10万人とする推計も有。 この虐殺の特徴は、1つは餓死であり、もう1つはナミブ砂漠に追いやられたヘレロ族とナマクア族の使用する井戸に毒を入れたことによる中毒死だといわれています。 酋長マハレロはヘレロ族の人々の約1,000人をイギリスの植民地ベチュアナランドへ導くことに成功しました。彼は亡命したヘレロ族の指導者となり、また北部ベチュアナランドの首長セガソレア・レトゥラテベ(Sekgatholea Letsholathebe)の重要な家臣となりました。酋長マハレロは1923/3/14にそこで亡くなり、彼の遺体は一時的にベチュアナランドに埋葬され、1923/8/23に彼の遺体はオカハンジャに戻され、彼の先祖と並んで儀式的に埋葬されました。
別名:第一次ウォーターバーグの戦い (1st Battle of Waterberg, 1904/1/12-) ホッテントット蜂起は、1904年にナミビア中部オチョソンデュパ州オカハンジャで、ドイツ帝国植民地軍と現地人ヘレロ族との戦闘事件。ドイツ帝国軍との平和交渉が決裂。なお、ホッテントット人とはナマ人(Nama People、現ナマクア族)の蔑称。
1904/1/16にオマヘケ州ゴバビス(Gobabis, Omaheke Region)は包囲され、ドイツ軍は待ち伏せされて、オチョソンデュパ州オチワロンゴ(Otjiwarongo, Otjozondjupa Region)の近くで全滅しました。1904/6/11まで、ドイツの軍事努力はドイツの植民地総督ロートヴァイン大佐によって指揮されていました。総督ロートヴァイン大佐は、軍事的圧力の方針とヘレロ族とのコミュニケーションを組み合わせて、平和的解決を交渉していました。 この敗北の後、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はドイツの軍事指導者を総督ロートヴァイン大佐から、ロタール・フォン・トロータ将軍にかえて、決定的な軍事的勝利で反乱を終わらせることをトロータ将軍に期待しました。トロータ将軍は15,000人の軍隊を連れて、首長マハレロの捕獲のために5,000マルクの賞金を掛けました。 ・オカハンジャ (Okahandja, Otjozondjupa Region, central Namibia)、ナミビア中部オチョソンデュパ州 オカハンジャはヘレロ語で「川の合流地点」を意味し、1800年ごろにヘレロとナマの人々が建設。
・テオドール・ロートヴァイン大佐 (Theodor Gotthilf Leutwein, 1849/5/9-1921/4/13)テオドール・ロートヴァイン大佐 テオドール・ゴットシルフ・ロートヴァイン大佐は、ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州ネッカー=オーデンヴァルト郡ヴァルトブルン (Waldbrunn, Neckar-Odenwald-Kreis, Baden-Wurttemberg, Germany) で生まれました。1868年にプロイセン陸軍(Prussian Army)に入隊。1899年に少尉(Lieutenant)、 1901年に大佐(Colonel)に昇進。1894年にドイツ植民地シュッツトルペ軍団(Schutztruppe)の司令官として、ドイツ南西アフリカ(German Southwest Africa、首都(1891)現ウィントフック)に着任して行政官を兼務し、1894年にドイツ南西アフリカの総督になりました。 1904/1/15に第一次ウォーターバーグの戦いに遭遇して敗北し、第3代 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世 (Wilhelm II., 1859-1941)により、現地軍司令官をロタール・フォン・トロータ将軍と交代させられました。1906年にロートヴァイン大佐は自伝 "ドイツ南西アフリカの総督としての11年"(Eleven Years as Governor in German South West Africa)を出版。1921年にドイツ南西部バーデン=ヴュルテンベルク州フライブルク・イム・ブライスガウ(Freiburg im Breisgau)で亡くなりました。 ・ロタール・フォン・トロータ中将 (Lieutenant general Adrian Dietrich Lothar von Trotha, 1848/7/3-1920/3/31) 将軍エイドリアン・ディートリッヒ・ロタール・フォン・トロータ(マクデブルク生、ボン没)は、ドイツ帝国(German Empire, 1871-1918)の軍人。義和団の乱(1900/6/20-1901/9/7)で活躍。ヘレロ族の虐殺(ヘレロ・ナマクア虐殺)を指揮。1904年からドイツ領南西アフリカ(現ナミビア)で展開されたヘレロ族の虐殺は、強制収容所を建設した点や民族浄化を目指した点で、後のナチス・ドイツが行ったホロコーストとの類似性が指摘されています。 参考HP〜 ナミビアの地図 ナミビアの詳細地図 こちらで ・ウォルビス・ベイ ・ブランドバーグ山 ・グラディエーター・インセクト 世界遺産の ・トゥウェイフルフォンテーンの岩絵 (ナミビア) ・ナミブ砂漠 (ナミビア) ・サン(ツォディロ)の岩絵 (ボツワナ、砂漠のルーヴル) ・アルタミラ洞窟の岩絵 (スペイン) ・ラスコー洞窟の岩絵 (フランス) ・ヌビア遺跡 (エジプト) ・ペトラ遺跡 (ヨルダン) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・法隆寺 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2019/8/6 |