Spain

国連 1988 発行
切手で綴る スペインの大航海 (Adventure Voyage)西回りインド大航海(1-2
マルティン・ピンソン
1492
ピンタ号の船長


大航海物語
  スペイン編

ESPANA
ピンタ号の船長 マルティン・ピンゾン

スペイン 昭和5年 1930/9/29 発行

ESPANA
ピンゾン兄弟

スペイン 1987/10/30 発行
CUBA
ピンタ号

キューバ 1982/10/12 発行
GURNSEY
コロンブスの第1回航海地図

コロンブスの新大陸発見500年記念
ガーンジイ 1992 発行

マルティン・ピンソンはコロンブスのインドへの航海の準備に協力し自らも参加して、1492年ピンタ号の船長として出帆しました。翌年スペインへ帰港しましたが大航海の疲労からかまもなく亡くなりました

マルティン・アロンゾ・ピンソン (1440頃〜1493)
 Martin Aronzo Pinzon

マルティン・アロンソ・ピンソンはスペインのアンダルシア地方の港町バロスで手広く海運業を営む「ピンソン三兄弟」の長兄でした。次兄
フランシスコ・マルティン・ピンソン(Francico Martin Pinson, 1445頃〜1515)で、末弟
ビセンテ・ヤネス・ピンソンでした。

コロンブスが航海の準備をバロスで進めた時に、この三兄弟が協力を惜しみませんでした。「未知の海への航海」に不安を抱き、参加を渋っていた船乗り達を説得して参加させたといわれています。彼らの協力無くしてはコロンブスは出発できなかったとも伝えられています

カスティリア王国のイサベラ女王の支持を得たコロンブスは3隻の船隊を準備できました。
 ・ナウ船の旗艦サンタ・マリア号
 ・カラヴェル船のピンタ号
 ・ピンネス船のニーニャ号の3隻でした。ところが、出発地パロスでは乗組員を集めるのに苦労しました。よそ者コロンブスのもとで未知の海へ向かおうという船乗りはいなかったのです。フワン・ペレス神父(Father Juan Perez、1513頃没、サンタンヘルバルトロメ・コロンに記述有)にマルティン・ピンソンを紹介してもらったことで状況が一変しました。ピンソン家は地中海からカナリア諸島にかけて手広く海運業を行っていました。ピンソン三兄弟がコロンブスの航海に参加することになり、船乗り約90人を集めることができました。

マルティン・ピンソンはコロンブスの第1回航海に際して、ピンタ号の船長として参加。次兄のフランシスコ・ピンソンはピンタ号のボースン(水夫長)を務め、1492/8/3に旗艦サンタ・マリア号そしてニーニャ号と共に3隻の船隊を組んで、スペイン・バロス港から西へ大西洋を横断してインドへの航海に出帆しました。

カナリア諸島まで南下して諸島のゴメラ島で、嵐で傷んだ船の修理をしたり水や食料を積み込んだ船隊は、9/6に同島を出帆。北緯28°線上をひたすら西へ向かいました。ゴメラ島と、コロンブスが考えていたシパンゴはほぼ同じ緯度にありましたので、緯度がわかっていれば真西に向かう方が確実に目的地に着けるからでした。 星の観察と四分儀を使って緯度を調べました。この時コロンブスは航路に吹く北東貿易風を発見し利用しました。これはその後の大西洋横断に大変役立ち大航海に大いに貢献した事はよく知られています。しかし当時の世界地図の影響で地球の大きさを小さく考えていたのに、なかなか陸地が見つからず、水夫達が動揺してきて航路の変更をせまり、それに応じないコロンブスに対する乗組員達の反乱直前という状況下で、10/12にバハマ諸島のひとつ、ワットリング島に到着し上陸しました。マルティン・ピンソンはコロンブスから「剛胆にして才覚ある男」と高く買われ、コロンブスとは対等の関係で行動した時期もありましたが、2度にわたり単独行動をして彼の不興をかいました。コロンブス達は数多くの島を発見しましたが、期待していた黄金は見つかりませんでした。そしてマルチン船長がピンタ号とともに行方不明になりました。独断で黄金を探しに出かけたのでした。1492/11/21にピンタ号を指揮していたピンソンは金が採れる島があるとの情報を得て、その島「バベケ島」を目指すためコロンブスの許可を得ずに単独行動をとり、コロンブスから離れて行ったのでした。残り2隻の船隊は12/6ワットリング島からキューバをへてイスパニョーラ島へと向かいました。そこで、イスパニョーラ島の5人の王の1人で北部を治めるグアカナガリのもとへ向かっていたサンタ・マリア号は12/24の夜に座礁してしまいました。残留を申し出た乗組員39人のためにイスパニョーラ島で、座礁したサンタ・マリア号の木材を利用してナビダーの砦を築いていた時に、12/27にピンタ号がひょっこりと帰ってきました。

1493/1/14、ピンタ号、ニーニャ号の2隻で帰路につき、イスパニョ−ラ島を出帆しました。北大西洋で嵐に遭ったので、3/4にポルトガルテージョ河々口のリスボンに寄港しました。そしてマルティン・ピンソンは大西洋横断という苦難に満ちた大航海の後に、1493/3/15にスペインのパロス港に帰港しました。その後、その航海での過労がもとでか発病し、まもなく亡くなりました。53才頃でした。

参考地図HP:〜
 ・サンルーカル・デ・バラメダ港

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。  2010/1/23追記、令和6年 2024/7/23
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