切手で綴る 太平洋戦争 物語 第3部 <米国(連合軍)の反攻> 第16章 マリアナ 84 <米軍、サイパン上陸> 1944/6/15 |
サイパンの白兵戦 US Marines Land on Saipan 1944 第2次世界大戦勝利 サイパンの戦い 50周年記念 マーシャル 1994 発行 |
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・サイパンの戦い、1944/6/15 (Battle of Saipan)、米軍の勝利 場所:アメリカ合衆国自治領北マリアナ諸島サイパン島 (Saipan island, Commonwealth of the Northern Mariana Islands, USA) (南端のグアム島(米国準州)を除く島々が北マリアナ諸島) (サイパン島より北の島々が北部諸島) 帝国陸軍参謀本部は昭和19(1944)年2月25日中部太平洋方面防備に責任を持つ第31軍を編成(小畑軍司令官)。海軍軍令部はサイパンを根拠地とする中部太平洋艦隊(南雲忠一中将)を新設し3/4発足しました。マリアナ諸島の多くは岩石の多い小さな島であり、軍事的価値があるのは南北約800kmに連なる約15の島々の内のサイパン、テニアン、ロタ、グアムだけで、北部諸島は海中から突き出た円錐形の険しい山が多く、パガン島が利用できる程度でした。そこへ帝国陸軍将兵8万が送り込まれました。 ・第31軍司令部の編成と第29、第43師団のサイパン派遣。 2月25日第31軍司令官親補の大命を拝した小畑秀良中将は出発にあたり、天皇から「マリアナ諸島は帝国の運命を決する最後の戦略線である。帝国は全力をもってこれを確保する必要がある。軍司令官は全帝国臣民の期待に応えるため最後の奉公をせよ」という趣旨の御言葉を拝し、2/28横浜から空路サイパンに出発。参謀長に任じられた井桁敬治少将は満州ハイラルの第6軍参謀長から着任し温厚で正義感の強い剣道の達人でした。満州の遼陽に駐屯していた第29師団が中部太平洋方面に転用されることが検討されたのは昭和18年春のことでした。第29師団の兵員は幹部の1/3が現役で若く、兵は大部分が現役の3年兵で元気旺盛、訓練練成でしたが、実戦の経験はありませんでした。師団長の高品彪中将は率先陣頭指揮の将軍で、旅団長として大陸戦線に参加中は部隊の最先頭に立って突進する猛将でした。名古屋に駐屯していた第43師団は防空と名古屋要地の防衛に任務の重点をおいていた留守師団でした。師団長は賀陽中将宮で、歩兵聯隊の各大隊長は動員下令後に下令された人が多く、大隊長以下の幹部は応召者が多かったのです。動員下令に先立ち4/3に師団長の賀陽中将宮は近衛第3師団長に転補され、後任には軍馬補充本部長の斎藤義次中将が親補されました。当時の通念として宮様を離島に送るのは不可とされ、かつての桐工作主務者であった鈴木卓爾大佐は参謀長として赴任しました。 帝国軍のサイパン島に上陸した諸隊は陣地の構築と訓練に努めましたが、その準備期間が短く、その上各種部隊が無計画に到着し、他島への転進や守備地域の交代 、部隊の改編等のため守備態勢も整わず配備変更も何度も行われました。このため防御工事の進捗は遅延し、歩兵陣地は待機位置のみ軽掩蓋で、射撃位置は立射散兵壕、重火器は軽掩蓋、砲兵陣地も大部分は露天掩体程度で、水際障害物や機雷もほとんど設備されませんでした。米軍上陸時には、各種資材が山積されれており作戦準備もまた不十分であり、全てが遅れていました。また帝国陸海軍の高級指揮官があまりにも多く、命令が入り乱れ陸軍部隊は陸軍指揮官の命令を、海軍部隊は海軍の指揮官命令によってしか動かないという宿命的な禍根が重大な影響を及ぼしました。なお出張中に敵の来攻を受け、帰還できなかった者が多数あり、戦死・負傷した指揮者の後任として補されました。しかしほとんど部隊を把握できない状況でした。なお、小畑軍司令官はヤップ島に視察中でした。米軍上陸時は制空権は米軍にあり、サイパン帰還は不可能だったので、視察同行の各部長をパラオに残し、グアムまで進出しグアム島で全般の指揮を執ることになり、サイパンでは井桁軍参謀長が軍司令官の指揮を代行しました。 6月11日、ミッチャ−少将の第58機動部隊(殺戮者の群れと呼ばれていた)112隻(空母7隻750機)がマリアナを空襲(6/11-12)。サイパン、テニアン、ロタ、グァムに対して米軍による上陸準備空襲で、マリアナ方面には150機余の帝国海軍航空戦力が待機中なるも、そのほとんどを喪失。6/13に米艦隊が戦艦8、巡洋艦2、駆逐艦22で艦砲射撃を開始。翌14日には参加艦艇がさらに増加。真珠湾で空襲を受け、傷ついた戦艦ペンシルベニア号が修理後サイパンのミュージシャン湾を艦砲射撃。 6月15日早朝米軍がマリアナ群島サイパン島に上陸。ターナー中将率いるサイパン攻略部隊は、6/9にエニウェトックを出港、2個海兵師団が37隻に乗船、護衛空母や戦艦多数を従えた大兵力でした。米軍上陸開始後、ただちに帝国砲兵が前進発起点に向かって射撃開始。特に15榴大隊は連日の砲爆撃にもかかわらず1門の損傷もなく健在した全火砲をもって突進する上陸用舟艇を迎え撃ち、米軍を大混乱に陥れました。艦砲射撃によって守備隊の無力化を信じていた米軍は、この反撃に混乱。第2海兵師団の4人の大隊長は負傷し、千数百人が戦列から消えていきました。加えて水際逆襲が直ちに実施されましたが、戦車第4中隊、河村大隊等はほとんど全滅、朝からの戦闘で守備隊兵力は激減、独混47旅団長・岡大佐は戦死。同夜半、夜襲を敢行し敵撃滅を企図。だが昼間の激闘と通信連絡の混乱で部隊の掌握ができず、第1線配備部隊による局地逆襲となりました。その様子は、各方面より夜襲開始。米軍は上陸支援艦艇による照明弾で帝国軍を照明し、艦砲の一斉射撃と戦車で応戦、帝国軍の攻撃は逐次弱まり、約700人の戦死者を残して夜明けと共に後退。師団予備の2個大隊はほとんど全滅、海軍の横須賀第1陸戦隊も唐島中佐以下大部分が戦死。夜明けと共に米軍は砲爆撃を続行しながら輸送船35隻、LST40隻、上陸用舟艇多数で揚陸を行い、橋頭堡を強化。こうした中で第1夜の逆襲は統制不十分のため失敗しました。 6月17日、米上陸第2夜の夜襲の主力は、歩136連隊、歩40連隊第3大隊、戦車第9連隊等でした。五島戦車連隊長と鈴木師団参謀長との間で戦車の用兵に関して論争が行われ、結局、鈴木参謀長の意見に基づき戦車は数人づつの歩兵を随伴して攻撃することとなり、オレアイ無線局方面へと進撃。夜襲部隊は敵の指揮所と師団砲兵陣地の前方約500mまで近泊するも、敵陣は良く構築され帝国軍の夜襲は奇襲という要因を欠き、この日揚陸したバズーカ砲のため帝国軍の反撃はできませんでした。歩第136連隊は兵力の大部を失い約1個大隊に減少。歩18連隊第1大隊はほとんど全滅、戦車第9連隊は戦車の大部を失い、五島連隊長以下中隊長の大部が戦死。また砲兵部隊も夕刻までに火砲の大部が破壊され、その後は徒歩部隊を編成し歩兵とともに戦闘。米軍の戦力は戦前の予想に反し極めて強大で、それは戦術や防御方式で解決できる問題ではなかったのです。しかし守備隊の勇戦は米軍のマリアナ攻略予定を狂わせ、予備隊もサイパンに投入させることとなりました。翌朝、米軍はアスリート飛行場を占領。酸素工場、発電所、ガソリン貯蔵庫などを占領。第31軍井桁参謀長は軍の戦線を整理しタポチョ山嶺まで後退、新たに防御線を敷くことを下令。米軍はこの山嶺一帯に連日砲爆撃。左翼に第2海兵師団、右翼に第4海兵師団、中央に第27師団を布陣させ、じりじり前進しました。 6月22日 この頃の帝国軍残存兵力は、第43師団約9,000人、その他約6,000人、軍砲兵なし、山砲、工兵の集成徒歩部隊約1個中隊となりまし。なお,6/19に敢行された海軍の「あ号作戦」(マリアナ沖海戦)は、米機動部隊と潜水艦のため大打撃を受け帝国海軍にとって致命的な失敗となり、6/24に大本営はマリアナ沖海戦の結果から、サイパン放棄を決定。しかしタポチョ山北東側の峡谷(デス・バレー:Death-Valley)では帝国の勇戦で米軍の攻撃はことごとく失敗。米軍の第27師団長ラルフ・スミス少将はその責を負って更迭され、ハワイに送還されました。(スミスvsスミス事件) 6月25日、残存兵力は歩兵部隊1,500人、砲なし戦車3両。午前中タポチョ山北側の新指揮所で、第31軍司令部、第43師団司令部、艦隊司令部の三者合同会議が行われ、最後の複廓陣地が決定、タポチョ山の線から後退するよう計画。6/26夕刻、米軍はタポチョ山を占領、島北部へと進撃。 6月29日、合同戦闘指揮所は最後の場所、地獄谷へ移動し兵力を再編成して最後の戦闘を計画。歩第135連隊長鈴木大佐はこの頃戦死。7/3中心街ガラパンが5日の市街戦を経て米軍が占領。7/4前日、中心街ガラパンを占領した米軍は最後の攻撃を開始。帝国軍は午前中辛うじて敵の前進を阻止するも、午後に米戦車が陣地内へ突入、戦線は錯綜し乱戦となりました。7/5合同戦闘指揮所は、ガラパンへの最後の総攻撃敢行を決定。大本営に訣別電を発信。 7月6日、太平洋艦隊司令長官 南雲中将、第43師団長 斎藤中将、第31軍参謀長 井桁少将の3将軍は相次いで自殺。これと前後して辻村少将、辻北部支庁長なども相次いで自殺。また各連隊の軍旗を奉焼。夜半、鈴木師団参謀長、吉田参謀、平櫛参謀の3人が指揮、7日午前3時を期して最後の攻撃を開始。総員1,500人〜3,000人で将校、下士官はほとんどいませんでした。7/7、天明とともに米軍火器は一斉に猛火を吐き、帝国突撃部隊は次々倒れていきましたが、鬼神の如く突き進む帝国隊は米軍砲兵陣地へと突入。既に帝国軍捕虜から、この日の総攻撃を知っていた米軍は警戒措置で迎え撃ち、戦闘は午後まで続き、米砲兵の零距離射撃を受けて、全て斃れました。このようにして帝国軍の最後の玉砕攻勢は終結。 7月9日15:15、米遠征軍ターナー司令官はサイパン島の占領を宣言。守備隊玉砕後、なお生き残った多数の将兵はタポチョ山付近を初め山地、海岸などのほら穴や岩影に潜入し遊撃戦を続行。歩兵第18連隊衛生隊長 大場大尉の指揮する一群は、タポチョ山西側に、歩兵第40連隊第3大隊本部附 田中中尉指揮の一群はハグマン半島海岸の洞窟に潜伏していましたが、米軍の掃討のため次第に人員は減少し敗戦時の潜伏者は約70〜80人程度と推定されています。 大本営は昭和19年7月18日17::00、サイパン島守備隊玉砕を発表。同日、東條内閣は退陣、小磯・米内連立内閣に代わりました。 ▽両軍の兵力と損害:〜
・両軍のサイパン高級指揮官
▽両軍の編成:〜 ○帝国軍の編成:〜 <陸軍> ・第31軍司令部 ・司令官:小畑英良中将(米上陸時(島外)不在) ・参謀長:井桁敬治少将 ・第43師団(師団長:斎藤義次中将)司令部〜253人 ・歩兵第118連隊(連隊長:伊藤豪大佐)〜1,033人 (海上輸送中に連隊長以下2,240人が海没、その残存部隊) ・歩兵第135連隊(連隊長:鈴木英助大佐)〜 3,295人 ・歩兵第136連隊(連隊長:小川雪松大佐)〜4,055人 ・師団直轄部隊・通信・輜重・野戦病院・庶務〜計3,667人 ・独立混成第47旅団(旅団長:岡芳郎大佐)〜1,470人 ・旅団砲兵・旅団工兵〜計499人 ・第9派遣隊(旅団長:有馬純彦大佐)〜1,555人 ・戦車第9連隊(連隊長:五島正大佐)〜990人 ・高射砲第25連隊(連隊長:新穂寛徳中佐)〜1,117人 ・独立山砲第3連隊(連隊長:中島庸中佐)〜978人 ・独立工兵第7連隊 (連隊長:小金澤福次郎)〜775人 ・歩兵第40連隊第3大隊〜618人 ・歩兵第15連隊の一部〜610人 ・歩兵第150連隊牛山隊〜700人 ・独立臼砲第14大隊〜649人 ・独立臼砲第17大隊〜634人 ・野戦機関砲第44中隊〜105人 ・独立自動車第264中隊〜181人 ・独立自動車第278中隊〜187人 ・独立戦車第3.4中隊〜174人 ・他島部隊よりの派遣〜556人 ・米軍上陸時の陸軍戦闘部隊〜24,875人 ・陸軍航空関係〜1,285人 ・陸軍船舶関係〜1.375人 <海軍> ・中部太平洋方面艦隊(司令官:南雲忠一中将)司令部要員〜502人 ・第5根拠地隊(司令官:辻村武久少将)〜計456人 ・第五通信隊〜369人 ・第55警備隊(隊長:高島三治大佐)〜2,000人 ・横須賀第一特別陸戦隊(隊長:唐島辰男中佐)〜800人 ・その他艦隊関係人員、海軍航空隊関係人員、設営隊など ・米軍上陸時の海軍部隊〜計6,160人。
・軍直轄高射砲部隊(225th Field Artillery Howitzer Group)〜949人 ・第2海兵師団(2nd Marine Division)〜22,702人 司令官:トーマス・ワトソン少将(Major General Thomas E. Watson, 1892-1966) ・第2・6・8・10・18海兵連隊(Marine Regiment) ・師団戦車隊 ・師団砲兵(155mm野砲) ・増援部隊(Attached units) ・第29海兵連隊第1大隊(1st Battalion 29th Marine Regiment) ・陸軍第715水陸両用機甲部隊(715th Amphibian Tractor Bn, Army) ・第4海兵師団(4th Marine division)〜21,618人 司令官:ハリー・シュミット少将(Major General Harry Schmidt, 1886-1968) ・第14・20・23・24・25海兵連隊(Marine Regiment) ・師団戦車隊 ・師団砲兵(155mm野砲) ・増援部隊(Attached units) ・陸軍第708水陸両用戦車部隊(708th Amphibian Tank Bn, Army) ・陸軍第773・534水陸両用機甲部隊(773・534th Amphibian Tractor Bn, Army) ・第27歩兵師団(27th Infantry Division)〜16,404人 司令官:ラルフ・スミス中将(Major General Ralph C. Smith, 1893-1998) ・第105・106・165歩兵連隊(Infantry Regiment) ・第104・105・106・249野砲大隊(Field Artillery Battalion) ・第102・502工兵大隊(Engineer Combat Battalion) ・増援部隊(Attached units) <海軍> 米軍太平洋艦隊 最高司令官:チェスター・ニミッツ大将 ・第5艦隊 司令官:スプルーアンス大将〜スプルーアンス艦隊 ・第58任務部隊 司令官:ミッチャー中将〜ミッチャー機動部隊 ・戦 艦〜11隻 ・空 母〜24隻 ・正規空母〜7隻 ・軽 空母 〜6隻 ・護衛空母〜11隻 ・巡洋艦〜24隻 ・駆逐艦〜152隻 ・その他〜多数。 ・サイパンの戦い(1944年)
なお、サイパンの在留邦人約2万人のうち1万人弱が戦没と推定。 モリソン戦史による帝国側捕虜数は1,790人、うち軍人921人、 抑留民間人は14、560人。 また、サイパン島の北方にある島で帝国の敗戦まで米軍の上陸は無く帝国軍が駐屯していたパガン島守備隊司令官 天羽少将(1944/3/20パガン島上陸〜1945/10復員)の降伏命令により、1945/12/1に大場栄大尉(1914-1992)以下47人の生存者が戦友の霊に3発の弔銃を捧げた後、白旗を掲げてサイパン島タポチョ山を降りて、米軍に投降・降伏しました。 参考HP〜 ・サイパン島の地図 ・サイパン島の米軍侵攻地図 |
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85 <本土空襲> B-29、サイパンから帝国を空襲 1944/11/24 |
B-29の本土空襲 マーシャル 1994 発行 |
・帝国の本土空襲、1944/11/24 (Bombing of Tokyo)、米軍の勝利 場所:アメリカ合衆国自治領北マリアナ諸島サイパン島 (Saipan island, Commonwealth of the Northern Mariana Islands, USA) (南端のグアム島(米国準州)を除く島々が北マリアナ諸島) (サイパン島より北の島々が北部諸島) サイパン島陥落は帝国の戦争遂行の前途に大きな不安を投げかけるものでした。B-29による長距離爆撃は、それまで中国大陸を拠点として九州に来襲するものでしたが、マリアナ失墜によって同方面を基地として本格的な本土爆撃が可能となりました。また戦略的には絶対国防圏の事実上の崩壊を意味し、対米主戦力である海軍戦力の崩壊によって、今後の作戦遂行はいよいよ困難の度を加えることが予想されました。戦争指導の見地からは、本土と南方資源地帯とが分断の危機にさらされ、B-29による本土空襲は帝国の国力・戦力の造成の大きな障害となるばかりでなく、国民の士気に与える影響はさらに大きなものがあると予想されました。サイパンから2800Kmを翼下に収めたB-29「超空の要塞」で、11/24よりサイパンのカー飛行場から東京空襲が始まり、そして帝国本土の各地へと爆撃が開始されました。 1944/11/25マリアナ基地のB29七十機が東京空襲 1945年 2/19、米軍は帝国の「木と紙」の家への空襲を低空焼夷弾攻撃に切り替え 3/10、米軍のB29約300機が東京を無差別夜間爆撃(東京大空襲〜焼夷弾攻撃) 3/13、米軍のB29が名古屋焼夷弾大空襲 3/14、米軍のB29が大阪焼夷弾大空襲 3/17、米軍のB29が神戸焼夷弾大空襲 こうして全国各地が空襲され、幾十万の一般市民が死亡しました。 京都、奈良、姫路城は米のウォーナー博士がルーズベルト大統領に進言したので、大規模空襲が無かったと言われています。ウォーナー博士は当時ハーバード大学附属美術館フォッグ・ミュージアムの東洋部長で戦前に来日、奈良に滞在して古美術を研究。日本研究の第一人者として知られていました。ローレーヌ夫人がルーズベルト大統領のメイだった関係から「京都、奈良の古文化財は、人類の貴重な財産である」と大統領に強く進言したとされています。
なお、原爆という未知の兵器の威力を確かめるために、京都・小倉・広島・新潟が投下候補とされ、通常爆撃が禁止されました。「文化財保護のため」とは正反対の理由ですね。周辺人口の流入により膨れ上がっている人口、市街地に散らばる中小軍需工場、予想される爆弾の影響範囲・直径3マイルの円を描くことができる市街地の広がり、正に格好のターゲットとして梅小路の機関車庫を投下目標とした計画が綿密に練り上げられて、広島・長崎に続く「3発目」の最優先目標が京都だった」と言う説も有ります。 参考HP〜 ・サイパンから帝国本土の地図 |
86 <マリアナ沖海戦> (フィリピン海々戦) 「マリアナの七面鳥打ち」 1944/6/19 |
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フィリピン海々戦 Battle of the Philippine Sea 米空母上空で撃墜されるゼロ戦 パラオ 1994 発行 |
マリアナの七面鳥打ち June 19-29 1944 Great Mariana Turkey shoot 米空母上空で燃え上がるゼロ戦 パラオ 1994 発行 |
・マリアナ沖海戦、1944/6/19〜20 (Battle of Off Mariana Islands)、米軍の勝利、帝国の壊滅的敗北 別名(帝国呼称):「あ」号作戦、1944/5/3〜1944/7/27 別名(米軍呼称):フィリピン海々戦 (Battle of the Philippine Sea、1944/6/19〜20) 作戦名(米軍呼称):マリアナ・パラオ諸島作戦 (Mariana and Palau Islands campaign、1944/6〜1944/11) 別名(米軍呼称):フォレージャー作戦「掠奪者作戦」 (Operation Forager、1944/6〜1944/11) 場所:フィリピン海周辺(The Philippine Sea) 特徴:米軍から「マリアナの七面鳥打ち」と揶揄される (Great Marianas Turkey Shoot) 昭和19年6月19日マリアナ群島(サイパン・グァム島など)の沖合いで起こった日米機動部隊同士の航空決戦を米軍はフィリッピン海々戦と呼びました。帝国側は「あ」号作戦と呼称し9隻の航空母艦から332機が出撃し、550km以上を飛んで対戦しました。したがって帝国機動部隊の軍艦は敵の攻撃圏外のため、アウトレンジ作戦と呼ばれました。連度の低いパイロットが母艦に着艦できないと思われたため、離島の飛行場に着陸するように計画していたとも言われています。帝国艦隊は米軍からは発見されなかったので成功と思われました。しかし帝国軍艦隊を発見できなかった米軍は空母近くの上空で待ち構えて迎撃し、これを突破できた帝国軍機はわずか40機だったといわれています。米戦艦2隻を損傷しただけの戦果でした 生還は102機。「大鵬」と「翔鶴」は米潜水艦に撃沈されました。帝国軍の戦略、戦術、作戦負けの大敗北航空戦となりました。なお別説では、帝国軍は総艦艇60隻(損失3・損傷3)で、空母5(損失2)隻・軽空母4(損失1)隻から482機を参加させ、426機を喪失。基地航空隊からは240機を参加させ、50機喪失となりました。 米は第58機動部隊M.ミッチャ−少将、4群で空母15(艦載機800機以上)、その他の軍艦90隻を主力としていました。その他に中部太平洋の前進基地航空部隊には879機を有していました。米軍は956機を参加させ130機を喪失・総艦艇107隻(損傷5)でした。 帝国軍の飛行機は訓練が十分でないパイロットが長距離(550km以上)を飛んで疲れていたのを、米軍は次々と撃墜したので「まるで七面鳥狩りに行ったようだ!」と笑って、「マリアナの七面鳥打ち」と呼んだといわれています。この戦いは太平洋戦争中でも最大規模で行われた戦いで、帝国軍が負けた原因は、米軍のハイテク(レーダーとVT信管(高射砲弾が命中しなくても近くで爆発する信管)の新兵器の開発)と日本の航空機の搭乗員が未熟だったためと言われていますが、これ以外に取りえる戦法は無かったとも言われています。 アウトレンジ戦法とは日米の艦載機の航続距離を比べると日本のそれの方が長く、米軍の艦載機が届かない距離から艦載機を発進させ、攻撃するという戦法です。さらに、航空母艦以外の基地飛行場も使用することができました。この戦いでの帝国の作戦は「米機動部隊を発見後、米軍機の空母攻撃圏外から搭載機を発進させ、まず米機動部隊の空母に致命傷を与える。その上で先行させている戦艦を中心とした部隊を接近させ、砲撃戦を行い米機動部隊を壊滅させる」という立派なものでした。作戦自体は完璧で、戦後の軍事評論家も評価する作戦でした。 昭和19年年6月19日早朝、帝国艦隊(小沢機動部隊)は米艦隊を発見。午前7時25分攻撃隊が発艦。しかし新兵器VT信管を使った激しい対空砲火と、対空レーダーで誘導された米戦闘機に阻まれ、帝国軍機の7割は撃墜されてしまい、翌日には空母機の空襲に遭って「飛鷹」が沈没しました。 マリアナ沖海戦における敗北、「あ」号作戦の失敗は海軍ひいては帝国の戦争指導に大きな影響を及ぼしました。海軍はこの作戦に連合艦隊のほぼ全兵力を投入、さらに多くの内地部隊をも動員、即ち帝国海軍のほとんど全力をあげての決戦でした。この敗北により機動部隊は三隻の空母(うちニ隻は正規空母)と艦載機・搭乗員の大部を失い機動部隊としての戦力を喪失、再起不能となりました。海軍としては連合軍の急速な進攻に対して当分の間反撃戦力を有しない状況となってしまいました。この敗戦は制海権の喪失=マリアナ諸島及びビアク島の失墜を意味し、戦略的に帝国を著しく不利な状況にしました。海軍は「あ」号作戦に相当の自信を持って臨んでおり、陸軍もマリアナ諸島、特にサイパン島の防衛には相当確信を表明していました。しかし結果的にマリアナ沖海戦は完敗に終わり、サイパン島の陸上戦も戦況が悪化。「あ」号作戦の失敗が日本の政府、大本営に与えた衝撃はきわめて大きく、これが直接の原因で東條内閣( 1941/10/18-1944/7/22)が総辞職、小磯内閣(1944(S19)/7/22-1945(20)/4/7)が成立しました。 ▽両軍の兵力:〜
▽両軍の編成:〜 ○帝国軍の編成:〜 第一機動艦隊 ・正規空母〜3隻 ・改造空母〜6隻 ・搭載機零戦〜225機 ・彗星艦爆〜99機 ・九九艦爆〜27機 ・天山艦攻〜108機 ・九七式艦上攻撃機 ・二式艦上偵察機 計〜498機の説有 ・第三艦隊 司令長官:小沢治三郎中将 参謀長:古村啓蔵少将 旗艦:空母大鳳 ・本隊・甲部隊 第一航空戦隊(小沢中将直率) ・空母:〜3隻 ・大鳳、翔鶴、瑞鶴 ・第五戦隊(橋本信太郎少将) ・重巡:〜2隻 ・妙高、羽黒 ・第十戦隊(木村進少将) ・旗艦:軽巡 矢矧 ・第十駆逐隊: ・朝雲、風雲:6/8沈没 ・第十七駆逐隊: ・磯風、浦風、(雪風、谷風) ※雪風:タウィタウィにて対潜掃討中触礁損傷で、補給部隊護衛へ ※谷風:6/9米潜水艦の雷撃で沈没 ・第六十一駆逐隊: ・初月、若月、秋月 ・付属:霜月
・第十七駆逐隊(第十戦隊): ・浜風(ダバオから補給部隊を護衛した後、合流) ・第二艦隊 司令長官:栗田健男中将、参謀長:小柳冨次少将 ・旗艦:重巡洋艦愛宕 ・前衛部隊 ・第一戦隊(宇垣纒中将) ・戦艦:大和、武蔵 ・第三戦隊(鈴木義尾中将) ・戦艦:金剛、榛名 ・第三航空戦隊(大林末雄少将) ・小型空母:瑞鳳、千歳、千代田 ・第四戦隊(栗田中将直率) ・重巡:愛宕、高雄、鳥海、摩耶 ・第七戦隊(白石萬隆少将) ・重巡:熊野、鈴谷、利根、筑摩 ・第二水雷戦隊(早川幹夫少将) ・軽巡:能代 ・第三十一駆逐隊: ・長波、朝霜、岸波、沖波 ・第三十二駆逐隊: ・藤波、浜波、玉波、(早波)※早波は6/9米潜雷撃で沈没 ・付属:島風 ・第一補給部隊: ・速吸、日栄丸、国洋丸、清洋丸、名取(パラオより合流、6/19分離) ・夕凪、初霜、響、栂 ・第二補給部隊: ・玄洋丸、あずさ丸、雪風、卯月、 ・海防艦:満珠、干珠、三宅、第22号(ギマラスで待機) 第一航空艦隊 第五基地航空部隊 司令長官:角田覚治中将 参謀長:三和義勇大佐 第二二航空戦隊 ・第二三航空戦隊 ・第二六航空戦隊 ・第六一航空戦隊 ほとんどヤップ島、グアム島の航空部隊でサイパン島、テニアン島の航空部隊は空襲で壊滅。 ・守備隊〜約30,000人。 ○米軍の編成:〜 米軍太平洋艦隊(United States Pacific Fleet) 最高司令官:チェスター・W・ニミッツ大将(Admiral Chester William Nimitz、1885-1966) ・第5艦隊(United States Fifth Fleet)スプルーアンス艦隊 司令官:レイモンド・A・スプルーアンス大将(Admiral Raymond Ames Spruance, 1886-1969) 参謀長:カール・ムーア大佐 重巡洋艦 旗艦インディアナポリス号(第3機動群) ・第58任務部隊(Task Force 58)ミッチャー機動部隊 司令官:マーク・A・ミッチャー中将(Vice Admiral Marc Andrew "Pete" Mitscher, 1887-1947) 参謀長:アーレイ・A・バーク大佐 旗艦:空母レキシントンII号(Lexington CV-16, flagship) ・正規空母〜7隻 ・軽 空 母〜8隻 ・搭 載 機〜891機 ・戦闘機F6Fヘルキャット〜443機 ・戦闘機F4Uコルセア〜3機 ・急降下爆撃機SB2Cヘルダイバー〜174機 ・急降下爆撃機SBDドーントレス〜59機 ・雷撃機TBFアヴェンジャー〜188機 ・F6F-3Nヘルキャット〜24機 ・第1機動群(任務群)(Task Group 58.1)クラーク隊 司令官:ジョゼフ・J・クラーク少将(Rear Admiral Joseph James Clark, 1893-1971) ・航空母艦:〜2隻 ・ホーネットII号・ヨークタウンII号 ・軽空母:〜2隻 ・ベロー・ウッド号・バターン号 ・重巡洋艦:〜3隻 ・ボストン号・キャンベラ号・ボルチモア号 ・軽巡洋艦:〜2隻 ・オークランド号・サンファン号 ・駆逐艦〜14隻 ・第2機動群(Task Group 58.2) 司令官:A・E・モンゴメリー少将(モンゴメリー隊) ・空 母:〜2隻 ・バンカーヒル号・ワスプII号 ・軽空母:〜2隻 ・モントレー号・カボット号 ・軽 巡:〜3隻 ・サンタフェ号・モービル号・ビロクシー号 ・駆逐艦〜12隻 ・第3機動群(Task Group 58.3) 司令官:J・W・リーブス少将(リーブス隊) ・空 母:〜2隻 ・エンタープライズ号・レキシントンII号 ・軽空母:〜2隻 ・プリンストン号・サン・ジャシント号 ・重 巡:インディアナポリス号 ・軽 巡:〜2隻 ・バーミンガム号・クリーブランド号 ・軽 巡:レノ号 ・駆逐艦〜13隻 ・第4機動群(Task Group 58.4)ハリル隊 司令官:W・K・ハリル少将(Rear Admiral William Keen Harrill 1892-1962) ・空 母:エセックス号 ・軽空母:〜2隻 ・カウペンス号・ラングレー号 ・軽 巡:〜2隻 ・ビンセンス号・マイアミ号 ・軽 巡:サンディエゴ号 ・駆逐艦〜14隻 ・第7機動群(Task Group 58.7)リー隊 司令官:W・A・リー中将(Vice Admiral Willis Augustus "Ching" Lee, Jr. 1888- 1945) ・高速戦艦(Fast battleship)〜7隻 ・旗艦ワシントン号・アイオワ号・ニュージャージー号・サウス・ダコタ号 ・インディアナ号・アラバマ号・ノース・カロライナ号 ・重 巡〜4隻 ・ニューオーリンズ号・ミネアポリス号・サンフランシスコ号・ウィチタ号 ・駆逐艦〜14隻 ・第51任務部隊(Task Force 51) 司令官:リッチモンド・K・ターナー中将(ターナー隊) 旗艦:揚陸指揮艦ロッキー・マウント号 ・海兵隊司令官:ホーランド・M・スミス海兵中将 ・第3・4・5海兵師団(Marine Division) ・増援部隊(Attached units) ・米陸軍第27歩兵師団(27th Infantry Division) 師団長:ラルフ・C・スミス陸軍少将 (Maj. Gen. Ralph C. Smith 1942/11-1944/5) ジョージ・W・グライナー陸軍少将 (Maj. Gen. George W. Griner, Jr. 1944/6-1945/12) ・潜水艦隊〜28隻。 ▽両軍の兵力と損害:〜 ○帝国軍 ・沈没 ・空母:大鳳、翔鶴、飛鷹 ・油槽船:玄洋丸、清洋丸(雪風の雷撃処分) ・損傷 ・戦艦:榛名(直撃弾1、火薬庫漏水、小破) ・空母:隼鷹(命中弾2、中破) ・空母:龍鳳(小破) ・空母:千代田(直撃弾1、小破)、 ・空母:瑞鶴(命中弾1、至近弾5、小破) ・重巡:摩耶(直撃弾1、小破) ・油槽艦:速吸(小破) ・潜水艦 ・出撃21隻に対し損害8隻 ・喪失潜水艦〜17隻 ・あ号作戦前(5月下旬)大量喪失〜5隻 ・呂104・呂105・呂106・呂108・呂116 ・他(マーシャル方面で偵察、輸送任務)〜3隻 ・イ16・イ176・イ183 ・北方艦隊〜1隻、伊180(アリューシャン方面) ・あ号作戦中(迎撃任務)〜20隻 ・1944/5/3〜あ号作戦計画、発令 ・5/4〜あ号作戦配備、発令 各潜水艦が迎撃のため担当散開線に向かう ・5/16〜イ176 ・5/19〜イ16 ・5/20〜あ号作戦計画開始、発令 ・5/22〜呂106 ・5/23〜呂104 ・5/24〜呂116 ・5/26〜呂108 ・5/30〜呂105 ・6/13〜あ号作戦決戦用意、発令 潜水艦部隊はマリアナ東方海域に急行 ・6/19〜20、海上戦闘 ・6/21〜展開潜水艦部隊に帰還指令 ・この間の未帰還 ・イ184、イ185、呂36、呂42、呂44、呂111、呂114、呂117 ・孤立マリアナ諸島へ物資輸送、通信連絡、第六艦隊司令部収容任務での未帰還 ・イ5、イ6、イ10、イ55、呂48 ・7/27、あ号作戦中部太平洋潜水艦作戦が中止となる。 ・損失航空機 ・艦載機と水上機や基地など〜476機 ・死傷者 ・航空搭乗員戦死〜445人 ・軍艦乗組員戦死(含行方不明)〜3,000人以上 ・その他、サイパン島での損害(サイパンの戦い)。 ○米軍 ・損傷 ・戦艦:サウス・ダコタ、インディアナ ・空母:バンカーヒル、ワスプ ・重巡:ミネアポリス、ウイチタ ・損失航空機 ・撃墜〜43機 ・着艦失敗や不時着など〜87機 ・死傷者 ・航空搭乗員戦死〜76人 ・軍艦乗組員戦死〜33人。 参考〜 ・航空母艦 龍鳳(りゅうほう)の装備:〜竣工:1942/11/30 (大日本帝国海軍の軽(小型)航空母艦) 1934/3/31潜水母艦大鯨(14,400屯)として竣工 1942/11/30航空母艦へ改装完了
参考HP〜 ・サイパンから帝国本土の地図 |
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87 <米軍、グアム解放> 1944/7/21 |
グアム島への艦砲射撃 Us Liberates Guam 1944 マーシャル 1994 発行 |
終戦後の平和なグアム島民 July-Aug 1944 Guam Liberates パラオ 1994 発行 |
・グアムの戦い (Battle of Guam、1944/7/21- 8/10) 場所:アメリカ合衆国領マリアナ諸島の南端グアム島 (US territory in the Mariana Islands, USA) グアム島には、昭和19年3月までは帝国海軍部隊約2,000人が配置されていただけでしたが、3月以降陸軍部隊が続々到着し、6月末までに約26、000人に達しました。サイパン島と同様に各種部隊が逐次到着したため、配備は数次にわたり変更され、最終配備が決定したのは米上陸の1ヵ月前でした。陣地構築は数次の配備変更にもかかわらず、将兵の努力により大体順調に進捗しました。機関銃座300個以上、砲兵陣地は1門について2個以上の予備陣地を造り70個以上が完成し、水中障害物は明石湾と昭和湾で計400個が設置されました。しかし築城資材、特にセメントが不足しており永久築城の構築はなかなか進捗しませんでした。このため歩兵陣地の多くはタコツボ式で、指揮所、弾薬及び糧食置場のみ洞窟利用に努められました。 7月20日、米軍在空機は常時数百機に達し7月8日からの上陸支援艦砲射撃に任じた米艦隊兵力は戦艦6・巡洋艦9・駆逐艦57・発射弾数は16、000発以上にのぼりました。 7月21日午前7時、米軍上陸開始。支援砲爆撃は益々激化し、そのため晴天は暗黒と化しました。第3海兵師団は見晴岬方面(アサン(朝井)海岸)に、第1海兵旅団は昭和湾(アガット湾)にそれぞれ上陸。見晴岬方面の守備部隊は、第48旅団の第1大隊のみで約1個師団の敵を迎え撃ちました。同大隊は速射砲、機関銃、山砲で米軍の第1波を水際で撃破し、上陸用舟艇10数隻と水陸両用戦車数台を破壊。しかし米軍は10数波に分かれて後続部隊が上陸を強行し、艦砲射撃で重火器等を破壊したため、生存者が辛うじて陣地を守備し、21日に後方へ後退。なおも米軍は21日夜から23日払暁にかけて大隊ごとの反撃につぐ反撃を敢行し、帝国軍は戦力の大半を喪失。砲兵部隊も火砲の三分の二を破壊されてしまいました。一方昭和湾方面を守備するのは第38連隊の約3,000人でした。海岸線の野戦陣地は粉砕されて海岸一帯を占領されましたが、連隊長の末長大佐は総力を挙げて夜間総攻撃を決行、連隊長自ら陣頭にたって攻撃を敢行。一部は海岸付近まで突進し、22日天明と共に連隊長以下次々に斃れ、損害は80%に達し、師団主力方面へと撤退しました。 7月23日、小畑軍司令官と高品師団長は、余りにも帝国軍の損害が多く、特に指揮官が次々と戦死して戦闘力が急速に低下し、このままでは益々窮地に陥るばかりと考え、一方米軍は徐々に進出して来て、海岸の狭小な地帯で相当動揺しており、昭和湾方面の米軍が一向に進出してこない。そこで正面の米軍を各個に撃破する好機であると判断。高品師団長は25日の総攻撃を師団命令として下達。 7月25日、総攻撃を敢行するも、師団総攻撃と名ばかりで実戦力は歩兵2個大隊、砲20門、戦車2個中隊に過ぎず、さらに米軍は新たに上陸した部隊が増援されており、指揮官の損耗は更に増大して、大隊長14人中8人戦死。夜半、混成第10連隊は攻撃開始、米軍陣に突入するも、猛烈な火砲の反撃で26日後退、生存者は100人内外、第48旅団は大隊長3人の内2人が戦死。左翼から突入した第18連隊は軍旗を奉焼、26日払暁までに大隊長以下ほとんど戦死し、連隊長大橋大佐も自ら連隊本部の兵を率いて夜襲を行い、壮絶な最後を遂げました。連隊の生存者は大隊副官以下60人となって青葉山に後退。海軍第54警備隊は杉本大佐の指揮で攻撃を開始。明石市(アガナ市)方面の敵中に突入するも、戦闘は混戦となり、26日払暁まで杉本大佐以下大半が戦死。総攻撃の結果、各部隊ともに兵器弾薬の大半を失い組織的な戦力を喪失しました。 7月26日、08:00、米軍は戦車数10両を先頭にマンガン山に攻撃を開始。第48旅団は重松旅団長以下司令部全員銃を執って米軍に応戦。戦闘指揮所は米軍戦車に包囲され師団長に最後の報告を伝令に託し、重松少将は壮烈な戦死を遂げました。27日、19:00、高品師団長は各部隊に対して持久戦移行の命令を下達。日没とともに陣地変更のため北部密林地帯へと各部隊は移動を開始。28日、早朝から敵戦車数10両が、師団司令部のある本田台を包囲。司令部は全員戦車肉薄攻撃隊を作って攻撃。爆薬が尽き手榴弾による悲壮な攻撃の連続で玉砕寸前の状況でした。師団長は全島で3,000人以上の生存者があることを考え、戦車の重囲から脱出して北方での再起を決意。師団長は暫く脱出に成功、14:00頃、敵の機関銃弾を受け戦死。また岡部師団参謀長、清水副官、独混第10連隊長片岡中佐なども相次いで戦死。 7月29日 軍司令官は師団長戦死の報により自ら師団長代理として全守備隊を指揮しました。米軍は態勢整理のため急迫しなかったことが幸いし、比較的容易に陣地変更は行われました。掌握した兵力は、陸軍約1,000、陸戦隊約800、戦車部隊、砲6門 その他約2500人でした。もはや陸海軍の区別も、第1線と後方の区別も無し。衛生部隊も海軍設営隊も戦いうるものはみな又木山に集結。だが武器弾薬は既になく、すべてを銃剣突撃にかけるより他ありませんでした。8月8日、帝国残存戦車10両は米戦車部隊と交戦、ことごとく米戦車に破壊され全滅。9日、小畑軍司令官以下は最後の陣地の又木山、高原山の占領に成功、最後の戦闘が開始されました。早朝から約50両の米戦車が一斉に又木山を攻撃、有効な対戦車攻撃の手段がない帝国軍は肉薄攻撃で対戦、多くは不成功に終わり、兵力は急速に減少。10日、軍司令官は翌11日を期して最後の攻撃を敢行することを決心、20:00、最後の電報を大本営に打電。11日、又木山に集結した兵力は約300人で大部分が負傷兵でした。ほとんど戦う術をもたず、米戦車の蹂躙に任せる状況で正午までに司令部の陣地は破壊され、将兵のすべてが戦死。14:35、小畑軍司令官は最早これまでと覚悟して拳銃で自殺。軍参謀長 田村少将、橋田参謀らもあい前後して戦死。 8月13日 米国はグアム全島の占領をラジオ放送で発表しました。 第29師団作戦・情報参謀、武田中佐以下多数の将兵は、8月11日の組織的戦闘終了後も、数人から10数人の小部隊で密林内に入り、遊撃戦を展開。残存兵力は北部密林や南部の山岳地帯に散在し、その数は約2,500人と推定されていましたが、大部分は負傷者や病人でした。残存兵力は、相互に連絡をとりながら帝国軍の反撃を信じつつ、飛行場や油送管の破壊、電信線の切断、自動車の襲撃など終戦まで約1ヵ年にわたってゲリラ戦を続けました。しかし食糧不足と米軍掃討の激化で、昭和20年に入ってからの半年は生き延びるための戦いでした。武田中佐以下が降伏調印を行ったのは昭和20年9月4日のことでした。生存者の中には、昭和20年8月の終戦を信じず、長期にわたって潜入していた者もあり、皆川文蔵、伊藤正両氏が発見されたのは戦後15年目の昭和35年5月、横井庄一軍曹が発見されたのは実に戦後27年目の昭和47年1月でした。 ▽両軍の兵力と損害:〜
▽両軍の編成:〜 ○帝国軍の編成:〜 <陸軍> ・第31軍:司令部〜8人 司令官 小畑英良中将(1890-1944/8/11) 参謀長 田村儀富少将(1897-1944/8/11)、参謀 橋田精中佐(陸士40期-19/9/30)、 参 謀 塚本清彦少佐(1910-1944/7/24)、金重利久少佐(陸士50期-19/9/30) ・第29師団〜6,987人 師団長 高品彪(たけし、1891-1944/7/28)中将 ・歩兵第18連隊:連隊長 大橋彦四郎大佐(陸士26期-1944/7/25) ・歩兵第38連隊:連隊長 末長常太郎大佐(陸士26期-1944/7/21) ・師団直轄部隊・戦車隊・海上輸送隊・野戦病院 ・独立混成第48旅団〜2,800人 旅団長 重松潔(きよし、陸士26期-1944/7/26)少将 ・歩兵第12・第43・第44連隊からの歩兵6個大隊が基幹 ・旅団砲兵隊 山砲兵第11連隊第3大隊 ・独立混成第10連隊〜1,668人 連隊長 片岡一郎大佐(陸士31期-1944/7/?) ・戦車第9連隊第1・第2中隊〜500人 ・第21野戦高射砲第52大隊〜386人 ・独立工兵第7連隊第2中隊〜170人 ・船舶工兵第16連隊第2中隊〜236人 ・第60碇泊場司令部大宮島支部〜10人 ・第31軍無線小隊〜14人 ・独立自動車第265中隊〜183人 ・第31軍築城班〜46人 ・南洋憲兵隊大宮島分遣隊〜5人 <海軍> ・第54警備隊〜海軍部隊計7,995人 司令官 杉本豊大佐(1897-1944/7/29)※ 戦死テニアン島説有 ・第217・第218設営隊 ・第60防空隊 ・第30工作隊 ・気象班 ・他管理部隊 ・海軍航空部隊 航空機は米上陸前に全機損失、生存搭乗員・整備員等は地上戦参加 ・第321・第521・第755・第263航空隊 ・帝国軍の火砲
○米軍の編成:〜 <陸上部隊> 上陸軍総司令部(司令官:ホーランド・スミス中将) ・第3水陸両用部隊(司令官:ロイ・ガイガー中将) ・第3海兵師団 第3海兵連隊 ・第9海兵連隊 ・第21・第12・第19海兵連隊 ・師団戦車隊 ・師団砲兵(155mm野砲) ・第1臨時海兵旅団 ・第4・第22海兵連隊 ・旅団砲兵 ・第77歩兵師団 ・第305・第306・第307歩兵連隊 ・第305・第902野砲大隊 ・第706戦車大隊 <海軍> ・第5艦隊(司令官:スプルーアンス大将)〜スプルーアンス艦隊 ・第58任務部隊(司令官:ミッチャー中将)〜ミッチャー機動部隊 ・戦 艦〜11隻 ・正規空母〜7隻 ・軽空母〜6隻 ・護衛空母〜11隻 ・巡洋艦〜24隻 ・駆逐艦〜152隻 ・他多数。 参考HP〜 ・米軍のグアム島攻撃の地図 こちらで ・米軍、ニューギニア上陸(ニューギニアの戦い) ・米軍、トラック基地破戒(カロライン諸島) をお楽しみください。 参考〜 ・帝国の戦艦 扶桑 (ふそう)の装備:〜就役:1915/11/8 (大日本帝国海軍の戦艦、扶桑型戦艦の1番艦)同型艦 山城 帝国独自の設計による初の超弩級戦艦 昭和5-8年(1930-1933)呉海軍工廠で近代化改装 昭和9-10年(1934-1935)呉海軍工廠で第二次近代化改装
・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。 2016/3/13 |
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