France 国連 1980 発行 |
手で綴る 歴史の証人シリーズ (Historical
Witness)No.8
レオポルド・パネット 1850/1月〜1850/5月 西サハラ探検行(サン・ルイ〜モガドール) |
大航海物語 フランス編★ |
REPABLIQUE SENEGAL パネットの西サハラ探検
セネガル 1969 発行 |
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・レオポルド・パネット (Leopold Panet, 1820〜1859/2/15) レオポルド・パネットは奴隷貿易拠点として栄えた(1776頃-1815)フランス領セネガルのゴレ島でフランス系混血黒人フランコセネガル人(Franco-Senegalese)として生まれ、フランスで教育を受けました。 |
ゴレ島 セネガル 1984 発行 |
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1847年にパネットは、1659年フランスが建設して1673年にフランス領セネガルの首都となって1895年にフランス領西アフリカの首都となり1902年に首都がダカールに移転した、サンルイ州々都でセネガル川の河口のサン・ルイ(Saint-Louis, Senegal)からナイル河の源流まで北アフリカを横断したいと考えていたジャン=バティスト・ラフェネル(Jean-Baptiste
Raffenel(Anne-Jean-Baptiste Raffenel) 1809-1858,
レユニオン島没)の秘書兼通訳として、セネガルのファレメ川(Faleme
River, 430km, Senegal)周辺を探検するも、マリ西部カアルタ(Kaarta)で中止になりました。 1849年にパネットは、フランスの海軍省(Navy Ministry)とパリ地理学会(Paris Geographical Society)から、モーリタニアを経由してセネガルとモロッコを結ぶというミッション任務(mission)を受けました。この任務は、フランス第二共和政(1848-1852)による奴隷制廃止直後に黒人男性に託されてた象徴的な性格の任務でした。 ・第1回探検行 最初の試みは1849年に、セネガルのサン・ルイ〜モーリタニア〜西サハラ〜モロッコのモガドール間(最短距離約2,000kmか?)を徒歩で探検へ出発するも、モーリタニア南西部トラルザ州のブチリミト(Boutilimit)のブラクナ・ムーア人(Brakna Moors)によって阻止されました。 ・第2回探検行 旅程:サンルイ出発〜チングェティー〜クェドノウン〜アガディール〜モガドール到着 1850/1月にセネガルのサン・ルイ(セントルイス:Saint-Louis, Senegal)から、モロッコのマラケシュ(マラケシュ=サフィ地方:Marrakech-Safi region)西のエッサウイラ州大西洋岸の港湾都市モガドール(Mogador、現エッサウイラ:Essaouira)に連れて行くことに同意したモロッコ系ユダヤ人とともに出発しました。パネットは仏セネガル総督からの助成金のおかげで男12人とラクダ約30頭に守られて、科学機器も運んで出発しました。ミッション任務は海に沿って踏破され、その後内陸に進みました。パネットはモーリタニアのアドラー高原(Adrar Plateau)の麓で金と塩の貿易を研究しました。ところがパネット一行は、現地人に攻撃されたり、強盗にも遭うも、北に向かって任務を続け、1850/5/25にモガドールに到着しました。 ・探検成功後フランスへ そこでフランス領事によって救出され、大西洋を航海してジブラルタル海峡から地中海へ入ってフランスのマルセイユに到着できました。パネットは探検が終わると不正確でわかりにくい旅行記を記述していたと伝わっています。なお、パネットは白人探検家よりずっと前にアフリカ地域を探検していたことで知られています。白人探検家は20世紀初頭まで成功しませんでした。 参考HP:〜 ・ゴレ島の場所地図(ダカール州の地図) ・サン・ルイの場所地図(セントルイス州の地図) ・セネガルの州区分地図 ・セネガルの場所地図(アフリカの地図) ・モガドールの場所地図 ・エッサウイラ州の場所地図(Essaouira:モロッコの地図) こちらで ・コーヒー ・スパイス (香辛料) ・蘭英戦争(1652-1674)
上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和6年 2024/3/24 |