United Kingdom

国連 1983 発行
切手で綴る イギリスの大航海(Great Exploration Voyage)バウンティ号航海(V3-4
トーマス・ヘイワード候補生
1791
ボートに追放、パンドラ号で追跡、少尉で遭難死
大航海物語
バウンティ号編

PITCAIRN ISLANDS
ボートに追放されるコール甲板長たち

1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989
ピトケーン 1989/4/28 発行
バウンティ号

英領ピトケーン 1988/5/9 発行
ISLE OF MAN
ボートで漂流するヘイワードたち

マン島 1989/8/28 発行


PITCAIRN ISLANDS
太平洋でのタヒチ島ピトケーン島の場所地図(中央付近)
ノーオークフィジートンガサモアタヒチ島ピトケーンイースターの島々
ジョージ6世
英領ピトケーン 1940-51 発行(200%)

TOKELAU
パンドラ号

トケラウ諸島(現NZ領) 1999 発行
FIJI
太平洋と世界地図

フィジー 1977/4/12 発行

ヘイワード候補生は姉の縁故でバウンティ号に乗り組み、艦長の忠実な部下として働きましたが、反乱に遭遇して艦長の次に追放されました。反乱者の捜索に行くパンドラ号の案内役をしてタヒチ島に行き、反乱者たちを収容したパンドラ号が遭難したときは、からくも生き延びイギリスに帰国しました。その後、イギリス海軍のスウィフト号に乗り組んで、台風で船が遭難して亡くなったと伝えられています。
トーマス・ヘイワード候補生
 Thomas Hayward、少尉 Third Lieutenant (1767〜1798頃)
ヘイワード候補生が20才の時に、彼の一番上の姉アン(Ann)がウィリアム・ブライ艦長の妻ベツィ(Betsy Betham)の親友だったので、キャップテン・ブライがバウンティ号の艦長となった時に、少尉候補生Midshipman)として乗り組むことが出来ました。

1787年にキャップテン・ブライが西インド諸島のプランテーション(農場)で働く奴隷の安い食料を確保するため、太平洋のタヒチ島から「人手無用で育つ食料の木」と思われていた”パンの木”の苗木を、西インド諸島に運び植林する作戦を命じられました。「パンノキの苗木の輸送作戦」を実施するため南太平洋への航海へ出帆するブライに与えられた船はバウンティ号(HMAV Bounty)でした。ブライ艦長は乗組員を募り、ヘイワード候補生も乗船しました。 パンの木の苗木と実

1787/12/23にバウンティ号はイギリス・スピツヘッド海峡近くのポーツマス(#1B21)を出帆しました。航海中はブライ艦長が乗組員全員に対して、幾つもの欠点をあげつらっては猛烈に叱責しました。1ヵ月後にブライ艦長の命令でマゼラン海峡ではなく、南アメリカ最南端で「吠える60度」という南極海からの強風で年中荒れ狂っていて、船乗りに恐れられていた難所中の難所のホーン岬を回航してドレーク海峡を抜けて、太平洋へ出てることになりました。ジョン・フライヤー航海長の冷静な指導のもとで嵐の中にホーン岬を望見できましたが、折りしもさらなる大嵐が襲いかかりました。ブライ艦長は「進路を見失った」としてドレーク海峡の突破を断念して、喜望峰への転舵を命令しました。喜望峰周りで無事にインド洋へ出ましたが、そのために2ヵ月もの遅れを出したとして、艦長は航海長のフライヤーを降格し、上級士官の1人フレッチャー・クリスチャン1等航海士を副艦長に抜擢しました。1783/3/10にはマシュー・クィンタルがその横柄で反抗的な態度に、ブライ艦長から24回の鞭打ち刑を受けました。その後の航海中もブライ艦長の厳しい態度に、乗組員の多くが不満を抱いていきましたが、ヘイワード候補生は艦長に忠実に仕えて艦長に取り入ってシニア少尉候補生となり、クリスチャン副長を嫌っていました。
バウンティ号はさらに西へ帆走して10ヵ月以上の航海の後、1788/10/26にタヒチ島に到着しました。1789/4月までの約半年間を”パンの木”の苗木やその他の植物を搭載するためにタヒチ島に滞在しました。その期間中、クリスチャン副長はタヒチの女性と結婚し、その他の多くの乗組員も現地生活を楽しみました。島での約6ヵ月間の生活は水夫たちにしてみれば楽園だったのでした。水夫の多くは短気なブライ艦長と再び航海に出るのをますます嫌うようになりました。3人の水夫が仕事を放棄して脱走しようとしたため、ブライ艦長は鞭打ちの刑を科しました。そして”パンの木”の苗木を積み込んだバウンティ号は タヒチ島











仏領ポリネシア 1986 発行
1789/4/4にタヒチ島を出帆しました。1789/4/28にフレンドリー諸島(トンガ)近海に差しかかった時に反乱が起きました。イギリス出帆時から艦長の厳しさに不満を抱いていた乗組員達は、”パンの木”の苗木を積み込んでからの、水の制限により、不満が一気につのりました。クリスチャン副長をそそのかして味方につけ、1789/4/28早朝に副長と反乱者達が船を乗っ取り、ブライ艦長達を1隻のボート(Longboat、ランチ・救命艇)に押し込めて船から追放しました。当時乗組んでいた46人の内、途中で亡くなっていた2人を除き、反乱者はクリスチャン副長以下12人でした。ブライ艦長以下19人はボートに乗せられて追放され、反乱に加わらなかった者のうち艦長と行を共にしなかった(ボートに乗れなかったか、直接手は下さなかったが反乱に同調したという説も有)13人は船に残されました。ヘイワードは艦長に次いで2番目にボートに追放されました
1789/6/12にブライ艦長達のボートは、海図無しで艦長が持っていた六分儀と時計のみで航行し、トンガのトフア島を経由して45日かけて、ニューギニアとオーストラリアの間の早い潮流の難所トレス海峡を通り、オランダ領チモール島にたどり着きました。約1年後の1790/3/4ブライ艦長以下15人が英国に生還できました。同年3/15にブライ艦長たちはイギリスで反乱を報告しました。 ボートで漂流するヘイワードたち
ブライ艦長たちの報告を聞いたイギリス海軍は反乱者達を探すためフリゲート艦パンドラ号(HMS Pandora)をエドワード・エドワーズ艦長指揮のもとに、ヘイワードの案内で派遣することを決定しました。1790/11月にパンドラ号はバウンティ号の捜索のためにイギリスを出帆し、1791/3月にタヒチ島に到着し、タヒチ島にいた叛徒たちを「海賊の極悪人」として逮捕しました。パンドラ号には牢がなかったので、クォーターデッキ(後甲板)に「パンドラの箱」とあだ名される木造の箱で臨時の牢獄を造り、手かせと足に鉄の鎖をして反乱者たちを収監しました。 タヒチ島に到着したパンドラ号
ノーフォーク島 1991/8/28 発行
その箱は喚起が悪い上に直射日光が当たり、それはもうサウナに閉じ込められているのと同じで、赤道直下での窓のない「箱の中」は強烈な熱さと異臭に満ちて、地獄の状態だったと伝えられています。叛徒たちはその中に4ヵ月間も閉じ込められました。パンドラ号はその後も3ヵ月ものあいだ副長たちを探しましたが、ようとして行方が解らず、オーストラリア近海のトレス海峡近くクイーンズランド海岸で座礁沈没してしまいました。この時に叛徒3人が水死しました。 座礁したパンドラ号と地図

ノーフォーク島 1991/8/28 発行
遭難後に4隻のボートにヘイワード他98人が分譲し、15日間の航海後にチモール島に着き、その後オランダ東インド会社の帆船でバタビア(現インドネシアの首都ジャカルタ)に行き、そこからイギリス軍艦ゴルゴン号(HMS Gorgon)でケープタウン経由で、本国送還される叛徒たちと共に、1792/6月にイングランドに到着しました。同年の軍法会議で叛徒10人の内3人が絞首刑となりました。 チモール島

ポ領チモール 1956 発行
その後のヘイワードの消息は確かではありませんが、一説によると、スウィフト号(HMS Swift)に海軍少尉として乗り組んで東インド方面航海に出帆し、太平洋上で台風に遭遇して、1798年に31才で船と運命を共にしたと伝えられています。 嵐で遭難するイギリス軍艦

ノーフォーク島 1982 発行
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   08/1/27、令和7年 2025/12/22

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