United Kingdom

国連 1983 発行
切手で綴る イギリスの大航海(Great Exploration Voyage)探検大航海(V2-3
フィツロイ艦長
1831
ビーグル号航海記
ビーグル号 ニュージーランド総督 フィッツロイ山
大航海物語
 イギリス編

Falkland Islands
ビーグル号、フィッツロイ艦長

Vice-Admiral Robert FitzRoy
HMS Beagle, 1831

フォークランド諸島 1985/9/23 発行

Cocos Islands
ビーグル号航海記
ダーウィン博士
ビーグル号

ヨハネスブルグへ
  ↓ココス島



シドニ|
コス諸島 1986/4/1 発行 ココス島 1980/12/18 発行

Falkland Islands
西フォークランド島 ・ 東フォークランド島
TUVAL
ニュージランドの国旗と地図



40
東経 170 178
ニュージーランド南島・北島
ツバル 1986/8/4 発行

エグモント港→
Port Egmont








Puerto Solidad
←ソリダット港
Stainley
←スタンレー
←フィッツロイ
Fitzroy
Rebuilding Conflict with Algentina
フォークランド紛争再建記念の寄付金付
フォークランド諸島 1982/9/13 発行

フィッツロイ艦長はダーウィン博士を乗せたビーグル号の第2回探検航海の艦長を務め世界一周航海をなしとげました。その後、ニュージランド総督に指名されました。
ロバート・フィッツロイ艦長
 Vice-Admiral Robert FitzRoy RN (1805/7/5〜1865/4/30)
  副海軍大将(中将)、気象学者(天気予報)、水路学者(検査官)
  (Meteorologist(weather forecasting)、Hydrographer(surveyor)
  第3代ニュージランド総督:Governor of New Zealand, 在任1843-1845)
  生地:イギリスのサフォーク州アンプトンのアンプトンホール生
  (Ampton Hall, Ampton, Suffolk, England)
  没地:ロンドン・ブロムリー特別区ノーウッド・ウェストウヒルのリンドハーストで60才没
  (Lyndhurst, West Hill, Norwood, #1H78
・幼少期
フィッツロイ艦長はイングランドのサフォーク州アンプトンのアンプトンホール(#1A17)でイギリスの貴族の家庭に生まれました。そして、4才からノーサンプトンシャーのウェイクフィールド・ロッジのフィッツロイ・ファミリーのパラディアン邸宅(Palladian mansion, Wakefield Lodge, #1C35)に移り住みました。

1818/2月に12才でハンプシャー州ポーツマス(#1B21)の王立海軍学校に入学した後、翌1819年には英国海軍に入隊しました。1820年半ばに14才で南アメリカに出帆したフリゲート艦HMSオーウェン・グレンダワー号(frigate HMS Owen Glendower, 36gn)に志願で乗艦し、1822/1月に帰国。この航海中に士官候補生(Midshipman)に昇進。その後ハインド号(HMS Hind)に乗艦し、1824/9月に優秀な成績で候補生課程を修了し、1824/9/7に19才で海軍少尉(Naval Ensign)に任官。テティス号(frigate HMS Thetis 46gn)で勤務した後、1828年に南米方面派遣艦隊最高司令官の海軍大将ロバート・オットウェイ卿(Admiral Sir Robert Waller Otway, 1st Baronet, GCB, 1770-1846)指揮下の戦列艦ガンジス号(2nd-rate ship HMS Ganges 84gn)に乗艦して将官付副官(旗手士官:flag Lieutenant)に指名されました。

・ビーグル号艦長
ちょうどその頃(第1回航海)、1826/5/22にフィリップ・ギドリー・キング総督の長男の提督フィリップ・パーカー・キング(Admiral Phillip Parker King, FRS, RN 179-1856)総司令官の指揮で、ビーグル号はストークス艦長(Pringle Stokes, 1793-1828)のもとでキング提督座乗のアドヴェンチャー号(HMS Adventure 380t)を随伴して、イギリスのプリマス(Plymouth, #1@6)を出帆しました。ビーグル号はアルゼンチン側のパタゴニア(Patagonia)とフェゴ島(Tierra del Fuego, #23)の水路調査を行い、フエゴ諸島の荒涼とした海域でのより困難な調査に直面して、ストークス艦長は深い”うつ”状態に陥り、マゼラン海峡北岸ブエナ湾のポート・ファミン(Puerto del Hambre, #12)で14日間部屋に閉じこもって、12日間の精神錯乱状態の後、1828/8/2に自分自身を撃って亡くなりました。それでビーグル号座乗キング提督がスカイリング副長(Lieutenant W・G・Skyring)と共にストークス艦長の後を引き継ぎ、ブラジル南東部リオデジャネイロ(Rio de Janeiro, #18)へ向けて出帆。リオデジャネイロでガンジス号に座乗する南アメリカ方面の最高司令官オットウェイ提督が、部下のフィッツロイ大尉をビーグル号の艦長に指名しました。

こうして1828/12/15にフィッツロイ大尉はビーグル号の艦長になり、再びフェゴ島に到着し、パタゴニアとフェゴ島の詳しい水路調査を成し遂げました。そこで、一群のフェゴ島原住民(Fuegian)によるボート乗り逃げ事件が起こりましたが、フィッツロイ艦長は追跡し、乱闘の後に捕らえました。4人の若者(少年、少女と2人の男)を人質にしてビーグル号に収容し、イギリスへ連れて行きました。その後、キリスト教の教育を受けた彼等は故郷に戻されました。 パタゴニアの民 フェゴ島民
(Fuejilian)の一族


フォークランド諸島 1994 発行
1830/10/14にビーグル号はイギリスのポーツマス (#1B21)に帰港。フィッツロイ艦長は測量士および艦長として指揮官としての評判を確立しました。

ビーグル号に収容した原住民の若者は、イギリスで新聞にセンセーショナルに書き立てられ、国王ウィリアム4世(William IV、在位1830-1837)が謁見しました。その時、王妃アデレード(Queen Adelaide、1792-1849)は少女にお手ずからボンネットを与えました。

・ビーグル号航海記(第2回航海)
1831/6/25にフィッツロイ艦長は再びビーグル号の指揮官に任命されました。1831/7/4にビーグル号はフィッツロイ艦長の指揮の下に就役し、すぐにドック入りし大規模な改装が行われました。ビーグル号は1831/10/24に出港する予定でしたが準備の遅れのために出発は12月になり、12/10に出港しようとするも悪天候にあい、結局ポーツマスを出帆したのは12/2の午後2時でした。前のストークス艦長の運命のことを考慮して、フィッツロイ艦長は当時の艦長という孤独な地位について心配して、同行者を得ようと、ビューフォート提督(Rear-Admiral Sir Francis Beaufort, FRS, FRGS 1774-1857)に仲間になってくれる博物学者を探してくれるよう頼み、チャールズ・ダーウィン博士が話し相手という資格で同行することになりました。

1831/7/4にフィッツロイ艦長のビーグル号では、乗船士官にウィッカム(John Clements Wickham 1798-1864)とバーソロミュー・サリヴァンが指名されました。ダーウィンの助手に15才のキャビンボーイ(Sea Cadet Jr)のコンヴィントン(Syms Covington 1816-1861)を雇用。彼は詳しい記録をつけていました。

こうしてフィッツロイ艦長とビーグル号はダーウィン博士を伴って、1831/12/27にポーツマスを出港、2度目の航海へと出帆。1833/3月にフォークランド諸島に到着後、艦長がスクーナー船を購入して、パタゴニア(Port Desire, Patagonia, Santa Cruz Province, Argentina)に戻って船底を銅版で補強しアドヴェンチャー号(Adventure)と命名。1834/03/16に再度、フォークランド諸島に到達。南米での調査終了後ビーグル号はニュージーランドオーストラリアのシドニー・タスマニア島のホバート・ココス諸島モーリシャス島ケープタウン
フィッツロイ艦長、ビーグル号 1836

ココス諸島 1990/8/24 発行
経由で、世界一周航海を達成、1836/10/27に5年ぶりにコーンウォール州ファルマス港(Falmouth, #1@7)に帰港しました。

・その後
1836/10/2にフィッツロイ艦長は結婚。1837年に王立地理学協会(Royal Geographical Society)から勲章を受章しました。1839年にはビーグル号航海の記録がダーウィンの著作と合わせた3巻本の一冊として出版され好評を博し、気象学の開祖のひとりとなりました。

第3代ニュージランド総督(1843/12/26-1845/11/18)にフィッツロイ艦長が就任し、原住民(Maori)から移住者を守り、食料を確保するという困難な職務に2年間従事しました。ワイタンギ条約(Treaty of Waitangi, Maori: Te Tiriti o Waitangi)が1840/2/6にニュージーランド北島ワイタンギにおいて、当時武力衝突が絶えなかった先住民族マオリ族とイギリス王冠との間で締結されていましたが、条約を不服として1843年から30年間続くマオリ族の反乱が起こりました。1743/6/17にワイラウ大虐殺(Wairau Massacre)が起こりワイラウ危機(Wairau Affray) マオリ族 と ニュージランド島

ポリネシア 1990 発行
が勃発し、ウェリントン(Wellington、ワイカナエ(Waikanae付近)で移住者と原住民の和平交渉などで活躍しました。

1848/9に英国ウーリッジ海軍造船所(Royal Naval Dockyards, #1H80)の監督官に就任。1849/3に機帆船アロガント号(screw frigate HMS Arrogant 2,690t 46gun 450乗り蒸気船)に艦長として乗組んだ(1848-1850)のが最期の現役航海となり、1851年に病身となり現役を引退しました。同年にロンドン王立協会(The Royal Society, FRS)会員にダーウィンを含む13人の仲間と共に選ばれました。1860年にフィッツロイ艦長はビーグル号で使用した経験のある温度計や気圧計とならんでストームグラス(Storm Glass、19世紀のヨーロッパで使われた天気予報の道具)を取り付けたフィッツロイ・バロメーター(気象予報装置)を考案しました。

1857年に海軍少将(rear-admiral)に昇進。1863年に副海軍大将(中将:vice-admiral)に昇進して除隊後、憂鬱症(Depression)にかかり、1865年にロンドンにて西洋カミソリ(Straight razor)を使って自殺し、60才で亡くなりました。

参考:〜
・ビーグル号の装備:〜
  HMS Beagle
、1820
船 型 ブリッグ・スループ艦
Brig sloop 10-gun ship-of-war)
ビーグル号
帆 柱 3本
全 長 27.5m
全 幅 7.5m:(ビーム Beam)
喫 水 3.8m:(ドラフト Draft)
重 量 235屯
武 装 砲10門
乗組員 120人
進 水 1820年、ロンドン・ウーリッジ(Woolwich Dockyard, #1H80
最 後 1870年、売却後、解体処理

・ニュージーランド総督
(The Governor-General of New Zealand)
ニュージーランドの総督は、ニュージーランドの総督でニュージーランドでイギリス国王の代理を務める人物。1841年にウィリアム・ホブソンが副王(Lieutenant-Governor)として任命されたことが始まりで、1917年以降は現在の職名(Governor-General of New Zealand)を採用。通例としてニュージーランドの首相により指名(推薦)され、イギリス国王に任命された人物が総督に就任する。慣例として弁護士や裁判官、判事などを歴任した法律家が任命されることが多いが、過去には政治家を務めた人物が任命された例もある。2006年8月からはアナンド・サティアナンドが第19代ニュージーランド総督を務めている。通例、総督任期は5年。立憲君主制をとるニュージーランドでは議会が立法権を持ち、首相と内閣が行政権を持つため総督が直接政治運営に関与することはない。
・初代〜ホブソン大尉
 (Lieutenant-Governor, Captain William Hobson RN 1840/11/24-1841/53)
・第2代〜ショートランド艦長
 (Willoughby Shortland 1842/9/10-1843/12/26)
・第3代〜フィッツロイ艦長。
-----------------------(正説)-----------------------------------
(0)ウィリアム・ホブソン
  (1840/1/30-1841/5/3、知事)ビクトリア女王
(1) ウィリアム・ホブソン
  (1841/5/3-1842/9/10)
(2)ロバート・フィッツロイ
  (1843/12/26-1845/11/17)
(3)ジョージ・グレイ卿
  (1845/11/18-1853/12/31)&(1861/12/4-1868/2/52)
(4) トーマス・ゴア・ブラウン
  (1855/9/6-1861/10/2)
(5) ジョージ・ボーウェン卿
  (1868/2/5-1873/3/19)ビクトリア女王
-------------
(20) ジェリー・マテパラエ卿、エリザベス2世
  (2011/8/31-2016/8/31、5年)
(21) デイム・パッツィー・レディ
  (2016/9/28-2021/9/28、5年)
(22) デイム・シンディ・キロ(1958生)
  (2021/10/21-、現職)チャールズ3世。
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・フィッツロイ山
(Mount Fitz Roy 3,440m)
・アルゼンチンとチリにまたがるフィッツロイ山は探検家フランシスコ・モレノ(Argentine explorer Francisco Pascasio Moreno, 1852-1919)がフィッツロイ艦長にちなんで名付けました。

・フォークランド諸島のフィッツロイ町
(Fitzroy, Falkland Islands)
東フォークランド島フィッツロイ町はフィッツロイ艦長にちなんで名付けられました。

・フィッツロイ川
(Fitzroy River, 480km, Queensland)
オーストラリアのクイーンズランド州(#D)中部にあるフィッツロイ川は、1853/5/4に当時ニューサウスウェールズ州(#A)植民地総督でフィッツロイ艦長の異母兄の陸軍中佐チャールズ・フィッツロイ卿(Lieutenant Colonel Sir Charles Augustus FitzRoy, KCB, KH, 1796-1858)に敬意を表して英語名が付けられました。

参考HP:〜
アンプトンの場所図(英サフォーク)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   08/9/25、10/7/7、令和7年 2025/11/22

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