大航海物語 大航海時代 と 帆船
ビーグル号
1831

Cocos Islands
参考資料
ビーグル号

ココス諸島 1976/3/29 発行
ダーウィン寄航150年記念
ココス諸島 1986/4/1 発行

      ビーグル号の第2回航海地図


ココス島→

ポート・ダーウィン→

シャーク湾→


パース→
キングジョージサウンド→

グレートオーストラリア湾→


オーストラリア




←ポートダグラス




←シドニー
←キャンベラ
←メルボルン
←ホバート

スペンサー湾、アデレード
ココス諸島1986/4/1発行 (200%)

ビーグル号
  HMS Beagle
   進水;1820/5/11〜艦籍除籍処分1851/5/25
ビーグル号の航海
  Voyage of HMS Beagle
   第1回:1826〜1830、第2回:1831〜1836、第3回:1837〜1843
ビーグル号はイギリス海軍の砲10門搭載チェロキー級ブリッグ型帆船(Cherokee-class brig-sloop)として1820/5/11に首都ロンドンを流れるテームズ川(River Thames, 346km)のウーリッジ造船所(Woolwich Dockyard)で進水。建造費用は7,803ポンド。艦名は「ウサギ狩り」(Hunting Hare)に使われる猟犬のビーグル犬(Beagle Dog)に由来。1820/7月、ビーグル号はジョージ4世(George IV of the United Kingdom, 1762-在位1820-1830)の戴冠式を祝う観艦式に参加してロンドン橋(London Bridge)の下をくぐり、予備艦(5年)となって、1825年に調査用のバーク型帆船(Barque)に改装後、3回の探検航海に出帆。第2回航海ではチャールズ・ダーウィンが参加、乗船しました。

・最初の航海
  (1826〜1830)
1826/5/22に、改装を終えたビーグル号はプリングル・ストークス艦長(Pringle Stokes, 1793-1828)の指揮の下で最初の航海にプリマス港(Plymouth, Devon)を出帆。この航海では、フリップ・パーカ・キング艦長(Admiral Phillip Parker King, FRS, RN, 1791- 1856)指揮の下、ビーグル号より大きな船アドヴェンチャー号(HMS Adventure 380t, 1821 renamed HMS Aid 313t)と共に、パタゴニアとティエラ・デル・フエゴ諸島の水路調査を実施。フエゴ諸島の荒涼とした海域でのより困難な調査に直面して、ストークス艦長は深いうつ状態に陥りま
ビーグル号、フィッツロイ艦長

フォークランド諸島 1985/9/23 発行
した。マゼラン海峡のポート・ファミン(Puerto del Hambre)で、彼は14日間部屋に閉じこもりました。そして、12日間の精神錯乱状態の後、1828/8/2に自分自身を撃ち亡くなりました。キング艦長がビーグル号の副長ウィリアム・スカイリング中尉(Lieutenant William George Skyring)と共にストークス艦長の後を引き継ぎましだ。彼らはリオデジャネイロ(Rio de Janeiro)へ向けて出港し、そこで1928/12/15に戦艦ガンジス号(HMS Ganges 84-gun second-rate ship of the line)座乗の南アメリカ方面司令官ロバート・オットウェイ少将(Admiral Sir Robert Waller Otway, 1st Baronet, GCB, 1770-1846)が部下の将官付き副官(Flaga Lieutenant)23才の貴族ロバート・フィッツロイ中尉を一時的にビーグルの艦長に指名しました。フィッツロイ艦長は有能な指揮官ぶりで、フエゴ島(Tierra del Fuego)の念入りな調査を成し遂げました。フエゴ島民の一団が船のボートを盗んで乗り逃げした時には、フィッツロイ艦長は彼らの家族を人質として、男2人と、少年と少女を一人ずつ捕らえ、その4人をイギリスへ連れて行きました。1830/10/14にビーグル号は英国イングランド(England)に帰還しました。

・第2回航海
  (1831/12/27〜1836/10/2)
1831/6/27にロバート・フィッツロイ中尉は再びビーグル号の指揮官に任命され、1831/7/4にビーグル号はフィッツロイ艦長の指揮の下に就役し、すぐにイギリス南西部のデヴォン州プリマス港の西にあるデヴォンポート海軍基地(HMNB Devonport)でドック入りして大規模な改装が行われました。新しい甲板が必要だったので、フィッツロイ艦長は上甲板の船尾を200mm、船首側をは300mm嵩上げしました。チェロキー級の船は沈みやすいといわれていたので、水が縁(ふち)に集まらず速やかに排水されるように甲板を直したことで、ビーグル号は扱いやすくなり、トップヘビーになって転覆する可能性も減少。追加の
晩年のダーウィン

フォークランド諸島 1985/9/23 発行
覆いも船体に追加され、排水量は約7トン増加。フィッツロイ艦長は費用を惜しまず、クロノメーター時計22個、小型で軽量なシンピオメーター気圧計など気圧計5種類、などを搭載しました。また、フィッツロイ艦長は宣教師として訓練したフエゴ島民の捕らえた4人をどのように帰すかを考えていたので、第2回航海で故郷へ帰えすことにしました。そして、フィッツロイ艦長は、ストークス前艦長の運命や、叔父のカスルリー子爵(Viscount Castlereagh, 1769-1822)が自殺したことを考慮して、当時艦長という孤独な地位について心配していたので、同行者を得ようとするも上手くいきませんでした。それで、アイルランド出身のイギリス海軍少将で当時水路学の第一人者だったフランシス・ビューフォート(Rear Admiral Sir Francis Beaufort, KCB, FRS, FRGS, FRAS, MRIA 1774-1857)に仲間になってくれる博物学者を探してくれるように頼んで、チャールズ・ダーウィンが同行することになりました。

ビーグル号は1831/10/24に出帆する予定でしたが準備の遅くれで、12/10に出帆しようとするも悪天候で、1831/12/27の午後2時にプリマス港(Plymouth Sound)を出帆しました。南米での調査終了後、ガラパゴス諸島バルトロメ島(Isla Bartolome, Galapagos)とサンチャゴ島のサリバン湾(Bahia Sullivan, Isla Santiago, Galapagos)の名前は、自然主義者でダーウィンの生涯の友人であり、ビーグル号に乗船したバーソロミュー・サリバン中尉に因んで名付けられました。ビーグル号はニュージーランド経由で、世界一周航海を達成し、1836/10/2にイギリスのコーンウォール州ファルマス港に帰港しました。

・第3回航海、ビーグル号の3度目の航海
  (1837/7/5〜1843)
6ヵ月後の1837/7/5にビーグル号はオーストラリア沿岸の調査のためにジョン・クレメンツ・ウィッカム艦長(Captain John Clements Wickham, 1798-1864)の指揮でプリマス港を出帆。カナリア諸島のテネリフェ島(Tenerife)、ブラジル北東部バイーア州の港湾都市サルヴァドール・バイーア(Salvador、Bahia)、ケープタウン(Cape Town)に寄港。1837/11/15にオーストラリア西部の現パースに到着。スワン川(Swan River, 72km)とフィッツロイ川(Fitzroy River, 733km)の間から調査を開始。ノーザンテリトリー北部地域のアーネムランド(Arnhem Land) から、バス海峡の両岸を調査。1839/5月にはティモール島対岸のアラフラ海(Arafura Sea)沿岸の調査を実施。1839/10/9に、ビーグル号副艦長ジョン・ストークス中尉(Admiral John Lort Stokes, RN, 1811-1885)が港に好適な入り江を最初に望見したので、ウィッカム艦長はストークス副長と共に前回の探検航海で同船仲間だったイギリスの自然科学者チャールズ・ダーウィンに因んで、その入り江をポート・ダーウィン(Port Darwin)と命名。また、ウィッカム艦長はノーザンテリトリー北のチモール海に面するビーグル湾(Beagle Gulf, Timor Sea)も、艦名に因んで命名しました。

1841/3月にウィッカム艦長が病気になったので、1841/4月にストークス副艦長が指揮を引き継ぎ、ティモール島とニュージーランド沿岸の調査を続行。3度目の航海は1843年に終了し、英国イングランドに帰還しました。

その後
1845年、ビーグルは常設沿岸警備監視船として改装されてエセックス州の沿岸からテムズ川河口(Thames Estuary)北岸での密輸の監視のため関税消費税庁(HM Customs and Excise)に移管され、ローチ川(River Roach, 22km)の中流に係留されました。1851年に川をふさいでいるので除去して欲しいという請願が出され、1851/5/25に英国海軍の艦籍を離れ、スクラップとして業者に払い下げられました。

こちらで
ビーグル号の2度目の航海
ビーグル号の装備
お楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        2018/5/6

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