★日 本 |
慶長の役 1597〜1598 丁酉再乱 |
大航海物語★ |
日本 Nippon 日本の安宅船 |
MARSHALL ISLANDS 亀甲船が日本の侵略船隊を撃破 |
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ベニン 1965/4/20 発行 |
李舜臣の亀甲船 | マーシャル 1998 発行 |
丁酉再乱 |
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便郵国帝本日大 朝鮮半島と日本の地図 日本 昭和5年 1930/9/25 発行 |
MARSHALL ISLANDS 明のジャンク船 マーシャル 1998 発行 |
慶長の役 1597年(慶長2年)〜1598年(慶長3年)倭軍撤退) 「丁酉再乱」(ていゆうさいらん、チョンユヂェラン)、丁酉倭乱(チョンユウェラン)=韓国 (1597年(慶長2年)講和交渉決裂によって始まり、 1598年(慶長3年)の秀吉没の報を受けた倭軍の撤退をもって終結) ▼あらまし 前期が「文禄の役」と呼ばれて、文禄5(1596)年に明との間に講和をして休戦となりましたが、講和交渉が決裂し、慶長2(1597)年に小早川秀秋を総大将として14万人の軍を再度、九州の名護屋城から壱岐島と対馬を前線基地として、朝鮮へ大航海して出兵したのです。漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させると進撃を開始、2ヵ月で慶尚道、全羅道、忠清道を席捲、京畿道に進出後、南岸に城塞(倭城)を築いて久留の計(恒久陣地化)が取られることとなり、このうち蔚山城は完成前に明・朝鮮軍の攻撃を受け苦戦するも、援軍を得て大勝(第一次蔚山城の合戦 1597(慶長2)/12/21)。豊臣秀吉が1598(慶長3)/8/18に五大老筆頭の徳川家康や秀頼の護り役の前田利家に後事を託して伏見城で亡くなりました。その頃の朝鮮では倭軍が第2次蔚山城の合戦、泗川の合戦、 順天城の合戦で次々と明・朝鮮軍を撃破していました。しかし秀吉の死去にともない朝鮮からの撤兵が決まり、朝鮮出兵は終了。この戦争は朝鮮には国土の荒廃と軍民の大きな被害をもたらし、明は莫大な戦費の負担と兵員の損耗によって滅亡の一因となりました。 ▼倭軍の再出兵 小西行長の腹心である内藤如安(?-1626)が北京に派遣され講和交渉が行われ、明側が秀吉を倭国王としてしか認めず、朝鮮半島からの完全撤退を要求したため交渉は決裂。秀吉は再び朝鮮侵略を決意し、1597/2/22に総兵14万1490人の動員計画を発令。慶長2(1597)/2月、和平交渉で無視された朝鮮南部割譲を実力で果たすという名目で、秀吉は14万人の軍を再び朝鮮に上陸させました。慶長の役における秀吉の主目標は、慶尚道(キョンサンド)・全羅道(チョルラド)・忠清道(チュンチョンド)・江原道(カンウォンド)の南部四道の征服でした。1597(慶長2)/1/24には加藤清正が朝鮮慶尚道多大浦(ダダエポ、釜山近郷)に到着・上陸しました。 李氏朝鮮王朝では釜山に集結中の倭軍を朝鮮水軍で攻撃するように命令するも、度重なる命令無視のために三道水軍統制使の李舜臣(イ・スンシン)は罷免され、後任には元均(ウォンギュン、1540-1597、李舜臣の先任者)が就任して総大将になっていましたが、朝鮮水軍を引き継いだ元均も攻撃を渋るも、ついに7月に出撃。1597/7/15に漆川梁海戦で朝鮮水軍は倭水軍に大敗、この海戦で元均は戦死し、朝鮮水軍は壊滅状態となりました。制海権を握った倭軍は漢城(ソウル)を目指し進撃。文禄の役で朝鮮水軍の活躍と義兵のゲリラ戦に悩まされた反省から、朝鮮半島南岸に倭城と呼ばれる城郭が構築され、朝鮮民衆に対する掃討作戦(住民の殲滅・殺戮)が行われました。翌8月に倭軍は右軍と左軍(及び水軍)の二隊に別れ慶尚道から全羅道に向かって進撃を開始。対する明・朝鮮軍は道境付近の黄石山城と南原城を守り応戦。倭軍の右軍は黄石山城を、左軍は南原城を攻撃して2城を陥落させ全州城に進撃。そこを守る明軍が逃走したため無血占領。慶長の役では倭軍が討ち取った朝鮮人兵士や民衆の首の代わりに鼻や耳を切り、それを名護屋城の秀吉のもとに送った「鼻切り・耳切り」を大規模に行い、塩漬けや酢漬けにした鼻や耳は桶や樽・壷などに詰められて日本に送られ、その送られてきた耳や鼻を埋めたのが、京都の豊国神社の前にある耳塚だとの説有り。なお、李氏朝鮮の「北関大捷碑」(ほっかんたいしょうひ)には文禄・慶長の役の加坡の戦闘で斬殺した倭兵から左耳825個を切り取って朝鮮王へ送った記録が記録されています。 倭軍の諸将は全州(チョンジュ)で軍議を行い、右軍、中軍、左軍、水軍に別れ諸将の進撃路と制圧する地方の分担を行い、守備担当を決め全羅道・忠清道を瞬く間に占領。北上した倭軍に一時は漢城の放棄も考えた明軍でしたが、結局南下しての抗戦を決意し、9月に先遣隊の明将・解生と黒田長政の部隊が稷山(イクサン)で遭遇戦を行い、黒田部隊が良く善戦しましたが、双方が後退しました。同じく9月には南原城から南下した後に西進した倭水軍の先鋒を三道水軍統制使に返り咲いた李舜臣が鳴梁海戦で破りましたが、倭軍により全羅道西岸が制圧されると朝鮮水軍は制海権を失い、李舜臣も全羅道北端まで後退し、倭水軍は全羅道西岸まで進出。京畿道まで進出した倭軍は、冬の訪れを前にして寒冷期の漢江渡河の困難さを鑑み、慶尚道から全羅道の沿岸部へ撤収し、文禄の役の際に築かれた城郭群域の外縁部(東は蔚山から西は順天に至る範囲)に新たな城郭群を築いて久留の計を目指し、城郭群が完成後は各城の在番軍以外は帰国する予定で、翌慶長3年(1598年)中は攻勢を行わない方針を立案していました。 築城を急ぐ倭軍に対して、明軍と朝鮮軍は攻勢をかけ、12/22に完成直前の蔚山倭城(倭式城郭)を明・朝鮮連合軍5万6,900人が襲撃し、攻城戦を開始。急遽入城した加藤清正を初め倭軍の堅い防御の前に大きな損害を被り苦戦を強いられ、そのため明・朝鮮連合軍は強襲策を放棄し、包囲戦をとりました。このとき蔚山城は未完成であり、食料準備も出来ていないままの籠城戦で倭軍は苦境となり、年が明けた翌慶長3(1598)/1月になると蔚山城は飢餓により落城寸前まで追いつめられましたが、1/3に毛利秀元等が率いる援軍が到着し、翌4日に水陸から明・朝鮮連合軍を攻撃敗走させ2万人の損害を与えて勝利(蔚山城の合戦)。戦いの後に宇喜多秀家など13人は、立地上突出している蔚山・順天・梁山の三城を援軍の困難さを理由として放棄する案を豊臣秀吉に上申するも、秀吉はこれを却下し上申者を叱責しました。 ▼朝鮮・明連合軍の反撃 一方、倭軍の再侵攻の報を受けた明国朝廷では、朝鮮に再び援兵を派遣することを決め、6月半ば頃より全羅道の攻防の要となる全羅道・南原(ナムウォン)付近の防備を固め、1597/7/22に李舜臣が「白衣従軍」(罰を受けて一平卒と成っての従軍)を命じられていましたが、漆川梁海戦での大敗で、再び朝鮮水軍の総大将に復職。李舜臣は直ちに、軍船わずか12艘となった朝鮮水軍の再建に着手しました。 日本軍は殺戮・略奪・破壊・放火と暴虐の限りを尽くしながら進撃し、激戦の末、8/15に左軍が全羅道の南原城を攻略。日本軍は開戦からの約2ヵ月間で慶尚道・全羅道・忠清道の南部三道をほぼ制圧するも、李舜臣の復活を知ると年内の「漢城」攻略を諦め、厳しい冬の到来に備えて朝鮮半島南岸の倭城へと撤退。 9/14に朝鮮水軍は鳴梁の海戦において地の利・潮流の変化を読みきって攻撃をかけ、倭水軍に大打撃を与えました。この戦いで来島通総が戦死、藤堂高虎が負傷。これによって制海権は朝鮮水軍の手に渡り倭水軍の西進は中断。また陸戦においては、漢城(ソウル)から忠清道を経て全羅道全州に南下してきた明軍と毛利秀元・黒田長政隊が9月はじめに稷山(イクサン)において激突。戦況は一進一退、倭軍の北進は停滞となり、9/14に倭軍は後退。 12/22に慶尚道で明・朝鮮連合軍5万7000が加藤清正の守る蔚山倭城を急襲(蔚山城の合戦)。この時、蔚山倭城はまだ未完成でわずか3000人の倭兵しかおらず兵站・兵器の備えも不足、圧倒的な火力・兵力の明・朝鮮連合軍の大軍が包囲の前に、厳寒の季節でもあり、水の手を断たれて兵糧も乏しいという過酷な籠城戦で、清正・幸長らも落城はもう時間の問題と考えましたが、翌・慶長3(1598)/1/4に西生浦(ソセンポ、蔚山近郷)から毛利輝元らの救援隊1万3000の倭軍が救援に到着、明・朝鮮連合軍は慶州へと撤退。辛うじて蔚山倭城の防衛に成功したが、強力な明・朝鮮連合軍を目の当たりにした倭軍にはこの戦闘によって厭戦気分が広まりました。 7月には漢城周辺に10万に達する明軍が集結、忠清道南陽湾(ナムミャンマン)に1万3000の明の水軍が到着。明・朝鮮連合軍は4路に分かれ、麻貴(マ・クウイ、総兵官)の率いる明兵2万4000・朝鮮兵5500の東路軍が加藤清正の指揮する蔚山倭城を、董一元(総兵官)率いる明兵1万3500・朝鮮兵2300の中路軍が島津義弘(1535-1619)の指揮する泗川倭城を、劉てい(?-1619)率いる明兵1万3600・朝鮮兵1万の西路軍と、陳りん率いる明兵1万3200・朝鮮兵7300の水路軍が小西行長の指揮する順天倭城を、それぞれ攻撃目標として南進してきました。 ▼秀吉が亡くなる 豊臣秀吉は翌慶長4年(1599年)の攻勢計画を発表していましたが、1598/8/18には伏見城で62才の生涯を閉じました。しかし、秀吉の死は秘匿され朝鮮半島にいる倭軍には秘密にされました。秀吉が死去すると戦役を続ける意義は失われたため五大老や五奉行を中心に、密かに朝鮮からの撤収準備が開始されました。 9月に入ると明・朝鮮連合軍は蔚山、泗川、順天へ総力を挙げた攻勢に出ました。迎え撃つ倭軍は沿岸部に築いた城の堅固な守りに助けられ、第2次蔚山城攻防戦では明・朝鮮連合軍を撃退し防衛に成功。董一元率いる中路軍は麻貴の率いる東路軍と合流し3万6700に膨れ上がった軍勢で、10/1に泗川倭城を強襲しましたが、泗川の合戦は島津軍が明軍の火薬の暴発事故による混乱に乗じて一斉に突撃し、明・朝鮮連合軍に大打撃を与え潰走させ、明軍は島津隊の反撃を受け大敗を喫しました。明・朝鮮連合軍はこの敗戦以後、島津氏を「鬼石曼子」と呼び恐れるようになりました。順天を守っていたのは小西行長でしたが、倭軍最左翼のためあらたに派遣された明水軍が加わり水陸からの激しい攻撃を受けるも防衛に成功し、明・朝鮮連合軍を後退させ(順天城の合戦)、明・朝鮮連合軍は順天倭城を遠巻きに監視するのみとなりました。 ▼倭軍の撤退 蔚山、泗川、順天への攻勢を退けた倭軍でしたが、既に秀吉は8月に死去しており戦争を継続する意義は失われていたので、ついに五大老による撤退命令が発令されました。10/8に五大老から派遣された使者の徳永寿昌(1549-1612)と宮木豊盛(1554-1620)が泗川倭城を訪れ、秀吉の死と撤退命令を伝えました。島津隊は小西隊と合流し帰国する予定でしたが、このとき順天倭城は明・朝鮮連合軍の西路軍と水路軍に包囲されていて小西隊は脱出することが出来ませんでした。 撤退命令を受領した小西行長は11月に明・朝鮮の陸・水諸将と交渉や買収で無血撤退の約束を取り付けるも、実際には明・朝鮮水軍は後退せずに海上封鎖を継続しており、海路撤退を妨害しました。小西軍の脱出が阻まれてていることが確認されると泗川から撤退してきた島津義弘の他、立花宗茂、寺沢広高、宗義智らの諸将は救援に向かうために水軍を編成して進撃。島津義弘の救援軍が近づくのを知ると明・朝鮮水軍は順天の海上封鎖を解いて迎撃(露梁海戦)。 島津義弘・立花宗茂(1567-1642)らは船500隻に分乗し小西隊の救出に向かうが、倭軍の出撃を知った李舜臣もこれを迎撃するため光陽湾を出撃。10/18午前2時頃、日本軍と明・朝鮮連合軍は露梁津で遭遇し激戦。この海戦で倭軍は200隻近い兵船を失い、明・朝鮮連合軍は名将李舜臣を失う。小西隊は海上の封鎖が解かれた隙に順天倭城を脱出することに成功。この露梁海戦で島津水軍は苦戦するも、明・朝鮮も明水軍副将(副総兵)ケ子龍(1531-1598)や朝鮮水軍三道水軍統制使・李舜臣を含む複数の幹部が戦死して大敗を喫し、明・朝鮮水軍の敗退で順天の海上封鎖が解けたことを知った小西行長は海戦海域を避けて海路脱出に成功して、釜山浦に撤退しました。11/25に最後に残った倭軍の小西行長・島津義弘・立花宗茂らが釜山浦を撤退して日本に帰国。 これにより、7年間におよんだ朝鮮の役は日本の撤退で終結。こうして、日本の出征大名達は朝鮮を退去して倭国へ帰国し、豊臣秀吉の画策した明遠征、朝鮮征服計画は成功に至らぬまま、秀吉の死によって倭軍が撤退し終結しました。 ・1597年の主な戦い:〜(慶長の役の主な合戦)
加藤清正 100000人(肥後熊本 19.5万石) 黒田長政 5000人(豊前中津 18.0万石、全州会議後に中軍) 鍋島直茂 102000人(肥前佐賀 35.7万石) 池田秀雄 1650人(伊予大洲 1.2万石) 長宗我部元親 3000人(土佐浦戸 22.2万石) 中川秀成 2500人(豊後岡 7.4万石) 目付: 早川長政(全州会議後に中軍)、垣見一直、熊谷直盛。 ・左軍:計4万8800人 宇喜多秀家10000人(備前岡山 57.4万石) 小西行長 7000人(肥後宇土 20.0万石) 宗 義智 1000人(対馬府中 1.0万石) 松浦鎮信 3000人(肥前平戸 6.3万石) 有馬晴信 2000人(肥前日野江 4.0万石) 大村喜前 1000人(肥前大村 2.5万石) 五島純玄 700人(肥前五島 1.4万石) 毛利吉成 2000人(豊前小倉 6.0万石) 蜂須賀家政 7200人(阿波徳島 17.7万石) 生駒親正 2700人(讃岐高松 15.0万石) 島津義弘 10000人(薩摩大隅 60.5万石) 秋月種長 300人(日向財部 3.0万石) 高橋元種 600人(日向県 5.0万石) 伊東祐兵 500人(日向飫肥 5.7万石) 相良頼房 800人(肥後人吉 1.8万石) 目付: 太田一吉、 竹中重利。 ・水軍(船手、左軍):計 7200人 藤堂高虎 2800人(伊予板島 8.3万石) 加藤嘉明 2400人(伊予松前 10.0万石) 脇坂安治 1200人(淡路洲本 3.3万石) 来島通総 600人(伊予ノ内 1.4万石) 菅平達長 250人(淡路岩屋 1.0万石) 目付: 毛利高政、 ・城番隊:計2万000人 小早川秀秋10000人(筑前名島 52.3万石)釜山浦城 立花宗茂 5000人(筑後柳川 13.2万石)安骨浦城 高橋直次 500人(筑後内山 1.8万石)加徳城 筑紫広門 500人(筑後山下 1.8万石)加徳城 小早川秀包 1000人(筑後久留米 3.5万石)竹島城 浅野幸長 3000人(甲斐府中 21.7万石)西生浦城 目付: 毛利重政。 |
▼慶長の役の主な海戦 ・漆川梁(しんせんりょう、チルチョンリャン)の海戦
・鳴梁(めいりょう、ミョンリャン)の海戦 慶長2(1597)/9/16 鳴梁海戦は、鳴梁渡海戦ともいい、慶長の役における海戦の一つ。 慶長二年(1597年)9/16に陸軍に呼応して西進しようとした倭水軍と朝鮮水軍との間に起こった海戦。 韓国では鳴梁大捷と呼ばれる、李舜臣率いる朝鮮水軍が倭軍に勝利を収めた戦いとして評価が高い。しかし、倭水軍先鋒を地の利を生かして攻撃した後は衆寡敵せずに撤退しており、戦場の制海権を失ったために基地である(全羅道)右水営や対岸の珍島の攻略を許し、倭水軍の侵攻は成功した。 また、伊予の来島通総が朝鮮の役に出征した唯一の大名戦死者となった。 鳴梁渡は珍島と右水営半島との間にある海峡であり、潮流が速く大きな渦を巻いている航行の難所。 慶長2(1597)/8月下旬、左軍に属する船手衆の将藤堂高虎、加藤嘉明、脇坂安治、来島通総らは南原城攻略後に艦船に帰り、陸軍に呼応して全羅道の南海岸沿いを西進しようと図った。 先鋒が9/6に於蘭浦沖に達し、碧波津(珍島の東北端の渡し口)に布陣していた李舜臣率いる朝鮮水軍との間に小競り合いが生じる。 朝鮮水軍はいったん倭水軍先鋒を撃退するが、大船は12、3隻があるだけだったので、後続の倭水軍の集結を知るとひとまず鳴梁渡に退き、14日さらに右水営沖に移った。 藤堂高虎らは敵大船が近くにいることを知ってその捕獲を図り、9/16に水路の危険を考えて全軍ではなく中型船40隻ほど(朝鮮側記録では130余隻)で鳴梁渡へ向かったものの、それを察知して迎え撃った大船12隻、その他百隻の陣容の朝鮮水軍に、来島通総以下十人が戦死、藤堂高虎が負傷、数隻が沈没するなど苦戦した。 夕方になると朝鮮水軍は唐笥島に退き戦闘は終結する。倭水軍は水路に不案内なため、帆を上げて戦場を離脱する朝鮮水軍を追撃することは適わなかった。朝鮮側の記録では13隻が参加し喪失は無し、戦死34人とある。 ・露梁(ろりょう、ノリャン)の海戦 慶長3(1598)/11/18和暦 順天城守備の小西行長らの撤退を支援するために海路出撃した島津軍を中心とした倭軍と明・朝鮮水軍との間に露梁津で起こった海戦であり、朝鮮の役での最後の大規模海戦である。 朝鮮水軍の主将李舜臣はこの戦いで戦死。 韓国では露梁大捷と呼ばれ朝鮮・明連合水軍が倭軍に大勝した合戦とされる。露梁津は南海島と半島本土との間の海峡。 慶長3(1598)年に倭軍最左翼の要衝である順天城守備の小西行長らは南下してきた明・朝鮮軍の9/19から10/4にわたる陸海からの攻撃をいったんは退けたが、豊臣秀吉死去の報を受け釜山へ撤退することとなった。明・朝鮮水軍が拠点であった古今島へ退いたのをみて、11/10に船団を仕立てて退去を図るも、やはり秀吉の死亡を知った明・朝鮮水軍に退路を遮断され順天城へ引き返さざるを得なくなった。既に撤退のため巨済島に集結を終えていた島津義弘、宗義智、立花宗茂(当時の名乗りは統虎)らの左軍諸将はそれを知り、急遽500隻(300隻とも言う)の兵船を仕立て、救援のため17日の夜、順天へと向かった。これを知った明・朝鮮水軍も迎撃するため封鎖を解き露梁津へと東進する。 18日未明に露梁津を抜けようとした倭軍は南海島(ナムヘド)北西の小島、竹島の陰に潜んだ明水軍と同じく南海島北西の湾、観音浦に潜んだ朝鮮水軍とに出口で待ち伏せされ、南北から挟撃される形で戦闘が始まり乱戦となる。先陣を切っていた島津軍に損害が大きく、島津の将・樺山久高率いる一隊は当初に朝鮮水軍の潜んでいた観音浦に逆に押し込められて浅瀬に座礁して船を失い、徒歩で南海島を横断して対岸へ脱出せざるを得ないという状況も現出した。主将の島津義弘の座乗船も損害が大きく一時窮地に陥り、他家の救援を得てようやく脱出できたと伝えられる。 このように戦況は倭軍に不利であり、夜が明ける頃に大勢は決し、倭側の撤退により戦闘は終結。 朝鮮側の記録「宣祖実録」には「倭船100隻捕捉、200隻焼破、斬首500、捕虜180余、溺者数知れず」とある。 だが、李舜臣、明軍の副将ケ子龍といった将官が戦死し、一時突出した明軍の主将陳リンも倭軍の包囲から危うく逃れたとされ、一方的な戦闘展開ではなかったものと考えられる。 海戦後に明・朝鮮水軍が退却する倭軍を追撃したり、あるいは再び順天を封鎖することが適わなかったことからすれば、明・朝鮮軍の損害もまた大きく余力は無かった。 ・参考:〜 ▼朝鮮陶工の来日 桃山末期に豊臣秀吉は明国を軍事下に置こうと朝鮮に入貢と明出兵の先導を求めました。朝鮮がこれを拒否すると秀吉は肥前名護屋に本陣を築いて2度に亘り攻め込みました。しかし、倭軍苦戦の間に秀吉が死を迎えて撤去する事になると多くの朝鮮陶工達は諸将達に伴って日本に召致されました。この文禄・慶長の役(朝鮮では壬申・丁酉の乱)は別名を「焼物戦争」とも呼ばれています。日本に大挙移住してきた朝鮮陶工達は伊万里、唐津、萩、上野、高取、平戸、薩摩等、 九州古陶磁を始めとする焼物基盤を作り出しました。この優秀な朝鮮技術者達が日本の窯業に齎した功績は計り知れません。 参考HP:〜朝鮮半島の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/5/27 |