大航海物語 イングランド国王 スチュアート朝
ジェームス I世
在位 1558〜1603

参考資料
NEWFOUNLAND
ジェームス 1世

英領ニューファウンドランド 明治44年 1910/8/15 発行
BURBUDA
ジェームス 1世

バーブダ 1970/10/15 発行

GRENADINE OF ST.VINCENT
ジェームス1世とエディンバラ城
ジェームス1世の紋章
グレナディーン・セントヴィンセント 2000 発行

ジェームズ1世
 
(James I)
 別名:チャールズ・ジェームズ・ステュアート
  (Charles James Stuart, 1566/6/19〜1625/3/2)
  イングランド王 ジェームズ1世(James I、在位:1603/7/25-1625/3/27)
  アイルランド王 ジェームズ1世(James I、在位:1603/7/25-1625/3/27)
  スコットランド王 ジェームズ6世(James VI、在位:1567/7/29-1625/3/27)
  ステュアート朝(Stuart dynasty:1371-1714)第1代(初代)の君主
ジェームズI世はスコットランド・イングランド・アイルランドの王で、スコットランド王(King of Scotland)としてはジェームズ6世で、イングランド王(King of England)・アイルランド王(King of Ireland)としてはジェームズI世。非公式にはグレートブリテン王(King of Great Britain)の称号も用いました。スコットランド女王メアリー(Mary, Queen of Scots、在位:1542-1567)と2番目の夫であるダーンリー卿ヘンリー・ステュアート(Henry Stuart, Lord Darnley、1545-1567)の一人息子で、1566年にスコットランド女王メアリーの第1子としてエディンバラ城で生まれました。名付け親はイングランド女王エリザベスI世。メアリー女王の最初の男子で、誕生後間もなくロスシー公 エディンバラ城

イギリス 1967 発行
に叙され、正式にスコットランド王位継承者とされました。女系継承ではあるも、ジェームズの父親でメアリーの2番目の夫である初代オールバニ公(Duke of Albany)ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートもまたステュアート家の一族で、ジェームズ以降の家系もそれまでと区別なくステュアート家と呼ばれました。ダーンリー卿の家系はステュアート・オブ・ダーンリー家 (Stewart of Darnley) と呼ばれ、男系ではステュアート朝以前に後の王家と分かれており、ロバート2世の祖父である第5代王室執事長ジェームズ・ステュアート(James Stewart, 5th High Steward of Scotland、1260-1309) の弟の子孫でした。ダーンリー卿は生得の権利として有力な王位継承権を持っているも、これは父方の曾祖母エリザベス・ハミルトン(Elizabeth Hamilton、1757-1854)がジェームズ2世の外孫であったことによります。ジェームズはまた有力なイングランド王位継承権者でもありましたが、これは祖父ジェームズ5世がヘンリー8世の姉マーガレット・テューダー(Margaret Tudor, 1489-1541)の息子であったことにより、マーガレット・テューダーはダーンリー卿の母方の祖母でした。

1567年、ジェームズが最初の誕生日を迎える以前に、父ダーンリー卿は不審な死を遂げ、母メアリーとは引き離されました。同年7/26にメアリー女王は廃位され、ジェームズは1才と1ヵ月でスコットランド王になりました。メアリー女王は1568年にイングランドへ亡命し、以後1587年に処刑されるまでジェームズと会えませんでした。

ジェームズの即位後しばらくの間は摂政が置かれ、17才になるまで実質的には政務を執れませんでした。最初の摂政はメアリー女王の庶兄で王の伯父に当たるマリ伯ジェームズ・ステュアート(James Stewart, 1st Earl of Moray,1531-1570/1/11)でしたが、1570年にメアリーの支持者によって暗殺されました。次いで、ダーンリー卿の父で王の祖父に当たるレノックス伯マシュー・ステュアート(Matthew Stewart,4th Earl of Lennox, 1516-1571/9/4)が摂政となるも、1571年に国内の紛争で殺害されました。3人目の摂政マー伯ジョン・アースキン(John Erskine, 18th Earl of Mar、1510頃-1572/10/28)も1572年に死去し、最後にモートン伯ジェームズ・ダグラス(James Douglas, 4th Earl of Morton、1516頃-1581/6/2)が摂政となりました。1579年、13才のジェームズはフランス帰りのオウビーニュイ卿エズメ・ステュアート(Esme Stewart, Sieur d'Aubigny, 1st Duke of Lennox、1542年頃-1583 :父ヘンリーの父方の従弟に当たる)に魅了され、寵愛しました(ジェームズは男色家=ホモセクシュアルでした)。邪魔になったモートン伯は、ダーンリー卿殺害に関与したとして1581年1月に処刑されました。1582年、ガウリ伯ウィリアム・リヴァン(William Ruthven, 1st Earl of Gowrie, 1541-1584)の計略で、ジェームズはリヴァン城(Ruthven Castle, Angus, Scotland)に軟禁されました。翌年リヴァン城からの脱走に成功したジェームズは、1584年にガウリ伯を処刑し、直接統治を行うことにしました。親政を始めたジェームズは、当面の懸案であった宗教問題に取り組むことにしました。当時のスコットランドの宗教界は長老主義の影響が強く、彼らは「聖職者の任命は国王ではなく、長老会議によるべき」と主張していました。ジェームズ6世は、1584年5月に「暗黒法」(ブラック・アクト:Black Acts)を発布し、国王が最高権威者であり、司教制度を謳い、国王や議会に反対する説教を禁止しました。これに対する信徒の反発は強く、1592年には「黄金法」(ゴールデン・アクト:Golden Acts)で「集会」を認めました。さらに、1598年には「司教国会議員」を認め、教会(カーク)の推す3人の司教に国会議員同様の立法活動を許しました。1589年、ジェームズはデンマーク王フレデリク2世(Frederick II, 1534-1588)の娘アンナ(アン・オブ・デンマーク、Anne of Denmark, 1574-1619)と結婚。翌年、国王の乗船が嵐に巻き込まれて沈没寸前になる出来事が起き、これに関して国王に反対する勢力が雇った黒魔術師による国王暗殺計画があったとして70人の女性が逮捕される「魔女狩り騒動」が起きました(ただし、ジェームズ自身は消極的だったたといわれています)。

1603/3/14にイングランド女王エリザベス1世が亡くなると、後継者に指名されたジェームズがイングランド王として即位することになりました。7/25に戴冠し、イングランド王・アイルランド王も兼ねました。これがイングランドにおけるステュアート朝の始まりになりました。以後イングランドとスコットランドは、1707年に合邦してグレートブリテン王国となるまで、共通の王と異なる政府・議会を持つ同君連合体制になりました(王冠連合:Union of the Crowns)。なお、イングランドの宮廷生活に満足したジェームズは、その後スコットランドには1度しか帰りませんでした。1604年にイングランドの国教会や清教徒など宗教界の代表者たちを招いて会議を行い、この中でジェームズはカトリックと清教徒の両極を排除することを宣言。これで、カトリックと清教徒の両方から反感を買うことになりました。1605年にはガイ・フォークス(Guy Fawkes、1570-1606/1/31)、らカトリック教徒による、国王・重臣らをねらった爆殺未遂事件(火薬陰謀事件)が起こりました。なお、1611年に刊行された欽定訳聖書は、ジェームズの命で、国教会の典礼で用いるための標準訳として翻訳されました。

ジェームズはイングランドとスコットランドの統一を熱望するも、両政府は強硬に反対し続けました。その一方でジェームズは統一に向けて自分が影響を与えられることを実行。第一に「グレートブリテン王」(King of Great Britain)と自称。第二に新しい硬貨「ユナイト」(the Unite)を発行してイングランドとスコットランド両国に通用させました。最も重要なことは、イングランドのセント・ジョージ・クロスとスコットランドのセント・アンドリュー・クロスを重ね合せたユニオン・フラッグを1606/4/12に制定したことでした。新しい旗の意匠は他にも5種類ほど提案されるも、他の案は重ね合せではなく組合わせたものであったり、イングランド旗部分が大きいものであったりしたため、ジェームズは「統一を象徴しない」として却下しました。

1606年には、北アメリカ海岸に植民地を建設する目的で、ジョイント・ストック・カンパニー(Joint-stock company)のバージニア会社(Virginia Company, 1606:勅許会社)に勅許を与え、本国のバージニア委員会を通じて経営を行いました。

エリザベス1世時代に敵対していたスペインとは和解しました。だが、その一方で私掠船を禁止したり、「反スペイン」で関係を強めていたオスマン帝国に対してはキリスト教徒としての観点から敵意を抱いて断交を決め、重臣や東方貿易に従事する商人達からの猛反対を受けました。最終的にジェームスが妥協して、従来国家が負担していた大使館などの経費を全て商人達に負担させる事を条件に、オスマン帝国との国交は維持することになりました。

また、ジェームスはスコットランド王としてもイングランド王としても弱体な権力基盤の上に君臨していたため、自己の味方を増やそうと有力貴族達に気前良く恩賜を授け、多額な金品を支出していました。更に王妃アンの浪費で国家財政は逼迫してしまうことになりました。このため、国王大権をもって議会に諮らずに関税を大商人達に請け負わせる契約(大請負)を締結して、議会との対立を深めました。1622年にはホワイトホール宮殿 (Palace of Whitehall、1530-1698、火災焼失) の拡張を実施し、イニゴ・ジョーンズの設計によるバンケティング・ハウス(Banqueting House、現在も有)を完成。1625/3/27にジェームズI世はシーアボールズ宮殿(Theobalds Palace)で亡くなりました。

ジェームズ1世の家族は、先代のエリザベス1世は、倹約家であったことに加えて本人以外に「王族」を持たなかったために宮廷経費が最低限であったのに対して、ジェームズ1世には既に王妃アンの他に7人の子供達がおり、宮廷経費の増大は避けられませんでした。特に王妃アンは、金髪が美しい美女でしたが、性格はお祭り好きの浪費家でした。その浪費癖は既にスコットランド時代から知られており、元々裕福とは言えないスコットランド王室の財政を脅かすほどでした。それはイングランドに移ってからも変わることなく、パーティに舞踏会、そしてイングランド南西部のバースへの大旅行など、その浪費ぶりは凄まじいものでした。そのため、1619年に王妃が他界すると莫大な負債が残され、ジェームズ1世は悩まされることになりました。彼女については「空っぽの頭」(Empty Headed)と言う人までいました。宮廷経費の増大は国家財政を更に逼迫させて、清教徒革命に至る国王と議会の対立の最大の原因になりました。

ジェームズ1世と王妃アンには計7人の子がありましたが、無事成長したのは3人でした。長男ヘンリー・フレデリック王太子は将来を嘱望されているも、18才で亡くなったため、次男のチャールズが王位を継承し、チャールズ1世(Charles I, 1600-1649)となりました。長女エリザベス(Elizabeth Stuart, 1596-1662)は1613年にプファルツ選帝侯フリードリヒ5世と結婚。陽気で美しく慈悲の心を持っていた彼女は、イングランドでも非常に人気がありました。嫁ぎ先のプファルツでも領民達から「慈愛の王妃」と呼ばれ慕われるほどでしたが、ボヘミア・ファルツ戦争(ベーメン・プファルツ戦争:1618-48ドイツで三十年戦争、人口18百万が7百万へ)で夫が皇帝フェルディナント2世に敗れると、全てを失ってオランダへの亡命を余儀なくされました。1661年にイングランドへ帰り、翌1662年ロンドンでなくなりました。夫との間には13人の子を儲け、三男ループレヒト(ルパート)はイングランドでカンバーランド公に叙され、イングランド内戦や英蘭戦争で軍司令官として活躍し、カナダの植民地ルパート・ランドの経営にも携わりました。また、五女ゾフィーはハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストに嫁ぎました。その長男がジョージ1世で、ハノーヴァー朝(Hanoverian Dynasty、1714-1901)の祖になりました。

なお、1609年にアイルランドのアルスターで公式プランテーションの植民 (Plantation of Ulster)をはじめ、1641年のアイルランド人の反乱につながりました。

・イギリスによるアメリカ大陸の植民地化
  (British colonization of the Americas)
イギリスによるアメリカ大陸の植民地化は、16世紀後半のエリザベス1世のころに始まり、ジェームズ1世時代にも引き継がれ、ジェームズタウン植民地が建設されました。アメリカ大陸中で多くの植民地が設立した17世紀から18世紀頃にその最盛期を迎えました。その初期はイングランド王国が、1707年に連合法でグレートブリテン王国が創設された時以降はグレートブリテン王国が植民地経営を推進しました。イギリスはアメリカ大陸に植民地を経営した国の中でも重要度が高く、そのアメリカにおける勢力は軍事力においても経済力においても、スペイン帝国の強力なライバルになりました。イギリスによるアメリカ大陸の植民地化は、アメリカ大陸の先住民にも多大な影響を及ぼしました。

・ジェームズタウン植民地の建設
  (Jamestown、Virginia)
1606/12/20にロンドン・ヴァージニア会社のキャプテン・スミスがスーザン・コンスタント号(Susan Constant、120トン、71人乗船、スミス船長、1605建造)、ゴッドスピード号(Godspeed、入植者39人と水夫13人乗船、40トンのブリガンティン、全長は21m、クリストファー・ニューポート(Christopher Newport、1561頃-1617)船長)、ディスカバリー号(Discovery、21人乗船)の3隻の船で105人の植民団を率いて北米植民地開拓(チェサピ-ク湾岸バージニアに入植)へとロンドンを出帆しました。4ヵ月の航海の末に、プエルトリコを経由して、1607/4/26にチェサピーク湾々口のヘンリー岬(Cape Henry)についに上陸。現在のハンプトン・ローズ地域を探索した後、ジェームズ川の島内に砦に囲まれた入植地を建設しました。こうして、1607/5/4にジェームズ砦としてジェームズタウン植民地は建設されました。この町の名前はイングランド王ジェームズ1世にちなむ。ポウハタン族インディアンが彼らを手厚く歓待し、食料を分け与えてくれました。英国最初の北米植民団は1585年に送り込まれるも、全滅しており(ロアノーク植民地)、ジェームズタウンが最初の永続的植民地となりました。

1610年にはジョン・ガイニューファウンドランドへ入植
1620年には、ピルグリム・ファーザーズがプリマスへ入植しました。

こちらで
エリザベス1世 (英国王:イングランド国王(Kingdom of England)国王)
ヴィクトリア女王 (英国王:イギリス(United Kingdom)国王)

世界遺産の
ヌビア遺跡 (エジプト)
ピラミッド (エジプト)
パルテノン神殿 (ギリシャ)
姫路城 (日本)
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       09/5/15、2018/8/10
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