★イギリス 征服王 ウィリアムI世
1066
英仏海峡を突破、イギリスへ上陸
大航海物語★

BARBUDA
ウィリアム 1世

バーブダ 1970/10/15 発行
REPUBLIQUE FRANCAISE
ウィリアム征服王、フランスよりイギリスへ侵攻

ウィリアム公の艦隊、仏英海峡を突破、イギリスに敵前上陸
1066 ヘースティングズの戦い 900年記念 1966
フランス 1966 発行

JERSY
英仏海峡の地図

ジャージー 1970-75 発行

ウィリアム征服王のイギリス検地
ドゥームスデー・ブック

Domesday Book
086 ウィリアム征服王の検地 900年記念 1986
イギリス 1986/6/17 発行

フランスのノルマンディー公ウィリアムは1066年ヘースティングスの戦いに勝利、 征服王ウィリアム1世としてイングランドにノルマン朝を起しウェストミンスター寺院での戴冠式を同年12月25日に挙行。これによりイングランドは異民族ノルマン人に支配されることとなりました。検地を行い土地台帳「 ドゥームスデー・ブック」を作成しました。征服後に子息の反乱鎮圧でフランス遠征中に落馬がもとで亡くなりました。
ウィリアム1世、征服王 (1027〜在位1066〜1087)
William I、the Conqueror
ノルマン・コンクエスト(the Norman Conquest)はフランスのノルマンディ公ウィリアムによるイングランド征服のことで、ウィリアム1世は征服王と呼ばれています。征服後には全国の検知を行なって土地台帳を作成しました。

これによりイングランドは異民族のノルマン人により支配されることとなり、ウィリアムに従う北フランス各地のフランスの貴族たちは、ひとまずイングランドに定着しましたが、その後しだいにウェールズ、アイルランド東南部、スコットランドにも広がってゆき、北西部フランスとブリテン諸島は北フランス文化圏に組み入れられることとなりました。 当時、デーン人の子孫であるノルマンディの貴族たちは、移住してから100年程度たち、風習、言語ともにフランス化していたので、イングランドではそれまでのテュートン系古英語に変わり、ノルマンディ方言を中心とする北フランスの言語が貴族社会の言語となりました。すなわち、ウィリアム1世の宮廷ではノルマンなまりのフランス語が使用されていましたが、時代とともに現地の言葉と融合し現代に至る英語が形成されていったといわれています。また、ウィリアム1世のイングランド征服の後、イングランドが外国軍によって征服されることはなく、後の王家は全てウィリアム1世の血統を受け継いだものとなりました。イングランド王となったウィリアム1世は民衆の古いアングロサクソンの生活習慣には手を加えませんでしたが、新しい封建制度を導入しました。この封建制度の基になったのは貴族の所領を検地して記録した土地台帳「ドゥームスデー・ブック」でした。

ウィリアムは、ノルマンディー公ロベール1世の庶子としてファレーズで生まれました。母は北西フランスの皮なめし職人の娘アーレッテ。1035年、ウィリアムは父ロベール2世を継いでフランス王の臣下であるノルマンディー公になり、領内の安定化に尽力して勢力を蓄えると、1050年、アルフレッド大王の子孫のフランドル伯ボドワン5世の娘マティルダと結婚してイングランド王家と縁戚を得るに至りました。こうしてウィリアムはフランスで最も強大な封建君主となりました。

このころイングランドはサクソン七王国の支配の後、一時デーン人の支配を受けましたが、再びウェセックス王家のエドワード懺悔王がイングランド王に即位しました。その地位は周辺国の微妙な力関係の上に依拠するもので、世嗣のいないエドワード王の跡を周辺国の王や諸候たちは虎視眈々と狙っていました。1066年1月にエドワード王が後継者を定めないまま死去すると、イングランド王家と連なるハロルド2世が名乗りをあげてイングランド王に即位しました。その兄トスティはこれに不満を持ちノルウェー王ハラール2世を誘って、ヨーク東方のスタンフォード・ブリッジに攻め込みました。この機にウィリアム公もエドワード王から王位継承を約束されていたとして、1066年9月28日、6000人の騎士を含む12000の兵を率いてイングランド南岸ペヴェンシーに上陸・侵攻しました。両面に敵を受けたハロルド2世は、まずトスティーグを破ると、反転して10月14日にヘースティングスでウィリアム公軍と戦いました。ヘースティングズの戦いでは騎士を主力とするウィリアム公軍がはじめ徒歩のハロルド2世軍に苦戦を強いられましたが、敗走と見せかけて追撃に出たハロルド2世軍が分散するのを見届けると、これを各個撃破して戦況を好転させ、ついにはハロルド2世を討ち果たしました。1066年12月25日、ウィリアム公はウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として戴冠しました。こうしてウィリアム1世はフランス王臣下にしてイングランド王の地位を勝ち取りました。

その後ウィリアム1世は旧支配勢力のサクソン貴族を駆逐して土地を奪うと、それを家臣に与えイングランドに封建制度を確立しました。1085年には最初の土地台帳とも言うべきドゥームズデー・ブック (Domesday Book) が作成され税制度が定められました。また1072年にカンタベリーとヨークの両大司教の争いに干渉し、カンタベリー側に肩入れしてこれを第1位の大司教と定め、イングランド宗教界を傘下におさめることにも成功しました。

イングランド王に即位したウィリアム1世に代わり、長男ロベールがノルマンディー公に叙位されましたが、ロベールはフランス王フィリップ2世と結んで、2度にわたってウィリアム1世に反旗を翻し対峙しました。1087年、フランス遠征中に落馬して受けた傷が原因でウィリアム1世は60才で亡くなりました。






ヘースティングズの戦い
1066/10/14

ペヴェンシー上陸

Pevency
ウィリアム公の艦隊、仏英海峡を突破
英仏海峡の地図

ジャージー 1970-75 発行

ヘースティングズの戦いに勝利

Battle of Hastings
ウィリアム公の騎馬軍団とイギリスの歩兵軍団
バイユー・タピストリー(BayeuxTapestry)の絵画を切手に模写
1066 ヘースティングズの戦い 900年記念 1966
イギリス 1966/10/14 発行

ウィリアム征服王、ヘースティングズの戦いに勝利
 Battle of Hastings、1066

1066年1月、イングランド国王エドワードが病没しました。エドワード王の後継者は明確には定まっておらず、これが大きな戦乱をイングランドに呼び込む原因となりました。エドワード王は1051年と1064年にノルマンディ公ウィリアムに王位を約束していました。彼の対抗馬たるウェセックス伯ハロルドですら、なかば強引ではあるがウィリアム公の王位継承を認めさせられていました。しかし、ハロルドも王位を狙っていました。ハロルドはイングランド国内の貴族達の支持を取り付けるべく策動し、弟のトスティヒがマーシア伯と争いを起こした際、ハロルドはマーシア伯の一族と友好関係を築く為に容赦なく弟のトスティヒを切り捨てることまでやってのけました。ハロルドはイングランドの有力貴族と婚姻関係を結んだり、同盟を結びイングランド内での地位を強化し、エドワード王の死に際して有力貴族から後継者の指名を受けるに至り、イングランド王に即位したのです。 そしてもう一人、王位継承権を主張する者がいました。ノルウェー王マグヌスの甥ハラルドです。彼は1039年にイングランド王ハルタクヌートが叔父に約束したイングランド王位を渡すよう、ノルウェーの軍事力を背景に要求したのです。 王の死によりハロルド、ウィリアム、ハラルドの三人の王位継承者達がイングランド王位を巡って争うのは必然の情勢となっていました。

最初に戦端を開いたのはイングランド王ハロルドの弟でイギリスを追放されていたトスティヒでした。トスティヒは1066年4月にフランドルを出帆し、ワイト島を襲撃。そこから北上して5月にサンドウィチ近海に達しました。ハロルド王側の対応も早く、ノーサンブリア伯モーカーとマーシア伯エドウィン率いる艦隊がサンドウィチのトスティヒ艦隊を攻撃、トスティヒを打ち破りました。トスティヒは生き残った12隻の艦隊を引き連れ、スコットランド王マーコームを頼って北へ逃亡。ハロルド王はノルマンディ公ウィリアムとハラルド、トスティヒの攻撃に備えて、ノーサンブリア伯モーカーとマーシア伯エドウィンに北の防衛を託し、自らはワイト島に艦隊を集結、そこに自らの司令部を設置。南部の兵を動員してイギリス海峡沿岸地帯の防御を固めたましたが、いつまでたってもノルマンディ公軍は現れず、やむなくハロルド王は9月8日に軍を解散、ロンドンへ帰還してしまいました。これにより南部沿岸地帯は無防備な状態におかれました。一方、ウィリアム公は8月にフランスのディーブ河口に艦隊を集結して9月12日に出帆しましたが、天候の影響からソンム河口に避難しなければなりませんでした。ノルマンディ公軍を迎撃すべく待機していたイングランド艦隊も同様の悪天候に見舞われ、ロンドンへ帰還。9月18日、ノルウェーのハラルドは300隻の艦隊を引き連れ、トスティヒとも合流してヨーク近郊に到来しました。9月20日にハラルドはこの地域の防御を任されていたノーサンブリア伯モーカーとマーシア伯エドウィンの軍をファルフォード・ゲートで襲い、両伯の軍を打ち破りました。この知らせを受け取ったヨーク市はすぐにハラルドに降伏。ハロルド王はこの報を聞くとすぐにロンドンを発って北上。304キロの道のりを軍を動員しながら数日で踏破し、9月24日にはヨーク近郊のテェトキャスターに到着。翌日、スタンフォート・ブリッジで宿営していたハラルドとトスティヒの軍を奇襲して打ち破り、ハラルド、トスティヒ両名を討ち取り大勝利を収めました。

9月27日にイギリス海峡の天候が回復し、ウィリアム公はイングランドへ向けて出帆し、翌日ペヴェンシーに上陸しました。ウィリアム公はここのローマ人の城塞跡に陣地を建設して守備隊を配置すると、大部分の兵を率いて海岸沿いにヘイスティングスへ行き、ここに主陣地を築いて、周辺地域を荒らし回りながらハロルド王軍の到来を待つこととしました。10月1日にハロルド王はウィリアム公軍上陸の報を受け、翌日にはロンドンへ向かい、10月6日にロンドンに到着すると直ちにロンドン近郊の軍を招集して艦隊にイギリス海峡への出撃を指示しました。そして、一通りの準備の整った11日にハロルド王率いるイングランド軍はヘイスティングスへ向けて出発しました。中世では王同士が相打つ大規模な野戦が早期の戦争終結には重要な要素となっていました。ウィリアム公は急いでロンドンへ向かう危険を冒さず、補給が容易な沿岸で敵を待って決戦による決着を狙ったとされています。

1066年10月14日に行われたヘイスティングスの戦いの様子はフランス・ノルマンディー地方バイユーに残る長さ70mに及ぶタピストリーに73場面にわたって詳細に描かれています。タピストリーは日本の綴れ織りに似た織物で、劇場の緞帳のようなものです。

その戦いの流れは、両軍の斥候が遭遇し斥候は敵の存在を報告し、ウィリアム公は全軍に戦闘準備を指示。ウィリアム公軍は弓兵の援護下でイギリス軍に突撃を行いましたが、撃退されました。この戦いの中、ウィリアム公軍の一部は退却後に、より密集した隊形に再編成を行い、偽装退却を仕掛けました。この罠にはまってハロルド王の二人の弟が戦死しました。しかし、この作戦をでもイングランド軍を突破することはできませんでした。その後、ウィリアム公軍は三度にわたり突撃を敢行しますが、ことごとく撃退されました。ウィリアム公軍内ではウィリアム公戦死の流言が流れ動揺を来しますが、ウィリアム公が兜を上げて自らの無事をアピールし、軍を立て直しました。ウィリアム公軍は弓兵の援護下で再び突撃を行い、ハロルド王直衛部隊に迫り、ついにハロルド王を討ち取りました。ハロルド王死後もイングランド軍の抵抗は続きましたが、やがてイングランド軍は全面崩壊に陥り敗走しました。

兵力はノルマンディ公軍が8000人でイングランド軍が9000人前後だった説も有ります。兵力の配置はノルマン公軍は中央にノルマンディ公軍、左翼がブレトン同盟軍、右翼が他のフランス貴族達で、最初は前衛が弓兵、二陣が槍兵、三陣目が貴族達の騎馬軍団でした。最初の射撃の後で弓兵と歩兵が後ろに下がり、貴族達騎兵が突撃を行い、弓兵が援護する形をとり、騎兵が退却すると歩兵が前面に出てその背後で騎兵が再編成を行い、再び突撃が行われるという形で戦闘が継続されました。

一方、イングランド軍は密集した歩兵が槍や盾を並べた様に布陣するシールド・ウォールを形成し、敵の攻撃を受け止め、機会を見て反撃する方法が取られていました。その際、精鋭を前面に配置し、その後ろをより練度の低い部隊で固めました。王の直参部隊や一部の有力者は馬を持っていましたが、戦場で馬に乗ることはありませんでした。戦場では下馬して歩兵として戦いました。この戦いでノルマンディ公軍は弓兵と騎兵の諸兵連合体制で戦いに臨みました。弓兵は一つの部隊としてまとめて運用され、直接敵を狙うのではなく敵の頭の上に矢が降り注ぐように空へ向かって矢を撃ち、騎兵隊の突撃を援護しました。一方、イングランド軍は弓を装備していましたが、弓兵隊としてまとめて運用するのではなく、部隊の中に弓を持つ兵がいて各自の判断で勝手に撃っていたという程度でした。

ヘイスティングスの戦いに勝利したウィリアム公はドーバーへ向かい、途中のロムネイが抵抗を試みましたがすぐに制圧されました。ロムネイの有様を見たドーバー市は降伏し、ウィリアム公は10月21日にドーバーに入城しました。10月末にはカンタベリーに達しましたが、ここでもさしたる抵抗はなく同市は降伏しました。ノルマンディ公軍は南からロンドンに迫りましたが、ロンドンを守りエドガーを王に押すノーサンブリア伯モーカー、マーシア伯エドウィン、カンタベリー大司教、ヨーク大司教などのイングランドの有力諸候達により撃退されてしまいました。そこで、ウィリアム公はロンドンを大きく迂回し、ウァリングフォートでテームズ河を渡り、この地点を防衛する為に城を築きました。テームズ河を渡った後も北上を続け、ロンドン北方の地域を荒らし回り、ロンドンと北部の連絡を絶ちきりました。南北西をノルマンディ公軍に押さえられ、東は海しかなく、ロンドンは孤立してしまいました。ロンドンに籠もる諸候達はやむなく12月中旬頃に降伏しました。1066年のクリスマスにウィリアム公はロンドンのウェストミンスター寺院でイングランド王として戴冠式を挙行しました。

イングランド征服王ウィリアム1世はロンドン塔を建設してロンドンの防備を固めると、1067年3月に凱旋の為に一時フランス・ノルマンディのルーアンへと帰還し、盛大な征服祝賀の式典を行いました。 しかし、イギリス王に対する反発はすぐに始まりました。1067年にはプローニュ候オースティスによる攻撃が行われ、この攻撃をきっかけとしてドーバーで反乱が発生し、ドーバーが一時占領される騒ぎになりました。同年、ウェールズ方面支配の要たるヘレフォードに蛮勇者エリック率いるウェールズ軍が来襲しました。ウィリアム1世はたて続く反乱の報を聞き、1067年末頃にイングランドへ帰還した。 1068年1月、ウィリアム1世はデボンのイグゼターを攻略してデボンを一応平定しました。1068年夏頃にアイルランドに逃れていた前イングランド王ハロルドの息子達がイギリス西部に来襲し、北方でハロルド王派のノーサンブリア伯モーカがスコットランド王マーコームの支援を受け、再びエドガーを王にと担ぎ出してヨークシャーで蜂起しました。ウィリアム1世はヨークシャーへ遠征し、反乱を鎮圧してスコットランド王マーコームを服従させ、ロンドンとヨークを繋ぐ街道上に幾つかの城を建設しました。イギリス西部に来襲したハロルド王の息子達は現地の守備隊により撃退されました。

1069年1月、再びヨークシャーでエドガーの指導により反乱が起こり、ノルマン人守備隊長ロバートが殺害され、ヨークとダラムが包囲されましたが、ウィリアム1世は短期間の内に北上、エドガーを奇襲して破りました。8月にデンマーク艦隊がケント沿岸に現れ、イングランド艦隊を破り、沿岸地帯を荒らし回り、そこから北上してヨークシャーでエドガー軍と合流。9月21日にエドガー、デンマーク連合軍はヨークでノルマン人守備隊を破ってヨークを占領。同時期にイングランド西部一帯で大規模な反乱が発生。反乱軍はウェールズの蛮勇者エリックの軍と合流。 あちこちで一斉に吹き出した反乱に対し、ウィリアム1世は最初に西へ向かい、ウェールズとの国境に当たるスタフォードで反乱軍を破り、そこからヨークへ戻ってデンマーク人を買収して帰還させると、ヨークを徹底的に攻撃して廃墟にしました。そして12月にようやく廃墟となったヨークにウィリアム1世が入城。この課程で、ウィリアム1世は二度と反乱を起こせないようにと、北部地域を徹底的に略奪し破壊しつくしました。ハロルド王の有力な諸候だったノーサンブリア伯モーカもマーシア伯エドウィンもこの戦役の最中に戦死。1070年5月に再びデンマーク軍が来襲、これに呼応してヘリウォードの指揮する反乱軍が蜂起しましたが、デンマーク軍は再び買収されて帰国。取り残されたヘレフォードの反乱軍は翌年の夏に至るまで抵抗を続けましたが、最終的に鎮圧され、これを最後にイングランドでの反乱はほぼ完全に鎮定されました。

反乱を鎮定したウィリアム1世は反攻に転じ、1072年春に北部での反乱を援助してきたスコットランド討伐を画し、陸海からスコットランドへ侵攻しました。アバーネジーでスコットランド王マーコームを追い詰め、服従を誓わせ、反乱の根を絶ちました。だいたいこの頃にイングランド征服は完了しました。しかし、ウィリアム1世の苦難は続きました。イングランドは平定しましたが、今度は足下たるノルマンディ方面で反乱や侵略が相次ぎ、ウィリアム1世はこの後も苦悩の絶えることはなかったのでした。

・ウィリアム公は、1066/9/27ペヴェンシーに上陸、10/14ヘイスティングスの戦い勝利後、ロムネイ、10/21ドーバー、10/末カンタベリー、ロンドン、ウァリングフォートでテームズ河を渡河、北部を迂回してロンドンへと進軍、12月中旬ロンドン降伏、12/25にイギリス王の戴冠式を挙行しました。

・参考HP〜
 ・バイユーのタピストリー

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。               
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