United Kingdom![]() 国連 1983 発行 |
切手で綴る イギリスの大航海(Adventure Voyage of Britain)序章(0-2)
獅子心王 リチャードI世 1190 第3回十字軍の遠征・エルサレムへ大航海 イングランド王国 プランタジネット朝(1154-1399)第2代 |
大航海物語 イギリス編★ |
BARBUDA リチャード 1世 ![]() バーブダ 1970/10/15 発行 |
LIBAN 十字軍の軍船 ![]() レバノン 1966/9/25 発行 十字軍時代の軍船 ![]() イギリス 1966/10/14 発行 |
|
PORTUGAL | CYPRAS キプロス島 ![]() 英領キプロス 1938-44 発行 |
||
サンヴィセンテ岬 → S.Vicente |
ポルトガル最南端![]() アルカルヴェ州(#3) |
サグレス岬 ← Sagres |
|
ポルトガル 1960/8/4 発行 |
獅子心王リチャードは1190/1月にエルサレム奪回の第3回十字軍としてイングランドを出帆して、1191/5月にキプロス島を占領し、アユーブ朝エジプトのサラディンと闘い、エルサレム北西のパレスチナ・アッコを奪取しましたが、エルサレム奪回はならず休戦しました。海路での帰途に北部イタリア東方で船が難破し、上陸しての帰途にオーストリアで捕虜になりましたが、身代金で釈放され、イングランドに帰り着いてみると、弟に王位を奪われていました。弟を追放し、フランスと戦っているとき、狙撃者の矢に当たって1199年になくなりました。 |
リチャード1世、獅子心王 Richard I, the Lionheart(1157/9/8-在位1189/7/6-1199/4/6) 生誕地:イングランド王国(886-1707)オックスフォード(#24)ボーモント宮殿 (Beaumont Palace, Oxford, England)第2代イングランド王(2nd England King) 没 地:フランス(#2-16)オートヴィエンヌ県アキテーヌ公国(1152-1360)シャリュ (Charrus, Haute-Vienne, Duchy of Aquitaine, France)41才没。 リチャード1世の母は、第2回十字軍(1147)にフランスのアキテーヌ軍を引きいて夫仏王ルイ7世(1120-在位1137-1180)と共に参加したアリエノール・ダキテーヌ(1124-1204)で、父ヘンリー2世(1133-在位1154-1189)とは1152年に再婚しました。ヘンリー2世は父方と母方からの相続と結婚により広大な所領を獲得し、仏スペイン国境のピレネー山脈地帯から南フランスおよびイングランドにまたがるアンジュー帝国(1154-1214)を拡充して、イングランドではプランタジネット朝(Plantagenet dynasty, 1154-1399)が創設されていたので、ヘンリー2世の第3子(次男)でしたが、兄の若ヘンリーが若くて(28才没, 1155-在位1170-1183, 父王と共治)亡くなったので、プランタジネット朝第2代のイングランド王となりました。リチャード1世はイングランドのオックスフォード(#24)ビューモント宮殿で生まれました。王妃はスペイン北部(#16)ナバラ国(824-1841)王サンチョ6世(1133頃-在位1150-1194)の娘のベレンガリア・オブ・ナヴァール(1170頃-1230)。生涯の大部分を戦いの中で過ごしてその勇猛さから獅子心王(Richard the Lionheart)と称され、中世騎士道物語の典型的な英雄なるも、即位後はイングランドにわずか6ヵ月滞在しただけで、1190年に第3回十字軍へと出帆することとなりました。 リチャード1世は1168年13才で母の所領の仏アキテーヌ公領(Aquitaine, 507-1453)を、そして1172年には仏ヴィエンヌ県ポワチエ(Poitiers, #2-19)を分配されました。1183年に兄の若ヘンリーが亡くなると次男のリチャード1世がヘンリー2世の後継者となるも、代わりにアキテーヌを弟のジョン(1166-1216)に譲渡するよう父に命じられると、拒絶して反抗。その後、一旦父と和解するも、支配権を巡る不満は残り、1188年にヘンリー2世と仏フィリップ2世(尊厳王1165-在位1180-1223)の争いのさなかの和平交渉中、リチャード1世は父親の前でフィリップ2世に臣従の誓いをして父を裏切りました。 1185年にエジプトやシリア・イェーメンなどを支配したサラディン王(Yusuf ibn Ayyub ibn Shadhi、1137頃-在位1174-1193)の重圧の前にあったエルサレム王国(1099-1291)から、救援を要請する使節団がヨーロッパを巡回し、イングランドにも来ました。エルサレム国王ボードゥアン4世(1161-在位1174-1185)はアンジュー家(House of Anjou, 1154-1485)の分家出身で、ヘンリー2世の従弟でした。ヘンリー2世は人員と資金の提供を承知しました。1187/7/4にアユーブ朝(Ayyubid dynast, 1169-1250)エジプト王サラディンはパレスチナの”ハッティンの戦い(1187/7/4)で、第1・2回の十字軍で建国されていたキリスト教諸国に勝利し、1291/10/2にはエルサレムが降伏してエルサレム王国は滅亡。この時に十字軍とは反対にキリスト教徒の虐殺は行われませんでした。1187/10/25にローマ教皇に選ばれた教皇グレゴリウス8世(Gregory VIII、1100頃-1187/12/17)は即位直後にエルサレムが陥落したことを聞き、この事態に対して、聖地奪還を目的とする新たな十字軍の派遣をヨーロッパに呼びかけ勧誘しました。リチャード1世は即座に参加を希望しましたが、ヘンリー2世と仏フィリップ2世は領土問題を巡って戦争状態にあったので、要請を受けたことでこれを終結し、双方とも国内では「サラディン税」を課して十字軍編成のための資金としました。しかし両国間の戦争はすぐに再開していました。 ヘンリー2世が1189/7/6に仏アンドル=エ=ロワール県(#6-51)ロワール渓谷のシノン城で病気で亡くなったので、リチャードは”リチャード1世”として32才でイングランド王に即位しました。即位するや、王庫の金やサラディン税、軍役負担金だけでは足りないため、城、所領、官職等を販売して十字軍遠征のための資金を集め、父王が得たスコットランドの臣従を1万マルクで売り渡し、「買い手があればロンドンでも売る」と言ったと伝えられています。資金が集まると、イングランドにはほとんど滞在せず、1190/1月に第3回十字軍の遠征に出帆しました。 出帆に先立って、1189年にリチャード1世はイングランドのシニック港に大艦隊を要求しましたが、その要求はシニック港が供給できる以上の要求でした。その艦隊は100隻以上となり、船はイングランドから、はては対岸のフランスのノルマンディーやボルドー地方の全ての港で、買船あるいは用船されて準備されました。準備が整うと、リチャード1世はイングランドを教会の評議会に託し、フランス領は母アリエノールを摂政として託して、1190/1月に4,000人の甲冑兵士部隊(Men-at-Arms)と4,000人の歩兵部隊とからなる陸軍軍団を100隻の軍船に乗せてイングランドを出帆しました。大艦隊はイングランドやフランスから英仏海峡を通り抜け、大西洋を南下し、ポルトガル南部のサンヴィセンテ岬を回りザグレス岬沖を通って、ジブラルタル海峡を通過して地中海へ出ました。やがてフランスのフィリップ2世と、シチリア島で1190/9月に落ち合い、そこのメッシーナを1190/10/4に占領して冬を過ごしました。その時もイギリスとフランスの両王は反目しあい、関係が悪化していたため出帆の時は別々に海路でパレスチナへ向かいました。リチャード1世は1191/4月に嵐を避けてビザンティン帝国領ロードス島に避難しました。キプロス島で、婚約者のべレンガリアと合流する予定でしたが、ビザンティン帝国のキプロス太守が彼女を捕らえたため、リチャードはこれと戦って、5月末までに島全体を占領し、キプロス島のセント・ジョージ教会で、1191/5/2にべレンガリア・ナヴァールと結婚しました。 その頃、神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)もローマ教皇庁の教皇の呼びかけに答え、第3回十字軍の第一陣として陸路より1189年に出発していました。フリードリヒはその途上、サラディンと秘密協定を結んでいた東ローマ帝国の皇帝イサキオス2世アンゲロスの敵対的行為に直面しました。このため十字軍は東ローマ領を急いで通過せざるを得なかくなりました。その後、1189/5/18にルーム・セルジューク朝の首都イコニウム(コンヤ)を占領しました。しかし1190/6/10にフリードリヒ1世がキリキアのサレフ川を渡河中に溺死しました。フリードリヒ軍は数の上ではサラディン軍よりも多数でしたが、フリードリヒ1世を失ったことから早くも解散してしまい、一部の者はシリアに向かいそこでの戦いに敗れました。一方、フィリップ2世は5月中旬レバノン南部ティール(Tyre)に到着して、エルサレム王国の王位継承を主張していたモンフェラート侯コンラード1世と同盟を結びましだ。1191/4月にフィリップ2世らはオーストリア公レオポルト5世を司令官とする先のフリードリヒの敗残兵を加えて、アッコの攻撃を開始(5/20)しました。アッコはイェルサレムの北西方にあるパレスチナの港町でイェルサレム王国の事実上の首都であり、十字軍の最後の拠点となった町で、第1回十字軍が占領しましたが、「イスラムの擁護者」と目されたサラディンが奪回していました。 1191/6/8にレバノン国境に近いイスラエルの北部港町アッコ(Acre)に上陸したリチャード1世は、そこで再びフィリップ2世と合流して、アッコ包囲攻城戦(1189/8/28-1191/7/12)に加わりました。サラディン軍は包囲を破ろうと試みましたが撃退され、1191/7/12にアッコは陥落。十字軍は3,000人とも言われる捕虜を虐殺しました。しかしその後、十字軍側の3人の司令官の間に主導権を巡って内部抗争が起き、ドイツ人たちの司令官であったオーストリア公レオポルト5世は、リチャード1世やフィリップ2世と同列に扱われることを欲しましたが、リチャード1世は占領した都市からレオポルト5世の旗を撤去したので、フィリップ5世はリチャード1世に不満を募らせて8月に帰国しました。また、次期エルサレム国王を巡って、リチャード1世は旧臣でもある前国王ギー・ド・リュジニャンを推しましたが、フィリップ2世はティール防戦に功績のあったモンフェラート侯コンラード1世を推し対立しました。結局、コンラートは即位直前に暗殺され、フランス王、イングランド王両方の甥に当たるシャンパーニュ伯アンリがエルサレム王女イザベラと結婚して王位につき、リチャード1世はギーにキプロス島を売り渡して納得させました。フィリップ2世はこれで義務を果たしたとして、病気を理由にフランスへ帰ってしまいました。 そんなこんなで、リチャード1世だけがエルサレムを目指しました。サラディンはリチャードと各地で戦い、リチャード軍に悩まされながらもエルサレムを死守し、リチャード1世はエルサレムに達することはできず「非武装のキリスト教徒の巡礼者がエルサレムを訪れることを許可する」休戦条約を結びました。サラディンからはキリスト教徒一の騎士と称えられました。この時のリチャードとサラディンとの勇敢な戦いぶりは後世に長く語り継がれました。リチャードは「獅子心王」(Lion-hearted )の異名をとり、中世騎士道の典型的人物とされました。一方のサラディンもその武勇・勇猛さを知られたばかりでなく、その博愛・寛容の精神によってヨーロッパ人に多大な感銘を与えました。和議を結んだリチャード1世はキリスト教徒の聖地エルサレムへの巡礼のための自由な通行権を得て、1192/9月末に海路で帰国の途につきました。 すでに帰還していたフィリップ2世は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世やジョンと結託し、ジョンの王位奪取を支援しました。リチャードはその陰謀を聞いて帰路を急ぎましたが途中のビザンチン帝国領ギリシャ西岸コルフ島(Corfu)で嵐に遭い、アクイレイア(Aquileia:イタリア北部東方海上の島)で船が難破したため、変装して陸路をたどりました。オーストリアを通過中の1192年のクリスマス前に見破られ、オーストリア大公レオポルト5世に捕らえられ、デュルンシュタイン城(Durnstein castle)に幽閉されました。この時王弟ジョンは、リチャードが死んだとして王位につこうとしましたが、諸侯の支持を得られず断念しました。1193年にレオポルト5世から神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ6世に引き渡されましたが、イングランド側が15万マルクもの多額の身代金を支払うことで決着しました。ジョンやフィリップ2世はリチャード1世の解放を遅らせようとハインリヒ6世と交渉しましたが、身代金10万マルクが支払われると、リチャードは1194/2/4に解放されました。この時にフィリップ2世は手紙でジョンに「気をつけろ、悪魔は解き放たれた」と知らせたと伝えられています。 解放後はイングランドに戻り、弟ジョンを屈服させて王位を回復しましたが、イングランドはカンタベリー大司教で大法官のヒューバード・ウォルターにまかせ、その後はフランスでフィリップ2世と争い、各地を転戦。この時期にノルマンディ防衛のために、中東の先進の要塞構築技術を取り入れたことで有名なガイヤール城を築きました。1199年にアテキーヌ公領シュリュでシャールース城を攻撃中に、鎧を脱いでいた時にクロスボウによる狙撃の矢を受け、その傷が元で亡くなりました。享年41才。狙撃者は母アリエノールが捕らえて処刑しました。臨終に立ち会った母は末子ジョンを後継者としました。 なお、サラディンはそれより6年前の1193年にすでに病死していました。また、「ロビンフッド」の物語には、主人公を助ける王様として書かれています。 参考HP〜 ![]() ・オックスフォードの場所地図 ・仏アキテーヌの場所地図 ・仏ポワチエの場所地図 ・甲冑兵士部隊の図(Men-at-Arms) ・ルーム・セルジューク朝の首都イコニウムの場所地図(コンヤ Konya) ・コルフ島の場所地図 ・アクイレイア島の場所地図 ・デュルンシュタイン城の場所地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2007/11/30、令和7年 2025/7/25 |