★イギリス シャックルトン
1909
南極点まであと180kmに到達
大航海物語★

BRITISH
ANTARCTIC TERRITORY

シャックルトン と エンデュランス号
イギリス南極地域 1975-80 発行
US
1961 ANTARCTIC TERRITORY 1971
(赤点)
ウェッデル海

南極半島






南極点

ロス海
(赤丸)
南極条約 10周年 記念
アメリカ 1971 発行 (200%)

AUSTRARIAN ANTARCTIC TERRITORY
ディスカヴァリー号
ニムロッド号
エンデュランス号
オーストラリア南極地域 1979 発行

アイルランド生まれのシャックルトンは4度の南極探検を試みました。第1回目は1901年のスコット隊に加わって南緯82度16分33秒の地点に到達。2回目は自費で1909/1/9”南緯 88°23′の地点に到達、帰国後ナイトに叙せられました。3回目は政府の許可と庇護のもと1916/8/30にサウス・ジョージア島に到達しました。これが南極を目指す航海の途上で氷塊に阻まれエンヂュランス号が座礁・破壊され、約1年8ヶ月に渉る漂流の末、奇跡の生還を果しましたものです。 4回目の途上1922/1/5に47才で心臓発作により急逝。
サー・アーネスト・ヘンリー・シャックルトン (1874/2/2〜1922/1/5)
 Sir Ernest Henry Shackleton

ヘンリー・シャックルトンはアイルランドのダブリンから75kmの所のキルデア郡キルケア(Kilkea)で生まれました。少年時代はアイルランドのジャガイモ飢饉(全ヨーロッパで1845ー49年"Great Famine")後の混乱の中で相当に苦労したようです(病弱だったという説も有ります)。16才頃にリバプールに行き船乗りになり、経験をつんで1等航海士になり、1898年26才で船長の免許を取得し、大英帝国の制海権内なら、七つの海の何処へでも行けるようになりました。

シャックルトンの大航海:〜
・第1回:〜ディスカヴァリイ号探検隊、1901〜1902
・第2回:〜ニムロッド号探検隊、1907〜1909
・第3回:〜エンデュランス号探検隊、1914/8/9プリマス港〜1917/1/10ウェリントン港
・第4回:〜クエスト号探検隊、最後の航海、1921〜1922/1/5にサウスジョージア島

▼ディスカヴァリイ号探検隊
1899年10月に勃発した第2次ボーア戦争(1899/10/11-1902/5/31)の影響の下で、1900/9/13王立地理学会による南極探検隊がロバート・ファルコン・スコットによって編成されることを知り、頼み込んで参加し、1902年1月にスピッツヘッド港をディスカバリイ号(Discovery)でスコットの第1回南極探検隊と共に出帆しました。この探検行で、スコットらと共に南極点到達を目指しましたが、1902/12/31に南緯82度17分の残り733kmの地点で断念を余儀なくされました。病気によって犬ゾリの引き犬を全て失い、シャクルトン自身も壊血病に倒れるなど、惨憺たる結果に終わって、1904年に帰還しました。乗船した船名から「ディスカヴァリイ号探検隊」(1901-02 Discovery Expedition)と呼ばれています。

▼ニムロッド号探検隊
1907年に自ら南極探検隊を組織しニムロッド号(Nimrod)で出帆しました。馬(蒙古馬ポニー)が引く馬ソリで南極点到達を目指しましたが、食料の欠乏のため、1909/1/16に南極点まであと180kmまで迫った地点(南緯88度23分)で引き返し、1909年帰還しました。この探検行で前人未踏の地点まで到達したことが評価され、帰国後に爵位を授与されナイトを叙勲しました。乗船した船名から「ニムロッド探検隊」(1907-09 Nimrod Expedition)と呼ばれています。

・ニムロッド号の装備:〜
  Nimrod
、1867
船 型 石炭蒸気式帆船、ブリガンティン(Barquentine ニムロッド号、1907
帆 柱 3本マスト、(蒸気式=6ノット(11km/h)
全 長 ?m
全 幅 ?m
重 量 334屯、最初:スクナー(schooner)
改 装 1908年£5,000で買取り改装
進 水 1867/1月、ダンディー(Dundee Scotland)
最 後 1909年売却後の1919年に英ノーフォークで難破・沈没
  (1ノット=1852m/h、1時間に1海里進む速さ)
参考HP:〜
 ・ディスカヴァリイ号の写真







★シャックルトン物語 シャックルトン
1916
サウスジョージア島に到達、救出を依頼
大航海物語
イギリス★

South Georgia
シャックルトンと氷山
エンデュランス号が氷に囲まれ崩壊
1922 シャックルトン没後50年記念 1972
イギリス南サウスジョージア 1972 発行

British Antarctic Territory South Georgia
エレファント島から約1300km先のサウス・ジョージア島に到達、救出を依頼
エンデュランス号が氷に囲まれ崩壊
氷上の越冬キャンプ
エレファント島→サウスジョージア島
南極大陸まで320kmの地点 エレファント島 ジェームズ・ケアード号
イギリス南極地域 2000/2/10 発行 イギリス南サウスジョージア 1972 発行

▼エンデュランス号探検隊
そして3回目の南極探検は、1904年に同志を募るために出した募集広告で、
"MEN WANTED: FOR HAZARDOUS JOURNEY. SMALL WAGES, BITTER COLD, LONG MONTHS OF COMPLETE DARKNESS, CONSTANT DANGER, SAFE RETURN DOUBTFUL. HONOUR AND RECOGNITION IN CASE OF SUCCESS. SIR ERNEST SHACKLETON":
「僅かな報酬、生還の保証なし、成功のあかつきには名誉が与えられること確実」
と呼びかけて、27人の勇敢(無鉄砲)な男達を集めたことは有名ですが、ノールウェイのロアルド・アムンゼンが1911/12/24に南極点到達を果したことを知ってから、シャクルトンは目標を南極大陸横断 (from the Weddell Sea(reach the South Pole and then continue)to the Ross Sea(Ross Island) on the opposite side of the continent) に切り替え、1914/8/9にプリマス港からエンデュアランス号(Endurance)で (The ship departed Plymouth on August 9, 1914, sailing for Buenos Aires) 南極に向け出帆しました。

エンデュアランス号は1914/8/9にプリマスを出発し、ブエノスアイレスに短期間停泊した後サウス・ジョージア島のグリトビケンを訪れ、最終的に12/5に乗組員28人と共に南極大陸の海岸へ向けて文明の地を後に出帆しました。南極大陸まで320kmの点で、エンデュランス号が氷塊に阻まれ、身動きが取れなくなりました。10ヵ月ほど氷塊に囲まれたまま漂流を続けましたが、氷の圧迫でエンデュアランス号が崩壊を始めたため、船を放棄しました。その後、エンデュアランス号は1915/11/21に南緯69度00分、西経51度30分の地点で海の底へと沈み没しました。 エンデュランスが氷に囲まれ崩壊
探検隊は徒歩で、そして氷がきれてからはボートで氷洋上を踏破し、約500km先の・サウス・シェトランド諸島のエレファント島に上陸(639日後)しました。シャックルトンはまたもや救出を求めに出発。1916/4/月末に約7mの救命ボート”ジェームズ・ケアード号”でエレファント島を後にしたとき、そこにはシャクルトンが信頼していた副隊長フランク・ワイルドをリーダーとして22人が残り、アザラシペンギンも食料にしました。 エレファント島でキャンプ
そこから少数(5人)の分遣隊を率いて約7mの救命ボートのジェームズ・ケアード号で航海を行い(This remarkable journey in a 6.7 meter boat through the Drake Passage to South Georgia in the late Antarctic autumn (April and May) is perhaps without rival)、約1300km東のサウスジョージア島の南岸に到達し、さらに36時間(an equally remarkable 36-hour journey)歩いて救助を求めました。そしてサウスジョージア島から4回目の挑戦で、チリ船”イェルチョ号”(Yelcho、Capt.Luis Pardo Villalon)がエレファント島に到達、1916/8/30ついに残りの隊員(22人)の救出に成功しました ジェームズ・ケアード号
約1年8ヵ月にわたる漂流にもかかわず27人の全隊員と共に1人も欠けることなく生還を果し、当初の探検目的は達成できなかったものの絶望的な状況下において隊員の希望を失わせず、かつ、冷静な判断と決断力で奇跡ともいえる全員帰還を成功させたことで、優れたリーダーシップは今も語り継がれています。彼の偉業は「帝国南極大陸横断探検隊」(1914-16 Imperial Trans-Antarctic Expedition)と呼ばれています。1917/1/10に彼らはニュージーランドのウェリントン港に生還しました。なお、1914年には第1次世界大戦(-1918)が勃発しています。 南極半島付近の地図
なお、1915/1/10にシャックルトン探検隊は高さ30m(100フィート)ある巨大な氷壁に到着。これは南極大陸沿岸のコーツランドを覆っており、1904年にこの領域を訪れた最後のイギリスの探検家であるウィリアム・スピアーズ・ブルース博士のウェッデル海探検により発見され命名されたものでした。2日後、探検隊は南緯74度でこれを通過し、目的地であるルートポルド海岸のすぐ北にある未踏の地へ移動。シャクルトンは新たに発見したこの海岸線を探検隊の最大出資者ジェームズ・キー・ケアードに因んでケアード海岸と名付けました。

シャクルトンと27人と1匹の勇敢な仲間:〜氏名(生年-没年、才没)役割 - 出身地:〜
・アーネスト・シャクルトン(1874-1922、48)、探検隊長 - アイルランド
・フランク・ワイルド(1873-1939、66)、探検隊副隊長 - イングランド
・フランク・ワースリー(1872-1943、71)、船長 - ニュージーランド
・フランク・ハーレー(1885-1962、77)、写真家 - オーストラリア
・ヒューバート・ハドソン(1886-1942、58)、航海士 - イングランド
・ライオネル・グリーンストリート(1889-1979、90)1等航海士 - イングランド
・トム・クリーン(1877-1938、61)、2等航海士 - アイルランド
・アルフレッド・チーザム(1867-1918、51)、3等航海士 - イングランド
・ルイス・リッキンソン(1883-1945、62)、1等機関士 - イングランド
・アレクサンダー・カー(1892-1964、72)、2等機関士 - イングランド
・ジェームス・マッキルロイ(1879-1968、89)、船医 - アイルランド
エンデュランス号
・アレクサンダー・マックリン(1889-1967、78)、船医 - イングランド
・ロバート・クラーク(1882-1950、68)、生物学者 - スコットランド
・レオナード・ハッセー(1891-1964、73)、気象学者 - イングランド
・ジェームズ・ウォーディー(1889-1962、73)、地質学者 - スコットランド
・レジナルド・ジェームス(1891-1964、73)、物理学者 - イングランド
・ジョージ・マーストン(1882-1940、58)、画家 - イングランド
・トーマス・オーデリー(1877-1958、81)、倉庫管理係・発動機専門家 - イングランド
・ハリー・"チッピー"・マクニーシュ(1874-1930、56)、大工 - スコットランド
・チャールズ・グリーン(1888-1974、86)、調理師 - イングランド
・ウィリアム・スティーブンソン(1889-1953、64)、消防士・火夫 - イングランド
・アルバート・ホルネス(1892-1924、32)、消防士・火夫 - イングランド
・ジョン・ヴィンセント(1879-1941、62)、船員 - イングランド
・ティモシー・マッカーシー(1888-1917、29)、船員 - アイルランド
・ウォルター・ハウ(1885-1972、87)、船員 - イングランド
・ウィリアム・ベイクウェル(1888-1969、81)、船員 - アメリカ合衆国
・トーマス・マックロード(1869-1960、91)、船員 - スコットランド
・パース・ブラックボロウ(1894-1949、55)、給仕長(密航者) - ウェールズ
・ミセス・チッピー、マスコットの猫

・エンデュランス号の装備:〜
  Endurance
、1912
船 型 石炭蒸気式帆船、ブリガンティン(Barquentine エンデュランス号、1914
帆 柱 3本マスト、(350hp蒸気式=10.2ノット(18.9km/h)
全 長 44m
全 幅 7.6m
重 量 350屯
乗組員 28人
進 水 1912年、ノールウェイ(Sandefjord Norway)
最 後 1915年ウェッデル海で氷に閉じ込められて崩壊

▼クエスト号探検隊:〜シャックルトン最後の探検隊
1921年シャックルトンは新たな南極探検にクエスト号(Quest)で出帆し、南大西洋のトリスタン・ダ・クーニャ島グループイナクセシブル島に寄港。植物学者のウィルキンスが上陸してウィルキンス・ホオジロ(Wilkins's Finch)を発見しました。その後、1922/1/5にサウスジョージア島に立ち寄り、47才で狭心症で急死しました。彼の妻の希望で、墓はサウス・ジョージア島で南極を向いて建てられました。「シャックルトン最後の探検隊」(1921-22 Shackleton-Rowett Expedition)と呼ばれています。

・1902年の乗船は、ディスカヴァリイ号(RRS.Discovery)、
 3本マストの1901年新造船バーク型、52x10m、1570t、
 石炭蒸気船(8ノット)、士官11・船員36人乗組み。スコット探検隊に参加。

・1907年の乗船は、ニムロッド号(Nimrod)、
 建造後41年の古い3本マストのスクーナー型を5000ポンドで購入、
 300t、石炭蒸気式帆船(6ノット)。

・1914年の乗船は、エンデュランス号(Endurance)、
 3本マスト、42.9m、350t、350bphの石炭蒸気式帆船(10.2ノット)
 シャックルトンがベルガンティン型船(Barquentine)を£11,600(US$67,000)で購入。

・1917年の乗船は、オーロラ号(Aurora)、
 3本マスト、380t、 ベルガンティン型船、98bph、石炭蒸気式帆船。

・1921年の乗船は、クエスト号(Quest)、3本マスト、石炭蒸気式帆船。

なお、ジェームス・ケアード号はイギリス・ロンドン南東郊外にある男子全寮制パブリックスクールのダリッジ・カレッジ(Dulwich College)に保存展示。

参考HP:〜
 ・ジェームス・ケアード号の航海地図
 ・ディスカヴァリイ号の写真
 ・エンデュランス号の写真
 ・オーロラ号の写真
 ・シャックルトン探検隊の探検地図
  (地図の説明)
  ウェッデル海探検隊(本隊)
   赤色:エンデュランス号の航路、
       エンデュアランス号が浮氷に包囲され漂流した航路を含む、
   緑色:エンデュアランス号沈没後、北へ漂流した浮氷の道筋、
   青色:ジェームズ・ケアード号によるサウス・ジョージア島への航路、
   ターコイズ色:シャクルトンが計画していた南極大陸横断路)。
  ロス海探検隊(支隊)
   オレンジ色:南極へのオーロラ号の航路、
   ピンク色:オーロラ号の退路、
   茶色:食糧庫の配置。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      2006/10/31 10/2/3追記
スタンプ・メイツ
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