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★イギリス | ウェッデル船長 1823 南極探検・ウェッデル海発見 |
大航海物語★ |
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BRITISH ANTARCTIC TERRITORY |
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ウェッデル と ジェーン号 イギリス南極地方 1975-80 発行 |
US 1961 ANTARCTIC TERRITORY 1971
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ウェッデルはナポレオン戦争中はイギリス海軍で活躍し、その後、南極海でのアザラシ狩りをしていました。1823/2/1にサウス・オークニー諸島のさらに南方の”南緯 74°34′の地点に到達しました。そこは「ウェッデル海」と名づけられました。 |
ジェイムス・ウェッデル船長 (1787/8/24〜1834/9/9) James Weddell ウェッデルは相当に若い頃から商船に乗り、イングランド・ニューッカスルの石炭輸送船で働いていました。1805年(28才)頃には西インド貿易航路の商船に乗組んでいました。その頃、サラ(Sarah Pease)と結婚しました。1820年にはイギリス海軍に入隊し、数々の戦列艦に乗組んで戦争に従軍しましました。1813年にホープ号(Hope)に乗船してイギリス海峡を航海中にアメリカの私掠船ヤンキー号(True Blooded Yankee)を捕獲しました。ナポレオン戦争(1799-1815 )が終ると、1816年2月に給料の半額至急で一時解雇されましたので、西インド貿易航路の商船での航海を再開しました。 ウェデル船長の南極探検大航海:〜 第1回(1819出帆)〜ロンドン〜ジェーン号、フォークランド諸島の先 第2回(1821出帆)〜ロンドン〜ジェーン号、ビューフロイ号、サウスオークニー諸島の先 第3回(1822出帆)〜ロンドン〜ジェーン号、ビューフロイ号、ウェッデル海に到達 1819年にレイス(Leith)の造船業者ストラッチャン氏(James Strachan)から、ブリッグ型中古船”ジェーン号”(Jane、160t)の所有者のロンドンの保険ブローカー”ミチェル”氏(James Mitchell)に、その船の船長として紹介されました。ちょうど”サウス・シェットランド諸島”が発見されたニュースが伝わった頃でした。ウェッデルはジェーン号で、フォークランド諸島へと出帆し、さらにその先まで航海して、アザラシ狩の獲物を満載してロンドンに帰港し、大もうけをしました。 ストラッチャン氏とミチェル氏は第2の船、ビューフロイ号(Beaufroy)を準備しましたので、第2回目の航海は2隻の船を指揮して、1821年にサウス・シェットランド諸島へと出帆しました。しかし島の発見からわずか2年しかたっていないのに獲物のアザラシは、ほとんどいませんでした。そこで新しい猟場を探していると、1821/11/22にビューフロイ号の船長マックロード(Micheal McCleod)がサウス・オークニー諸島を望見しましたが、おしくも数日前にパウエル(Powell)が発見していました。ウェッデル達はそこで十分なアザラシ狩りをして、1822年7月にロンドンへ帰りました。 第3回の航海は1822〜1824年に航海しました。今回はウェッデルはジェーン号で、ビューフロイ号船長はブリスベーン(Matthew Brisbane)でした。彼らは再びサウス・オークニー諸島へ向かいましたが、アザラシ狩りは出来ませんでした。サウス・シェットランド諸島とサウス・オークニー諸島との間を南へと転舵して、格好の猟場(誰も発見していない場所)を見つけました。その頃の季節としては珍しく穏やかな航海が出来ましたので、さらに進んで、1823/2/1に南緯74度34分:西経30度12分の地点(人跡未踏の最初の到達点)に到着しました。この記録はその後、80年間破られませんでした。ウェッデルは氷海ばかりで陸地が全然見えないので、このまま南極点まで海が続いていると考えました。さらに、2日間航海を続けて、引き返しました。その地域には1911年にフィルクナー(Wilhelm Filchner)が”ウィルヘルム・フィルクナー氷棚”を発見するまで、誰も近づきませんでした。ウェッデルは北へ戻り、アザラシがなかなか捕まらないので、サウス・ジョージアで越冬の準備をしました。彼らはさらに北のフォークランド諸島で冬越しして、1823年11月に再びサウスシェットランド諸島へと出帆しました。1824年初頭に2隻は分かれて、ウェッデルは1824年3月にフォークランド諸島に戻り、イギリスへと出発し、7月にロンドンに帰港しました。ウェッデルの南限航海の記録はキャプテン・クックより南へ3度上回っていました。最初の航海記録は1825年に、次のは1827年に,そして3回目のは1827年に刊行・発表されました。その後、「ウェッデル海」はウェッデルの名に因んで名づけられました。 1829年ブエノスアイレス〜ジブラルタル航路での航海中にジェーン号が寄る年波には勝てずに水漏れを起こしたので、積荷をアゾレス諸島で他の船に積み替えてイギリスへ向かう途中、ピコ島で座礁し、ウェッデルだけがやっと生き延びました。この時の積荷のロスで、彼は雇われ船長を強制され、1830年9月エリザ号(Eliza)の船長として、1829年にできたばかりの西オーストラリアの”スワン川植民地”へと出帆しました。さらにタスマニア島へも航海して、1832年にイギリスへ帰港しました。その2年後の1834年にロンドンで、ウェッデルは失意と貧窮の中で47才で亡くなりました。 ・なお、サウス・シェトランド諸島は、イギリス人の探検家ウィリアム・スミス (William Smith) が1819/2/19に発見し、イギリス領と宣言しました。 ・また、サウス・オークニー諸島は1821年にアメリカ人のパルマー(Nathaniel Brown Palmer)と、イギリス人のパウエル(George Powell)によって発見されました。1823年にウェッデル(James Weddell)が訪れ、この諸島を「サウス・オークニー諸島」の名前にしました。 ・そして、サウス・ジョージア諸島は、フォークランド諸島の約1,000km東(南緯54度30分、西経37度)にあり、”サウスジョージア、サウスサンドウィッチ諸島”(SSGI)の中の諸島でサウスサンドウィッチ諸島と共に一つの行政区分となっております。サウス・ジョージア諸島(主要な7島と岩礁が有)は1675年アンソニー・デ・ラ・ロッシュによって最初に発見され、 1775年キャプテン・クックによって再発見され、イギリスが領有を宣言し島名はジョージ3世を記念してつけられました。サウスサンドウィッチ諸島(11島有)は 1775年キャプテン・クックによって南の8島が発見され、クックは彼が世話になった「サンドウィッチ伯爵」に因んで名づけました。ベリングスハウゼン島はサウスサンドウィッチ諸島の中の島です。 参考HP〜 ・南極周辺の島の一覧 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2006/11/1 |