United Kingdom ![]() 国連 1983 発行 |
切手で綴る イギリスの冒険航海(Adventure Voyage)南極探検(VI-2)
ウェッデル船長 1823 南極探検・ウェッデル海発見 |
大航海物語 イギリス編★ |
| BRITISH ANTARCTIC TERRITORY |
ウェッデル船長![]() ジェーン号 イギリス南極地方 1975-80 発行 |
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ウェッデル・アザラシ![]() Weddll Seals イギリス南極地方 1982 発行 |
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ウェッデルはナポレオン戦争中はイギリス海軍で活躍し、その後、南極海でのアザラシ狩りをしていました。1823/2/1にサウス・オークニー諸島のさらに南方の”南緯 74°34′の地点に到達しました。そこは「ウェッデル海」と名づけられました。 |
| ジェイムス・ウェッデル船長 James Weddell (1787/8/24〜1834/9/9) ウェッデル船長は、スコットランドの船長の息子で、ベルギー沿岸のウェスト=フランデレン州オーステンド(Ostend)で生まれました。8才で見習い船員としてスコットランド北東海岸の商船で働いていたので、教育はほとんど受けていなくても読み書きはできました。幼い頃から商船に乗組み、数年間はイングランドのタイン・アンド・ウィア州ニューカッスル(#1G54)の石炭輸送船で働いていました。1805年(18才)頃には西インド諸島への貿易航路の商船に乗組んでいました。その頃、サラ(Sarah Pease)と結婚しました。1808年に艦長を殴って、処罰のため王立海軍に引き渡され、投獄されたとも言われています。獄中で航海術を学び、釈放後は海軍の士官候補生(Midshipman)として入隊し、急速に昇進して大尉に任官しました。1813年にイギリス海峡でホープ号(HMS Hope)に乗船して航海していたとき、小型アメリカの私掠船ヤング・トゥルー・ブラッド・ヤンキー号(Young True Blooded Yankee)を捕獲しました。ナポレオン戦争(1799-1815 )が終ると、1816/2月にハーフペイ除隊(半額給料、一時解雇)で西インド貿易航路の商船での航海を再開しました。 ウェデル船長の南極探検大航海:〜 ・第1回(1819ロンドン出帆)〜ジェーン号〜フォークランド諸島の先 ・第2回(1821ロンドン出帆)〜ジェーン号・ビューフロイ号〜サウスオークニー諸島の先 ・第3回(1822ロンドン出帆)〜ジェーン号・ビューフロイ号〜ウェッデル海に到達 1819年にスコットランドのエディンバラ(#2-10)北部リース港レイス(Leith)の造船業者ストラチャン&ギャビン造船会社(Strachan & Gavin Strachan & Gavin Co.)のストラッチャン社長(James Strachan)から、ブリッグ型中古船ジェーン号の所有者のロンドンの保険ブローカーミチェル氏(James Mitchell)に、その船の船長として紹介されました。ちょうどサウス・シェットランド諸島が発見されたニュースが伝わった頃でした。ウェッデル船長はジェーン号で、フォークランド諸島へと出帆し、さらにその先まで航海して、アザラシ狩の獲物を満載してロンドンに帰港し、大もうけをしました。 第2回目の航海(1821〜1822)は、ストラッチャン社長とミチェル氏は第2の船ビューフロイ号を準備したので、 ・ジェーン号(Jane, 160t) ・ビューフロイ号(Beaufroy) の2隻を指揮して、1821年にサウス・シェットランド諸島へと出帆。しかし島の発見からわずか2年しかたっていないのに獲物のアザラシは、ほとんどいませんでした。そこで新しい猟場を探していると、1821/11/22にビューフロイ号の船長マックロード(Micheal McCleod)がサウス・オークニー諸島を望見しましたが、おしくも数日前にナサニエル・パルマーとアザラシ漁師ジョージ・パウエル(sealer George Powell, 1794-1824)が発見していました。ウェッデル船長達はそこで十分なアザラシ狩りをして、1822/7月にロンドンへ帰りました。 第3回目の航海(1822〜1824)は ・ジェーン号(ウェッデル船長) ・ビューフロイ号(ブリスベーン(Matthew Brisbane, 1787-1833/8/8)船長)で、 再びサウス・オークニー諸島へ向かいましたが、アザラシ狩りは出来ませんでした。サウス・シェットランド諸島とサウス・オークニー諸島との間を南へと転舵して、格好の猟場(誰も発見していない場所)を見つけました。その頃の季節としては珍しく穏やかな航海が出来たので、さらに進んで、1823/2/1に南緯74度34分:西経30度12分の地点(人跡未踏の最初の到達点:現ウェッデル海)に到着。この記録はその後、80年間破られませんでした。ウェッデル船長は氷海ばかりで陸地が全然見えないので、このまま南極点まで海が続いていると考えました。さらに、2日間航海を続けて、引き返しました。その地域には1911年にドイツのフィルクナー(Wilhelm Filchner, 1877-1957)が第2回ドイツ南極探検隊(1911-1913)でウィルヘルム・フィルクナー氷棚(Filchner Ronne Ice Shelf)を発見するまで、誰も近づきませんでした。ウェッデル船長は北へ戻り、アザラシがなかなか捕まらないので、サウス・ジョージアで越冬の準備をしました。彼らはさらに北のフォークランド諸島で冬越しして、1823/11月に再びサウスシェットランド諸島へと出帆。1824年初頭に2隻は分かれて、ウェッデル船長は1824/3月にフォークランド諸島に戻り、イギリスへと出発し、7月にロンドンに帰港しました。ウェッデル船長の南限航海の記録はキャプテン・クックより南へ3度上回っていました。最初の航海記録は1825年に、次のは1827年に,そして3回目のは1827年に刊行・発表されました。その後、「ウェッデル海」はウェッデル船長の名に因んで名づけられました。 1829年ブエノスアイレス〜ジブラルタル航路での航海中にジェーン号が寄る年波には勝てずに水漏れを起こしたので、積荷をアゾレス諸島で他の船に積み替えてイギリスへ向かう途中、ピコ島で座礁し、ウェッデル船長だけがやっと生き延びました。この時の積荷のロスで、彼は雇われ船長を強制され、1830/9月エリザ号(Eliza)の船長として、1829年にできたばかりの西オーストラリアの”スワン川植民地”へと出帆しました。さらにタスマニア島へも航海して、1832年にイギリスへ帰港しました。その2年後の1834年にロンドンで、ウェッデル船長は失意と貧窮の中で亡くなりました(47才没)。 参考:〜
スコシア海(Scotia Sea)の南に広がり、西は南極半島(Antarctic Peninsula)でベリングスハウゼン海(Bellingshausen Sea)、東はドロンニング・モード・ランド(Dronning Maud Land)のノルベジア岬(Cape Norvegia)でホーコン7世海(King Haakon VII Sea)と区切られています。南極大陸(Antarctic continent)に深く湾入しており、南部はフィルヒナー・ロンネ棚氷(Filchner-Ronne Ice Shelf)に覆われています。バークナー島(Berkner Island、実際は島ではなく、浅海に棚氷が乗り上げた高地形)を境に、東がフィルヒナー棚氷(Filchner Ice Shelf)、西がロンネ棚氷(Ronne Ice Shelf)と呼ばれています。このウェッデル海は、1823年にウェッデル海に入ったジェームズ・ウェデルに因んで名付けられました。 最初の広範な探検はウィリアム・ブルースにより1902〜1904年になされました。また、アーネスト・シャクルトンの遭難と帰還で有名なイギリス南極横断探検隊(1914)の舞台にもなりました。この地域はチリとアルゼンチンも領有を主張しており論争となっています。南極条約で領有権の論争は凍結されています。 参考HP:〜 ・南極周辺の島の一覧 ・南極周辺の島の一覧(日本語) ・フィルヒナー・ロンネ棚氷の場所地図(青色で表示) ・南極の棚氷の場所地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2006/11/1、令和7年 2025/12/18 |