★フランクリン物語 | 幼少期 第1回 第2回 タスマニア 第3回 |
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大航海物語 イギリス★ |
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ジブチ 2010 発行 |
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USA Post Office ラブラドール半島 USA 1908 発行 |
カナダ→ ハドソン湾→ パフィン湾→ グリーンランド→ |
SWEEDEN 北極の地図 ベーリング↓海峡 スウェーデン↑(黒い所) スウェーデン 1989/8/22 発行小型シートより |
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サー・ジョン・フランクリンはイギリス海軍で戦争に従軍した後、北極探検をした後、タスマニア島の総督を務めました。最後には北西航路発見の探検航海に出帆後、カナダ北極で消息を断ちました。14年後にその探検隊は飢えや低体温症、結核、鉛中毒、壊血病などで全滅したことが判明しました。 |
サー・ジョン・フランクリン少将(1786/4/16〜1847/6/11) Rear-Admiral Sir John Franklin, KCH FRGS RN 英海軍(RN)少将、グールフィック勲章(KCH) グールフィック勲章 (Royal Guelphic Order)、別名:ハノーバー十字勲章 (Hanoverian Guelphic Order) 北極探検家(Arctic explorer)、王立地理学協会員(FRGS) 生地:リンカンシャー州スピルズバイ生 没地:カナダ北極圏キングウィリアム島付近で氷に閉じ込められた後に没 ▼幼少期 フランクリン卿は1786年にイングランドのリンカンシャー州スピルズバイに生まれ、ケンブリッジシャー州セント・アイヴス小学校の(preparatory school, St Ives, Huntingdon, Cambridgeshire, England)で学び、12才からはリンカンシャー州ラウスの公立エドワード6世中学校(King Edward VI Grammar School, Louth, Lincolnshire)で学びました。織物商で成功した父ウィリアム(Willingham Franklin)と母ハンナ(Hannah、旧姓ウィークス:Weekes)の12人兄弟の9番目でした。
・帰国後ナポレオン戦争(Napoleonic Wars、1803-1815)に従軍。 ナポレオン戦争中にフランスのライノス伯爵アレクサンダー・デュランド提督(Charles-Alexandre Leon Durand, Comte de Linois, 1761-1848)とのマラッカ海峡(straits of Malacca)を東に抜けたマレー半島の東方にあるプロ・オーロの戦い(Battle of Pulo Aura, 1804/2/15)で、イギリス東インド会社(British East India Company's ship)のコンヴォイ中国艦隊(British East India Company China Fleet)旗艦(Flagship of convoy)カムデン伯爵号(Earl Camden)艦長ナサニエル・ダンス卿(Sir Nathaniel Dance 1748-1827)に乗組み従軍して勝利。1805年には74門3等戦列艦ベレロフォン号(HMS Bellerophon, 1,612t, 1786)艦長ジョン・クック(John Cooke、1762頃-1805/10/21)に候補生信号手(signal-midshipman)として乗組み、
フランクリン卿の冒険大航海 ・インヴェスティゲーター号探検航海(1801-1803) オーストラリア沿岸探検に参加 (Exploration of the Australian coastline) ・トレント号北極探検航海、(北西航路の探索:1818) デヴィッド・ブッチャン北極探検隊に参加、ドロテア号僚船のトレント号船長 (David Buchan Arctic Expedition) ・第一回北極探検、(北西航路の探索:1819-1822) コッパーマイン川の探検、プリンス・オブ・ウェールス号にてハドソン湾で上陸後は陸路 補給船のヘクラ号、フライ号はレパルス湾で氷に阻まれて帰国 (Coppermine River & Arctic Expedition) ・第二回北極探検、(北西航路の探索:1824-1827) マッケンジー川の探検、便船でニューヨークへ渡航後は陸路 (MacKenzie River & Arctic Expedition) ・タスマニアへ航海 (総督として赴任:1836-1843) (Lieutenant-Governor of Van Diemen's Land:Tasmania) ・第三回北極探検、(北西航路の探索:1845-1847) 最期の探検大航海 (失われた航海) エレバス号、テラー号 (Franklin's Lost Voyage of Arctic Expedition) ▼冒険期 ・トレント号で北極圏遠征に参加 ブッチャン北極探検船隊、ドロテア号、トレント号 (David Buchan Arctic Expedition、1818) イギリス海軍(Royal Navy)がカナダ北部に浮ぶ島々の間を通って北極海に入り、ベーリング海峡から
参考HP:〜 ・スピッツベルゲン島の場所地図 ・スヴァールバル諸島の地図 ・スヴァールバル諸島の場所地図(日本語、赤丸の所)
主な随行者:〜 ・副隊長ジョン・リチャードソン(John Richardson, 1787-1865, Scottish surgeon & naturalist)、船医 ・候補生ジョージ・バック(midshipmen George Back, 1796-1878) ・候補生ロバート・フッド(midshipmen Robert Hood, 1797-1821/10/20, near Lake Providence) ・乗組員ジョン・ヘップバーン(ordinary seaman John Hepburn, 1794-1864) ・ジュリナス(Juninus)、1821/9/26川に転落して行方不明 ・オーガスタス(Augustus)、1821/10/6没 ・ベノイト(Benoit)、1821/10/6没 ・ミシェル・テロホート(Michel Terohaute) ・ジャン・バプチスト・ベランジャー(Jean Baptiste Belanger) ・ペロールト・フォンタノ(Perrault, Fontano) ・ペルティアー(Peltier)、1821/11/1没 ・サマンダー(Samandre)、1821/11/1没 ・アダム(Adam)、1821/11/1没 ・アテノーク(Tattannoeuck)、エスキモー系イヌイット族(Inuk) の通訳 ・ホエオトローク(Hoeootoerock)、エスキモー系イヌイット族(Inuk) の通訳 ・他、(英国人5人、カナダ人11人、現地人狩猟者2人など計:20人、生存者9人) フランクリン隊の探検ルート:〜 英国グレーヴセンド〜デービス海峡〜レゾリューション島で座礁〜サヴェジ島沖航行〜ハドソン海峡〜ハドソン湾〜ヨーク・ファクトリー〜アサバスカ湖〜チペワイアン砦〜サスカチワン川〜カンバーランド・ハウスで越冬〜チペワイアン砦〜カンバーランド・ハウス〜チペワイアン砦〜グレート・スレーヴ湖北岸プロヴィデンス砦〜イェローナイフ川〜グレート・ベアー湖エンタプライズ砦で越冬〜北極海岸〜エンタプライズ砦〜コパーマイン川〜河口の北極海岸〜バサースト・インレット〜メルヴィル湾〜ケント半島〜北西端のターガン岬〜バサースト・インレット〜フッド川〜エンタープライズ砦〜グレート・スレーヴ湖〜ヨーク・ファクトリー〜ロンドン 1819/5/23にフランクリン隊長はケント州グレーヴセンド(Gravesend, Kent)をハドソン湾会社補給船プリンス・オブ・ウェールス号(HBC supply ship Prince of Wales, 推定350t, 1786)に士官候補生ジョージ・バック(Admiral Sir George Back FRS 1796-1878)とスコットランドの博物学者・医師ジョン・リチャードソン(Sir John Richardson 1787-1865)などと共に乗組んで出帆。イースト・イングランド地方ノーフォーク(Norfolk, East of England region)に寄港、バック候補生が下船して馬車と渡し舟でスコットランドのストロムネス(Stromness, Orkney, Scotland)へ行き、ソリの馭者(Man-hauling, sledges)4人を乗船させましたが、現地で彼らはアサバスカ湖(Lake Athabasca)のチペワイアン砦までしか行きませんでした。フランクリン隊はストロムネスから大西洋を横断航海して、カナダのハドソン湾に到達しました。 1819年 05/23、グレーヴセンド出帆 05/30、ホールレイ湾(Hollesley Bay, Suffolk England)からヤーマス(Yarmouth)着
(model canoes)と小型鋸(small saws)、ナイフ(knives)、爪切り(nails)、錫の釜(tin-kettles)、 針(needles)、ビーズ(beads)を交換して、女子供も一緒に船上でお祭り騒ぎ。古い剣と渦石 (eddystone)を交換 ラブラドル(Labrador)のモラヴィアン居住地(Moravian settlements)から来たエスキモー 08/28、タトナム岬(Cape Tatnam)を望見 08/30、ヨーク・ファクトリーに到着、停泊・上陸
1819年 10/23、サスカチワン川(Saskatchewan River. 550km)のカンバーランド・ハウス(Cumberland House, north-eastern SK)にあるハドソン湾会社の丸太小屋(log cabin, 30men)着 其処で、厳しい冬を越冬して、補給が途絶えると苔を食べて生き延びる
08/20、ウィンター湖(Winter Lake)に到着 1821年 01月、約2,170kmを踏破してグレート・ベアー湖に到着 湖畔にエンタプライズ砦(Fort Enterprise, NT)を作って越冬 06/04、ウィリアム・パリー船長に会えるかもと、レパルス湾に向う
07/18、英国人5人、カナダ人11人、現地人狩猟者2人、イヌイット族(アテノークとホエオトローク) 2人(計21人)が人跡未踏の海岸線約1,090kmを踏破することになる(-8/18) 07/21、一人減って探検隊20人がインディアン・カヌー2舟でコパーマイン川から東方へ出発 コパーマイン川河口の北極海岸からバサースト・インレット(Bathurst Inlet)を経て メルヴィル湾(Melville Sound)の東へ進む 08/18、ケント半島北西端のターガン岬(Turnagain Point, Kent peninsula)で北緯84度30分(6 1/2°)の ジーズ海峡(Dease Strait, NU)に海岸を800km踏破後に着いてキャンプする 荒れ狂う海に直面してカナダのツンドラ地帯でバサースト・インレット(Bathurst Inlet)から 新発見のフッド川(Hood River, 400km, NT)沿いにエンタープライズ砦へ戻ることにすると、 それは思ったよりも酷な旅路となる 8/22、疲労と食糧不足で反乱の兆しがみえるも、 フッド川に乗入れるとカヌー1舟が壊れる 8/23、1舟だけで苔を食べながら行軍する 偶にウサギ、山ウズラ、鹿、狼(hare, partridge, Deer、Gray wolf)を撃って食す 其の後4週間も肉を食せず 09/20、フッドがとても弱ってきたのでキャンプして、栄養価の高い苔(lichens)を集める 09/26、コパーマイン川に到着、ジュリナスが川に転落して行方不明となる 10/04、渡河中にカヌーが沈むも、対岸に渡り切る 10/06、弱っていたオーガスタスとベノイトの2人が死亡 10/07、フランクリン、バックなどがフッドを連れて徒歩で行進を開始 10/12、生存者のフランクリンとミシェル・テロホート、ジャン・バプチスト・ベランジャー、 ペロールト・フォンタノの4人がエンタプライズ砦に到着。砦には余分の食料が無く、 捨てられていた鹿の皮、骨、苔を口にして生き延びる 10/14、バックが着き、救援の現地人を探しに出発 10/18、フッドが疲労で脱水症状を起した上に飢えて死にかけてキャンプし、 ヘップバーン、リチャードソン、ブリトン(Britons)、ミシェルがキャンプに残る 10/20、カナダ人(Iroquois voyageur)ミシェル・テロホートが激しい口喧嘩の挙句にフッドの脳天を撃って 殺害。ひと騒動が終わると、テロホートが「フッドはライフルで自分を撃った」とリチャードソンに話 す。プロヴィデンス砦北東遥か遠方のプロヴィデンス湖(Lake Providence NT)付近でリチャード ソンがフッドを食った(cannibalism)との疑惑が囁かれる 10/23、リチャードソンがミシェルをピストルで撃って殺害 10/29、手足が浮腫んだヘップバーンと、リチャードソンがエンタプライズ砦着 11/01、残る4人のうちペルティアー、サマンダー、アダムが ウジ(Maggot)まで食すも死亡 11/7、3人が、バックが探して連れてきたイエローナイフ族(Yellowknives)アカイチョ酋長(Akaitcho's Indians)に持参食糧と釣った魚で救出される 11/15、バック、ヘップバーン、リチャードソン、ブリトンの4人がエンタプライズ砦着 12/11、4人がプロヴィデンス砦着、結局9人が飢えた上に疲労が重なって死亡 其処で、もうひと冬、越冬する 1822年 06月、 グレート・スレーヴ湖から、ヨーク・ファクトリーに帰着 7月、ハドソン湾会社(HBC)ジョージ・シンプソン(Sir George Simpson 1787-1860)総督のもとに出向く 10月、人跡未踏のカナダ北部を約8,930kmも探検して、イギリスのロンドンに帰国しました。 1823年、北極探検の記録を出版。
参考:〜
参考HP:〜 ・デーヴィス海峡の場所地図 ・バフィン島の場所地図 ・ハドソン海峡の場所地図 ・レゾリューション島の場所地図 ・アンガヴァ半島の場所地図 ・レパルス湾の場所地図 ・ハドソン湾の場所地図 ・カナダの地図(日本語) (ヨークファクトリー、アサバスカ湖、チペワイアン砦、グレートスレーブ湖、プロビデンス砦、 レゾリューション砦、グレートスレーブ湖、プロビデンス砦、グレーベア湖、マッケンジー川など有) ・タトナム岬の場所地図 ・ヨーク・ファクトリーの場所地図(1)(広域地図) ・ヨーク・ファクトリーの場所地図(2)(York Factory、ハーンの探検地図、Cumberland House有) ・ヨーク・ファクトリーの場所地図(3) ・グレート・スレーヴ湖とアサバスカ湖の場所地図(Fort Providence、Fort Chipewyan有) ・チペワイアン砦の場所地図(Fort Chipewyan Lake Athabasca) ・カンバーランド・ハウスの場所地図(越冬場所) ・コパーマイン川の地図(ハーンの探検ルート地図) ・コパーマイン川の場所地図(ハーンの探検ルート地図:2) ・シーズ海峡の場所地図(Dease Straitの南がケント半島) ・カナダの湖の場所地図(Great Slave lake、Lake Athabasca など) ・北西航路の場所地図(現在のバフィン湾からベーリング海峡への地図) ・北西航路の場所地図(上記の拡大地図) ・フランクリンの北西航路の探検地図(第一回探検コパーマイン川ルート地図) ・フランクリンの北西航路の探検地図(第一回の探検ルート地図) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 13/7/13 |
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