切手で綴る 冒険大航海 (Adventure Voyage)北極探検(VII-1
★フランクリン物語 幼少期
第1回
第2回
タスマニア
第3回
乗員リスト
United Kingdom

国連 1983 発行

サー・ジョン・フランクリン少将
1801、インヴェスティゲーター号探検航海
1818、トレント号北極探検航海
1819、第一回北極探検、北西航路の探検

大航海物語
 イギリス編

REPUBLIQUE DE DJIBOUTI
サー・ジョン・フランクリン




←ハノ|バ|十字勲章
ジブチ 2010 発行

FRANCE
インベスティゲーター号
オーストラリアの地図


フランス 2002/4/4 発行




フリンダ|ス船


アラス


カナダ


U
S
A
CANADA
中央がハドソン

カナダ 1981/6/30 発行

ケーン水路

グリーンランド

←パフィン島
プロビジャー
←ハドソン海峡
←ラプラドル湾
ラプラドル半島
ニューファンドランド島

←ケベック


USA Post Office
ラブラドール半島

USA 1908 発行

カナダ→

ハドソン湾→

パフィン湾→

グリーンランド→
SWEEDEN
北極の地図
ベーリング↓海峡

スウェーデン↑(黒い所)
スウェーデン 1989/8/22 発行小型シートより

ユ|ラシア大陸
(現在の北西航路はパフィン湾から北極海を通ってベーリング海峡を抜けるコース)
(こちらで北東航路をお楽しみください)

サー・ジョン・フランクリンはイギリス海軍で戦争に従軍した後、北極探検をした後、タスマニア島の総督を務めました。最後には北西航路発見の探検航海に出帆後、カナダ北極で消息を断ちました。14年後にその探検隊は飢えや低体温症、結核、鉛中毒、壊血病などで全滅したことが判明しました。
サー・ジョン・フランクリン少将(1786/4/16〜1847/6/11)
  Rear-Admiral Sir John Franklin, KCH FRGS RN

  英海軍(RN)少将、1833年グールフィック勲章(KCH)受勲
      グールフィック勲章 (Royal Guelphic Order)
      別名:ハノーバー十字勲章 (Hanoverian Guelphic Order)
  北極探検家(Arctic explorer)、王立地理学協会員(FRGS)
  生地:リンカンシャー州スピルズビー生(Spilsby, #1C31
  没地:カナダ北極圏ヌナブト準州キングウィリアム島付近で氷閉後に没(#NU
▼幼少期
フランクリン卿は1786年にイングランドのリンカンシャー州スピルズバイに生まれ、ケンブリッジシャー州セント・アイヴス小学校の(preparatory school, St Ives, Huntingdon, #1A14)で学び、12才からはリンカンシャー州ラウスの公立エドワード6世中学校(King Edward VI Grammar School, Louth, Lincolnshire)で学びました。織物商で成功した父ウィリアム(Willingham Franklin)と母ハンナ(Hannah、旧姓ウィークス:Weekes)の12人兄弟の9番目でした。
▼海軍従軍期
フランクリン卿は海軍に入隊すると決めて、反対する父親を説得。当初は反対したものの幼いフランクリン卿を、しぶしぶ商船での処女航海(Virgin voyage)に乗船することを許しました。14才(1800)で海軍に入隊し、64門3等戦列艦ポリフィーマス号(HMS Polyphemus, 1369t, 1782, 64-gun third-rate ship of the line of the Royal Navy)に乗組みました。1801年にその戦列艦乗組のまま、バルチック海でコペンハーゲンの海戦(1801/4/1)に従軍して、大英帝国の勝利になりました。
コペンハーゲンの海戦

マン島 2005 発行
・最初の冒険
 ・インヴェスティゲーター号探検航海
  HMS Investigator Expedition、1801-1803
戦後に叔父フリンダーズ船長のインヴェスティゲーター号に士官候補生(Midshipman)として乗船し、1801/7/18にスピットヘッド港(#1B21)を出帆。オーストラリア沿岸探検に参加。1801/12/6に西オーストラリアのルーウィン岬(Cape Leeuwin)沖に到着。1802/5/9にポート・ジャックソン(Port Jackson Sydney)に到着。1802/7/22から北部の探検航海をなし、1803/6/9にポート・ジャックソンに
インベスティゲーター号と
オーストラリアの地図


フランス 2002 発行

フリンダ|ス船長
帰還して、インヴェスティゲーター号は再び探検航海に出帆するも、フランクリン候補生はイギリスに帰国しました。

・帰国後ナポレオン戦争(1803-1815)に従軍。
ナポレオン戦争中にフランスのライノス伯爵アレクサンダー・デュランド提督(Charles-Alexandre Leon Durand, Comte de Linois, 1761-1848)とのマラッカ海峡(straits of Malacca)を東に抜けたマレー半島の東方にあるプロ・オーロの戦い(Battle of Pulo Aura, 1804/2/15)で、イギリス東インド会社(British East India Company's ship)のコンヴォイ中国艦隊(British East India Company China Fleet)旗艦(Flagship of convoy)カムデン伯爵号(Earl Camden)艦長ナサニエル・ダンス卿(Sir Nathaniel Dance 1748-1827)に乗組み従軍して勝利。1805年には74門3等戦列艦ベレロフォン号(HMS Bellerophon, 1,612t, 1786)艦長ジョン・クック(John Cooke、1762頃-1805/10/21)に
候補生信号手(signal-midshipman)として乗組み、トラファルガーの海戦(1805/10/21)にベレロフォン号で従軍して勝利するも、仏艦レーグル号(L'Aigle 74-gun ship of the line, 2,966t, 1800)と砲撃戦後に艦上で仏兵との白兵戦で激戦となり艦長戦死するも仏艦を降伏させ、副長ウィリアム・P・カンビー(Post-Captain William Pryce Cumby CB RN 1771-1837)指揮でジブラルタルに帰港(仏艦は10/22嵐で沈没)。第2次米国独立戦争ともいわれる米英戦争(War of 1812-1815)末期の1815年に ニューオリンズの戦い

USA 1965/1/8 発行
ニューオーリンズの戦い(Battle of New Orleans、1815/1/8)に従軍。大西洋で戦うも、戦争は敗戦となりました。其の後の3年間は平和が続いて半額給与(half-pay)の予備役となりました。

フランクリン卿の冒険大航海
・インヴェスティゲーター号探検航海(1801-1803)
  オーストラリア沿岸探検に参加
  (Exploration of the Australian coastline)
・トレント号北極探検航海、(北西航路の探索:1818)
  デヴィッド・ブッチャン北極探検隊に参加、ドロテア号僚船のトレント号船長
  (David Buchan Arctic Expedition)
・第一回北極探検、(北西航路の探索:1819-1822)
  コッパーマイン川の探検、プリンス・オブ・ウェールス号にてハドソン湾で上陸後は陸路
  補給船のヘクラ号、フライ号はレパルス湾で氷に阻まれて帰国
  (Coppermine River & Arctic Expedition)
・第二回北極探検、(北西航路の探索:1824-1827)
  マッケンジー川の探検、便船でニューヨークへ渡航後は陸路
  (MacKenzie River & Arctic Expedition)
・タスマニアへ航海 (総督として赴任:1836-1843)
  (Lieutenant-Governor of Van Diemen's Land:Tasmania)
・第三回北極探検、(北西航路の探索:1845-1847)
  最期の探検大航海 (失われた航海)
  エレバス号、テラー号
  (Franklin's Lost Voyage of Arctic Expedition)

▼冒険期
トレント号で北極圏遠征に参加
  ブッチャン北極探検船隊、ドロテア号、トレント号
  (David Buchan Arctic Expedition、1818)
イギリス海軍(Royal Navy)がカナダ北部に浮ぶ島々の間を通って北極海に入り、ベーリング海峡から太平洋に抜けるという新たなアジア向け航路の北西航路(Northwest Passage)の海図を作成するジョン・ロス率いる探検隊と、デヴィッド・ブッチャン(Cpt. David Buchan, 1780-1838)探検船隊を組織しました。そしてブッチャン旗下での北極遠征船隊にフランクリン卿を海軍士官(Lieutenant)副隊長(second-in-command)に指名して参加を命じ、ブッチャン探検航海船隊が北西航路の発見の北極探検に出帆しました。
1818/4/25バーク捕鯨船ドロテア号(Whaling Ship barque Dorothea)船長デイヴィッド・ブッチャンと僚船ブリッグ捕鯨船トレント号(Whaling Ship brig Trent)船長フランクリン、主任製図者フレデリック・ビーチェイ(chief draftsman Frederick William Beechey 1796-1856)とがロンドン港を出帆。北のノールウェイ領スヴァールバル諸島で最大の島スピッツベルゲン島(Spitsbergen)から北緯80°34′で、氷(pack-ice)に阻まれ、グリーンランドの約57.6km(12 leaguesx4.8km)手前で又もや氷に阻まれて、探検航海を断念。其処で帰途につき、1818/10/22にロンドン・テームズ河の港デプトフォード(Deptford, #9-80)に帰港、帰国しました。 スヴァールバル諸島
スピ

ツベルゲン島
ノ|ルアウストランネ島
ノールウェイ 1986 発行
参考HP:〜
スヴァールバル諸島の場所地図(日本語、赤丸の所)

第一回北極探検航海、北西航路を求めて
  コパーマイン川の探検(Coppermine River, 845km, #NT
  Coppermine River & Arctic Expedition、1819-1822
イギリス海軍が1818年のロス率いる探検隊とブッチャン北極探検船隊が共に北西航路の発見に失敗したので、新たにその海図を作成する北極探検隊を組織して、フランクリン卿を隊長に指名しました。そしてその補給と北西航路の探検にヘクラ号(Hecla)船長ウィリアム・エドワード・パリー隊長(Rea-admiral Sir William Edward Parry, 1790-1855)と随行する僚船フライ号(bomb Fury)を、1821/4/29
ハーンの探検地図、1771
コパーマイン川ルートを描く


カナダ 1971 発行
にデプトフォードから出帆させましたが、両補給船はバフィン島(Baffin Island)とアンガヴァ半島(Ungava Peninsula)間のハドソン海峡(Hudson Strait)からレパルス湾(Repulse Bay)に入ったので、行き止りになってそれ以上西へ航行出来ずに、カナダ北極海に到達する前に引き返し、1823/10/31に虚しくロンドンに帰国しました。

主な随行者:〜(コパーマイン川の探検)
・副隊長リチャードソン船医(John Richardson, 1787-1865, Scottish surgeon & naturalist)
・候補生バック(midshipmen George Back, 1796-1878)
・候補生フッド(midshipmen Robert Hood, 1797-1821/10/20, near Lake Providence)
・乗組員ジョン・ヘップバーン(ordinary seaman John Hepburn, 1794-1864)
・ジュリナス(Juninus)1821/9/26川に転落して行方不明
・オーガスタス(Augustus)1821/10/6没
・ベノイト(Benoit)1821/10/6没
・ミシェル・テロホート(Michel Terohaute)
・ジャン・バプチスト・ベランジャー(Jean Baptiste Belanger)
・ペロールト・フォンタノ(Perrault, Fontano)
・ペルティアー(Peltier)1821/11/1没
・サマンダー(Samandre)1821/11/1没
・アダム(Adam)1821/11/1没
・アテノーク(Tattannoeuck)エスキモー系イヌイット族(Inuk) の通訳
・ホエオトローク(Hoeootoerock)エスキモー系イヌイット族(Inuk) の通訳
・他、(英国人5人、カナダ人11人、現地人狩猟者2人など計:20人、生存者9人)

フランクリン隊の探検ルート:〜(コパーマイン川の探検)
英国グレーヴセンド〜デービス海峡〜レゾリューション島で座礁〜サヴェジ島沖航行〜ハドソン海峡〜ハドソン湾〜ヨーク・ファクトリー〜アサバスカ湖〜チペワイアン砦〜サスカチワン川〜カンバーランド・ハウスで越冬〜チペワイアン砦〜カンバーランド・ハウス〜チペワイアン砦〜グレート・スレーヴ湖北岸プロヴィデンス砦〜イェローナイフ川〜グレート・ベアー湖エンタプライズ砦で越冬〜北極海岸〜エンタプライズ砦〜コパーマイン川〜河口の北極海岸〜バサースト・インレット〜メルヴィル湾〜ケント半島〜北西端のターガン岬〜バサースト・インレット〜フッド川〜エンタープライズ砦〜グレート・スレーヴ湖〜ヨーク・ファクトリー〜ロンドン

・コパーマイン川の探検:〜旅程
1819/5/23にフランクリン隊長はケント州グレーヴセンド(Gravesend, #1B23)をハドソン湾会社補給船プリンス・オブ・ウェールス号(HBC supply ship Prince of Wales, 推定350t, 1786)に士官候補生ジョージ・バック(Admiral Sir George Back FRS 1796-1878)とスコットランドの博物学者・医師ジョン・リチャードソン(Sir John Richardson 1787-1865)などと共に乗組んで出帆。イースト・イングランド地方ノーフォーク(#1A16)に寄港、バック候補生が下船して馬車と渡し舟でスコットランドのストロムネス(Stromness, Orkney, #2-31)へ行き、ソリの馭者(Man-hauling, sledges)4人を乗船させましたが、現地で彼らはアサバスカ湖(Lake Athabasca)のチペワイアン砦までしか行きませんでした。フランクリン隊はストロムネスから大西洋を横断航海して、カナダのハドソン湾に到達しました。
1819年
05/23、グレーヴセンド出帆
05/30、ホールレイ湾(Hollesley Bay, Suffolk England)からヤーマス(Yarmouth)着
06/03 ストロムネス着
  ?  ストロムネス出帆
  ?  大西洋の横断大航海
07/25 氷海のデービス海峡(Davis Straits)航行、気温は-40度以下
08/04 オーロラ(Aurora)出現
08/07 霧の中でレゾリューション島(Resolution Island)を望見
08/08 濃霧の中でレゾリューション島で座礁するも
ボートに引いてもらって脱出
ハドソン海峡に進入
ラブラドール半島

USA 1908 発行
08/12 レゾリューション島南沖9.5kmを注意深く西へと航行
サヴェジ島(Savage Island)に並行して進んでいると船やカヌーに出会う。カヌー多数が近づいてエスキモーと物々交換する。油(oil)、セイウチ牙(sea-horse teeth)、鯨骨(whalebone)、アザラシ皮の服・帽子・靴(seal-skin dresses, caps, boots)、鹿皮・角(deerskins, horns)、カヌー模型(model canoes)と小型鋸(saws)、ナイフ(knives)、爪切り(nails)、錫の釜(tin-kettles)、針(needles)、ビーズ(beads)を交換して、女子供も一緒に船上でお祭り騒ぎ。古い剣と渦石(eddystone)を交換。ラブラドル(Labrador)のモラヴィアン居住地(Moravian settlements)から来たエスキモー
08/28 タトナム岬(Cape Tatnam)を望見
08/30 ヨーク・ファクトリーに到着、停泊・上陸
1819/8/30にカナダのハドソン湾南西岸ヨーク・ファクトリー(York Factory, Manitoba)に到着、上陸。1771年のサミュエル・ハーン(Samuel Hearne 1745-1792)の探検ルートと、1789年のアレグザンダー・マッケンジー(Sir Alexander Mackenzie, 1764-1820)のマッケンジー川(1,738km)デルタ(Mackenzie River’s delta)の探検ルートを参考に、グレート・スレーヴ湖(Great Slave Lake, Northwest Territories)からコパーマイン川(Coppermine River, 845km, NT)探検へ2,700kmの行軍を補給3ヵ月分を持参してソリと徒歩で始めました。ところがストロムネスのソリ馭者はアサバスカ河(1,231km)湖畔北西の北西会社(North West Company, 1779-1821)のチペワイアン砦(Fort Chipewyan, NWC post, AB)で引返したので、直ぐに補給の困難さに直面しました。 アサバスカ河

カナダ 1994 発行
船はハドソン湾北岸レパルス湾(Repulse Bay,NT)からコパーマイン川に行く予定でしたが、氷に閉ざされてしまいました。陸路の補給はハドソン湾会社(Hudson's Bay Co, 1670/5-)と、そのライバルの北西会社に依頼していたが、それはボート1舟だけで、しかも途中で一人だけの漕ぎ手が帰ってしまったので、補給品を満載した重い積荷のボートを引いて行くはめに陥り難渋しました。
1819年
10/23 サスカチワン川(Saskatchewan River. 550km)のカンバーランド・ハウス(Cumberland House, north-eastern SK)にあるハドソン湾会社の丸太小屋(log cabin, 30men)着
其処で厳しい冬を越冬して補給が途絶えると苔を食べて生き延びる
1820年
01月 中旬にフランクリンは、 リチャードソンとフッドを春に補給品を持って戻るまで残し、バックとヘップバーンを連れて雪靴でチペワイアン砦へ戻って救援を求めに向うも、温度計の水銀'mercury)が凍りつく寒さの中をテントは無く毛布にくるまって過ごして、1,379kmを踏破後、6週間かかって3月遅くに砦に到着。チペワイアン砦に着くと、現地人ガイドと狩猟者を募集するも集まらずも、現地エスキモーのコパーマイン族(Coppermine Indians)酋長の支援でカンバーランド・ハウスへ戻ってリチャードソンとフッドなど16人が助かる
06/13 チペワイアン砦に集結
07/18 チペワイアン砦をグレート・スレーヴ湖へと出発
現地のエスキモー

USA 1908 発行
07/28 グレート・スレーヴ湖北岸のプロヴィデンス砦(Fort Providence, NT)着。其処でコパーマイン族アカイチョ・ビッグ・フット酋長(Akaitcho Big Foot, Copper Indian chief)に案内されているスウェーデンの狩猟業者ウィラード・ウェンツェル(trader Willard Ferdinand Wentzel, 1777-1832)に出会い情報を得て、人跡未踏のイェローナイフ川(Yellowknife River, NT)沿いに進む
08/20 ウィンター湖(Winter Lake)に到着
1821年
01月 約2,170kmを踏破してグレート・ベアー湖に到着
湖畔にエンタプライズ砦(Fort Enterprise, NT)を作って越冬
06/04 ウィリアム・パリー船長に会えるかもと、レパルス湾に向う
06/14 遂に北極海岸(Arctic coast)へ出るとカナダ北部などの氷雪地帯に住む先住民族のエスキモー系イヌイット族(Inuk) の通訳アテノークとホエオトロークが義侠心でガイドを勤め、北極海岸で50年前ハーンが虐殺されたブラディ・フォール(Bloody Falls, NU)で現地イヌイットに通訳が接触すると逃げてしまい、結局エンタプライズ砦に戻る
イヌイット族

グリーンランド 2003 発行
07月 エンタープライズ砦からコパーマイン川をカヌーで下って北へと探検を開始
07/14 遂に北極海に到着。食料も弾薬も尽きはて、海岸でイヌイット(Inuit)の助けを求めようと思うも、人影見当たらず
07/18 英国人5人、カナダ人11人、現地人狩猟者2人、イヌイット族(アテノークとホエオトローク)2人(計21人)が人跡未踏の海岸線約1,090kmを踏破することになる(〜8/18)
07/21 一人減って探検隊20人がインディアン・カヌー2舟でコパーマイン川から東方へ出発
コパーマイン川河口の北極海岸からバサースト・インレット(Bathurst Inlet)を経てメルヴィル湾(Melville Sound)の東へ進む
08/18 ケント半島北西端のターガン岬(Turnagain Point, Kent peninsula,NU)で北緯84度30分(6 1/2°)のジーズ海峡(Dease Strait,NU)に海岸を800km踏破後に着いてキャンプ。荒れ狂う海に直面してカナダのツンドラ地帯でバサースト・インレット(Bathurst Inlet,NU)から新発見のフッド川(Hood River, 400km, NT)沿いにエンタープライズ砦へ戻ることにすると、それは思ったよりも酷な旅路となる
8/22 疲労と食糧不足で反乱の兆しがみえるも、フッド川に乗入れるとカヌー1舟が壊れる
8/23 1舟だけで苔を食べながら行軍する偶にウサギ、山ウズラ、鹿、狼(hare, partridge, Deer、Gray wolf)を撃って食す。其の後4週間も肉を食せず
09/20 フッドがとても弱ってきたのでキャンプして、栄養価の高い苔(lichens)を集める
09/26 コパーマイン川に到着、ジュリナスが川に転落して行方不明となる
10/04 渡河中にカヌーが沈むも、対岸に渡り切る
10/06 弱っていたオーガスタスとベノイトの2人が亡くなる
10/07 フランクリン、バックなどがフッドを連れて徒歩で行進を開始
10/12 生存者のフランクリンとミシェル・テロホート、ジャン・バプチスト・ベランジャー、ペロールト・フォンタノの4人がエンタプライズ砦に到着。砦には余分の食料が無く、捨てられていた鹿の皮、骨、苔を口にして生き延びる
10/14 バックが着き、救援の現地人を探しに出発
10/18 フッドが疲労で脱水症状を起した上に飢えて死にかけてキャンプし、ヘップバーン、リチャードソン、ブリトン(Britons)、ミシェルがキャンプに残る
10/20 カナダ人(Iroquois voyageur)ミシェル・テロホートが激しい口喧嘩の挙句にフッドの脳天を撃って殺害。ひと騒動が終わると、テロホートが「フッドはライフルで自分を撃った」とリチャードソンに話す。プロヴィデンス砦北東遥か遠方のプロヴィデンス湖(Lake Providence,NT)付近でリチャードソンがフッドを食った(cannibalism)との疑惑が囁かれる
10/23 リチャードソンがミシェルをピストルで撃って殺害
10/29 手足が浮腫んだヘップバーンと、リチャードソンがエンタプライズ砦着
11/01 残る4人のうちペルティアー、サマンダー、アダムがウジ(Maggot)まで食すも死亡
11/07 3人が、バックが探して連れてきたイエローナイフ族(Yellowknives)アカイチョ酋長(Akaitcho's Indians)に持参食糧と釣った魚で救出される
11/15 バック、ヘップバーン、リチャードソン、ブリトンの4人がエンタプライズ砦着
4人がプロヴィデンス砦着、結局9人が飢えた上に疲労が重なって死亡
其処で、もうひと冬、越冬する
1822年
06月 グレート・スレーヴ湖から、ヨーク・ファクトリーに帰着
07月 ハドソン湾会社シンプソン総督(Sir George Simpson 1787-1860)のもとに出向く
10月 人跡未踏のカナダ北部を約8,930kmも探検して、イギリスのロンドンに帰国しました。
1823年
北極探検の記録を出版。
ハドソン湾から北西準州のコッパーマイン川に沿った地域の徒歩探検で、フランクリン探検隊は8,047kmを踏破するも、探検隊20人の内11人を失い、9人がカナダ先住民のイエローナイフ族(Yellowknives)に救出されました。ほとんどは餓死でしたが、1件の殺人および人肉食が指摘され、生存者は苔(コケ:地衣類)を食べ、革のブーツまで食べたので、フランクリンは「ブーツを食べた男」の名で呼ばれるようになりました。 カナダ先住民

カナダ 1999/4/1 発行
この探検中の1821/1/1付で中佐(commander)に昇進しており、帰国後の1822/11/20に勅任艦長の大佐(Post Captain)に昇進。1822年に英国ロイアル・ソサイエティの会員(fellow of the Royal Society)になりました。1823/8/19にフランクリンは詩人のエリナー・ポルドン(Eleanor Anne Porden, 1795-1825/7/22, 29才没)と結婚して1児をもうけました。彼女の健康を案じて次の北極探検を思いとどまるフランクリンを説き伏せた後まもなく結核で亡くなり、フランクリンはマッケンジー河からの北極探検をイギリス海軍に提案しました。

参考:〜
ランカスター海峡
   Lancaster Sound
ランカスター海峡は、カナダ・ヌナブト準州デヴォン島(Devon Island, Nunavut territory Canada)とバフィン島(Baffin Island)との間の海峡で、北西航路の東部の場所です。東にはバフィン湾があり、西にはヴァイカウント・メルヴィル海峡(Viscount Melville Sound)があって、さらに西へ行くと北西準州(ノースウエスト準州)のマクルアー海峡(M'Clure Strait, Northwest Territories)を経て北極海へ至ります。
アザラシ

USA 1908 発行

参考HP:〜
バフィン島の場所地図
ハドソン海峡の場所地図
レゾリューション島の場所地図
アンガヴァ半島の場所地図
ハドソン湾の場所地図
タトナム岬の場所地図
ヨーク・ファクトリーの場所地図(広域地図)
グレート・スレーヴ湖とアサバスカ湖の場所地図(Fort Providence、Fort Chipewyan有)
コパーマイン川の地図(ハーンの探検ルート地図)
シーズ海峡の場所地図(Dease Straitの南がケント半島)
北西航路の場所地図(現在のバフィン湾からベーリング海峡への地図)
北西航路の場所地図(上記の拡大地図)
フランクリンの北西航路の探検地図(第一回探検コパーマイン川ルート地図)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   13/7/13、令和7年 2025/9/18

★フランクリン物語幼少期第1回第2回タスマニア第3回捜索乗員リスト
スタンプ・メイツ
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