★イギリス |
ジョン・ショートランド 1788 第1船団でシドニー流刑植民地到着 |
大航海物語★ |
ショ|トランド航海士 | シリウス号 | |
図案は”Alexsander 1788” ソロモン 1973/3/9 発行 |
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シリウス号 ノーフォーク島 1967-68 発行 |
オーストラリアの地図 アイルランド 1988/3/1 発行 |
イングランドのプリマス生れのジョン・ショートランドは12才で王国の海軍に入隊し、新大陸のケベックで服務し、西インド諸島方面に転属しました。オーストラリア流刑殖民地への第1船団が出帆する時に、シリウス号に乗組んでポート・ジャクソンに行って服務していてノーフォーク島で遭難しましたが、無事にイギリスに戻りました。その後、リライアンス号で再びオーストラリアに行きシドニーの刑事裁判所で服務していましたが、ヨーロッパでの風雲急を告げ、命によりイギリスに帰国した後、カリブ海方面でジュノン号艦長勤務中にグアドループの海戦で戦死しました。 |
ジョン・ショートランド (1769/9/5〜1810/1/21) John Shortland ジョン・ショートランドは父ショートランド(John Shortland 1739-1803)の長男としてイングランドのプリマス(Plymouth, England)近郷で生れました。1781年に12才で王国の海軍に少尉候補生(midshipman)として入隊して、新大陸北アメリカのケベック(Quebec)へ行き、父の輸送船隊で服務しました。1783〜1787年の間は西インド諸島に転属となり、最初はサプライズ号(HMS Surprize、French captured 28-gun sixth-rate frigate フランス(拿捕)船)、次いでラトーナ号(HMS Latona、38-gun, 18-pounder gun armed fifth-rate frigate 944t)に乗り組んで服務しました。 1786/10月にアーサー・フィリップ提督が新造艦シリウス号(HMS Sirius、16-gun 511t)の艦長に任命され、ハンター大尉は副長(second-in-command)に抜擢されました。フィリップス提督が初代オーストラリア東海岸のイギリス流刑植民地(penal colony)、クック船長が名付けたニュー・サウス・ウェールスの総督(Governor of the colony of NSW)に任命されると、フィリップス総督は総司令官として指揮をとり、シリウス号は11隻からなるイギリスのオーストラリア流刑植民地へのイギリス最初の流刑植民地への囚人護送船団の旗艦となり、艦長にはハンター大尉が昇格しました。 1787年に18才のショートランドは父の勧めで航海士(master's mate)として、シリウス号に乗組むことになって乗艦しました。シリウス号他の第1船団で護送する778人の囚人の多くはロンドンのスラム街の窃盗犯でしたので、フィリップ総督は海兵隊の部隊と植民地を経営する役人数人と共にシリウス号に乗艦しました。 1787/5/13に囚人護送船団11隻はイギリスのポーツマス港を流刑植民地へと出帆しました。同年6月カナリア諸島のテネリフ島で補給、ブラジルのリオデジャネイロ、さらに同年10月に喜望峰・ケープタウンに寄航、補給して、1788/1/18に先頭の船がオーストラリアのボタニー湾に到着しました。そこは1770年にクック船長が発見していましたが、バンクス男爵の勧めに従い「安全な停泊地がなく水源がないとの理由で、この地は入植するのに適さない」と決めました。数日間北方への探検航海後、彼は好適地を見つけて、1788/1/26にシドニー近郊のシドニー・コーヴ(Sydney Cove、現:ポート・ジャックソン、Port Jackson)に停泊、海兵隊と囚人達を上陸させました。ショートランドはその後の5年間をオーストラリアで服務しました。シリウス号はノーフォーク島(Norfolk Islan)とシドニー間の輸送任務中の1790年に遭難、沈没しました。ショートランドは他の乗組員と共に、1791/2/21まで同島に留まり救助され、シドニーに戻りました。 1792年にショートランドはイギリスに帰国しました。1793年に24才で海軍少尉(lieutenant)に任官してアロガント号(HMS Arrogant 74-gun ship of the line)に乗り組みました。 参考HP:〜 ・プリマスの場所地図 ・ケベック州の場所地図 ・ケベックの地図 ・ポート・ジャックソンの場所地図 ・ノーフォーク島の地図 |
★イギリス |
ジョン・ショートランド大尉 1795 リライアンス号でシドニーに到着 |
大航海物語★ |
ジョン・ショートランド オーストラリア 1986/8/6 発行 |
”国旗” と ”地図” | |||
南 緯 20° |
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東経 | 129° | 130° | ||
ツバル 1986/8/4 発行 |
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フィリップ提督(青服)とラ・ペルーズ(赤服)とのボタニー湾での会見200年記念 | ||
オ|ストラリア→ | 1788 La Perouse & Commdoore Phillip 1988 1788/1/24 Botaney Bay ニューカレドニア 1988 発行 |
←ポート・ジャックソン ←現在の シドニー市街地 ←ボタニー湾 |
1795年に26才のショートランドは海軍大尉に昇進し、ハンター総督がオーストラリア流刑植民地へ赴任するウォーターハウス艦長(Henry Waterhouse 1770-1812)のリライアンス号(HMS Reliance、400t)の先任士官(first lieutenant)として乗組みました。リライアンス号には21才のマシュウ・フリンダース少尉候補生(midshipman)と24才のジョージ・バス(George Bass)船医が乗組んでいました。1795/9/7にシドニー(NSW)に到着しました。 1795/9/9にショートランド大尉はリライアンス号でオーストラリアのポート・ステファン(Port Stephens)への探検航海の途上、何人かの逃亡の囚人を追って、ニューカッスル(Newcastle, NSW)のハンター川と命名した川の河口に入り探検しました。その後、そこは石炭が発見されたので、コール川(Coal River)と呼ばれるようになりました。 1797年にリバティ平原(Liberty Plains)で、25エーカー(10ha)の土地所有を許されました。1800年にはハンター総督からバンクスタウン(Bankstown)で300エーカー(121ha、計131ha)の土地をもらい、シドニーの刑事裁判所(member of the Criminal Court)のメンバーになりました。 1800年にヨーロッパの風雲が急を告げ、イギリスへの帰還を命じられ、リライアンス号でイギリスへ帰国しました。 参考HP:〜 ・ニューカッスルの地図 ・ニューカッスルとポート・ステファンの場所地図 ・シドニーの地図(日本語) ・シドニーの場所地図(日本語、ニューカッスル有) |
★イギリス |
ジョン・ショートランド大佐 1809 グアドループ島の海戦 |
大航海物語★ |
AUSTRALIA | Saint Lucia | ||
ジョン・ショートランド オーストラリア 1986/8/6 発行 |
グアドループ島→ バステール マリーガラント 島→ |
「グアドループの海戦」地図 |
←マルティニーク島 ポートロイアル ←セントルシア島 カストリーズ |
セントルシア 1982/4/13 発行 | |||
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1800年にリライアンス号で帰国すると間もなく、エジプト(Egypt)への輸送任務でドルフィン号(HMS Dolphin、24-gun sixth-rate)やトロンフュース号(HMS Trompeuse、18 gun sloop)に乗組みました。スクウィレル号(HMS Squirrel、24-gun sixth rate)の艦長となって、アフリカのギニア海岸方面で服務しました。1805年にウォーレン提督(Sir John Borlase Warren, 1st Baronet 1753-1822)のもとで、新大陸北アメリカのハリファックス基地(Halifax Station)に転属になり、フランスの捕獲船フリゲート艦ジュノー号(Junon, 40-gun frigate)の艦長になり、36才で海軍大佐の勅任艦長(post-captain)に昇進しました。 ナポレオン戦争(Napoleonic Wars 1803-1815)中の「グアドループ島の海戦」(レックバートのカリブ海遠征、Roquebert's expedition to the Caribbean)で、フランスのグアドループ島輸送船団と、気高く勇ましいが希望の無い海戦を戦いました。1809/12/3にショートランド艦長のフリゲート艦ジュノン号(frigate HMS Junon 40-gun 1150t)がウェズラル艦長(Captain Frederick Wetherall)のブリッグ型船オブザベーター号(HMS Observateur、16-gun brig)とアンチグア島(Antigua)の東を哨戒中に、フランスの輸送船団護衛のフリゲート艦コロリンド号(Clorinde 44-gun frigate)とレノーム号(Renommee 38-gun)に捕捉され、激戦の末に炎上沈没しました。ショートランド艦長は瀕死の重傷を負って捕虜になりました。フランス領のグアドループ諸島の病院で手当てを受けましたが、41才で亡くなり、バス・テール(Basse-Terre)に丁重に葬られました。 参考HP:〜 ・アフリカの地図 ・アカディア(Acadia 1754)の地図(ハリファックス有) ・ハリファックスの場所図 ・グアドループ諸島の地図 ・カリブ海の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2010/4/20 |