★ロシア |
大北方戦争 1700〜1721 Great Northern War |
大航海物語 参考資料★ |
ロシア帝国艦隊 | CCCP ピョートル大帝と大北方戦争 1714 ハンゲの海戦275年記念 1989 ソ連 1989/7/27 発行 |
ピョ|トル大帝 |
・大北方戦争 (1700〜1721) Great Northern War スウェーデンと反スウェーデン同盟(北方同盟・連合諸国)の戦い スウェーデンの敗北=北方同盟(ロシア帝国連合軍)の勝利 大北方戦争はモスクワ大公国、デンマーク、ノルウェー、ザクセン、ポーランド(1715年以降はプロイセンとハノーファーが参加)の連合諸国と、スウェーデン(後にオスマン帝国、ウクライナ・コサック)同盟諸国との間で、1700年から1721年の21年間にわたって行われた戦争。戦争は連合側によるスウェーデンへの連携攻撃で始まったが、戦争前期はスウェーデンが圧倒。スウェーデンは1706年までの戦闘のほとんどに勝利し、ポーランド王を廃位させ、傀儡の国王を立てた。デンマークもロシアも直接戦闘を避け、一時はスウェーデンが北東ヨーロッパにおける覇権を握ったと思われたが、ロシアは地の利を味方につけて焦土作戦を展開、1709年のポルタヴァの会戦で形勢を逆転した。その後反スウェーデン陣営が続々反撃に出て、1721年のニスタット条約とストックホルム条約の締結によって終了した。この戦争の結果、ロシアはスウェーデンのバルト海における覇権を奪い取り、ヨーロッパにおける列強の一員となった。またロシアは、この戦争で獲得した地に新都サンクトペテルブルグを建設し、1721年に元老院が皇帝(インペラトル)を任命してロシア帝国となった。この戦争は、ロシア皇帝ピョートル1世とスウェーデン王カール12世(Karl XII, 1682-1718)の事実上の一騎打ちであった。 1700年、ロシアとその同盟国のスウェーデン攻撃によって大北方戦争が開始された。ピョートル1世はみずから40,000人の軍を率いてスウェーデン領に侵入し、ナルヴァ要塞を包囲した。これに対しスウェーデン王カール12世は、ロシア軍の半分に満たない軍勢で解囲に向かい、「ナルヴァの戦い」(1700/11/17)でロシア軍を破った。大損害を出したロシアはスウェーデンから撤退することを余儀なくされた。その後、カール12世はロシアの同盟国であるポーランドへ侵攻、1706年に和平条約を結び、ポーランドを同盟から離脱させることに成功した。デンマークを撃退し、ポーランドも傀儡国家にしたカール12世の残る強敵は、ロシアただ一国であった。 その間にピョートル1世は失った戦力の回復に努め、軍の近代化を図ると共に、徴兵制も導入した。その成果が表れはじめた1708年にスウェーデンはロシア本土へと侵攻すした。ロシアは万全な体勢を取り、さらに焦土作戦を展開。おりしも冬将軍がロシアを後押し。スウェーデンは補給を絶たれた上に、大寒波によって多数の凍死者を出す損害を被った。さらに同年9月にスウェーデン別働隊が、レスナーヤの戦いでロシア軍に損害を受けていたことも影響を及ぼした。それでもカール12世は進軍を止めなかった。1709年6月にスウェーデン軍はヴォルスクラ川沿いの要衝ポルタヴァを包囲。包囲戦の最中の6月17日、カール12世は狙撃兵によって足を負傷し、カール・グスタフ・レーンスケルドに指揮権を委託。その後まもなくピョートル1世率いる42,000から45,000人前後の兵力と72門の砲を装備したロシアの援軍が到着、スウェーデン軍を逆に包囲。圧倒的な兵力の劣勢から、カール12世は敵包囲軍を撃破して、北方へ突破することを決意。この時点で、スウェーデン軍は著しい凍死者によって20,000人余りに減少しており、さらにポルタヴァから出撃するロシア軍を牽制するために軍の一部を割かねばならず、攻撃に使用できる兵力はわずか17,000人ほどだった。
・大北方戦争の主な出来事 1699年、ロシア・ポーランド・デンマークが反スウェーデン同盟(北方同盟)を結成 1700年、カール12世がデンマーク・ロシア連合軍を撃破、大北方戦争が始まる 「ナルヴァの戦い」の敗戦でピョートル1世はロシア軍の大改革を実施して近代化 リトアニア大公国で内戦(リトアニア内戦) 1702年、リガの戦いでスウェーデン軍が勝利、ポーランド侵攻開始 1703年、ピョートル1世が海港サンクトペテルブルグ建設に着手 1704年、スタニスワフ・レシチニスキ、スウェーデンの影響力の下でポーランド王に即位 1706年、フラウシュタットの戦いでスウェーデン軍が勝利、ポーランド王アウグスト2世廃位 1708年、レスナーヤの戦いでロシアが勝利、ウクライナ・コザックのヘーチマン王国 (1649-1782)の王イヴァン・マゼーパがモスクワに対して反乱する 1709年、スウェーデン軍がレスナーヤの戦い(1708)・ポルタヴァの会戦で壊滅的敗戦 カール12世はオスマン帝国に逃亡し、スウェーデンの優位崩壊 ポーランド王にアウグスト2世復位、デンマークが戦線に復帰 1710年、ヘルシングボリ戦でスウェーデンのステンボック将軍(Stenbock, 1665-1717)が勝利 デンマークがスコーネに侵攻するも、スウェーデンのステンボック将軍に敗れる 1711年、オスマン帝国がピョートル1世軍を包囲してプルート川で勝利 1712年、ピョートル1世がサンクトペテルブルグに遷都 1714年、バルト海の制海権をロシアが奪取してバルト帝国が事実上の崩壊 1714年、カール12世が亡命先のオスマン帝国から帰還 1715年、プロイセン王国のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世がスウェーデンに宣戦 1716年、カール12世がデンマークに氷上侵攻を試みるも失敗 1718年、カール12世がノルウェーのフレデリックスハルド要塞で狙撃され、死亡 1719年、ロシア軍がスウェーデン本土を強襲するも撃退される(−1721) 1720年、スウェーデンのウルリカ・エレオノーラ女王退位、ヘッセン朝開始 1721年、ピョートル1世がロシア皇帝(インペラトル)に戴冠、ピョートル大帝のロシア帝国が成立 1721/9/10、フィンランドのニスタット(Nystad、現:ウーシカウプンキ Uusikaupunki)で ロシアとスウェーデンの間でニスタット条約が締結されて大北方戦争が終結 ・バルト帝国の衰退:〜 バルト帝国(Swedish Empire、1611-1718)はスウェーデン(Sweden)王国が繁栄した大国時代の呼称で、17世紀全般にわたりバルト海の支配者はスウェーデンだったが、ロシア帝国はこれに対抗するため、17世紀後半から港湾と艦隊建造に邁進し、18世紀に始まった大北方戦争でスウェーデン艦隊を撃破し、バルト海の制海権もロシアに移って行った。 参考HP:〜 ・バルト帝国の地図(1650年代最盛期のバルト帝国の版図) ・スウェーデンの地図(日本語、現在) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/6/27、 11/4/4 |