★イギリス |
トーマス・ワーナー船長 1623 セント・キッツ島に入植 |
大航海物語★ |
セント・キッツ島に上陸、1623
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島沖に停泊のホープウェル号 1623/1/28 off St.Kitts |
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オールド・ロードに砦(居住地)を建設 Building The Fort at Old Road |
タバコを栽培 Growing Tobaco |
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カリブ海の地図 オランダ領アンチール 1964/6/22 発行 |
アンチ|ル諸島 南米 |
→ | レッサー(小)アンチール |
←セント・キッツ島→ ←南アメリカ (ガイアナ) |
セント・キッツ島 |
ネヴィス島 |
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ウィンドワード諸島の島々 | ||
セント・クロイ島→ (米領) |
←サバ島(蘭領) バーブダ島 ←セント・ユースタティウス島 ←セント・キッツ島(セントクリストファー島) ←ネヴィス島 アンチグア島 ←レドンダ島 ←モントセラット島 ←グアドループ島 ←マリエ・ガーラント島 ←ドミニカ島 |
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(1493年コロンブスの第2回航海で発見した島々を描く小型シート) ドミニカ 1992 発行・小型シート |
←南アメリカ |
イギリス生まれのトーマス・ワーナー船長は、1623年にカリブ海のセント・キッツ島(セントクリストファー島)で西インド諸島(カリブ海)イギリス最初の入植地を建設して総督になり、近隣の島々にもイギリスの入植地を拡大して、イギリス国王チャールス1世から爵位(ナイト)を受領。砂糖とタバコ農園で成功して巨万の富を蓄え、同島で亡くなりました。 |
サー・トーマス・ワーナー船長 (1580〜1649/3/10) Captain Sir Thomas Warner トーマス・ワーナー船長はイングランドのサフォーク(Suffolk, England)で生まれました。若くして軍隊に入隊して、イングランド王ジェームス1世(James I、1566-在位1603-1625)の護衛兵隊長になりました。 1616年6月にサー・ウォーター・ローリー(Sir Walter Raleigh)が金鉱発見のための探検隊を自ら率いて、イギリスを出帆しました。その探検隊のロジャー・ノース(Roger North 1585-1652)支隊にトーマス・ワーナー船長が参加し、大西洋を横断して南アメリカの北部へ大航海しました。サー・ローリー探検隊は新大陸で南アメリカの現ガイアナ地方に到着すると、金鉱探しに着手しました。ところが金鉱探しははかばかしくなく、なかなか見つからなかったので、サー・ローリーは手ぶらで帰国することになりました。ロジャー・ノース支隊は帰国せずに現地で植民地建設にとりかかり、そこをオヤポック(Oyapoc)と名付けてイギリス領と宣言し、オヤポック植民地(Oyapoc Colony)を建設しました。そしてノース隊長は1620年にオヤポック総督(governor of the Oyapoc)になりました。しかし慣れない気候で、荒廃した荒地、現地人の襲撃、熱病などの病気などで、植民は捗りませんでした。そうこうする内にノース支隊の別の船長、トーマス・ペイントン(Thomas Painton)がワーナー船長に、「レッサー(小)アンチール(Lesser Antilles)の島伝いに別の島へ探検航海して、新たな植民地を見つけて作る方が得策ではないのか?」、と話しかけました。
1624年にワーナー船長はホープウェル号(Hopewell 250tons)でセント・キッツ島に、移住者51人を連れて戻ってきました。そしてカリブ海でイギリス最初の植民地のセント・クリストファー植民地(colony of Saint Christopher)を建設しました。1624/1/28にワーナー船長は高台にあるテグレマンテ酋長の村を下った所に、港町オールド・ロード・タウン(Old Road Town)を建設して、レベッカ夫人(Rebecca Warner)と息子のエドワード(Edward Warner)の他、14人と居住しました。 ・フランス人の到着 (French arrival、1625) セントキッツ島でのイギリスの入植成功を聞きつけて、フランスのピエール・デッスナンブク船長(Pierre d'Esnambuc 1585-1636)がセントキッツ島に入植したいとフランスを出帆して、1625年にセントキッツ島に到着し、上陸してきました。ただ彼の船団はスペインの攻撃を受けて、デッスナンブク船長の乗船だけが生き残っていました。ワーナー船長はデッスナンブク船長に同情して、フランス人の入植を許可しましたので、カリナゴ族が捨てた村ディエップ(Dieppe)の廃墟の跡に喜んでフランス村ディエップ・ベイ・タウン(Dieppe Bay Town)を建設して、フランス最初のカリブ海入植地セント・クリストファー植民地が建設されました。ところが、外国人が増えたので、現地人カリナゴ族が疑いの眼差しを向けてきました。 ・カリナゴ族大虐殺 (Kalinago Genocide、1626) 外国人の人口が増加してくると、カリナゴ族テグレマンテ酋長が島の酋長達を集め、また近隣のドミニカ島ワイティクブイ酋長(Waitikubuli)やオウアリー酋長(Oualie)などと秘密会議を招集して、外国人襲撃計画を密談しました。ワーナー船長はアラワク族(Arawak island)の襲撃で連れてこられていた女奴隷バルベ(Barbe)と恋に落ち再婚しました。バルベはアラワク族を追い散らしたカリナゴ族を嫌っていましたので、1626年にカリナゴ族の月夜の襲撃計画を聞きつけ、ワーナー船長にカリナゴ族の待伏せを知らせました。イギリスとフランスが連合して、カリナゴ族が寝ているところを襲って、100〜120人を虐殺しました。その後、島の守りを固めて海岸での戦いで、2,000人を殺害して、英仏も死傷者100人を出しました。後に、2,000人が殺害された所はブラッディ・ポイント(Bloody Point)と呼ばれ、遺体を投げ込んで血に染まった川はブラッディ・リヴァー(Bloody River)と名付けられました。
・ピエール・べライン・デッスナンブク船長 (French trader Pierre Belain, Sieur d'Esnambuc 1585-1636) 1625年にセントキッツ島に入植した冒険商人(French trader)デッスナンブク船長は、1626年に一旦フランスに戻り、リシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシ(Armand Jean du Plessis, Cardinal-Duc de Richelieu et de Fronsac 1585-1642)が大資本で出資者に加わって、セント・クリストファー入植作戦隊(Compagnie de Saint-Christophe)が編成されましたが、上手く行きませんでした。その後の1635年にデッスナンブク船長が入植者100人とセントキッツ島を出帆、マルティニーク島サン・ピエール(Saint Pierre, Martinique)にフランスの恒久的な入植地の建設に取り掛り、砂糖プランテーションに成功しました。甥のジャック・ダイル・デュ・パルケット(Jacques Dyel du Parquet)がデッスナンブク船長を助け、後にマルチニーク島の総督(在任1625-1636)になりましたが、現地人との戦争を引き起し、現地人のほとんどが死亡しました。デッスナンブク船長は6ヵ月後にセントキッツ島に戻って亡くなりました。
参考HP:〜 ・サフォーク州の地図 ・サフォーク州の場所地図 ・オヤコップ川(Oyapoc)の場所地図(フランス領ギアナとブラジルの国境) ・カリブ海とアンチール諸島の地図 ・セント・キッツ島の地図(日本語、真ん中がセントクリストファー島=セント・キッツ島) ・アンチール諸島の区分地図(北ウィンドワード諸島、南:リーワード諸島) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 12/4/12 |