大航海物語
小田原城
1501(文亀元)頃:北条早雲が奪取
1518(永正15)頃:北条氏綱が大拡張

参考資料
日本 Nippon
小田原城

日本 2000/10/27(平成12)  発行
小田原城

日本 2013/12/10(平成24)  発行

小田原城 (おだわらじょう)
  Odawara-jo Castle
   通称・小峯城(小峰城)、小早川城(小早川館)
   住所:神奈川県小田原市城内城址公園
   築城主:大森頼春
   築城年:1417(応永24)
   城郭構造:平山城
   天守構造:複合式層塔型3重4階(1633築、1706再建、1960RC造で復興)
   主な改修者:上杉氏、北条早雲、大久保忠世、稲葉正勝
   主な城主:後北条氏、阿部氏、稲葉氏、大久保氏
   廃城年:1871(明治4)
小田原城は小田原地方に進出した大森氏が小田原市の現:天守の周辺に館を置いて15世紀中頃に築いたといわれています。1500年以降に戦国大名小田原北条氏が小田原市の八幡山と呼ばれる場所を後背の「詰の城」として、現在の天守の周辺に居館を置いて、関東支配の中心拠点として次第に拡張整備され、大地震で修復されたり、3代当主の北条氏康(1515-1571)の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信(1530-1578)や武田信玄(1521-1573)の来攻に備えて改修され、また豊臣秀吉の来攻時(1590)には城下を囲む総構(小田原の町全体を総延長9kmの土塁と空堀で取り囲む)を完成させて城の規模は最大に達し、日本最大の中世城郭に発展しました。江戸時代には小田原城は徳川家康の支配となり、その家臣大久保氏を城主とし、城の規模は三の丸以内に縮小されました。稲葉氏が城主となってから大規模な改修工事が始められ、近世城郭として生まれ変わりました。その後、大久保氏が再び城主となり、箱根を控えた関東地方防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきましたが、小田原城は明治3年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災によりことごとく崩れ落ちました。現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部が、国の史跡に指定され、本丸を中心に「城址公園」として整備され、昭和35年(1960)に天守閣が復興、次いで昭和46年(1971)には常盤木門、平成9年(1997)には銅門、平成21年(2009)には馬出門が復元されました。平成18年10月に、「日本の歴史公園100選」に選ばれています。

・小田原城の略史:〜
平安時代末期、相模の豪族土肥氏一族の小早川遠平(小早川氏の祖とされる)の居館
1416、(応永23、室町時代中期)の上杉禅秀の乱(1416/10/31-1417/1/27)で足利持氏(1398-
    1439)に反乱を起した上杉禅秀(?-1417/1/27)方の土肥氏が失脚し、
    駿河の大森氏がこれを奪って、相模・伊豆方面に勢力を広げる
1417、(応永24)大森頼春(?−1469)が小田原城を築城
1422、(応永29)大森氏頼(?-1494)が小田原城を相続
1494、(明応3)大森藤頼(?-1503)が小田原城を相続
1495、(明応4)伊豆を支配した伊勢新九郎盛時(北条早雲:1432-1519)が大森藤頼の
    小田原城を攻めるも撃退される
1498/9/20、(明応7/8/25辰刻)東海道沖で大地震と津波が発生(明応地震)被害を受ける
1501、(文亀元)早雲が小田原城を奪うも亡くなるまで韮山城を根拠とし、嫡男の北条氏綱(1487-
    1541)が小田原城に在番
1518頃、(永正15)2代の氏綱が家督を継いで小田原城の旧構を大幅に拡張
    以来4代氏政(1538-1590/8/10)、氏直(1562-1591)父子の時代まで戦国大名北条氏の5代
    にわたる居城として、
    南関東における政治的中心地となる
1523、(大永3)氏綱が名字を伊勢氏から北条氏(後北条氏)へと改める
1541、(天文10)に氏綱が亡くなり第3代氏康(1515-1571)が小田原城を相続
1545、(天文14)第2次河東の乱(1536-1545)で今川義元(1519-1560)が
    東駿河を奪還のため攻勢をかけるも相模の氏康が防戦
1554、(天文23)今川・武田連合軍と北条とで甲相駿三国同盟が締結される
1559、(永禄2)未曾有の大飢饉で代替の徳政令実施を目的として氏康が隠居し、
    次男の氏政(1538-1590)が第4代当主となも、氏康存命中は氏康・氏政の両頭体制
1560、(永禄3)小田原城の合戦が勃発(-1561)
    上杉・長尾の連合軍が関東の上野・武蔵・相模の後北条氏を攻撃
1561、(永禄4)上杉謙信が越後から11万3千で侵攻し、小田原城の合戦となり小田原城を包囲、
    1ヵ月(10日?)の篭城戦の後、上杉軍を撃退
1568、(永禄11)甲斐の武田信玄が駿河の今川領への侵攻を開始し(駿河侵攻)、後北条氏は
    甲相同盟を破棄して越後上杉氏との越相同盟を結び武田方に対抗すると、信玄は北関東
    の国衆と同盟し北条領へ圧力を加える
1569/10/1-4、(永禄12)信玄が2万人で北条領へ侵攻、小田原城を包囲(1569/11/19-11/23)、
    撤退時に追撃してきた北条勢を三増峠の合戦(1569/10/8)で撃退
    後に後北条氏は武田の駿河領有を承認し甲相同盟を回復
1580、(天正8)父の隠居で氏直(1562-1591)が第5代当主となる
1590、(天正18)小田原の役(1590/2月-7月)
    小田原城は豊臣秀吉の来攻に備えて、城下を囲む総構(小田原の町全体を総延長9kmの
    土塁と空堀で取り囲む)を完成させて城の規模は最大に達し、日本最大の中世城郭となる
4/29、下田城の合戦(海城:静岡県下田市下田港湾口西側の岬全体、-1590/5/26)
    豊臣側の水軍1万が来襲するも、北条方は手兵600余で約50日籠城した後に開城
5/01、秀吉が沼津に到着
5/02、松井田城の合戦(小田原城の支城:群馬県安中市松井田町高梨子、-1590/5/25)
    約1ヵ月後に北条方の城代大道寺政繁(1533-1590/8/18)の2千が降伏
5/03、総勢約21万で小田原への攻撃開始
5/03、山中城の合戦(静岡県三島市山中新田)
    豊臣秀次軍7万が攻撃して山中城(4千)が落城
5/03、韮山城の合戦(静岡県伊豆の国市韮山、-1590/7/25)
    豊臣方の総勢約4万4千が韮山城に篭る北条方の約3千6百を攻撃、約百日間後に開城
5/14、鉢形城の合戦(埼玉県大里郡寄居町大字鉢形、-1590/6/14)
    豊臣側の約35千が包囲攻撃、北条方の約3千が約1ヵ月籠城戦を戦い開城
5/19、岩槻城の合戦(埼玉県さいたま市岩槻区、-1590/5/22)
    豊臣側の約2万に攻められ、岩槻城に篭城する約2千が降伏落城
6/05、忍城の合戦(埼玉県行田市、-1590/7/17)
    豊臣方の総大将は石田三成が23千で、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行い、
    総延長28kmの石田堤を建設するも、城代の成田長親(1545-1613)が家臣と農民ら3千で
    籠城する忍城は落城せず、小田原城が先に落城して開城
6/26、石垣山一夜城が完成
7/05、小田原城が陥落
    第5代当主の氏直が徳川勢の陣で、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出る
7/11、第4代当主の氏政と弟の氏照(1540-1590/8/10)が切腹
7/12、氏直は紀伊の高野山へ追放と決まり、戦国大名の後北条氏が滅亡
7/21、氏直が一門らと家臣を伴って小田原を出立
8/12、氏直が高野山に到着、その後は高室院にて謹慎生活を送る
その後、(天正18)秀吉が大久保忠世(1532-1594)に4万5千石で小田原城を与える
1594、(文禄3)大久保忠世嫡男の忠隣(1553-1628)が小田原城を相続(最終6万千石)
1614/2/27 、(慶長19)忠隣が突如の改易で、近江に配流され井伊直孝に御預けとなる
    城代が置かれた後、稲葉氏が城主となる
1642、(寛永19)前後に最大規模化した寛永の大飢饉が発生、
    寛永19/5月に幕府(将軍・徳川家光)は諸大名に対し、領地へ赴いての飢饉対策を指示し、
    翌6月には諸国に対して倹約のほか米作離れを防ぐため煙草の作付禁止や身売りの禁止、
    酒造統制(新規参入及び在地の酒造禁止及び都市並びに街道筋での半減)、雑穀を使う
    「うどん・切麦・そうめん・饅頭・南蛮菓子・そばきり」の製造販売禁止、御救小屋の設置など
    の飢饉対策を指示する「触れ」を全国に出す
1686、(貞享3)忠隣の孫の大久保忠朝(1632-1712)が小田原城に復帰(最終11万3千石)
    以降、幕末まで大久保氏が小田原城の城主
1703/3月、(元禄16/2月)赤穂浪士が切腹
1703/12/31、(元禄16)元禄大地震が起る(M8.2)、小田原城下では倒壊家屋続出
    地震後の大火で小田原城の天守も焼失する壊滅的被害を受ける
1704/02/05、(宝永1)元号が「宝永」に改元される
1707/10/28、(宝永4)南海トラフ沿いを震源とする巨大地震宝永南関東地震、M8.7(震度7)
1707/12/16、(宝永4)宝永の富士山大噴火が始まる
1747、(延享4)火山灰が降り積もって領内の酒匂川(46km)がしばしば土砂氾濫・洪水を繰り返す
1854/12/23、(嘉永7)南海トラフ沿いを震源とする安政東海地震が発生、M8.4
1732、(享保17)享保の大飢饉
    中国・四国・九州地方の西日本各地、特に瀬戸内海沿岸一帯(徳川吉宗)冷夏と虫害
1782、(天明2)天明の大飢饉(-1787)
    全国(特に東北地方)、徳川家治、浅間山の噴火とエルニーニョ現象による冷害
1833、(天保4)天保の大飢饉(-1839年)全国(特に東北、陸奥・出羽)、徳川家斉・家慶
    大雨、洪水と、それに伴う冷夏(稲刈りの時期に雪が降る)
1853/07/08、(嘉永6)黒船来航
    マシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船が三浦半島の浦賀に来航
1854/12/23、(嘉永7)安政東海地震が発生(東海地震、M8.4)
1855/01/15、(嘉永7/11/27)内裏炎上、地震、黒船来航などで「安政」に改元
1855/11/11、(安政2)安政江戸地震、関東地方南部で発生、M6.9
1870、(明治3)廃城で、1872迄に建造物はほとんど取り壊され、天守台には大久保神社を建設
1901、(明治34)旧城内に小田原御用邸が設置される
1909、(明治42)唯一取り壊されなかった二の丸平櫓の修築工事が行われる
1923/9/1、(大正12)関東大震災で城内の小田原御用邸は大破し、その後廃止される
    現存二の丸平櫓は倒壊、石垣も大部分が崩壊
1930、(昭和5)〜1931に上記石垣が積み直される
1935、(昭和10)震災で倒壊した二の丸平櫓が隅櫓として復興される
1950、(昭和25) 関東大震災で崩壊した天守台の整備を開始、小田原城址公園として整備される
1960、(昭和35)天守がRC構造で外観復元される
1971、(昭和46)常盤木門(ときわぎもん)の外観復元
1997、(平成9)銅門(あかがねもん)復元
2009、(平成21)馬出門を復元
2006/4/6、(平成18)日本100名城(23番)に選定される。

参考HP:〜
相模国の場所地図(令制国)
小田原市の場所地図
小田原市の地図
小田原城の包囲戦の図(豊臣軍)
小田原城の鳥瞰図
酒匂川の場所地図

こちらで日光東照宮を、
こちらで江戸城を、
こちらで安土城を、
こちらで岐阜城をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      12/8/21
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