切手で綴る 冒険大航海 (Adventure Voyage) | |||||
★ロジャース物語 |
第1章 第2章 第3章 第4章 |
United Kingdom 国連 1983 発行 |
第4章 バハマ
バハマ総督
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大航海物語 イギリス編★ |
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・第1次航海・第2次航海・海賊ヴェーン |
BAHAMAS ウッズ・ロジャース総督 バハマ 2003/3/18 発行 |
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GIBLARTAR 護衛艦隊のイギリス戦列艦 ジブラルタル 2007 発行 |
USA→ 太平洋 |
Bahamas バハマ諸島の場所地図 バハマ 1975 発行 ナッソーはニュープロビデンス島に有 |
大西洋 バハマ←諸島 |
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ST.CHRISTOPHER NEVIS ANGUILLA | ||
カリブ海を航行する 快速スクーナー型海賊船 Pirate Schooner |
海賊取締りのイギリス軍艦 English Two Deckers イギリスの2層甲板軍艦 砲列甲板が2重構造 |
カリブ海を航行する 海賊の餌食になった輸送船 Smuggling Galleon 17th century |
セントクリストファーネヴィスアンギラ 1970 発行 |
▼第1次バハマ航海〜 1718/4/22:船団7隻、護衛の艦隊3隻〜1721/4月ロンドン帰港 1714年にアン女王の後を継いだジョージ1世(George I 1660-(即位1714)-1727)の顧問官から色々の提案を授けられたので、ロジャース船長はマダガスカル島の植民経営から西インドに目を向け、海賊が群がっているバハマ諸島の経営を会社から任され、植民地の利益を分け与えられることになりました。ロジャーズ船長が総督の任命を受けた時の島は不在君主の所有者(Lords Proprietor)によって名義上治められていました。ロジャーズ船長がバハマ総督に任命されると、不在君主は21年間のロジャーズ所有を認める契約をなし、バハマへの彼らの権利を留保しました。 バハマ諸島のニュープロビデンス島のイギリス入植地が1713年に放棄されると、海賊船長達が拠点を置くようになり海賊の植民地(colony of pirates)の状態になっていました。当時のバーミューダ総督によると、バハマは政府のていをなしておらず、植民地は海賊どもの巣窟で、海賊共和国(Privateers Republic)と自称して、海賊黒髭こと海賊エドワード・ティーチ船長が海賊共和国の大統領に祭り上げられていました。海賊黒髭の一の子分チャールス・ヴェーン海賊船長(pirate Charles Vane 1680-1721)は次々と船を奪っては乗り換え、まずバルバドスのスループ船を、次には備砲12門船ブリガンティン船の船名をレンジャー号(Ranger)と改名して、彼は自分を付け狙うイギリス軍艦の裏をかいて逃れ、1718年10月にはノースカロライナのオラコーク島(Ocracoke, North Carolina)で、1週間も海賊黒髭と共にパーティー(祝賀会)を楽しみました。 ・第1次バハマ総督(First term) 1718/1/6にジョージ1世によって、ロジャースは正式にバハマ総督(Captain General and Governor in Chief of the Bahamas)となりましたが、直ぐには新任地バハマ諸島へ発たず、ガーンジー島のベイルウィック(Bailiwick of Guernsey)で数ヵ月を遠征隊の準備に費やしました。7隻の船に兵士100人、開拓者130人と、乗組員への必需供給物資、ロジャース総督が魂のこもった教えに応えると信じた海賊への宗教的な布告文書(religious pamphlets)も積み込みました。 1718/4/22にイギリス帝国海軍々艦に随伴・護衛されて、ロンドンのテームス河を出帆。 ロジャース・バハマ殖民船隊の編成:〜 ・殖民船団7隻〜兵100人、開拓者130人、補給物資 ・護衛艦隊3隻〜大英帝国海軍々艦 1718/7/22にロジャース船隊がバハマ諸島のニュープロヴィデンス島(New Providence Island)ナッソー港(Nassau harbour)に到着。ロジャース新バハマ総督は1718/1/5付の「1718/9/5迄に降伏した者は国王の勅許で許される」との布告を海賊どもに発布し、海賊イングランド船長はじめ多くの海賊達がその恩赦を受諾して降伏し、許されました。ロジャーズ総督が2隻のイギリス軍艦に命じて降伏しなかった海賊を討伐に出撃させると、驚いたことに海賊ヴェーンが単身で抵抗しましたが失敗して逃げ去り、ロジャース総督はニュープロヴィデンス島ナッソー(Nassau)の港と街を確保しました。
1719/3/16にロジャース総督はイギリスがスペインと再び戦争していることを知り、資金を遠征の投資家に頼って、島の武装化建設を急ぎました。5月になるとスペイン艦隊がナッソーに送り込まれてきましたが、イギリスの同盟国になったフランスがペンサコラ(Pensacola)を占領したので、スペイン艦隊はそこへ向かいました。その隙にニュープロヴィデンス島の防備を固め、補給を行いました。1720/2/24迄にスペイン艦隊が姿を現しました。スペイン艦隊はナッソー港の防衛拠点だったパラダイス島(Paradise Island、現:(Hog Island)ホッグ島)に上陸しましたが、ロジャー総督軍はそれを撃退しました。その年以降は外部の脅威が去りました。イギリスがスペインと講和を結び、その後はスペイン船がバハマに現れることはありませんでした。しかし、ロジャー総督の抱える問題はそれだけでは終わりませんでした。ニュープロヴィデンス島の防御建設資金が過大となり、イギリスからの援助もなく、投資家は追加投資を断ってきましたので、財政は破綻状態になりました。ロジャー総督は健康を損なって、南カロライナのチャールストン(Charleston, South Carolina)で健康回復のため6週間静養しましたが、ニュープロヴィデンス島のことで論争となり、フラムボロー号(HMS Flamborough)船長ジョン・ヒルデスリー(Captain John Hildesley)と決闘して負傷しました。 ・バハマからの帰国 1721/3月にロンドンからの援助と連絡の不備で、ロジャース総督はイギリスに向けてナッソーを出帆しました。1ヵ月後に到着すると、新総督が既に発令されていて、彼の会社は倒産していました。ナッソーでの借財は個人契約であるとして、債務刑務所(debtor's prison:負債監獄)に投獄されました。政府と従前の協力者が債務の返済を要求している時に、投資家が憐れんで、負債監獄から放免されましたが、躁鬱症になってしまいました。1722年か1723年にロジャース船長は海賊の歴史作家の接触を受け、出版を勧誘されました。「最悪の海賊による強殺事件史」(A General History of the Robberies and Murders of the Most Notorious Pyrates)をチャールス・ジョンソン船長(Captain Charles Johnson)というペンネームで出版して、イギリスでも新大陸アメリカでも大ヒットになり、再び国家的ヒーローになりました。当局も再び彼に注目し、ジョージI世王は1721年にさかのぼって年金を与えることになり、1726年という年は大成功の年になりました。
1973年にバハマ諸島が独立するまで、バハマのモットーとして残っていました。 参考文献:〜 ・ウッズ・ロジャーズ著 「世界巡航記」平野敬一訳、17・18世紀大旅行記叢書:岩波書店、2004年 ・ウィリアム・ダンピール著 「最新世界周航記」平野敬一, 1992/11/10刊、17・18世紀大旅行記叢書(1) 参考:〜
1718/2/23、英海軍ピアース艦長(Cpt. Vincent Pearse)のフリゲート20門砲艦フェニックス号(Sixth-rate frigate HMS Phoenix, 20-gun, 1694)が海賊討伐にナッソーに到着して、ヴェーンは乗船のラーク号と一緒に捕えられるも、海賊ホーニゴールド船長(Cpt. Benjamin Hornigold, 1680-1719)らの働きかけで解放されました。1718/3/21、ヴェーンはジャマイカでスループ船を略奪してナッソーに戻り、ピアース艦長の守備するナッソーで繰り返し海賊を働き、スループ船をラーク号と交換して、1718/4/4にナッソーを去りました。1718/4/8、ピアース艦長はフェニックス号でナッソーを去り、ナッソーは再び海賊に支配されることになりました。海賊ヴェーンはナッソーを離れた後、バハマ周辺の海域を荒らしまわり、その残酷さで悪名を轟かせました。ヴェーンとその乗組員たちは襲った船の船員たちが降伏したにも関わらず、暴行を加えるなど残虐なことをなし、時には拷問を加えて金目の物の在り処を聞き出していました。そしてヴェーンはラーク号から、レンジャー号と名付けた海賊船に乗り換えて、5月と6月にもバハマ周辺の船舶を襲撃しました。 1718/7/22、新たなバハマ総督ロジャーズがナッソーに到着したとき、ヴェーンはナッソーに戻っていました。新総督ロジャーズが、英国王ジョージ1世が「降伏する全ての海賊に恩赦を与えて許す」という知らせをナッソーで布告した時、ヴェーンは恩赦を受けることに独り反対して反抗しました。ナッソーの港は前面に小島があるために二つの出入口があり、ヴェーンの船は大きすぎて港の出入口の1つを通過できず、もう1つはロジャーズ艦隊2隻が封鎖したので港に閉じ込められるも、ロジャーズ艦隊は一方の出入口は開けたままでした。これを見た海賊ヴェーンは、その夜、拿捕して港に留めていたフランス船の碇の綱を切って火を放ち、火船として砲火を浴びせながらロジャーズ艦隊に向かって突進させました。火船はロジャース艦隊の1隻に衝突して損害を与え、他は無傷なるも、船隊はバラバラに離され、水路の封鎖は解除されました。ロジャース艦隊が戻ってきた時には、ヴェーンは乗り換えていたキャサリン号を指揮して小さな出入口から脱出していました。バハマから離れたヴェーンは、キャサリン号の元船長チャールズ・イェーツ(Charles Yeats)と合流しました。ヴェーンは次々と船を奪っては乗り換えました。まずバルバドスのスループ船を拿捕し、配下のイェーツ他25人を乗り込ませました。次にぶん捕ったスループ12門砲船をレンジャー号と改名して乗り換えました。8月にはチャールストンに航海し、そこで8隻の船を襲撃。その積み荷の奴隷をイェーツ船長の船に積み替えました。海賊ヴェーンはその性格ゆえに嫌われ、イェーツのスループ船とそれに乗船している乗組員に対して横柄で、いつもないがしろにしていました。人手の少ないイェーツの船に多数の黒人奴隷を積み込んだことも彼らの反感を買う要因となり、嫌気がさしたイェーツはついに海賊ヴェーンの一味から離脱して国王の赦免を受けることを決めました。イェーツは奴隷と一緒に出帆して恩赦と引き換えにサウスカロライナ植民地のロバート・ジョンソン総督(Robert Johnson, 1682-在任1717-1719, & 1729-1735-1735)に降伏しました。 その頃、海賊ボネット討伐のため、ジョンソン総督にスループ船2隻で派遣されたウィリアム・レット大佐(Colonel William Rhett, 1666-1723)が、ヴェーンに物資を掠奪されたという船に出会いました。彼らはレット大佐に、一味が南に向かったという情報を話すも、これはヴェーンの嘘であり、実際には北進して、レット大佐から逃れました。海賊ボネットは捕らえられました。ヴェーンはニューヨークに向けて北上し、進路を南のカリブ海へ転じるまでの間、また何隻かの船を掠奪。8月にヴェーンはバハマのアバコ諸島(Abaco Islands)近くで、帆船の片側の水線下を補修するため、満潮時に露出させるために帆船を接地するカリーニング(Careening)という船の手入れ(別に傾船修理が有)をして、仲間の海賊ニコラス・ウッドール(Nicholas Woodall、活動時期1718頃)から物資と弾薬の補給を受けました。恩赦を受けたホーニゴールド船長は仲間のジョン・コックラム(John Cockram, 1689-1719)と一緒に海賊討伐として逃亡したヴェーンを追跡し、ウッドール船長を捕縛しました。9月にヴェーンは結婚するためにナッソーに戻り、街を奪還すると脅しました。10月にノースカロライナのオラコーク砂州(Ocracoke Inlet)に向かったヴェーンは、そこで黒髭ティーチと出会い、彼らは空高く大砲をぶっ放して礼砲としました。ヴェーンはその後1週間もの間、黒髭とともに祝賀会を楽しんで、別れました。そして、ヴェーンはバハマのエルーセラ島(Eleuthere)を襲撃して酒と家畜を略奪しました。
参考HP〜 ・ジャマイカ島の地図(矢印左上に ”Port Royal” 有) ・ガン・キーの場所地図 ・バハマ諸島の地図 ・バハマのニュープロビデンス島ナッソーの場所地図 ・バハマ諸島の場所地図 ・カリブ海の地図 こちらで ・米領ヴァージン諸島 ・ファントム・アイランド ・伝説のアニアン海峡 世界遺産の ・ピラミッド (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・姫路城 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 11/10/11、12/9/19, 令和 R.3/3/21 (2021) |
★ロジャース物語:第1章遠征航海、第2章セルカーク、第3章航海日誌、バハマ
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