Pirates of Caribbian | ||
Jolly Roger |
海賊エドワード・ティーチ船長 1711 カリブ海の海賊、”黒髭”になる |
大航海物語 ★ジャマイカ |
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GRENADA 海賊 黒髭 グレナダ 1970/2/1 発行 |
海賊の旗印 ”クロスボーン” イギリス 1971 発行 |
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British Virgin Islands 海賊・黒髭ティーチ船長 ヴァージン諸島 1970/11/16 発行 |
黒髭テ ィ|チ |
ANTIGUA 海賊の黒髭ティーチ船長 Edward Teach、Pirate Ketch アンチグア 1970/8/19 発行 |
海賊船ケ ッチ号 |
ブラック・ベアードこと黒髭はエドワード・ティーチと名乗って、カリブ海を荒らしまわったイギリス生まれの海賊で、黒髭として登場する前のことは全く分かっていないと言われています。黒髭は船を襲う時は、何振りもの剣とナイフ、数丁のピストルを身につけて現れ、あだ名となった豊かな黒髭に、麻の切れ端や、火をつけた導火線を編み込んでいました。このあまりに特徴ある姿かたちが、後の小説や演劇、映画などに登場する海賊の姿の元になった伝説的な海賊です。 |
エドワード・ティーチ (1680頃〜1718/11/22) Pirate Captain Edward Teach 別 名:黒髭(くろひげ、Blackbeard) 乗 船:12門スループ帆船リヴェンジ号(sloop Revenge)、 :40門クイーン・アンズ・リベンジ号(Queen Anne's Revenge:アン女王の復讐号) 活動場所:北米東部沿岸の大西洋、カリブ海 活動期間:1711〜1718 海賊仲間:海賊ベンジャミン・ホーニゴールド船長、 :海賊スティード・ボネット船長、海賊イスラエル・ハンズ船長など 最 期:オクラコーク入江の海戦で戦死 ティーチこと海賊”黒髭”の生い立ちは詳しいことは何もわからないとされており、名前もエドワード・サッチ(Edward Thatch)とも名乗っていたといい、それも偽名で本当のところは謎に包まれています。イングランドのブリストルで、1680年頃に生まれたといわれており、青年になるまでの彼の生い立ちはほとんど解っておらず、読み書きができたというので、この頃に身につけたのなら貧しい家庭の生まれではなかったと推定されています。 黒髭が船に乗ったのは、スペイン継承戦争(War of the Spanish Succession 1701-1714)の頃にジャマイカを拠点としていた私掠船に船員として乗組んだ時から始まりました。1716年頃にバハマ諸島のニュー・プロビデンス(現:ナッソー、Nassau)で、ジャマイカを拠点としていた海賊ベンジャミン・ホーニゴールド船長(Benjamin Hornigold 生年不詳-1719)に出会って手下になりました。1717/9月にイギリス軍艦に攻撃されて傷ついたリヴェンジ号(sloop Revenge)とスティード・ボネット船長(Stede Bonnet)がニュー・プロビデンスに入港。重傷を負っていたボネット船長からリヴェンジ号の指揮を任された黒髭が船長になり、ホーニゴールド船長の海賊船隊は3隻になりました。1717/11/18にマルティニーク島の近くのナントを出港してきたフランスの奴隷船、ラ・コンコルド号(frigate Le Concorde、40guns 300tons)を分捕って、その船の船長になりました。マルティニーク島の長官が「エドアルド・ティッチ (Edoard Titche) はイギリスの海賊で、それぞれ12門と8門の大砲を積んだ2隻の小型船を指揮下においており、250人の船員を従えていた」との記録を残しています。ラ・コンコルド号は、1710年にイギリスで建造された優秀なフリゲート艦で、アフリカ西海岸に入り込んだイギリス、オランダ、ポルトガル船籍の船を捕らえるという実績を上げていました。黒髭はこの船をクイーン・アンズ・リベンジ号(Queen Anne's Revenge:アン女王の復讐号)と名づけて改名し乗船していました。その後間もなく、ホーニゴールド船長は英国王ジョージ1世(King George I、1660-1727)の私掠船として認める恩赦(pardon)を受けて海賊稼業から引退しましたが、黒髭は恩赦を受けるどころか、海賊船隊の親分になって海賊の指揮を取りました。そして、彼は”黒髭”(ブラック・ベアード、Blackbeard)と呼ばれて「骸骨とハート(砂時計説有)」モチーフにした海賊旗を掲げて、北アメリカ大陸大西洋岸沿岸や西インド諸島の航路や居住地を荒らしまわり、抵抗する者に対してはその残忍な殺戮をして、海賊として一躍有名になりました。取締りに来たイギリスの軍艦スカーボロー号(HMS Scarborough 30guns)を撃退して、さらに名を上げました。黒髭は主要な航路で航行中の商船を襲い、乗船するように迫るのがそのやり方でした。商品、食べ物、酒、それに武器を奪い、抵抗しなければそのまま行かせてやり、もし抵抗した場合には全乗員を皆殺しにしました。彼は船の乗員が船倉に逃げ込むと、ハッチを閉めて硫黄(brimstone)を詰込んだポットに火を点けて投げ込んで、苦しんで出てくるのを待って殺すという残忍な手も使いました。 |
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★海賊黒ひげ物語 |
海賊・黒ひげ 1717 海賊共和国の長官になる |
大航海物語 ★バハマ |
ブラック・ベアード バハマ 1987/6/2 発行 |
クイーン・アン・リベンジ号 バハマ 1999/3/9 発行 |
海賊黒髭ティーチ船長 バハマ 1980/7/9 発行 |
St.VINCENT
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黒髭はバハマのニュー・プロビデンス港と、北米カロライナ植民地(1663〜1729年イギリスの北アメリカ植民地)のチャールストン港(Charleston Harbor)との2ヵ所に「隠れ家」(というよりは海賊の町 Pirate Town)を持っていました。ニュー・プロビデンス港に住んでいるときに海賊共和国 (Privateers Republic) の行政長官に選ばれました。ノースカロライナのチャールズ・エデン総督(Govner Charles Eden 1673-1722)は協定を結び、黒髭の「戦利品の一部」と「船舶の保護」とを引き換えに私掠船として認める恩赦を与えました。 1718年にイギリスのウッズ・ロジャーズ(元私掠船の船長)が初代バハマ総督に任命されると、彼は海賊退治に乗り出し、ニュー・プロビデンスを襲撃して拠点を壊滅させたため、黒髭はほうほうのていで逃亡しました。黒髭はニュー・プロビデンスを放棄してから数週間後には再び海賊に出帆し、1718/5月遅く頃にクイーン・アンズ・リベンジ号とアドヴェンチュアー号(Adventure)イスラエル・ハンズ船長(Israel Hands)と小型船2隻の船隊でチャールストン港(Charleston, South Carolina)に現れ、5隻の商船を取り逃がしましたが、その他の商船と町を襲って略奪し、チャールストン港を分捕りました。その後、ビューフォート入江(Beaufort Inlet, North Carolina)のトップセイル入江(Topsail Inlet)でクイーン・アンズ・リベンジ号ともう1隻の船が座礁しました。黒髭は北米ノースカロライナのオクラコーク島(Ocracoke Island)オクラコーク入江(Ocracoke Inlet)を泊地にして4隻の船隊を停泊し、恩赦を受入れ海賊稼業から引退しました。ところが、ノースカロライナのヴァージニア植民地総督スポットウッド(Governor Alexander Spotswood 1676-1740)は評判が悪い略奪者が近くに生きていることを心配するようになりました。そして軍隊で海賊黒髭を退治する決心をして、スポットウッド総督はロバート・メイナード海軍大佐(Lieutenant Robert Maynard)に2隻の船、2隻の傭船スループ帆船レンジャー号(sloop Ranger)とジェーン号(sloop Jane)を与えて海賊の捜索討伐隊長に指名しました。 1718/11/18にメイナード大佐はヴァージニアのハンプトン港(Hampton, Virginia)からイギリスの戦艦2隻、パール号(HMS Pearl、fourth-rate 42 gun)とライム号(HMS Lyme、sixth-rate 20gun)、そして2隻の傭船レンジャー号とジェーン号の4隻の戦隊を率いて出帆し、ジェームス川(James River)を航海して黒髭の海賊船隊を捜索しました。11/21にオクラコーク入江で彼らを発見し、11/22にオクラコーク入江に突入して入江を封鎖して、海賊の船隊に接舷、乗り移って攻撃を敢行しました。激しい白兵戦の戦いの中で、黒髭は死ぬまでに25回以上、剣や銃で傷つけられながらも暴れ回りましたが、結局、打ち取られました。死後に捜索隊長でパール号艦長メイナード大佐の手によって首を切り落とされました。海賊・黒髭の首は見せしめのために船の船首に吊るされて晒しものにされました。 |
Pirates of Caribbian | ||
★海賊黒ひげ物語 |
海賊ティーチ船長 1718 海賊黒髭の生涯は伝説となる |
大航海物語 ★カリブ海 |
Turks & Caicos Islands ディズニーが描く海賊・黒髭 BLACKBEARED ディズニー・アニメの一場面 1955 ディズニーランド30年記念 1985 タークス・カイコス諸島 1985/10/4 発行 |
海賊黒髭ティーチ船長
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Tanzania 海賊船 タンザニア 1994/4/20 発行 |
Jamaica 羊皮紙の宝島地図(?) Treasure Island Map、1576 ジャマイカ 1976/3/12 発行 |
その後、黒髭の生涯は伝説となり、様々な小説、絵、映画の題材となりました。当時の人気のあった木版画では、髭に火をつけ、数丁のピストルを弾薬帯に差した黒髭の姿が描かれています。1996年に米国ノースカロライナ州ビューフォートの近くで彼の乗船クイーン・アン・リベンジ号らしい船体の残骸が発見され、観光名所となっています。 ・海賊船クイーン・アン・リベンジ号の装備:〜 Queen Anne's Revenge、1717
参考HP:〜 ・トップセイル入江の地図 ・ビューフォート入江の地図(広域地図) ・ビューフォート入江の地図(帆船イラスト入り) ・現ナッソーの地図(日本語) ・ナッソーの地図(Nassau) ・カロライナ植民地の地図(北米) ・チャールストン港の地図(Charleston Harbor) ・ジェームス川の地図(James River) ・オラコーク入江の場所地図(古地図、1775) 参考:〜
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/3/26、12/7/11、12/8/4、12/8/13、12/11/23 |