切手で綴る 冒険大航海 (Adventure Voyage)

★ロジャース物語

第1章

第2章
第3章
第4章
United Kingdom

国連 1983 発行
第2章  セルカーク
フアン・フェルナンデス諸島
1709/2/2
セルカークの救出

大航海物語
  イギリス編

ウッズ・ロジャース船長


セルカーク島→


サンタ・クララ島→
フアン・フェルナンデス諸島

諸島発見400年記念
チリ 1974/11/22 発行


ロビンソン・クルーソー島

フアン・フェルナンデス諸島への航海
  Voyage to Juan Fernandez Islands
ダンピール航海長はファン・フェルナンデス諸島のことを以前の航海経験で知っていたので、新鮮な補給品を得るためにロジャース遠征船隊を島へとナヴィゲート(水先案内)できました。1709/1/31に島に接近して海岸の火を見つけ、スペイン船の上陸者ではないかと恐れました。翌々朝にロジャース船長が乗組員を上陸させてみると、そこで4年前に島に置き去りにされていたイギリスのスコットランドの船乗り(Scottish sailor)アレクサンダー・セルカーク(Alexander Selkirk 1676-1721)を発見しました。

・セルカークの救出をこちらでお楽しみください。
  1709/2/2:発見・救出、2/14:出帆

私掠船(海賊)大航海
  Privateer Voyage、raids on the Spanish

1709/2/14に遠征船隊デューク号とダッチェス号はマス・ア・ティエラ島を出帆して南アメリカ沖の太平洋を北上し、ペルー沿岸で多くのスペイン小型船舶を捕獲して略奪しました。その後、エクアドルのグアヤキル(Guayaquil)の街に対する攻撃を企てました。ロジャース船長がグアヤキルのスペイン総督に降伏するように警告した時に、街中の人が貴重品を隠しました。街で控え目の身代金を得ることができましたが、乗組員の何人かが死ぬほどの苦しい航海の報酬にしては少ないと不満をもらし
スパニッシュ・ガレオン船

スペイン 1964/7/16 発行
不満がもとで病気になって壊血病もあって、6人が亡くなりました。遠征船隊は、ロジャース船長に捕獲船を与えられたサイモン・ハトリー船長(Simon Hatley, early 18s)を見失い探しましたが、見つけることはできませんでした。それもその筈、ハトリー船長達はスペインの捕虜になって、ペルーのリマ(Lima)で投獄されていました。

長期の航海でロジャーズ遠征隊乗組員の不満が募ってきて、ロジャース船長と士官達は新たな反乱を恐れました。その不満はメキシコからバハ・カリフォルニア・スル州サンルーカス岬(Cabo San Lucas)周辺を航海している時に、1709年秋から1710年初めにかけて、大きくて遅く鈍重といわれたスペインのマニラ航路スパニッシュ・ガレオン船の略奪に成功して解消されました。

ロジャーズ遠征隊は1709/11月にバハ・カリフォルニア半島の南端サン・ルーカス岬沖で、スペインの大型マニラ・ガレオン船(Great Manilla Galeon)ヌエストラ・シニョーラ・デ・ラ・インカルナシオン・ディセンガニオ号(Nuestra Senorade la Incarnacion Disenganio)193人乗組を襲撃して、金塊・貴金属・珍しい絹製品などの豊富な積荷$100万ドル相当を獲得しました。ところが、その戦いでロジャース船長は顔を負傷しました。両船がディセンガニオ号(Disenganio)を捕獲して、得物を略奪している間に、もう一隻の武装ガレオン船(well-armed galleon)ベゴナ号(Begona)が反撃してきて、両船にダメージを与えて、ディセンガニオ号は乗組員と共に逃走しました。また、1710/1月にスペイン船ヌエストラ・シニョーラ・デ・ラ・エンカマシオン・デ・シンガノ号(Nuestra Senora de la Encarnacion de Singano)の$100万ドル相当の積荷も略奪に成功しました。その戦いの中でロジャース船長の弟が戦死しました。デューク号とダッチェス号の両船はそれぞれの略奪品を積んで、太平洋をほうほうのていで横断し、グアム島(Guam)にたどり着き、スペイン領でしたが歓迎されて補給できました。その後、両船は当時中立のオランダ領バタヴィア(Batavia、現:ジャカルタ)に到着。そこでロジャース船長は唇から「銃の球」(musket ball)の摘出手術を受け、高価な代償を支払いました。それは略奪品の半分にも相当する財宝を手放すことになりました。

帰国の航海(Homeward voyage):〜ロンドンに帰国
デューク号とダッチェス号の両船は喜望峰回りでケープタウンに寄港して、1711/10/14にイギリスのロンドンに帰国、テームス河(Thames River)に帰港して投錨することができました。ところが、オランダの存在はイギリス東インド会社の独占(monopoly)を損なうものでしたので、東インド会社がオランダの東インド居住地での独占権の不履行に対して、ロジャース船長が持ち帰った財宝の4%相当£6,000 ポンド(約£666,000:2009年) の損害賠償を請求してきました。それで法的闘争が続きました。(※注)ロジャース遠征隊は£20万ポンドの財宝をスペイン船から略奪したと伝えられていますが、バタヴィアでその一部を失っており、この記録で£15万ポンドの財宝を持ち帰ったことが解りますね。それは現在の価値で£16.650,000ポンド、即ち@120円換算で19兆98百万円(1,998,000,000=@120円:2011/9/20)となるわけです。勿論ブリストルの投資家達も分け前にあずかり、投資額は2倍になって戻ってきました。

ロジャース船長は美顔を損ない、弟を遠征航海途中の太平洋の戦い(1709/4/15)で亡くしましたが、£1,600 (現在価値£1,776,000:2009)、即ち2億1,312万円(2011)を家に持ち帰りました。家に持って帰った財宝で、彼の不在中の借金と家族の負債を全て返済するに余りありました。長い航海とスペイン船略奪の成功で、国家的英雄にもなりました。そしてロジャース船長は世界一周航海した遠征隊、すなわち最初の船隊と大部分の乗組員を無事に帰国させた最初のイギリス人となりました。帰国後、毎年4人の子供に恵まれ、男子一人は夭逝し、ウッズ(Woodes)とサラ(Sarah)とは間もなく永久に分かれました。帰国後の1712年に「世界1周航海記」(A cruising voyage round the world: first to the South-Sea, thence to the East-Indies, and homewards by the Cape of Good Hope)は、セルカークの過酷な体験談を添えて刊行されました。ロジャーズ船長と、その部下でダッチェス号の士官の一人エドワード・クーク(Edward Cooke)も執筆したそれぞれの本は、バハ・カリフォルニア半島の南端サン・ルーカス岬周辺の原住民に関する民族学的に重要な資料ともなりました。クークの本はセルカークの救出を軽く流しましたが、ロジャース船長の本はセルカークの救出が好評を博して数ヵ月間増刷を重ねました。そしてセルカークの救出劇は、ダニエル・デフォー(Daniel Defoe 1660-1731)によって、ロビンソン・クルーソ物語(Robinson Crusoe)になりました。ロジャース船長の執筆が財政的成功をもたらすかたわら、英国の航海士(navigators)と英国の植民地獲得に大いに貢献しました。ロジャース船長の紹介は南太平洋貿易の推進を擁護し、太平洋に植民地があったら、乗組員の食料の心配がないと特筆していました。第3刷には遠征場所の詳細が記され、貿易拡大の可能性が強調され、ラプラタ河(River Plate)地域を詳述しました。南海貿易の限界としていました。ロジャース船長の執筆は南太平洋のナヴィゲーター(航海士)のジョージ・アンソン提督(Admiral George Anson)、私掠船長ジョン・クリッパートン(privateering captains John Clipperton 生年不詳-1722)、ジョージ・シェルヴォク船長(George Shelvocke 1675-1742)などに活用されました。第3章マダガスカルへ続く。

参考HP〜
キンセール港の場所地図
ファン・フェルナンデス諸島の場所地図
ファン・フェルナンデス諸島の地図
ファン・フェルナンデス諸島への航海地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。    11/10/11

★ロジャース物語:第1章遠征航海セルカーク、第3章航海日誌、第4章バハマ
スタンプ・メイツ
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