切手で綴る 太平洋戦争 物語 第3部 <米国(連合軍)の反攻> 第17章 ニューギニア 88 <米軍、ニューギニア上陸> 1944/4/22 米・豪軍が飛び石作戦でニューギニアの 中部北岸ホーランジアとアイタペに上陸 |
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ニューギニアの地図 下はオーストラリア北部の地図 パプアニューギニアの国旗 ツバル 1986 発行 |
パプアニューギニアの地図 パプアニューギニア 1952/10/30 発行 |
(1)ブーゲンビル島 (2)ニューアイルランド島 (3)ニューブリテン島 (4)ニューギニア島 |
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Milne Bay ミルン湾 揚陸中の輸送船を襲う米グラマン |
Coast Wachers コースト・ウオチャー 海岸を見張る米軍協力ゲリラ |
Kokoda Trail ココダ道を進軍する連合軍 |
パプアニューギニア 発行 |
1942/1/23の帝国軍のラバウル占領以来、オーストラリア領だったポートモレスビー攻撃が始まりました。それに伴いニューギニア各地への帝国軍の上陸がありましたが、珊瑚海々戦の結果、海上からのポートモレスビー攻略は断念されました。4,000m級のオーエンスタンレー山脈を越えての陸上からの攻略は、ポートモレスビーを目前にしながら、ガダルカナルの敗北その他により中止されました。その後、米軍の反抗により、一路敗退へとなってゆきました。 |
・米軍、ニューギニア上陸、1944/4/22、米軍の勝利 ・帝国呼称:ホーランジアの戦い、(Battle of Hollandia)、1944/4/22 別名:西部ニューギニア作戦(Western New Guinea campaign、1944/4/22〜1945/8/15) 米軍呼称(コードネーム):(Battle of Hollandia、code-name:Operations Reckless) 場所:現インドネシア共和国パプア(イリアンジャヤ)州ホーランジア(現ジャヤプラ) (Kota Jayapura, Papua(Irian Jaya) Province, Republic of Indonesia) ・帝国呼称:アイタペの戦い、(Battle of Aitape)、1944/4/22 別名(米軍呼称):アイタペ上陸(Landing at Aitape、code-name:Operation Persecution) 場所:現パプアニューギニア国サンダウン州アイタペ (Aitape, Sandaun Province, Papua New Guinea) ・参考HP:〜 ・ニューギニアの地図(Hollandia、Aitape有) ・ホーランジア付近の地図 ・アイタペの地図 ▼発端:〜 ・ニューギニアの戦い、1942/3/7〜1943/8/15 別名(米軍呼称):New Guinea campaign, 1942/1/23-1945/8 1942/3/8に帝国軍が東部ニューギニアのラエ、サラモアに上陸し占領しました。 これがニューギニアの戦いの始まりであり、ダグラス・マッカーサー大将が率いる連合軍との間で1945/8/15の帝国敗戦まで戦いが続けられました。連合軍の優勢な戦力の前に帝国軍は次第に制海権・制空権を失って補給が途絶し、将兵は飢餓やマラリアなどの熱病、過酷な自然環境とも戦わねばならならず、ニューギニアに上陸した20万人の帝国軍将兵の内、生還者は2万人に過ぎませんでした。また台湾高砂族による高砂義勇兵や朝鮮志願兵、チャンドラ・ボース支援のインド兵も戦闘に参加しました。 太平洋戦争が始まると、帝国軍はトラック諸島の海軍基地を防衛する必要からニューブリテン島ラバウルを攻略して前進拠点とするも、ラバウルはオーストラリア領ニューギニアの中心拠点ポートモレスビー基地からの爆撃圏内でした。帝国軍はラバウルの防衛と米豪遮断作戦で、海路からポートモレスビーへ上陸して攻略する「MO作戦」を策定し、ニューギニア島東のフォン湾 (Huon Gulf)北岸ラエやサラモアに前進航空基地の設営を計画しました。ところが、1942/5/8サンゴ海々戦が勃発、1942/6/5にはミッドウェイ海戦で帝国海軍が敗北して「MO作戦」は中止になりました。 連合国軍とっては、ポートモレスビーはオーストラリア本土の最後の防衛線であり、絶対に守り抜かねばならない拠点でした。また、フィリピンから脱出してオーストラリアに拠点を置いていたダグラス・マッカーサー大将にとっては、オーストラリアからニューギニア島北岸を経由するルートは、フィリピンを奪還し東京へと至る反撃ルートの起点でしたので、1942/5/25にマッカーサー大将はオーストラリア軍最高司令官トーマス・ブレーミー陸軍大将の指揮下にあるニューギニア部隊(ニューギニア・フォース)の司令官バジル・モリス少将にブナの確保を命じ、モリス少将は豪第39大隊を飛行場があるココダへ進撃さ、1942/8/22には連合軍がミルン湾に上陸しました。また、連合軍司令官マッカーサー陸軍大将と豪軍ブレーミー大将はポートモレスビーの帝国による攻略を恐れ、東部ニューギニア部隊司令官をモリス少将からシドニー・ラウェル中将に換え、ラウェル中将が1942/8/13ポートモレスビーに到着しました。1943/3/28には、アメリカ軍統合参謀本部がカートホイール作戦を発令し、ニューギニア方面からの反撃がマッカーサー将軍の下で本格的に開始されることになりました。 ・主なニューギニアの戦い〜 ▼東部ニューギニアの戦い
●海上からのポートモレスビー(MO)作戦と珊瑚海々戦:〜1942年
●陸路ポートモレスビー作戦(レ号作戦、別名:スタンレー作戦) (帝国呼称:Operations Re-Go、1942/3/7〜1943/1/23) 1942/5/18、南海支隊を指揮下に置く第17軍が編成される (第17軍:ソロモン諸島方面と東部ニューギニア方面を担当)
・ブナとゴナの戦い(ポートモレスビー作戦の後半) (Battle of Buna-Gona, 1942/11/16-1943/1/22)
▽陸路ポートモレスビー作戦:〜、1942/3/7〜1943/1/23 <両軍の兵力と損害>
○帝国軍の編成:〜 <陸軍> ・第17軍:司令官 百武晴吉中将(1888-1947病死) ・第18軍:司令官 安達二十三中将(1890-1947ウェワク北ムシュ島自殺) ・南海支隊(歩兵第144連隊基幹) ・支隊長:堀井富太郎少将(1890-1942/11/23クムシ河口溺死) 後任:小田健作少将(1888-1943/1/21クムシ河畔自決) ・配属〜歩兵第41連隊、独立工兵第15連隊、独立高射砲第47大隊、高砂義勇隊ほか ・独立混成第21旅団主力(司令部及び歩兵第170連隊の2個大隊) ・旅団長:山県栗花生少将(1890-1945/2/15レイテ決戦輸送中海没) ・第38師団 歩兵第229連隊第3大隊 <海軍> ・横須賀第5特別陸戦隊主力、兵力〜285人 ・司令:安田義達大佐(1898-1943/1/2ブナ戦死) ・佐世保第5特別陸戦隊一部〜兵力108人 ・第15設営隊、警備兵〜約100人、軍属〜560人 ・第二艦隊第十八戦隊 ・軽巡洋艦 天龍、龍田など(1942/7月ブナ・ゴナ上陸支援)。 ○連合軍の編成:〜(米豪軍) <米軍> ・第1軍団 司令官:ロバート・アイケルバーガー少将 ・第32師団(U.S.Army 32nd Infantry Division) ・第41師団(U.S.Army 41st Infantry Division) <豪軍> ・第7師団(Australian 7th Division) ・基幹〜第18旅団、第21旅団、第25旅団 ・第6師団〜第16旅団、第30旅団(30th Brigade)。 ●その他の東部ニューギニアの戦い
こちらで ・ビスマルク海々戦(ダンピール海峡の悲劇)、Battle of the Bismarck Sea, 1943/3/2-3/4 ・ニューギニア増援の第51師団輸送船団がダンピール海峡で、ほとんど海没 ・米軍のカートホイール作戦(車の両輪作戦)、1943/6/30〜1944/1/29(狭義) ・マッカーサー将軍とニミッツ提督の反撃路が決定(1943/3/28)され、 連合軍の飛び石作戦で強力な帝国空軍の前線基地ラバウルなどを素通りして孤立化 ・帝国のい号作戦、Operation I-Go、1943/4/7〜4/14を お楽しみください。 ・ラエ・サラモアの戦い(Battle of Lae-Salamaua) 別名(米軍呼称):(Salamaua-Lae campaign, 1943/4/22-9/16) ・1942/8/08、帝国第51師団約15,000人が東部ニューギニアの要地ラエとサラモアを占領 ・1943/4/22、豪軍第2・第7大隊がサラモアに上陸 ・1943/9/11、豪軍主体の連合軍がサラモアを奪還 ・1943/9/16、豪軍主体の連合軍にラエを奪還されたので、 帝国軍は標高4,100m級のサラワケット山系を越えて撤退を開始 「サラワケット越え」でフォン半島北岸キアリへ向って敗退 ・1943/10/5、帝国軍はラエ出発から約3週間でキアリに到着、多数の犠牲者を出す。 <ラエ・サラモアを巡る戦い> ・第1次・第2次ムボの戦い (First Battle of Mubo、1943/4/22-7/14) ・第1次・第2次ボブデュビの戦い (First Battle of Bobdubi、1943/4/22-8/19) ・ラバビア山麓の戦い (Battle of Lababia Ridge、1943/6/22-6/23) ・連合軍のナッソー湾上陸 (Landing at Nassau Bay、1943/6/30-7/6) ・タンブ山の戦い (Battle of Mount Tambu、1943/7/16-8/18) ・ルーズベルト山麓の戦い (Battle of Roosevelt Ridge、1943/7/21-8/14) ・連合軍のラエ上陸 (Landing at Lae、1943/9/4-9/16) ・連合軍のナザブ上陸(空挺作戦) (Landing at Nadzab、1943/9/5) ・フィンシュハーフェンの戦い、1943/9/22〜1943/12月下旬 (Battle of Finschhafen) 別名:フォン半島の戦い(Huon Peninsula campaign、1943/9/22-1944/3/1) ・1942/03/10、帝国軍がフィンシュハーフェンへ上陸・占領 ・1942/12/18、ウェワクに第20師団(兵力約1万3千人)が上陸(1943/1月下旬説有) マダンに航空基地を建設した後 4月以降、マダンからラエまでの道路(300km)を建設中で、9月頃60km工事を終了 ・1943/9月頃、フィンシュハーフェンに展開の帝国軍は第1船舶団司令部と第41師団歩兵第238連 隊第1大隊基幹の750人、海軍第85警備隊の一部(435人)の他、第51師団第4野戦 病院と入院中のラエ・サラモアの戦いでの傷病兵
・ラム河谷の戦い、1943年 (Battle of Ramu-Valjey)
参考HP:〜 ・パプアニューギニア国の地図(Bismark Range、ラム川(Ramu)有)
・マヌス島の戦い:〜
・エミラウ島の無血占領 (Landing on Emirau, 1944/3/20-3/27) ・3/20、米第3両用戦部隊がニューアイルランド島カビエン北方のエミラウ島を確保 飛行場を建設。 ●連合軍の反撃:〜(1943-1944) 1942/6/25、連合軍がミルン湾ラビ上陸、飛行場建設、連合軍が反撃開始 ・連合軍の進撃路:〜(上陸(攻撃)日) <東部> ・42/06/25〜ミルン湾ラビ、43/1/29ワウ ・42/11/16〜ブナ パサブア、42/10/15豪軍がココダから山越えで到着 ゴナ、42/10/15豪軍がココダから山越えで到着 ・43/04/22〜サラモア ・43/09/04〜ラエ 帝国のサラワケット越え(ラエ43/9/16→キアリ43/10/5) ・43/09/22〜フィッシュハーヘン ・43/12/05〜シオ ・44/01/02〜サイドル(マダンとキアリ中間) 帝国のガリ転進(ガリ(キアリ)44/1/2→マダン44/2/2) ・44/02/29〜アドミラルティ諸島。 <西部> ・44/4/22〜アイタペ ・通 過 〜 ウェワク ・44/4/22〜ホーランジア ・44/4/24〜マダン ・44/5/17〜ワケダ島 ・44/5/17〜サルミ ・44/5/27〜ビアク島 ・44/7/10〜ドリニュモール川(アイタペ・ウェワク間) ・44/9/15〜モロタイ島 ・44/10/20〜比島(レイテ島へ上陸)。 ▼西部ニューギニアの戦い (Western New Guinea campaign, 1944/4/22-1945/8/15) ・連合軍の飛び石作戦(西部ニューギニア)
・ホーランジアの戦い、1944/4/22〜6月下旬 (Battle of Hollandia, 1944/3/30-4/3) 別名(米軍呼称):ホーランジアの戦い(Battle of Hollandia、code-name:Operations Reckless) 米軍作戦名:レックレスとパーセキューション作戦 (code-name:Operations Reckless & Persecution, 1944/4/22) ・アイタペ上陸(Landing at Aitape)、1944/4/22 米軍作戦名:パーセキューション作戦(code-name:Operation Persecution) ・アイタペ・ウェワク作戦 (Aitape-Wewak campaign, 1944/11-1945/8) 場所:ホーランジア(現ジャヤプラ)
・サルミの戦い (Battle of Sarm)、1944/6/14-9/1 別名:ローンツリーヒル(入江山)の戦い(サルミ地区のマッフィン湾岸) (Battle of Lone Tree Hill、or Battle of Wakde-Sarmi)
・ワケダ島の戦い (Battle of Wakde Island, 1944/5/15-5/28)
・モロタイ島の戦い、1944/9/15〜1945/6月下旬 (米軍呼称:Battle of Morotai Island, 1944/9/15-1944/10/4)
・ビアク島の戦い、1944/5/27-8/20 (Battle of Biak Island, 1944/5/27-8/17) 両軍の兵力:〜帝国軍14,900人、米軍30,000人
・ヌムフォル島の戦い (Battle of Noemfoor, 1944/7/2-8/31) 別名:ヌムホル島・サンサポール岬の戦い
・サンサポールの戦い (Battle of Sansapor)、1944/7/30〜1944/8/31 米軍作戦名:グローブトロッター作戦 (Operation Globetrotter)
・帝国のアイタペ攻撃 ・別名:アイタペのドリニュモール川の戦い、1944/7/10〜8月上旬、米・豪の勝利 (Battle of Driniumor River, 1944/7/10-8/25) 場所:アイタペ・ウェワク間のドリニュモール川
・ウェワクの戦い (Battle of Wewak)、1944/8/5〜1945/8/15
・イドレ死の行軍 (Idore Death March)、1944/7/1〜 場所:西部ニューギニアドベライ半島東部
・ニューギニアの主な戦い:〜
参考HP:〜 ・ニューギニアの地図(日本語、キリウィナ島・マヌス島有) ・ニューギニアの地図(日本語、Google Map) ・ニューギニア東部の地図(日本語、ミルン湾からラエの地図) ・東部フォン半島の地図(拡大付、Madang, Saidor, Kiari, Sio, Saruwaged Range, Finschhafen, Lae有) ・東部ミルン湾の地図(GiliGili, Kilarbo, Rabi有) ・トロブリアンド諸島の地図(Kiriwina(キリウィナ島)有) ・ココダ道の場所地図(ポートモレスビー〜ココダ〜(ブナ)ゴナ) ・サラワケット越えの場所地図(日本語) ・パプアニューギニア国の地図(Bismark Range、ラム川(Ramu)有) ・西部マノクワリ付近の地図(ソロン、マノクワリ、ビアク島、ホーランジア有) ・西部ドベライ半島の地図(拡大付、ソロン、サンサポール、マノクワリ、イドレ有) ・連合軍侵攻の地図(ニミッツ軍とマッカーサー軍の反撃路地図) ・ニューギニア東部の地図 ・ニューギニア侵攻の地図(ラエから西への侵攻地図) 2016/2/10 |
89 <台湾沖航空戦> 幻の大戦果 1944/10/12 |
幻の米機動部隊に襲いかかる帝国の航空機隊 帝国空軍が幻の米機動部隊を撃滅 マーシャル 1994 発行 |
・台湾沖航空戦、1944/10/12〜10/16、薄暮・夜戦 (Formosa Air Battle)、帝国の「幻の大戦果」 場所:台湾東方海域 (Western Philippine Sea) 昭和19年7月9日サイパン島が陥落。サイパンが米軍に占領されたことで、戦略爆撃機B−29による帝国本土空襲が可能になりました。そして米軍の次の目標は、そのまま硫黄島から本土に向かうコースと、フィリピンから沖縄へ向かうコースとに分かれましたが、結局マッカーサー将軍が強く主張した後者が採用され、フィリピン奪還に向かうことになりました。 7月24日帝国で「捷(しょう)号作戦」が裁可されました。捷号作戦は予想される決戦区域によって4つに区分され、大本営はそのいずれに敵が来攻しても陸海空戦力を総結集して起死回生の決戦を行うよう計画。本作戦は実施上特に陸海軍の航空戦力を統一運用することが必要でした。しかし連合艦隊の航空部隊は、「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)で参加600機の約2/3にあたる395機喪失という壊滅的打撃を受けており、本格的な再建は19年後半に予想される米軍進攻には間に合いませんでした。捷号作戦準備として、陸軍から第2・第4飛行師団が満州から逐次進出、海軍基地航空部隊としては第1航空艦隊が比島に展開しており決戦予想時までに整備し得る兵力は海軍1,300機、陸軍1,700機の計約3,000機と見込まれました。だが練度は低く米軍の正面兵力の1/3に過ぎませんでした。 幻の大戦果<台湾沖航空戦> 9月9日ハルゼー大将麾下の米機動部隊は、パラオ諸島から一転フィリピン・ダバオを中心にミンダナオ島に来襲。早朝ダバオではサランガニ見張所が敵上陸用舟艇接近という誤報を発信し実在しない敵に対して捷1号作戦警戒を発令。12日になり米機動部隊は再度比島に来襲。その後9/21以降も空襲は続行。その結果9/23現在の1航艦の実働兵力は250機から63機に激減。またこれと協同する陸軍第4航空軍の約200機はほとんど全機を喪失。これによって航空兵力の温存という捷号作戦の前提が相当程度崩れました。さらに10/10には沖縄空襲、10/12からは米機動部隊の延べ2,700機による大空襲が台湾を襲いました。このとき帝国空軍はH6号電探装備の海陸協同の精鋭「T攻撃部隊」(指揮官:久野修三大佐、約150機)を中心とする航空総攻撃(鹿屋、沖縄などから計約400機)を薄暮から夜間にかけて実施して、膨大な戦果を挙げたとされました。帰還機は約100機。 <大本営発表> 昭和19年10月20日付 朝日新聞など 「赫々台湾沖航空戦」 「空母19戦艦4等、撃沈破45隻」 敵兵力の過半を壊滅 我が方の戦果 ・撃沈:空母11、戦艦2、ほか4隻 ・撃破:空母 8、戦艦2、ほか5隻、艦種不詳13隻、その他火焔火柱を認めたもの12隻 ・撃墜:112機、基地による撃墜を含まず ・飛行機未帰還:312機 帝国臣民を狂喜させた発表とは裏腹に実際には米艦艇で撃沈されたものは1隻もなく、空母1、軽巡2、駆逐艦2隻の損傷だけでした。帝国軍は航空機だけで300機以上を一挙に喪失し、再建途上の決戦兵力を再び失うこととなりました。さらにパラオ・沖縄・台湾の一連の空襲で帝国軍の航空兵力の損害は合計700機以上(米軍資料では1,200機以上)にのぼりました。大本営海軍部は10月16日の索敵(台湾東方洋上に空母7隻、戦艦7隻からなる大艦隊を発見との報告)で、この大戦果が虚報であることを知りましたが、陸軍にも小磯首相にも伝えられることはありませんでした。この結果、陸軍は台湾沖航空戦の戦果に基づき従来のルソン決戦の方針を変更して、レイテ決戦に踏み切ることとなりました。 ▽両軍の兵力と損害:〜
○帝国軍の編成:〜 ・第一航空艦隊(司令長官:寺岡謹平中将)〜約200機 ・陸上基地航空機部隊 ・第二航空艦隊(福留繁中将)〜約1,000機 ・陸上基地航空機部隊 ・第一機動艦隊(小沢治三郎中将) ・艦載機のみ(陸上基地で作戦)〜約200機 ・第五艦隊(志摩清英中将) ・重巡洋艦 那智、足柄 ・軽巡洋艦 阿武隈 ・駆逐艦〜7隻 (曙、潮、霞、不知火、若葉、初春、初霜) ※誤報戦果にて残敵掃蕩の任で帝国本土から出撃するも、会敵せず帰投。 ○米軍の編成:〜 ・第3艦隊 司令長官:〜ハルゼー大将(Admiral William F Halsey) ・第38任務部隊(Task Force 38:シャーマン中将)シャーマン隊〜総数95隻、艦載機〜約1,000機 <航空母艦>〜17隻 ・第1空母群(1st Aircraft Carrier Group) (第38任務部隊第1群(Task Foce 38 Task Group 1)、略称:TF38.1) マッケーン空母機動部隊:〜(マッケイン隊) 司令官:マッケイン少将(Rear Admiral John Sidney "Slew" McCain Sr. 1884-1945/9/6) 航空母艦:〜5隻 ・空 母ホーネット2世号(USS Hornet, CV-12, 27,100t, 100p) ・空 母ワスプ2世号(USS USS Wasp, CV-18, 27,100t, 100p) ・軽空母カボット号(USS Cabot, CVL-28, 11,000t, 45p) ・軽空母カウペンス号(USS Cowpens, CVL-25, 11,000t, 45p) ・軽空母モンテレー号(USS Monterey, CVL-26, 11,000t, 45p) 護衛艦隊:〜重巡3隻、軽巡1隻、駆逐艦 ・第2空母群(2nd Aircraft Carrier Group)、略称:TF38.2) ボーガン空母機動部隊:〜(ボーガン隊) 司令官:少将(Rear Admiral Gerald Francis Bogan 1894-1973) 航空母艦:〜4隻 ・空 母バンカー・ヒル号(USS Bunker Hill, CV-17, 27,100t, 90p) ・空 母ハンコック号(USS Hancock, CV-19, 27,100t, 100p)、小破 ・空 母イントレピッド号(USS Intrepid, CV-11, 27,100t, 100p) ・軽空母インディペンデンス号(USS Independence, CVL-22, 11,000t, 45p) 護衛艦隊:〜戦艦2隻、軽巡4隻、他 ・第3空母群(3rd Aircraft Carrier Group)、略称:TF38.3) 空母機動部隊:〜(シャーマン隊) 司令官:シャーマン少将(Rear Admiral Frederick Sherman 1888-1957) 航空母艦:〜4隻 ・空 母エセックス号(USS Essex, CV-9, 27,100t, 90p) ・空 母レキシントン2世号(USS Lexington, CV-16, 27,100t, 110p) ・軽空母プリンストン号(USS Princeton, CVL-23, 13,000t, 45p) ・軽空母ラングレー号(USS Langley, CVL-27, 11,000t, 45p) 護衛艦隊:〜戦艦4隻、軽巡4隻、駆逐艦 ・第4空母群(4th Aircraft Carrier Group)、略称:TF38.4) 空母機動部隊:〜(デヴィソン隊) 司令官:デヴィソン少将(Rear Admiral Ralph Eugene Davison 1895-1972) 航空母艦:〜4隻 ・空 母エンタープライズ号(USS Enterprise, CV-6, 21,000t, 90p)、小破 ・空 母フランクリン号(USS Franklin, CV-13, 27,100t, 90p) ・軽空母ベロー・ウッド号(USS Belleau Wood, CVL-24, 11,000t, 33p) ・軽空母サン・ジャシント号(USS San Jacinto, CVL-30, 11,000t, 45p) 護衛艦隊:〜重巡1隻、軽巡1隻、駆逐艦。 参考HP〜 ・タラワ島の地図(飛行場と米軍突入海岸区分(RedBeach1,2,3)が有) ・タラワ島の場所地図(米軍の担当区分地図が有) 2016/3/13 ・コルセヤF4-U1戦闘機の装備:〜初飛行:1940/5/29 (US Vought F4U Corsair、アメリカ海兵隊の艦上戦闘機)運用開始:1942/12/28
※特徴:逆ガル翼、海兵隊使用で枠の多いキャノピーの形状から通称:バードケージ(鳥籠)。 |
90 <サブマリン(米潜水艦)> 帝国の通商破戒戦に活躍 |
サブマリン(米潜水艦タリビー号) March 1944 Operation DESCRATE SS284 Tullibee パラオ 1994 発行 |
海中から米潜水艦が魚雷攻撃 ガイアナ 1993 発行 |
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潜水艦内から潜望鏡を見る潜水艦長 Submarines in Pacific 1944 USA 1994 発行 |
潜水艦が魚雷攻撃・命中の潜望鏡写真 USA 1991 発行 |
・サブマリン(米潜水艦) 英米:Submarine、独:U-boot 帝国の通商破戒戦に活躍(対日通商破壊戦) 場所:太平洋、日本海など(Pacific Ocean、Japan Sea、etc) サブマリン(米潜水艦)は作戦中の帝国軍艦はもとより、南方占領資源地帯と本土を結ぶ、シーレーンの輸送船への攻撃に活躍、太平洋戦争の早期終結に貢献しました。 シーレーンの商船を攻撃して多大な戦果を上げ、帝国への南方資源の輸送を停滞させました。昭和19年になると群狼作戦(ウルフ・パッキング)と呼ばれる、3隻一組のチームを作り集団攻撃をしました。まずレーダーで捕え、相互に連携を取っての攻撃で、帝国の船舶に多大の損害を与えました。 帝国の商船は開戦前に遠洋貨物船700隻・貨客船132隻・大型タンカー49隻が有りましたが、帝国海軍はこれらの保護には熱心でなく、艦隊決戦に熱をあげていましたので、サブマリンの餌食となりました。開戦1年間に120万トン、2年目260万トン、3年目350万トンの商船が沈められました。終いには1トン作って3トン沈む状況となりました。 ※帝国軍の潜水艦は主として艦隊決戦に使用されました。 こちらで ・米軍、レイテ上陸(フィリピンの戦い) ・米軍、サイパン上陸(マリアナ諸島の戦い) をお楽しみください。 参考〜 ・米潜水艦 タリビー号の装備:〜就役:1943/2/19 (USS Tullibee, SS-284、アメリカ海軍ガトー級潜水艦)
参考HP〜 ・太平洋と連合軍の反抗地図 ・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。 2016/3/16 |