切手で綴る 太平洋戦争 物語 第2部 <帝国の侵攻> 第4章 マレー攻略 15 <帝国軍、マレー攻略開始> 1941/12/8 (月)未明 |
マレー半島南部の地図 マレー 1957 発行 |
←タイ領シンゴラ ←タイ領パタニ ←英領コタバル ←英領シンガポール |
マレー作戦はシンガポール攻略のため実施された作戦で、帝国最大の戦争目的であるアジアの資源地帯、とりわけ蘭印(オランダ領インドネシア)の石油確保だったのですが、そのためにはマックアーサー将軍と米軍がいたアメリカ領フィリピン、イギリス領マレー攻略が不可欠でした。 なかでもシンガポールは、イギリスの極東支配の要であり、イギリス東洋艦隊が配置されていました。マレー作戦の主目的はこのシンガポール攻略だったのです。上陸予定地点はタイ領のシンゴラ、パタニ、そして英領マレーのコタバルの3地点でした。前2地点はタイ国南端にある泊地、後者は英領マレーの敵前です。 前2地点へは中立を表明していたタイ国を通過して、12月8日未明、第25軍主力がマレー半島北部のタイ領シンゴラに、別動の安藤支隊はパタニに無血上陸を果たしました。シンガポールは海に向って防御要塞を築いていましたので、その背後をつくため、マレー半島を 1,100 キロ南下する作戦でした。 ▼両軍の兵力:〜
▼両軍の編成:〜 ●帝国軍の編成:〜 ・第25軍 司令官:山下奉文中将(1885-1946マニラで絞首刑) 参謀長:鈴木宗作中将(1891-1945/4/19フィリピンのミンダナオ海で戦死) 参謀副長:馬奈木敬信少将(1894-1979) 高級参謀:池谷半二郎大佐(1900-1984) 作戦主任参謀:辻政信中佐(1902-1961ラオスで行方不明) ・第5師団 師団長:松井太久郎中将(1887-1969) 4個歩兵連隊 歩兵第11、第21、第41、第42連隊 捜索第5連隊 工兵第5連隊 砲兵第5連隊基幹 ・近衛師団 師団長:西村琢磨中将(1889-1951ニューギニアのマヌス島で絞首刑) 3個歩兵連隊 近衛歩兵第3、第4連隊、第5連隊 近衛捜索連隊 ・第18師団 師団長:牟田口廉也中将(1888-1966) 3個歩兵連隊 歩兵第124連隊(川口支隊を除く) 歩兵第56連隊 佗美支隊は12/8コタバル上陸 歩兵第55連隊 木庭支隊は12/28コタバル着 歩兵第114連隊と師団主力は1/23シンゴラ着 ・第3戦車団 戦車第1、第2、第6、第14連隊 ・独立工兵 第4、第15、第23連隊 ・独立山砲兵 第3連隊、野戦重砲兵第3、第18連隊 ・第3飛行集団 集団長:菅原道大中将(1888-1983) 作戦機459機、予備153機 ・南遣艦隊 司令長官:小沢治三郎海軍中将(1886-1966) 鳥海以下重巡5隻基幹 ・第22航空戦隊 司令官:松永貞市少将(1892-1965) 作戦機158機、予備29機。 ●イギリス軍の編成:〜 ・マレー軍(Malaya Command) (司令官アーサー・パーシヴァル中将) (Lieutenant-General Arthur Ernest Percival CB 1887-1966) ・イギリス領インド帝国軍(英印軍) ・第3軍団(Indian III Corps) ・第11師団第6、第15旅団(ジットラ) (6 & 15th Indian Infantry Brigade, Indian 11th Infantry Division) ・第9師団(Indian 9th Infantry Division) ・第8旅団(8th Indian Infantry Brigade)〜コタバル ・第22旅団(22nd Brigade)〜クアンタン ・第28旅団(28th Brigade)〜イポー ・第12旅団(12nd Brigade)〜ポートディクソン ・第45旅団(45th Brigade)〜1月上旬シンガポール着 ・第53旅団(53rd Brigade)〜1月中旬同着 ・第44旅団(44th Brigade)〜1/25同着 ・オーストラリア軍 ・第8師団(Australian 8th Division) ・第22旅団(22nd Brigade)〜メルシン ・第27旅団(27nd Brigade)〜クルアン ・イギリス軍 ・第18師団(British 18th Infantry Division) ・第53旅団(53nd Brigade)〜1月中旬シンガポール着 ・第54、第55旅団(54 & 55th Brigade)〜1/28同着 ・シンガポール要塞守備隊(Straits Settlements Volunteer Force) ・マレー人部隊(Royal Malay Regiment) ・ 第1、第2旅団(1st 2nd Brigade)〜シンガポール ・東洋艦隊 ・Z部隊(司令長官:トーマス・フィリップス海軍大将) ・戦艦プリンス・オブ・ウェールズ号 ・巡洋戦艦レパルス号 ・その他 ・空軍〜246機。 こちらで ・ホンコン攻略 ・マレー空襲 をお楽しみください。 参考〜 ・九七式重爆撃機三菱キ21型の装備:〜初飛行:1937年 (大日本帝国陸軍の双発重爆撃機)
※米軍呼称(コードネーム)〜サリー(Sally) 参考HP〜 ・マレーの地図(詳細地図) ・マレー半島攻略戦の地図 ・マレー半島の場所地図 ・パタニの場所地図(Google Map) (ソンクラー(シンゴラ)、パッターニー(パタニ)、クランタン(ケランタン)拡大でコタバル、有) ・コタバルの場所地図(Google Map) ・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。 15/8/9 |
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16 <マレー上陸> 1941/12/8 (月) |
昭和16年12月8日 帝国軍マレー半島に上陸 マレーを進撃する帝国陸軍「戦車」 大東亜戦争1周年記念 大日本帝国 1942/2/16 発行 |
作戦開始時間について帝国陸・海軍の話し合いは「大東亜戦争はハワイ、マレー、フィリピン、香港、グアム、ウェーキに対する先制攻撃をもって開始するものであり、ハワイ空襲開始とマレー上陸開始の相互関係については大本営としては特に考慮を要す」ということで、両者が協定を結びました。すなわち一方が先行すれば他方の急襲が失敗に終わる恐れがあったからです。海軍はハワイ攻撃(Z作戦)に絶大の期待をかけ、成功のために奇襲を絶対の条件としましたが、陸軍もマレー作戦(E作戦)の長途、渡洋作戦の危険性から奇襲を重視していました。 マレー作戦の敵前上陸地点であるコタバル付近とハワイとでは、約6時間半の時差があり、ハワイの払暁はマレーの夜半にあたります。以上について、陸海軍は11月10日「東京協定」(連合艦隊と南方軍との協定覚書)を締結し、ハワイ攻撃を絶対優先すべきことを陸海軍双方が確認。協定はきわめて友好的に結ばれたと言われています。 なお、帝国陸軍の秘密計画では 紀元節・・・・・・・・ 2月11日にシンガポール占領 陸軍記念日・・・・ 3月10日にスマトラ占領 天長節・・・・・・・・ 4月29日に蘭印占領 を予定していたと言われています。 参考:〜 ・九七式中戦車チハ(チハ車)の装備:〜採用1938年(昭和13年) (大日本帝国陸軍の中戦車)、新砲塔チハの運用開始1942年(昭和17年)
参考HP〜 ・マレー進撃の地図 |
17 <コタバル敵前上陸> 1941/12/8 (月) |
帝国軍の上陸用舟艇「大型発動艇」 “大発”(ダイハツ) DAIHATU LANDING CRAFT タンザニヤ 1992/4/27 発行 |
マレー半島南部の地図 マレー 1957 発行 |
←タイ領シンゴラ ←タイ領パタニ ←英領コタバル ←英領シンガポール |
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熱帯密林の連合軍陣地 |
帝国陸軍、海岸砂浜に上陸 |
帝国支援船・被弾・沈没 |
昭和16年12月8日午前 2 時 15 分、山下奉文軍司令官率いる第 25 軍、第18師団・歩兵第23旅団の先遣部隊がマレー半島東北端(コタバル)に敵前上陸を敢行。真珠湾攻撃に先立つこと1時間20分前、これは太平洋戦争の最初の戦いでした。守る英軍は、歩兵第8旅団を主力とする約6,000の兵力で海岸一帯に鉄条網を張り巡らした防御陣地は水際から50〜70m付近に構築され、その後方には散兵壕があり、地雷も多数敷設されていました。帝国軍は死傷者700、上陸用舟艇の沈没(大発等)15、損傷10と多大な犠牲を出して激闘4時間の末、海岸線を制圧。上陸した佗美支隊は翌 9 日、コタバル市を占領。この間、上陸船団の淡路山丸(9,794屯)が太平洋戦争最初の沈没船となり、綾戸山丸(9,794屯)、佐倉丸(2,953屯)が被弾し護衛艦隊・第3水雷戦隊は一時避難し、再度の揚陸作業のやむなきに至りました。先遣隊はその後12/11は補給基地トンバット、12日はムロン、13日は航空基地タナメラと電撃的に部隊を進めました。 シンゴラに上陸した第5師団主力は、佐伯捜索連隊を先遣部隊として前進を開始。第5師団長松井太久郎中将は、時間の経過とともに敵陣の強化と交通路の破壊が進むと判断し、先遣連隊を第9旅団長 河村参郎少将(1896-1947(昭和22)シンガポールで刑死)の指揮下に入れ、速やかに国境を突破させることにしました。12/10、支隊は戦車第1連隊第3中隊、山砲1中隊、工兵1小隊他を編入して「佐伯挺身隊(隊長:佐伯靜夫中佐 1894-1980)」を組織、一挙に突撃路を開くべく進撃。11日アースンの国境陣地に入った佐伯支隊は、戦車中隊を先頭に交戦、約20分後にこれを 突破。ジットラライン(Jitra line)に迫り、12日敵の砲撃を受けた佐伯支隊長は、ジットラ東側陣地に夜襲を命令。敵の砲撃は正確で第1中隊長以下多数の死傷者を出し、帝国軍砲兵も射撃を開始、敵の砲火は峻烈をきわめるも、敵の第2線陣地の一角を占領。歩31連隊主力をもって夜襲を決意しその準備中、敵は突如全面的退却を開始。 このジットララインは、インド第11師団の第6、第15旅団の守備する有力なる防御線であり、よもや1日で、しかも581人の佐伯挺身隊が突破できるとは両軍とも驚かざるを得なかったと記録されています。英軍兵力はインド第11師団の第6、第15旅団からなる兵約5,400人、戦車約90両で、英軍損害500〜1,000人、英軍捕虜1,000人以上。帝国軍の戦車は九七式中戦車10両・九五式軽戦車2両で、損害は戦死27、戦傷83人。この勝利により山下中将は作戦のスケジュールを繰り上げたといわれています。 英軍の戦術は、マレー半島の250にものぼる多数の河川にかかる橋を逐次爆破し、戦術的に後退しながら時間を稼ぎ、シンガポールへと退却することにありました。そのため第25軍の進撃速度は橋梁の補修速度でした。道路橋・鉄道橋の修復には、独立工兵15連隊と各師団の工兵部隊があたりました。また鉄道の修復には、鉄道第9連隊と鉄道第5連隊があたりました。これら橋梁修理にあたる工兵隊の努力は、マレー攻略戦中、特筆に値するものがありました。またその間、敵スリム陣地における戦車第6連隊第1中隊(大尉 島田豊作(1912-1988)戦車隊長)による戦史に例のない「戦車夜襲」による敵陣突破や、近衛歩兵第5連隊の第2大隊の大隊戦力の6割を損耗したバクリ、バリットスロンの激戦もありました。 昭和17年1月に新たに英米蘭豪連合地域最高指揮官となった子爵アーチボルド・ウェーヴェル大将(General Archibald Percival Wavell, Viscount Wavell, GCB, 1883-1950)は、シンガポール島への撤退を英国参謀本部に打電、1月30日夜、撤退を開始。 2月1日には第5師団(松井久太郎中将(1887-1969)師団長)の追撃部隊は相次いでジョホールバールに突入し、上陸後55日目にマレー半島での戦闘は終結。 作戦日数55日、機動距離は1,100Km(1日平均約20Km、銀輪部隊という自転車部隊も登場)、交戦数95回(1日平均約2回)、橋梁修理250(1日平均5)、遺棄死体約5,000、捕虜約7,800、押収は戦車・装甲車235、火砲340、自動車2,723、他。帝国軍の損害、戦死1,535、戦傷2,257。 ・大発動艇(大発:ダイハツ)の装備:〜開発:1932年(昭和7年) (大日本帝国陸軍の上陸用舟艇)、運用開始:1937年
参考HP〜 ・コタバルの場所地図 |
18 <マレー沖海戦> 1941/12/10 Naval Battle off Malaya 帝国の勝利 帝国海軍基地航空隊 (中攻、一式陸攻) 英戦艦 プリンス・オブ・ウェールズ 撃沈 英戦艦 レ パ ル ス 撃沈 |
被弾中の“レパルス号” REPULSE DESTROYED |
被弾中の”プリンス・オブ・ウェールズ号” PRINCE OF WALES SUNK |
タンザニヤ 1992/4/27 発行 |
イギリス最新鋭の巨大戦艦を帝国の航空隊が撃沈、史上初の快挙! |
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帝国基地航空隊の空襲 一式陸攻 ソロモン諸島 1995 発行 |
巨大戦艦に空襲・雷撃、被弾・炎上 |
帝国基地航空隊の空襲 中攻:九六陸攻 グレナダグレナディーン 1995 発行 |
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巨大戦艦に空襲・雷撃、被弾・炎上 マーシャル諸島 1991 発行 |
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大西洋憲章(1941/8/12)で英米両首脳が乗艦した イギリスの戦艦プリンス・オフ・ウェールズ号を撃沈 |
第一航空部隊松永貞市少将(1892-1965)は、英国東洋艦隊が出現しない可能性が高まったため、配下部隊にシンガポールの四ヵ所の飛行場爆撃を下令。元山航空隊は悪天候のため引き返すも、美幌航空隊32機が12月8日午前5時38分からシンガポールを爆撃、損害なくツドモー基地に帰投。この時、山田隊の偵察機がシンガポールを偵察し、「1120、湾内に戦艦2(プリンス・オブ・ウェールズとレパルス)、巡洋艦4、駆逐艦4が有」と報告していました。 昭和16年12月8日夕刻(20:25)、イギリス艦隊(戦艦2、駆逐艦4)は、帝国軍がマレー半島のコタバルに上陸したとの報を受け、帝国軍のマレー上陸を阻止するためにシンガポール港を出撃しました。12/10未明、サイゴンから750キロのマレー半島クワンタン沖約120キロを航行中の英東洋艦隊を帝国潜水艦が発見。帝国軍基地航空隊はサイゴン基地から138機(86機うち雷撃機51機の説も有)の攻撃機隊で攻撃に出撃、午前6時離陸。午前11時すぎ、英東洋艦隊を強襲、爆撃・雷撃。旗艦で新鋭の巨大不沈戦艦プリンス・オヴ・ウェールズ号(HMS Prince of Wales)は爆弾2発、魚雷7本を受け14時50分に沈没しました。そして巡洋戦艦レパルス号(HMS Repulse、就役1916/8/18、基準27,600屯、満載:38,200屯)は、爆弾1発、魚雷13本を受け沈没。イギリスが誇る最新の戦艦も、海の藻屑となりました。英東洋艦隊司令長官トーマス・フィリップス大将(Admiral Sir Thomas Spencer Vaughan "Tom" Phillips, KCB、1888-1941/12/10)は旗艦と共に12/2シンガポールに着任したばかりでしたが、艦と運命を共にしました。
これで充分な装備を持ち、万全の準備を行っていた「行動中」の新式戦艦が航空機の攻撃だけで撃沈されたことは、対空砲多数を装備した新式戦艦でも、航空機の攻撃には勝てない事が明らかとなりました。 その他のイギリス東洋艦隊はシンガポール港を脱出、セイロン島へ逃れました。昭和17年3月下旬、コロンボ港の英国艦隊は戦艦5隻(ウォースパイト号、レゾリュ−ション号、ラミリーズ号、ロイヤル・ソヴリン号、リヴェンジ号)、航空母艦3隻(ハーミス号、インドミタブル号、フォーミタブル号)を有していました。 ▼イギリス艦隊の編成:〜 ・戦艦 ・プリンス・オヴ・ウェールズ号 (HMS Prince of Wales、約40,000トン) ・レパルス号 (HMS Repulse、就役1916、基準27,600トン、満載38,200トン) ・イギリス駆逐艦 ・エレクトラ号(HMS Electra、1934、1,405t、最期1942/2/27ジャワ海々戦で沈没) ・エクスプレス号(HMS Express、進水1934, 1,350t、 最期1943年カナダへ、1955年解体処理) ・テネドス号(HMS Tenedos、1,075tn、最期1942/4/5コロンボ港で空爆され沈没) ・オーストラリア駆逐艦 ・ヴァンパイア号(HMAS Vampire、1,188t、119人 1942/4/9セイロン島沖を英空母ハーミーズと航行中に空爆で沈没) こちらで ・シンガポール陥落 ・デンマーク海峡の海戦 をお楽しみください。 参考HP〜 ・マレー半島攻略戦の地図 ・マレー半島の地図 ・マレー沖海戦の地図(日本語) ・九六式陸攻の写真(三菱製) ・一式陸攻の写真(三菱製) ・九七式艦攻の写真(中島製の雷撃機) ・プリンス・オブ・ウェールズ号の写真 ・レパルス号の写真 ・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。 15/8/9 |
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