・ポツダム宣言、昭和20年7月26日 (Potsdam Declaration、1945/7/26) 帝国呼称:ポツダム宣言発表、昭和20年7月28日の新聞 米軍呼称:日本への降伏要求の最終通告、ラジオ短波放送 (Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender、1945/7/26) 場所:当時ソ連占領地ドイツのベルリン郊外ポツダム(Potsdam, Germany) ポツダム宣言は、1945/7/16から米トルーマン大統領、英チャーチル首相、ソ連スターリン首相の米英ソ三巨頭がベルリン郊外のポツダムに集って会議(ポツダム会談)が開催され、1945/7/26に「アメリカ合衆国大統領・イギリス首相・中華民国主席」の名で大日本帝国(現在の日本)に対して、全帝国軍の無条件降伏などを求めた「全13ヵ条から成る宣言」が発表され、ラジオで放送されました。 これに先だつ6月初旬に帝国はソ連に和平仲介のため近衛公を特使として派遣したい旨を伝えました。7/18にはスターリン首相がトルーマン大統領と会談し「帝国を安心させて眠りに誘っておくため、近衛公を特使として出すとの提案の内容がよくわからないことを指摘して、一般的な具体性のない返事をしてもよい。さもなければ、それを無視して返事を出さないか」と相談し、トルーマン大統領が前者を選択したので、7/20に帝国に届いたソ連の回答は具体性のない返事でした。 1945/7/26にポツダム宣言は蒋介石主席の了解を得て発表されました。 ポツダム会談は米英ソ三首脳ですが、宣言は「米英中」の対日参戦国名でした。 ・ポツダム宣言<全文>
狙いは第4条の「無分別なる打算に依り日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我侭なる軍国主義的助言者」による統帥の排除。また、第6条の「日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力及び勢力」の除去です。米のグルー次官が原案を作っただけあって、ファシズムに蹂躙された経緯を正確に把握しており、相互不信に陥っている状況で、天皇の地位が明記されていないため「無条件降伏」のインパクトの方がはるかに強いといわれています。 昭和20年7月27日の朝、ラジオでこのポツダム宣言を聞いた帝国外務省は (1)この宣言を受託したほうが良い (2)但しソ連が宣言に参加していないので、対ソ交渉も放棄できない。 という結論を出し、東郷外相が参内して、国体と天皇の地位については不明確のまま残されていると説明。天皇は「色々な議論の余地もあろうが、原則として受諾するほかあるまい。近衛にソ連に行ってもらわなくとも、直接に連合国と交渉できるという事は、何かにつけていいのではないか。この際は、戦争終結に力を致してもらいたいと思う」と発言したとされています。対ソ交渉にかかっていた東郷外相はソ連側の回答を待つのが良作、と回答し、閣議も東郷外相の方針を承認し、帝国政府はポツダム宣言にはソ連の回答がくるまで「静観」という方針を出しました。 翌7月28日の朝刊は、政府の方針を受けてポツダム宣言を掲載し、同時に ・「笑止、対日降伏条件」(読売報知) ・「政府は黙殺」(朝日) ・「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦を飽くまで完遂」(毎日) と戦意低下を避ける配慮を示して掲載しました。軍は、政府としての公式見解が必要であると迫り、豊田副武軍令部総長は、「この宣言をこのままにしておくことは、軍の士気に関するところ大であるから、政府としては、この際本宣言を不都合なりとし、大号令を発するなどの措置をとられたい」と強硬に主張。梅津参謀総長、阿南陸相も同調、米内海相も消極的ながら陸軍に賛成し、ソ連の回答が来るまで静観の筈が、あわただしい動きとなりました。
<その他>
・カイロ会談 (Cairo Conference)、1943/11/22〜11/26 こちらで カイロ会談を お楽しみください。 ・国際機構に関する連合国会議 (United Nations Conference on International Organization) 通称:サンフランシスコ会議、1945/4/25〜6/26 場 所:アメリカ合衆国サンフランシスコ 会議参加国:50ヵ国 サンフランシスコ会議は、正式には国際機構に関する連合国会議で、この会議はダンバートン・オークス会議で提起された国際連合憲章を採択して国際連合設立を決定し、第二次世界大戦の戦後処理と国際平和問題について討議を行うものでした。この会議はアメリカ、イギリス、ソビエト連邦、中華民国によって招集され、1945/3/1までに連合国共同宣言に署名した42ヵ国が招請されるも、会議開幕後にはアルゼンチン、デンマーク、そしてソ連の構成国であるウクライナとベラルーシが招請され、会議参加国は50ヵ国になりました。参加資格を有していた国のなかで、ポーランドはロンドン亡命政府とルブリン政府の対立から代表を一元化できず、代表を派遣できなかったが、その後に単一の政府が成立し、憲章の署名には加わったため、原加盟国は最終、51ヵ国になりました。 参考HP〜 ・ポツダムの場所地図(日本語) ・ポツダムの場所地図 2016/5/10、2018/4/8 |
105 <トルーマン大統領> 1945/7/25 原子爆弾投下命令承認 |
第33代アメリカ大統領 ハリー S.トルーマン Harry S.Truman 1884〜1972 USA 1973/4/12 発行 |
・原子爆弾投下命令承認、1945/7/25 (Atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki) 7月24日、米のマンハッタン計画による原子爆弾実験成功の報告がポツダムに届き、翌日トルーマン米大統領は原子爆弾投下命令を承認しました。 昭和20年8月6日午前8時15分、広島に原爆が投下されました。8時半には海軍省に呉鎮守府から広島壊滅の報が入り、昼までに海軍の調査団派遣が決定。しかし、陸軍には広島周辺の通信網が破壊されたため、第一報は呉鎮守府経由となり、大幅に遅れました。さらに政府がこの報を入手したのは、午後も遅くなってからで、たった一発で広島が壊滅し40万人が犠牲になったと聞いて、敵がかつてない高性能爆弾を使用したものと受け止められましたが、政府はまだ動がず、御前会議を待つことになりました。 翌朝、トルーマン大統領が声明を発表。 「8月6日広島に投下した原子爆弾は、戦争に革命的な変化を与えるものである。 日本が降伏に応じない限り、さらに他の場所にも投下する。」 8月9日には、再び、長崎に原爆が投下されました。 原爆が投下後の1945/8/15に「ポツダム宣言受託」すなわち帝国の無条件降伏の玉音放送(昭和天皇のラジオ放送)で、作戦名ダウンフォール作戦(Operation Downfall)という、アメリカ軍とイギリス軍をはじめとする連合国軍が計画していた「帝国本土上陸作戦」は、発動前に帝国が降伏したために、中止されました。 ・原子爆弾投下の理由 太平洋戦争(当時の日本では大東亜戦争、アメリカでは第二次世界大戦太平洋戦線)における日本本土での直接戦(本土決戦)を避け、早期に決着させるために原子爆弾が使用されたとするのがアメリカ政府公式の説明です。
その後、前大統領の任期終了後、1948年の大統領選に出馬して当選。1953/1/20まで在任するも、その在任中に朝鮮戦争が勃発(1950/6/25-1953/7/27休戦)しました。そして、かねてからトルーマン大統領とそりが合わず度々対立していたマッカーサー元帥は、戦況の停滞を打開すべく1950年11月に中華人民共和国本土への核攻撃を主張。トルーマン大統領は戦争の拡大(第3次世界大戦)を恐れ、帝国占領軍総司令官だったマッカーサー元帥の「連合国軍最高司令官」を解任(1951/4/11)しました。これこそシビリアンコントロールと言われており、マッカーサー元帥は帰国し、軍務を離れて退役しました。トルーマン大統領は1972/12/26にミズーリ州カンザスシティにて亡くなりました(88才没)。 参考〜 ・ブレア・ハウス(Blair House) トルーマン大統領はその任期中のほとんどをホワイトハウスで過ごしませんでした。ホワイトハウスはその構造分析で19世紀前半の英軍による火災が原因で崩落の危険が示され、改築を行うことになり、コンクリートと鋼材を使用して基礎部分から再建されました。再建で造られた新しいバルコニーは現在トルーマン・バルコニーとして知られています。ホワイトハウスの改築中、近くのブレア・ハウスがトルーマン大統領にとってのホワイトハウスとなりました。現在は、2001年にブッシュ大統領の招きで小泉純一郎首相も宿泊した、アメリカ合衆国大統領の賓客が宿泊する施設(迎賓館)として使用されています。 こちらで ・米軍、広島に原爆を投下(原子爆弾攻撃) ・米軍、沖縄に上陸(沖縄の戦い) ・ をお楽しみください。 参考HP〜 ・ダウンフォール作戦の地図(連合軍の帝国上陸作戦計画地図) ・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。 2016/5/16 |