切手で綴る 太平洋戦争 物語
第4部 <帝国の敗戦>
第20章 ポツダム
104 <ポツダム宣言>
1945/7/26
連合国、大日本帝国へ降伏を勧告


ポツダム宣言会談
トルーマン、チャーチル、蒋介石、スターリン

Potsdam Conference 1945
マーシャル諸島 1995 発行

ポツダム宣言、昭和20年7月26日
  (Potsdam Declaration、1945/7/26)
  帝国呼称:ポツダム宣言発表、昭和20年7月28日の新聞
  米軍呼称:日本への降伏要求の最終通告、ラジオ短波放送
   (Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender、1945/7/26)
  場所:当時ソ連占領地ドイツのベルリン郊外ポツダム(Potsdam, Germany)
ポツダム宣言は、1945/7/16から米トルーマン大統領、英チャーチル首相、ソ連スターリン首相の米英ソ三巨頭がベルリン郊外のポツダムに集って会議(ポツダム会談)が開催され、1945/7/26に「アメリカ合衆国大統領・イギリス首相・中華民国主席」の名で大日本帝国(現在の日本)に対して、全帝国軍の無条件降伏などを求めた「全13ヵ条から成る宣言」が発表され、ラジオで放送されました。

これに先だつ6月初旬に帝国はソ連に和平仲介のため近衛公を特使として派遣したい旨を伝えました。7/18にはスターリン首相がトルーマン大統領と会談し「帝国を安心させて眠りに誘っておくため、近衛公を特使として出すとの提案の内容がよくわからないことを指摘して、一般的な具体性のない返事をしてもよい。さもなければ、それを無視して返事を出さないか」と相談し、トルーマン大統領が前者を選択したので、7/20に帝国に届いたソ連の回答は具体性のない返事でした。

1945/7/26にポツダム宣言は蒋介石主席の了解を得て発表されました。
ポツダム会談は米英ソ三首脳ですが、宣言は「米英中」の対日参戦国名でした。
・ポツダム宣言<全文>
1 吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及び「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ、吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上、日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与ウルコトニ意見一致セリ
2 合衆国、英帝国及ビ中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ、西方ヨリ自国ノ陸軍及ビ空軍ニヨル数倍ノ増強ヲ受ケ、日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加ウルノ態勢ヲ整エタリ。右軍事力ハ日本国ガ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄、同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニヨリ支持セラレ、且鼓舞セラレ居ルモノナリ
3 蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ對スル「ドイツ」國ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本國國民ニ對スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本國ニ對シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ對シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」國人民ノ土地産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廢ニ歸セシメタル力ニ比シ測リ知レザル程度ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本國軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本國本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ
4 無分別ナル打算ニ依リ日本帝國ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍國主義的助言者ニ依リ日本國ガ引續キ統御セラルベキカ又ハ理性ノ經路ヲ日本國ガ履ムベキカヲ日本國ガ決定スベキ時期ハ到來セリ
5 吾等ノ条件ハ左ノ如シ吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルベシ。右ニ代ル条件存在セズ。吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ
6 吾等ハ、無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ、平和、安全及ビ正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ、日本国国民ヲ欺瞞シ、之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及ビ勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ
7 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラルコトノ確証アルニ至ル迄ハ、連合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ、吾等ノ茲ニ指定スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ
8 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク、又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及ビ四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
9 日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後、各自ノ家庭ニ復帰シ、平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ
10 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ隷属化セントシ、又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ、吾等ノ保俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ、厳重ナル処罰ヲ加エラルベシ。日本国政府ハ、日本国国民ノ間ニオケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障碍ヲ除去スベシ。言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ
11 日本国ハ、其ノ経済ヲ支持シ、且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ。但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ。右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルベシ。日本国ハ将来世界貿易関係へノ参加ヲ許サルベシ
12 前記諸目的ガ達成セラレ、且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ、平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニオイテハ、連合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ
13 吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ、且右行動ニオケル同政府ノ誠意ニ付、適当且充分ナル保証ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス。右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス

狙いは第4条の「無分別なる打算に依り日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我侭なる軍国主義的助言者」による統帥の排除。また、第6条の「日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力及び勢力」の除去です。米のグルー次官が原案を作っただけあって、ファシズムに蹂躙された経緯を正確に把握しており、相互不信に陥っている状況で、天皇の地位が明記されていないため「無条件降伏」のインパクトの方がはるかに強いといわれています。

昭和20年7月27日の朝、ラジオでこのポツダム宣言を聞いた帝国外務省は
(1)この宣言を受託したほうが良い
(2)但しソ連が宣言に参加していないので、対ソ交渉も放棄できない。
という結論を出し、東郷外相が参内して、国体と天皇の地位については不明確のまま残されていると説明。天皇は「色々な議論の余地もあろうが、原則として受諾するほかあるまい。近衛にソ連に行ってもらわなくとも、直接に連合国と交渉できるという事は、何かにつけていいのではないか。この際は、戦争終結に力を致してもらいたいと思う」と発言したとされています。対ソ交渉にかかっていた東郷外相はソ連側の回答を待つのが良作、と回答し、閣議も東郷外相の方針を承認し、帝国政府はポツダム宣言にはソ連の回答がくるまで「静観」という方針を出しました。

翌7月28日の朝刊は、政府の方針を受けてポツダム宣言を掲載し、同時に
・「笑止、対日降伏条件」(読売報知)
・「政府は黙殺」(朝日)
・「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦を飽くまで完遂」(毎日)
と戦意低下を避ける配慮を示して掲載しました。軍は、政府としての公式見解が必要であると迫り、豊田副武軍令部総長は、「この宣言をこのままにしておくことは、軍の士気に関するところ大であるから、政府としては、この際本宣言を不都合なりとし、大号令を発するなどの措置をとられたい」と強硬に主張。梅津参謀総長、阿南陸相も同調、米内海相も消極的ながら陸軍に賛成し、ソ連の回答が来るまで静観の筈が、あわただしい動きとなりました。

参考:〜
ザカライアス放送
  (Radio Zacharias、OP-16-Wプログラム)、1945/5/8〜8/2(14回)
帝国では、このポツダム宣言を、1941/7/11にフランクリン・ルーズベルト大統領が設置したアメリカ合衆国の情報・プロパガンダ機関、戦時情報局とも呼ばれる「戦争情報局」(United States Office of War Information、略称 OWI)のラジオ短波放送「ザカライアス放送」で受信されました。ドイツが降伏した直後の1945/5/8からポツダム宣言公表後の8/2まで全部で14回、エリス・M・ザカライアス海軍大佐(Captain, Ellis Mark Zacharias, Sr., 1890-1961)が短波放送のザカライアス放送で帝国に「無条件降伏」を勧めました。しかし帝国政府は5/9に徹底抗戦を改めて表明するなど、
ラジオ無線塔

日本 1949/6/1 発行
これを受け入れる姿勢をとりませんでした。当時、帝国の民間人は短波ラジオを所有することを禁止されていたため、実際にこの放送を聴いていたのは、帝国政府、外務省(ラジオ室、後のラジオプレス)と社団法人日本放送協会(現在のNHK前身)だけでした。

ポツダム会談(協定)
  (Potsdam Conference)、1945/7/17〜8/2
ポツダム会談は、ナチス・ドイツ降伏後にソ連占領地域となったポツダムで、アメリカ合衆国・イギリス・ソビエト連邦の3ヵ国首脳が集まって行われた会議。第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談で、ポツダム協定が策定されました。
<ポツダム協定の概要>
・連合国協議体制
ポツダム会談(3ヵ国)

モルジブ諸島 1990 発行
ドイツを除くヨーロッパの枢軸国と連合国平和条約制定のため、米・英・ソ・仏・中の外相で構成される外相理事会を設置する。第一回会合は1945年9月1日までに行う
連合国の協議機関だった欧州諮問委員会は解散する
・ドイツの占領政策
・ドイツ占領政策を統括する連合国管理理事会を設置する
・政治的原則
・米・英・仏・ソ4ヵ国による分割占領統治の確認
・ドイツ国防軍・親衛隊・突撃隊などの武装解除
・人種、政治的・宗教的信条などを理由としたナチス・ドイツ時代の法令の廃止
・戦争犯罪やナチス・ドイツの戦争政策に関与した者の裁判と追放
ナチスや軍国主義の影響の排除(非ナチ化)
・民主的な政党の再建
・政治構造の分権化
・ドイツの貿易と産業の再建
・経済的原則
・戦争に使用される兵器・弾薬・船舶等の製造禁止
・ドイツは単一の経済単位として扱われなければならず、各占領地域での政策はこれを前提としなければならない
・過度な資本集中の解体。産業は農業と平和的産業を優先させる
・連合国管理理事会はドイツの経済政策、対外資産などの監督を行う
・賠償の支払いは国民生活を圧迫しないように行う
・ドイツの賠償
ソ連および西側連合国(米・英・仏などを含む連合国)は、その占領地域から賠償を徴収する。ソ連の徴収分からポーランドへの賠償は充当される
西側連合国はその占領地域からソ連に対して賠償を配分しなければならない
ドイツの平時経済に不必要であると判定された工業設備・資材の10%は無償で、15%は物資との交換でソ連に引き渡される。賠償徴収は2年以内に行われなければならない
ソ連は西側占領地域、西側連合国は東欧とソ連の占領地域、オーストリアにおける資本の請求権を相互に放棄する
ソ連は西側連合軍が押収したドイツの金資産等に対して関与しない
・ドイツ海軍船舶
ドイツ海軍が保有するドイツおよび同盟国から引き継いだ船舶は、米・英・ソの三国で分配される
ドイツが保有するUボートは30隻を除いてすべて解体される。30隻は研究のために米・英・ソに分配される
米・英・ソの三国は分配を協議する委員会を設置する
実際の分配は日本との戦争終了後に行う
・ソ連のドイツ領要求
ソ連はケーニヒスベルクとその付属地域を要求する。正式な譲渡は平和条約提携時に行われるが、米英はソ連の要求を支持する
・戦犯裁判の準備
モスクワ宣言に基づいてロンドンで行われている、国際軍事裁判のための憲章制定を早急に行うよう要請する
最初の被告リストは1945年9月までに公表する
・オーストリア
ソ連はオーストリアの統治はオーストリア臨時政府の権威の元、統一的に行われることを提案する
米英は両軍のウィーン到着後にこの問題についての調査を行う
オーストリアに対して賠償は要求しない
・ポーランド
・臨時政府の設立
ヤルタ協定に基づき、米・英・ソは国民統一臨時政府が正当なポーランド政府であると認定する。米英はロンドンのポーランド亡命政府との関係を断絶する
米英は領域内にあるポーランド政府資産を、国民統一臨時政府に引き渡す
世界各地のポーランド軍と商船は、国民統一臨時政府の元に復帰し、それを支えなくてはならない
できるだけ早く自由で公正な選挙が行われなければならない
・ドイツ領のポーランドへの割譲
米英ソ三国首脳と国民統一臨時政府および国民評議会は、ポーランドに割譲される西方と北部のドイツ領について協議を行ってきた。この問題の最終的な確定は平和条約制定後に行われることを確認する
ポーランドはオーデル川、ナイセ川以東(オーデル・ナイセ線)のドイツ領と東プロイセンを管理下に置く。これはソ連の占領地域と同一視されない。
・平和条約と国連機関
米・英・ソはハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、イタリア、フィンランドの現在の状態は平和条約の締結によって終了されることが望ましいと考えている
外相理事会が取り組む当面の平和条約対象国はイタリアである。
フィンランド、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリーとの国交は、平和条約締結交渉の中で、別個に検討される
国際連合への加盟には、国際連合憲章にある義務を尊重する必要がある。加盟申請に際しては国際連合安全保障理事会の勧告に基づき、国際連合総会において決定される
米英ソ三国政府は、明確に枢軸国の支援を受けて設立され、枢軸国と深い関係を持っていた現在のスペイン政権が国連加盟を申請した場合、これを支持しないであろう
・信託統治
会議ではヤルタ会談で提案された、イタリア植民地の信託統治へのソ連の参加について検討した
この問題は9月の外相理事会で決定される
・東欧占領地問題
米英ソ三国政府はハンガリー、ルーマニア、ブルガリアにおける連合軍占領作業を改善するため、これらの国の占領当局が情報を米英に伝えていることを留意する
米英ソ三国政府はハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの占領は、停戦協定を受け入れた政府(ハンガリーの場合は、当事者であるハンガリー政府を併合したハンガリー国民臨時政府)との合意を根拠とすることを確認する
・ドイツ人追放
米英ソ三国政府はポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーにいるドイツ人が本国に移送されなければならないことを認識する
連合国管理理事会は占領されたドイツの各州が、どの程度受け入れ可能であるかを調査する。ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーの各政府はこの調査が終了するまでドイツ人の追放を中断しなければならない
・ルーマニア油田
  ルーマニアの油田問題については、米ソ、英ソがそれぞれ代表を出す二つの委員会を設置して調査を行い、検討する
・イラン撤退
連合国軍はテヘランをはじめイランから撤退するべきであるが、撤退に関する詳細は1945年9月の外相理事会で検討される
・タンジェ
ソ連政府の提案を検討した結果、タンジェは戦略的な重要性から、国際的な管理体制が行われるべきである。タンジェの問題はパリにおいて開催される、米・英・仏・ソ各政府の代表が行う会議によって討議される
・海峡問題
モントルー条約は現在の世界情勢に一致していない。次の段階として三国政府はそれぞれトルコ政府と協議する必要がある
・ヨーロッパ貿易会議
米英はヨーロッパにて内陸輸送委員会を再開催し、ソ連がこれに参加することを歓迎する

米英ソ三巨頭の会談
テヘラン会談、1943/11/28〜12/1
  (Tehran Conference)
  場  所:イランのテヘラン
  出席者:米トルーマン大統領
       英チャーチル首相
       ソ連スターリン首相
三巨頭(ビッグ・スリー)による最初の会議。ドイツとその同盟国との戦争の最終的な戦略、オーバーロード作戦の日程の設定でし
テヘラン会談(3ヵ国旗)

ソ連 1943 発行
テヘラン会談(3ヵ国)

マーシャル諸島 1993 発行
た。テヘラン会談は第二次世界大戦における連合国の首脳会談のひとつで、イランのテヘランで開かれた、アメリカ、イギリス、ソ連の首脳が一堂に会した初めての会談。主な議題は、ヨーロッパ大陸にナチス・ドイツに対する第二の戦線(西部戦線)を形成することであり、フランスへの連合軍の上陸などが首脳間で調整されました。またその他のヨーロッパ諸国への援助などについても話し合われるなど、
テヘラン会談を期に連合国の首脳会談は戦争上の諸問題から戦後処理問題へと移っていきました。

ヤルタ会談
  (Yalta Conference)、1945/2/4〜2/11
 場  所:ソビエト連邦のヤルタ
 出席者:米トルーマン大統領、英チャーチル首相、ソ連スターリン首相
ドイツ降伏までの最終計画、ヨーロッパの戦後計画、国際連合会議の日程の設定、日本へのロシア参戦の状況確認。

ヤルタ会談は、当時のソ連クリミア自治ソビエト社会主義共和国のヤルタ近郊で行われたアメリカ、イギリス、ソ連による首脳会談。第二次世界大戦が佳境に入る中、ソ連対日参戦、国際連合の設立について協議されたほかドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定し、東西冷戦の端緒ともなりました(ヤルタ体制)。
ヤルタ会談(3ヵ国)

ドミニカ 1999/12/31 発行

ポツダム会談
  (Potsdam Conference)、1945/7/17〜8/2
  場  所:ソ連占領地域ドイツのベルリン郊外ポツダム
  出席者:米トルーマン大統領
       英チャーチル首相
       ソ連スターリン首相
全大日本帝国軍の無条件降伏を定めたポツダム宣言と、ドイツの処理に関するポツダム協定が制定されました。ポツダム会談は、ナチス・ドイツ降伏後、ソ連占領地域となったポツ
ポツダム会談(3ヵ国)
ダムに、アメリカ合衆国・イギリス・ソビエト連邦の3ヵ国の首脳が集まって行われた第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談。第二次世界大戦の連合国三大国の首脳会談が行われたのはこれで3度目であり、最後となりました。会議の最後にはポツダム協定が策定されました。また7月26日には日本政府に対して日本軍の無条件降伏などを求めるポツダム宣言が表明されたことで知られているも、会議の公式日程では対日問題は協議されませんでした。

<その他>
カサブランカ会談
  (Casablanca Conference)、1944/1/14〜1/23
  場  所:モロッコのカサブランカ
  出席者:米フランクリン・ルーズヴェルト大統領、
       英ウィンストン・チャーチル首相
カサブランカ会談はアフリカ作戦の成功後、シチリア島・南イタリアへの上陸作戦をとることを確認したことと、枢軸国に対して無条件降伏を要求する方針を確認しました。 なおこの時期に北アフリカにヴィシー政権から独立して樹立されていたフランスの政権には、シャルル・ド・ゴールとアンリ・ジローの
カサブランカ会談(2ヵ国)

マーシャル諸島 1993 発行
両指導者の間に対立があり、この会談の際に、ルーズヴェルト大統領とチャーチル首相はこれらフランス側指導者を加えて談合を行うも、十分な解決をみませんでした。

カイロ会談
  (Cairo Conference)、1943/11/22〜11/26
こちらで
カイロ会談
お楽しみください。

国際機構に関する連合国会議
  (United Nations Conference on International Organization)
  通称:サンフランシスコ会議、1945/4/25〜6/26
  場  所:アメリカ合衆国サンフランシスコ
  会議参加国:50ヵ国
サンフランシスコ会議は、正式には国際機構に関する連合国会議で、この会議はダンバートン・オークス会議で提起された国際連合憲章を採択して国際連合設立を決定し、第二次世界大戦の戦後処理と国際平和問題について討議を行うものでした。この会議はアメリカ、イギリス、ソビエト連邦、中華民国によって招集され、1945/3/1までに連合国共同宣言に署名した42ヵ国が招請されるも、会議開幕後にはアルゼンチン、デンマーク、そしてソ連の構成国であるウクライナとベラルーシが招請され、会議参加国は50ヵ国になりました。参加資格を有していた国のなかで、ポーランドはロンドン亡命政府とルブリン政府の対立から代表を一元化できず、代表を派遣できなかったが、その後に単一の政府が成立し、憲章の署名には加わったため、原加盟国は最終、51ヵ国になりました。

参考HP〜
ポツダムの場所地図(日本語)
ポツダムの場所地図                          2016/5/10、2018/4/8







105 <トルーマン大統領>
1945/7/25
原子爆弾投下命令承認

第33代アメリカ大統領
ハリー S.トルーマン


Harry S.Truman 1884〜1972
USA 1973/4/12 発行

原子爆弾投下命令承認、1945/7/25
  (Atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki)
7月24日、米のマンハッタン計画による原子爆弾実験成功の報告がポツダムに届き、翌日トルーマン米大統領は原子爆弾投下命令を承認しました。

昭和20年8月6日午前8時15分、広島に原爆が投下されました。8時半には海軍省に呉鎮守府から広島壊滅の報が入り、昼までに海軍の調査団派遣が決定。しかし、陸軍には広島周辺の通信網が破壊されたため、第一報は呉鎮守府経由となり、大幅に遅れました。さらに政府がこの報を入手したのは、午後も遅くなってからで、たった一発で広島が壊滅し40万人が犠牲になったと聞いて、敵がかつてない高性能爆弾を使用したものと受け止められましたが、政府はまだ動がず、御前会議を待つことになりました。

翌朝、トルーマン大統領が声明を発表。
「8月6日広島に投下した原子爆弾は、戦争に革命的な変化を与えるものである。
日本が降伏に応じない限り、さらに他の場所にも投下する。」

8月9日には、再び、長崎に原爆が投下されました。

原爆が投下後の1945/8/15に「ポツダム宣言受託」すなわち帝国の無条件降伏の玉音放送(昭和天皇のラジオ放送)で、作戦名ダウンフォール作戦(Operation Downfall)という、アメリカ軍とイギリス軍をはじめとする連合国軍が計画していた「帝国本土上陸作戦」は、発動前に帝国が降伏したために、中止されました。

・原子爆弾投下の理由
太平洋戦争(当時の日本では大東亜戦争、アメリカでは第二次世界大戦太平洋戦線)における日本本土での直接戦(本土決戦)を避け、早期に決着させるために原子爆弾が使用されたとするのがアメリカ政府公式の説明です。

ハリー・S・トルーマン大統領
  (Harry S. Truman, 1884-1972)、政党:民主党(Democratic Party)
  アメリカ合衆国 第33代大統領(在任1945/4/12-1953/1/20)
   (33rd President of the United States of America)
    副大統領 空席 (1945-1949)
    副大統領 アルバン・バークリー(在任1949-1953)
  アメリカ合衆国 第34代副大統領(在任1933/3/4-1945/4/12)
    元首 フランクリン・ルーズベルト大統領(在任1949-1953)
  アメリカ合衆国 上院議員ミズーリ州選出(在任1935/1/3-1945/1/17)
トルーマン大統領

USA 1980 発行
米国ミズーリ州ラマー生まれのハリー・S・トルーマンは、1944/11月の大統領選挙で4選を果たして当選したフランクリン・ルーズベルト大統領の副大統領になって、1945/4/12にルーズベルト大統領が在任中に亡くなり、大統領になりました。その時はちょうど第2次世界大戦中で、米英ソ三巨頭(ビッグ・スリー)による最初の会議・テヘラン会談(1943/11/28〜12/1)・ヤルタ会談(1945/2/4〜2/11)・ポツダム会談(1945/7/17〜8/2)に出席して、世界大戦の終結と戦後体制について話し合いました。ポツダム会談の最中に「マンハッタン計画による原子爆弾実験成功の報告」を受け取り、7/25に帝国への「原子爆弾投下命令を承認」し、第2次世界大戦を終結へ導きました。

その後、前大統領の任期終了後、1948年の大統領選に出馬して当選。1953/1/20まで在任するも、その在任中に朝鮮戦争が勃発(1950/6/25-1953/7/27休戦)しました。そして、かねてからトルーマン大統領とそりが合わず度々対立していたマッカーサー元帥は、戦況の停滞を打開すべく1950年11月に中華人民共和国本土への核攻撃を主張。トルーマン大統領は戦争の拡大(第3次世界大戦)を恐れ、帝国占領軍総司令官だったマッカーサー元帥の「連合国軍最高司令官」を解任(1951/4/11)しました。これこそシビリアンコントロールと言われており、マッカーサー元帥は帰国し、軍務を離れて退役しました。トルーマン大統領は1972/12/26にミズーリ州カンザスシティにて亡くなりました(88才没)。

参考〜
・ブレア・ハウス(Blair House)
トルーマン大統領はその任期中のほとんどをホワイトハウスで過ごしませんでした。ホワイトハウスはその構造分析で19世紀前半の英軍による火災が原因で崩落の危険が示され、改築を行うことになり、コンクリートと鋼材を使用して基礎部分から再建されました。再建で造られた新しいバルコニーは現在トルーマン・バルコニーとして知られています。ホワイトハウスの改築中、近くのブレア・ハウスがトルーマン大統領にとってのホワイトハウスとなりました。現在は、2001年にブッシュ大統領の招きで小泉純一郎首相も宿泊した、アメリカ合衆国大統領の賓客が宿泊する施設(迎賓館)として使用されています。

こちらで
米軍、広島に原爆を投下(原子爆弾攻撃)
米軍、沖縄に上陸(沖縄の戦い)
・ をお楽しみください。

参考HP〜
ダウンフォール作戦の地図(連合軍の帝国上陸作戦計画地図)

・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。  2016/5/16

戦争と平和
スタンプ・メイツ
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