米国(連合軍)の反抗地図 <車の両輪作戦> (広義:1942/8/8〜1945/8/15)
ニューギニア・フィリピン・台湾をへて帝国本土を攻撃 |
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<ニミッツ・ライン> マーシャル諸島・マリアナ諸島・硫黄島・沖縄から中部太平洋を西進、帝国本土と南方資源帯を分断する攻撃 |
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パラオ 1994 発行 小型シート |
▽ハワイ会談 1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要なし」との判断でしたし、アメリカ海軍もトップのアーネスト・キング作戦部長を初めそれに同意する意見が多数でしたが、マッカーサー将軍は「フィリピン国民との約束」の履行でフィリピン奪還を主張しました。マッカーサー将軍がこの作戦をごり押ししたのは、フィリピンからの敵前逃亡の汚名をそそぐことと、多くの利権を持っていたフィリピンにおける利権の回復の2つがあったと言われています。 1943/7/26に選挙遊説のためオアフ島ホノルルに来ていたルーズベルト大統領は、その夜にマッカーサー将軍と会談しました。その席で、マッカーサー将軍は持論の「フィリピン侵攻作戦」を述べ立て、ルーズベルト大統領は「フィリピンを迂回しない」ことを支持しました。ルーズベルト大統領は1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサー将軍の意をしぶしぶ呑んだとも言われています。 ▽マッカーサー将軍とニミッツ提督の対立 ミッドウェー海戦以降の太平洋方面における連合国軍の帝国反撃方針についてマッカーサー将軍とニミッツ提督は、お互いが、全作戦が自己の指揮下に置かれるべきだと主張しあい対立しました。ガダルカナル島を巡る作戦の主導権は、マッカーサー将軍の作戦が時間を食いすぎるとの判断からニミッツ提督が握るも、以降は ・海軍(ニミッツ提督)の主張 マーシャル諸島〜マリアナ諸島〜硫黄島〜沖縄〜上海と中部太平洋を真西に直進しつつ 帝国本土と南方資源帯を分断して帝国の消耗を誘う ・マッカーサー将軍の主張 ニューギニア〜フィリピン〜台湾をへて帝国本土を目指す という主張が平行線を辿りました。 米統合参謀本部(US Joint Chiefs of Staff:略称JCS)は海軍寄りの姿勢を示すも、マッカーサー将軍の名声と彼の「アイシャルリターン」(I shall return !)は国民世論を動かしており、ルーズベルト大統領は双方の主張するルートを平行して行うよう妥協案(カートホイール作戦)を示しました。この間、互いの援軍を断り合うこともしばしばで、両者が合流したレイテ沖海戦の時、ニミッツ指揮下でウィリアム・ハルゼー海軍大将率いる第3艦隊と、マッカーサー指揮下でキンケイド海軍中将率いる第7艦隊で連携が取れないという事態もありました。 ▽米軍統合参謀本部の司令〜ラバウルの無力化 1943/3/28に米軍統合参謀本部はマッカーサー将軍に (1)ニューギニア島東端北のキリウィナ島、ウッドラーク島に航空基地を建設 (2)ニューギニア島のラエ、サラモア、フィンシュハーフェン、マダン、 ニューブリテン島西部のグロスター岬(グロスター岬の戦い)の攻略 (3)ブーゲンビル島南部の攻略 の攻撃でラバウルを孤立させる指令を出して、新編成の米第6軍を増援しました。 1943/6/30、連合軍はニューブリテン島とニュージョージア島への攻撃を開始。ニュージョージア島上陸に先立って、ニュージョージア島の南西にあるレンドバ島に上陸し、少数の帝国軍が抵抗するも無事に占領。レンドバ島に大砲陣地を構築し、そこから主にニュージョージア島の飛行場があるムンダに対する砲撃を実施。ハルゼー大将の指揮下でニュージョージア島ムンダへ上陸が行われ、帝国軍はムンダ飛行場の守備で、起伏の多い地形を利用して抵抗したため、攻略は難攻するも、8/5にムンダを占領(ニュージョージア島の戦い)。 一方、豪ニューギニア部隊はニューブリテン島を攻略し、ウォルター・クルーガー海兵隊中将指揮の米第6軍はキリウィナ島、ウッドラーク島、グロスター岬の攻略を行い、ジョージ・ケニー空軍少将指揮の航空部隊(第5空軍)とアーサー・S・カーペンダー海軍中将指揮の艦隊が援護しました。また、ニューギニア部隊は東部ニューギニアの東海岸を海岸沿いに侵攻し、ポートモレスビーをうかがっていたブナ・ラエの帝国軍を駆逐。東に進撃してフォン半島を攻略(東部ニューギニアの戦い)して、マダンに上陸しました。 この作戦は1944年まで続き、帝国軍の猛烈な抵抗が予想される拠点は無視して補給路を遮断するという戦略(飛び石作戦)の有効さが示されました。
(Gilbert & Marshall Islands campaign, 1943/11-1944/2) ・マーシャル・ギルバート諸島機動空襲 (The Marshalls-Gilberts raids, 1942/2/1) ・マキン奇襲 (Makin Island raid, 1942/8/17-8/18) ・ニュージョージア侵攻作戦 (Operation Toenails, 1943/6/30) ・ニュージョージアの戦い (New Georgia (43d Infantry Division), 1943/6/30) ・セギ・ポイントの戦い (Segi Point, New Georgia (4th Marine Raider Battalion), 1943/6/21 ・レンドヴァの戦い (Rendova (169th and 172nd RCT's U.S.), 1943/6/21 ・ザナナの戦い (Zanana, New Georgia (169th and 172nd RCT's U.S.), 1943/7/5 ・バイロコ湾の戦い (Bairoko, New Georgia (4th Marine Raider Battalion), 1943/7/5 ・アルンデル島の戦い (Arundel Island (172nd RCT, 43rd Infantry Division), 1943/8/27 ・ヴェララヴェラの戦い1943/8/15 (Vella Lavella (35th RCT, 25th Infantry Division U.S., 3rd Division New Zealand) ・グッドタイム作戦の戦い (Operation Goodtime, 1943/10/27) ・トレジャリー諸島(ブーゲンビル島南:モノ島・スターリング島)の戦い (Treasury Islands (8th Brigade New Zealand) ・ブリスフル作戦 (Operation Blissful, 1943/10/28-1943/11/3) ・チョイセル島の戦い (Choiseul Island (2nd Marine Parachute Battalion、1943/10/28-1943/11/3) ・チェリーブラッサム作戦 (Operation Cherryblossom, 1943/11/1) ・ブーゲンビル作戦 (Bougainville (3d Marine Division, 37th Infantry Division, 1943/11/1) ・ブーゲンビルの戦い (Bougainville Campaign, 1943/11/1-1945/8/15) ・ギルバート諸島沖航空戦、1943/11/21-11/29 (Operation Galvanic:ガルヴァニック作戦) ・タラワの戦い (Battle of Tarawa, 1943/11/21-11/23) ・マーシャル諸島沖航空戦、1943/12/5 (Battle of Off Marschall Islands) ・クェゼリンの戦い、1944/1/30-2/6 (Battle of Kwajalein, 1944/1/31-2/3) ・トラック島空襲、1944/2/17-2/18 (Operation Hailstone:ヘイルストーン作戦, 1944/2/16-2/17) ・エニウェトクの戦い、1944/2/17-2/18 (Battle of Eniwetok, 1944/2/17-2/23) ・マリアナ・パラオ諸島の戦い、1944/6/15〜9/10 (Mariana & Palau Islands campaign, 1944/6-1944/11) ・サイパンの戦い (Battle of Saipan, 1944/6/15-7/9) ・マリアナ沖海戦 (Battle of the Philippine Sea, 1944/6/19-6/20) ・グアムの戦い (Battle of Guam, 1944/7/21-8/10) ・テニアンの戦い (Battle of Tinian, 19447/24-8/1) ・ペリリューの戦い (Battle of Peleliu, 1944/9/15-11/27) ・アンガウルの戦い (Battle of Angaur, 1944/9/17-10/22) ・硫黄島の戦い (Battle of Iwo Jima、1945/2/19〜1945/3/26)
・米第6軍司令官ウォルター・クルーガー陸軍中将 (Lieutenant general Walter Krueger 1881-1967) ・第1軍団、第10軍団、第14軍団、第24軍団 ・米第8軍司令官ロバート・アイケルバーガー陸軍少将 (Major general Robert Lawrence Eichelberger, 1886-1961) ・連合軍空軍司令官ジョージ・ブレット陸軍中将 (Lieutenant General George Brett, 1886-1963、Commander, Allied Air Forces) ・連合軍海軍司令官ハーバート・リアリー海軍中将 (Vice Admiral Herbert Fairfax Leary, 1885-1957, Commander, Allied Naval Forces) ・第5航空軍司令官ジョージ・ケニー中将 (Lieutenant General George Churchill Kenney, 1889-1977) ・第7艦隊司令官(United States Seventh Fleet) ・アーサー・カーペンダー中将(在任1943/3/15-1943-11/26) (Vice Admiral Arthur Schuyler Carpender , 1884-1960) ・トーマス・キンケイド中将(在任1943/11/26-1945/11/20) (Vice Admiral Thomas Cassin Kinkaid,1888-1972) ・オーストラリア軍最高司令官トーマス・ブレーミー陸軍大将 (General Sir Thomas Albert Blamey, バス勲章(KCB), 1884-1951) ・ニューギニア部隊(ニューギニア・フォース)司令官バジル・モリス少将 (Major General Basil Moorhouse Morris CBE, DSO, 1888-1975) ・東部ニューギニア部隊司令官シドニー・ラウェル中将少将(1942/8/13モリス少将後任) (Lieutenant General Sir Sydney Fairbairn Rowell, バス勲章(KBE,CB) 1894-1975) ○作戦名:〜 ・連合軍の進撃路:〜(上陸(攻撃)日)ニューギニアの戦い 1942年:キリウィナ島6/30→ミルン湾ラビ6/25→ブナ11/16→サラモア4/22→ナッソー6/30→ラエ9/4→フィッシュハーヘン9/22→シオ12/5 1944/年:アイタペ4/22→ホーランジア4/22→ワクデ→サルミ5/17→ビアク島5/27→ドリニュモール川7/10→アイタペ7/13→サンサポール7/30→ウェワク8/5 □東部ニューギニアの戦い ・クロニクル作戦〜(ミルン湾の島與(とうしょ)に無血上陸) (Operation Chronicle, 1943/6/23-6/30) ・ウッドラーク島侵攻戦 (Invasion of Woodlark Island、112th Cavalry Regiment) ・6/25、支援艦隊が到着 ・6/30、米・豪連合軍が無血上陸・占領 ・トロブリアンド諸島(キリウィナ島)侵攻戦、1943/6/30 (Invasion of Kiriwina Islands, 158th Regimental Combat Team) ・6/30、米・豪連合軍が無血上陸・占領 ・デクステリトリー作戦 (Operation Dexterity、1943/12/15-1944/4/22) ・アラウェの戦い (Battle of Arawe, New Britain、1943/10/15) ・グロセスター岬の戦い (Battle of Cape Gloucester、1943/12/26-1944/4/22) ・サイドールの戦い (Battle of Saidor、1944/1/2) ・アドミラルティ諸島の戦い (Battle of Admiralty Islands、1944/2/29) ・エミラウ島の戦い (Battle of Emirau Island、1944/3/20) ・ラエ・サラモア作戦 (Salamaua-Lae campaign, 1943/4/22-9/6) ・サラモアの戦い (Landing at Salamaua、1943/4/22-9/11) ・ポステム作戦 (Operation Postern, 1943/9/4-9/16) ・ラエの戦い (Landing at Lae、1943/9/4-9/16) ・ナザブ(ライ・ナザブ空港)の戦い(空挺作戦) (Landing at Nadzab、1943/9/5、マークハム(Markham)川河畔 Lae Nadzab Airport) ・フォン半島作戦(フィンシュハーフェンの戦い) (Huon Peninsula campaign、1943/9/22-1944/3/1) ・前哨戦(Prelude) ・ラエ上陸 (Landing at Lae、1943/9/4-9/16) ・フィンシュハーフェンの戦い(Finschhafen) ・スカーレットビーチ上陸 (Landing at Scarlet Beach、1943/9/22-10/2) ・帝国の反撃(Japanese counterattack) ・フィンシュハーフェンの戦い (Battle of Finschhafen、1943/9/22-10/24) ・サトルバーグの戦い (Battle of Sattelberg、1943/11/17-11/25) ・ワレコの戦い (Battle of Wareo、1943/11/27-12/8) ・シオの戦い (Battle of Sio、1943/12/5-1944/43/1) □西部ニューギニアの戦い、 (Western New Guinea campaign, 1944/4/22-1945/8/15) 1942年7月からの ・ポートモレスビー攻略作戦(1942/3/7〜1943/1/23)が失敗で終了 <連合軍が反撃開始> ・ブナ方面の作戦(1942/11/16〜1943/1/22) ・1943/9/11、サラモア陥落 ・1943/9/16、ラエ陥落 ・1943/10/2、豪軍がフィンシュハーフェンを占領 ・1942/12/8、ブナ地区バサブア陥落 と次々に帝国第18軍が敗北 ・ホーランジアの戦い、1944/4/22-6月下旬 (Battle of Hollandia, 1944/3/30-4/3) (Operations Reckless & Persecution, 1944/4/22) ・アイタペ上陸 (Landing at Aitape, 1944/4/22) ・サルミの戦い (Battle of Sarmi, 1944/6/14-9/1) (サルミ地区:サルミ・マッフィン湾岸ローンツリーヒル(入江山)・ワケダ島) ・ワケダ島の戦い (Battle of Wakde, 1944/5/15-5/18) ・ローンツリーヒルの戦い(サルミ地区のマッフィン湾岸ローンツリーヒル) (Battle of Lone Tree Hill(Battle of Wakde-Sarmi), 1944/6/14-9/1) ・モロタイ島の戦い、1944/9/15-1945/6月下旬 (Battle of Morotai, 1944/9/15-/10/4) ・ビアク島の戦い、1944/5/27-8/20 (Battle of Biak, 1944/5/27-8/17) ・ヌムフォル島の戦い (Battle of Noemfoor, 1944/7/2-8/31) ・サンサポールの戦い (Battle of Sansapor, 1944/7/30-8/31) ・アイタペのドリニュモール川の戦い、1944/7/10〜8月上旬、米・豪の勝利 (Battle of Driniumor River, 1944/7/10-8/25) ・アイタペ・ウェワク作戦 (Aitape-Wewak campaign, 1944/11-1945/8) ニューギニアの主な戦い:〜
参考HP:〜 ・連合軍侵攻の地図(ニミッツ軍とマッカーサー軍の反撃路地図) ・ニューギニア東部の地図(日本語) ・ニューギニアの地図(日本語、キリウィナ島・マヌス島有) ・ニューギニア侵攻の地図(ラエから西への侵攻地図) ・トレジャりー諸島の地図(ブーゲンビル島南”Mono”(モノ島)有) ・トロブリアンド諸島の地図(Kiriwina(キリウィナ島)有) 2016/3/16 |
71 <グロセスター岬の戦い> 1943/12/26〜1944/4/22 Battle of Cape Gloucester |
煙幕を張ってグロスター岬に上陸する米軍 Dec 26, 1943 US Assort craft Smoke Screen Cover to Land at Cape Gloucester ガイアナ 1993 発行 (200%) |
グロセスター岬の戦い、1943/12/26〜1944/4/22 (Battle of Cape Gloucester) グロセスター岬の戦いは、ニューブリテン島西端の北側にあってビスマルク海に面し、ダンピール海峡に近いグロセスター岬付近で、現地ではツルブと呼ばれていた海岸一帯へ、1943/12/26にカートホイール作戦の一環で、猛烈な艦砲射撃と空襲を加え、約2万人でイェロー・ビーチ(Yellow Beach 1 & 2)とグリーン・ビーチ(Green Beach)から煙幕(Smoke Screen)を張って上陸を開始。この地を守備していた帝国陸軍第17師団の歩兵第141連隊と53連隊を主力とする「松田支隊」約6,000人の兵が海岸線で迎え撃つ水際撃滅作戦をとるも敗退しました。 帝国軍司令部はグロセスター岬飛行場から約5kmで、タラウェ山(Mt. Talawe)北西山麓のカリンギ(Kalingi)にありましたが、そこへも連合軍が攻め寄せ、わずか数日で主力部隊のほとんどが壊滅し、戦略上の重要拠点の丘陵地帯を制圧され、山中に籠って持久戦を行ないました。補給が困難になり弾薬・食糧が底をついていく中、最前線で指揮をとる歩兵第141連隊長 片山憲四郎大佐は連合軍陣地に夜襲をしかけるなど、残された兵力で持久戦を展開するも、後方の軍上層部から突然、陣地奪回のため総攻撃を命じられるなど前線は翻弄されました。そして、1ヵ月後ラバウルへの転進命令が出て戦闘は終結しました。 ▼両軍の兵力と損害:〜
○帝国軍の編成:〜 ・陸軍第17師団松田支隊 支隊長:松田 巌少将(1895-1979) ・歩兵第141連隊 ・歩兵第53連隊を主力とする支隊〜約6,000人 ○連合軍の編成:〜 上陸部隊 ・米第1海兵師団(U.S. 1st Marine Division) 司令官ウィリアム・ルパータス少将 (Major General William H. Rupertus、 1889-1945/3/25病没) 支援部隊 ・米海軍艦隊(U.S. Navy Ships) ・豪海軍艦隊(Royal Australian Navy(RAN) Ships) ・米陸軍航空隊(U.S. Army Air Forces:USAAF) ・豪陸軍航空隊(Royal Australian Air Force:RAAF) その後、ツルブからの後退を開始した松田支隊に対し、第17師団司令部は連合軍がラバウルに上陸することを懸念して兵力を集めようと、2/24にラバウルまで後退するよう命令。ニューブリテン島北東端のラバウルまで約1,000km。衰弱した兵士たちにとって行軍は苛酷そのものでした。過酷な持久戦と1,000kmもの撤退で、松田支隊は2,300人以上の兵を失い、さらに約700人もの兵が撤退の中で行方不明になりました。 参考HP〜 ・グロセスター岬の場所地図(ニューブリテン島西端の北側にある岬) ・ツルブの場所地図(日本語、グロセスター岬のツルブ) ・ニューギニア島とツルブ付近の地図(日本語) 参考:〜 ・米航空母艦 インデペンデンス号の装備:〜就役:1943/1/14 (USS Independence CV-22、アメリカ海軍の軽航空母艦) 前身の軽巡洋艦アムステルダム号 (USS Amsterdam, CL-59) として起工するも、ニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所でインディペンデンス級軽航空母艦(Independence-class aircraft light carrier)CV-22として進水。
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72 <山本五十六大将、戦死> 帝国海軍連合艦隊司令長官 1943/4/18 海軍「甲」事件 |
Interception of Yamamoto 1943 一式陸攻 山本長官 P-38 マーシャル諸島 1943 発行 |
ニューアイルランド島ラバウル基地を離陸した山本長官の一式陸攻2機と護衛のゼロ戦6機が、米軍のP38戦闘機16機に攻撃され、ブーゲンビル島上空で撃墜されました。 |
帝国の爆撃機:一式陸攻 グレナダグレナディーン 1995 発行 |
米:P38双発戦闘機 マーシャル諸島 1993 発行 |
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ゼロ戦 セントビンセント・グレナディーン諸島 1995 発行 |
ブーゲンビル島付近の地図
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・海軍「甲事件」、山本長官の戦死、1943/4/18 別名(米軍呼称):ヴェンジェンス作戦 (Operation Vengeance) 場所:パプアニューギニア国ブーゲンビル島上空 (Bougainville Island, Solomon archipelago)
▼両軍の兵力と損害:〜
その頃、米軍は反攻準備中で、現場の戦争の状況としては膠着状態になっていました。帝国自慢の空母機動部隊は壊滅し、ゼロ戦も空の王者ではなく、ニューギニアやソロモン諸島では苦戦を強いられていました。ミッドウェイ作戦の失敗によって戦争の長期化は確実でした。「短期決戦ではなんとかなるが長期となると工業力の差がモロに出てしまう」と、それを一番知っていた日本人は山本長官でした。そうなると明るい未来は期待できそうにありませんでした。「い号作戦」も被害ばかりが目立ってしまい、それは機動部隊復活を遅らせる結果にもなりました。山本長官は「い号作戦」はほぼ満足した結果だったと話したと言われています。と言うことは、山本長官は現状の帝国の限界を知っていたのでしょう。これだけやってもこの程度しか戦果はない。だからこれ以上は無理だと解っていたのではないでしょうか。帝国は惜しい人物を無くしてしまいました。 当時、ゼロ戦はすでに旧式になり、米軍はエンジンの馬力が強くなり装甲が厚くなっていた上に、物量作戦で攻撃してきました。長官護衛のゼロ戦6機はP-38の8機を迎撃しましたが、長官機の直援護衛は無くなってしまい、そこへ米陸軍航空隊P-38双発戦闘機8機が来たのですから、簡単に打ち落とされてしまいました。帝国軍機は航続距離を伸ばすため機体重量を軽くして有りましたので、防御には考慮がはらわれていませんでした。特に一式陸攻は「一式ライター」と呼ばれるほど、被弾すると直ぐに炎上したといわれています。それにひきかえ、米軍は防御に力を注ぎ、航続距離を犠牲にして、操縦席の下に分厚い装甲鉄板を置いてパイロットを守っていました。 参考HP:〜 ・ブーゲンビル島の地図(詳細地図) ・海軍「甲事件」の地図(日本語、両軍の飛行経路図) ・ブーゲンビル島付近の地図 こちらで ・ギルバート(米軍タラワ上陸) ・ラバウル空襲 をお楽しみください。 参考:〜 ・帝国の駆逐艦 磯風(いそかぜ)の装備:〜就役: 1940/11/30 (昭和15年) (大日本帝国海軍 陽炎型駆逐艦の12番艦)
参考HP:〜 ・坊ノ岬沖海戦の地図 ・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。 2016/1/16、16/3/3 |
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