切手で綴る 太平洋戦争 物語 第3部 <米国(連合軍)の反攻> 第11章 ガダルカナル 55 <米軍のガダルカナル上陸> 1942/8/7 |
ガダルカナル島 1492、米軍が反撃上陸 アメリカ独立200年記念 ソロモン 1976/5/24 発行 |
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ガダルカナル島へ攻め寄せる 米上陸用舟艇 ソロモン諸島 1995 発行 |
アメリカ海兵隊第1師団が ガダルカナル島に上陸 Marines Land on Guadalcanal Aug 1942 USA 1992/8/17 発行 |
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ニュージョージア島 ガダルカナル島 サンクリストバル島 レンネル島 |
ショワズール島 サンタイサベル島 マライタ島 サンタクルーズ島 |
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英領ソロモン諸島 1956 発行 |
ガタルカナル攻防戦は、昭和17(1942)年8月7日、ソロモン諸島のガタルカナル島、ツラギ島に米軍が上陸を開始し、ガタルカナル島に建設中のルンガ飛行場が主な戦場となりました。この後ソロモン諸島の制空権をめぐって、帝国軍と米軍の長き戦いが始まりました。時は進み「制空権無き所に制海権無し」となってゆき、米軍には新兵器レーダーも現れました。米軍の上陸を知った帝国軍は何度も奪回を試みますが、全て敗退し、ジャングルに逃げ込みました。その将兵への食料、武器、弾薬の輸送が追いつかず、病と飢えで死の寸前に追いやられた生き残りの兵を、翌年2月初めに駆逐艦20隻で、3度に分けて退却させました。こうして半年間のソロモンでの戦いで制空権、制海権を失って、帝国は敗戦へと退いてゆくことになりました。 |
ガダルカナル島の戦い (Battle of Guadalcanal)、1942/8/7〜1943/2/7、連合軍の勝利 場所:ソロモン諸島のガタルカナル島 (Guadalcanal in the Solomon Islands) 昭和17年5月3日、帝国海軍陸戦隊がソロモン諸島のフロリダ諸島ツラギ島に上陸、さらにその南向いのガダルカナル島ルンガ地区付近に進出、設営班と共に上陸し、飛行場の建設を始め、8/5にはほぼ完成。ツラギ島に約2千人、ルンガ地区に約5千人の帝国軍と飛行場設営班員が上陸していました。ところが8/5には米軍がツラギ島の飛行艇基地を空襲、8/7にも空襲、基地を破戒しました。そして8月7日未明には、米国サンディエゴ港を7月22日に出港したアメリカ海兵隊10,900人が、航空母艦3、戦艦1、巡洋艦14、駆逐艦31、特務艦5隻に守られた輸送船23隻で、ツラギ及びガダルカナル島に激しい空襲・爆撃と激烈な艦砲射撃を前触れとして上陸してきました。帝国軍のツラギ占領は3ヵ月間で終り、米軍はツラギ島と同時にガダルカナル島にはルンガ泊地から上陸し、建設中の飛行場を8/8には占領しました。 上陸を知った帝国海軍は、直ちにニューブリテン島ラバウルに停泊中だった艦隊をガタルカナルに向かわせ、同時に空からもラバウル基地から米輸送船団を攻撃させました。8/8夜半にはラバウルの帝国海軍、三川中将(旗艦 鳥海)第八艦隊がガダルカナル米軍泊地へ軍艦8隻で突撃、帝国の空襲で退避中の米英濠連合艦隊16隻へ攻撃をかけて第1次ソロモン海戦が起こり、日本側の一方的勝利となりましたが、物資を揚陸中の米輸送船団には攻撃をかけず、米軍の上陸は成功し、必要な補給物資の揚陸も成功させました。 その時、帝国海軍航空隊は輸送船団数十隻を撃沈したと間違った戦果を報告し、帝国軍上層部は米軍主力が撃退されたと信じてしまいました。それで、その直後の帝国軍は積極的な行動をおこさず、ガダルカナル島からアメリカ海兵隊を撃退する絶好のチャンスを逃しました。逆
ガダルカナル島「一木支隊」の攻防戦結果 帝国 米軍 兵 力 916 10,900 戦 死 777 34 戦 傷 30 75人。※数字には諸説有 戦後に捕虜15人がいたことが判明。
第17軍司令部(軍司令官、百武中将)の第1回総攻撃命令で、歩兵35旅団川口(少将)支隊は、8/28から駆逐艦で6,200人が上陸。1942/9/12攻撃、9/13夜半に総攻撃。川口支隊と一木支隊増援隊(第2梯団1,200)約6,000人が良く奮戦するも、鉄条網を幾重にも張り巡らせた堅牢な米軍陣地への正面からの銃剣突撃を繰り返させられて損害多く、後退命令で攻撃を中止。飛行場奪還の最後の機会を逃しました。その後は米軍は増々増強されて、帝国軍は小規模(ゲリラ的)な攻撃を繰り返しました。なお、ラバウルからガダルカナルへは、海上約1,100km、ゼロ戦で片道約4時間の洋上飛行で、空戦は10分しか余裕がありませんでした。 参考〜 ・ヒギンズ・ボート(Higgins Boat)の装備:〜開発:1935 (Landing Craft, Vehicle, Personnel、通称LCVP) (アメリカ海軍の上陸用舟艇)、運用:1935-1950
1個小隊相当36人を9ノットの速度で海岸へ揚陸、兵は前方のバウランプから突撃 ※帝国の支那事変(1937-1941/12/7)で大発を写真撮影して設計に活用。 参考HP〜 ・ガダルカナル島とフロリダ諸島付近の地図(日本語、ルンガ地区有) ・ガダルカナル島の場所地図(GoogleMap、日本語) ・ガダルカナル島付近の地図(日本語) ・ツラギ島の場所地図(日本語) ・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。 15/4/15 |
・第1次 ソロモン海々戦 ・第2次 ソロモン海々戦 ・サヴォ島沖海戦(夜戦) ・南太平洋海戦 ・第3次 ソロモン海々戦 ・ルンガ沖海戦(夜戦) |
1942/08/07 1942/08/24 1942/10/11 1942/10/28 1942/11/12 1942/11/30 |
56 <帝国軍の撤退> 帝国軍、最後の総攻撃 夜襲頓挫、1942/10/26 帝国軍の撤退、1943/2/1、2/4、2/7 |
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アメリカ海兵隊のガダルカナル島掃討戦 Marines Laid on Guadalcanal 1942 第2次世界大戦勝利50年記念 マーシャル諸島 1992 発行 |
米軍、ガダルカナル島を完全に占領 Feb 1943 US takes Guadalcanal ガダルカナル米軍陣地から 夜襲の帝国軍へ反撃の砲撃 パラオ 1993 発行 |
帝国は駆逐艦で生存者を収容・撤退 |
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帝国の駆逐艦 白雪 マーシャル諸島 1993 発行 |
東京急行と呼ばれた帝国駆逐艦 ソロモン諸島 1995 発行 |
昭和17年10月22日、第17軍は最後の第2回目総攻撃を命令。軍司令官の百武中将は、第1回総攻撃の事実認識に基づく戦況報告をした川口少将を攻撃直前に悲観的だとして罷免。離島決戦の不利を訴えた軍司令部の二見参謀長は病気理由で10/19更迭しました。 10/14夜、輸送船6隻がガダルカナル島に到着して第2師団主力15,000人は上陸するも、揚陸中の輸送船3隻が米機に撃沈され、揚陸できた弾薬は5分の1、食糧は2分の1でした。10/24総攻撃開始。帝国軍は堅牢な米軍陣地の偵察もせずに、ただ夜襲による白兵突撃を繰り返して、損害を重ねました。そしてあまりの損害の多さに耐えられず、ついに10/26第17軍司令官百武中将は攻撃中止を命令。日露戦争以来の伝統に輝く第2師団の攻撃も失敗し、第17軍は長期自給を策しましたが、数々の海戦で互角と思われた戦果にもかかわらず、補給物資(食料、武器弾薬)の輸送が出来ず「撃つにタマ無く、食べるにコメ無し」の状況が続き餓島となって、兵隊さんは栄養失調、マラリア、アメーバ赤痢などの病に倒れ、また餓死の危機に直面しました。 1942/12/31大本営の永野軍令部総長と杉山参謀総長はガ島撤収作戦を天皇に上奏し、大本営撤退命令が決定。報道では「撤退」ではなく、「転進」と発表されました。この間にもガダルカナル島の飢餓と病気は加速度的に進行していました。翌年1493/1/14撤退援護の第38師団補充兵と命令伝達使者の参謀がガ島に上陸。2/1、2/4、2/7の3日間で駆逐艦での撤退命令を伝達。撤退準備中、第38師団が陽動作戦としての攻撃を仕掛け、退却は成功しました。 ・ガダルカナル島の攻防戦結果
・ガダルカナル島の撤退作戦:〜(ケ号作戦) ・第一次撤収作戦(1943/2/1)〜駆逐艦20隻 1日朝、ショートランドを出発。途中アメリカ軍機の攻撃で巻波が航行不能となり、文月の曳航で戻る。同夜、ガダルカナル島に到着し海軍250人、陸軍5,164人を収容、2日午前、ブーゲンビル島エレベンタに帰還。 ・エスペランス隊 ・警戒隊:(駆逐艦)文月、白雪、江風、親潮、舞風、巻波 ・輸送隊 ・第10駆逐隊:風雲、巻雲、夕雲、秋雲(巻波脱落後、巻雲、夕雲は警戒隊へ) ・第17駆逐隊:浦風、磯風、浜風、谷風 ・カミンボ隊(島西端) ・警戒隊:皐月、長月 ・輸送隊 ・第16駆逐隊:時津風、雪風 ・第8駆逐隊:大潮、荒潮。 ・第二次撤収作戦(1943/2/4)〜駆逐艦20隻 4日朝、ショートランドを出発。途中、空襲で舞風が航行不能となり、長月に曳航されてショートランドへ帰還。白雪が機関故障のため戻る。ガダルカナル島に着い部隊は、予定通りに収容を開始、海軍519人、陸軍4,458人を収容。エスペランスでの収容作業には遅れが出て約300人を積み残して5日午前エレベンタに帰還。 ・エスペランス隊 ・警戒隊:黒潮、白雪、朝雲、五月雨、舞風、江風 ・ 輸送隊 ・第10駆逐隊:風雲、夕雲、秋雲 ・第17駆逐隊:谷風、浦風、浜風、磯風 ・カミンボ隊 ・警戒隊:皐月、文月、長月 ・輸送隊 ・第16駆逐隊:時津風、雪風 ・第8駆逐隊:大潮、荒潮。 ・第三次撤収作戦(1943/2/4)〜駆逐艦18隻 7日朝ショートランドを出発。途中空襲で磯風が被爆し引き返した。同夜、ガダルカナル島に到着しカミンボからしんがりとされた松田部隊を中心とする海軍25人、陸軍2,224人を収容しエレベンタに帰還した。また駆逐艦での撤収が失敗した場合に備えてラッセル諸島に1/28に進出していた海軍38人、陸軍352人を収容。 第一連隊(カミンボからの収容と警戒) ・一番隊:黒潮、白雪 ・二番隊:朝雲、五月雨 ・三番隊(輸送隊):時津風、雪風、皐月、文月 ・第二連隊(ラッセル諸島からの収容と警戒) ・第10駆逐隊:風雲、夕雲、秋雲 ・第17駆逐隊:谷風、浦風、浜風、磯風 ・第8駆逐隊:大潮、荒潮 ・第22駆逐隊:長月(収容はカミンボ)。 ※3回の撤収で海軍832人、陸軍12,198人、合計1万3千人以上の兵員を収容。 ※損害は駆逐艦1隻沈没(巻雲)、 2/1の収容時に巻雲が触雷で航行不能、夕雲の魚雷で処分、 3隻の損傷(巻波、舞風、磯風)。
輸送の効率は、もともと輸送任務を想定していない駆逐艦なので、輸送効率は著しく低いものでした。貨物船を徴用した輸送船の場合、輸送能力は船舶1屯当たり概ね1屯程度で、一隻で数千トンを輸送できたのに比べ、駆逐艦の場合は、大型の陽炎型でも排水量約2,500屯に対し輸送量は15〜20屯程度、完全武装の陸兵のみならば150人程度(当時の編成で1個中隊が120人)が限界でした。しかも、輸送船なら貨物用の大型クレーン類を有しているので戦車や重火器の輸送も可能なのに対し、駆逐艦では内火艇を上げ下ろしする程度の設備しかなく、分解した大砲を少数積むことが精一杯でした。大発のような本格的な上陸用舟艇も積めないので、折畳舟と呼ばれた手漕ぎの小型上陸用舟艇に物資兵員を移して、駆逐艦の内火艇で曳航する方式がとられました。その余裕も無い場合には、ドラム缶などで防水包装された食料や弾薬を縄でつないで海上へ投棄し、現地部隊の大発が回収するという方法がとられるも、しばしば回収に失敗しました。さらに、月明期(月齢15を中心とした前後2週間程度)には輸送に当たる駆逐艦が発見されやすくなるため利用できず、輸送計画が立てられないという兵站計画においては致命的な欠点がありました。 ガダルカナル島の戦いの間、船団輸送は第2師団と第38師団主力 (約2,000人) の2度にとどまり、水上機母艦 日進などで艦艇輸送と舟艇輸送による約650人以外は一貫して「ネズミ輸送」で行われました。延べ350隻以上の駆逐艦が投入され、最大のものは、ガダルカナル島からの撤退作戦であるケ号作戦(1943/2/1-2/7)でした。輸送された人員は2万人以上。 往路と復路はどうしても日中となり、連合軍機に発見されるとそのたびに被害を出しました。そのため、帝国連合艦隊はガダルカナル島作戦期間中の約半年間で駆逐艦14隻を失い、延べ63隻に損傷を受けました。これほどまでに損害が膨らんだ一因には、缶室か機械室のどちらかに浸水すると直ちに行動不能となる艦隊型駆逐艦の弱点がありました。このように多大な損害を出したものの、他に手段がない帝国軍にとって鼠輸送は常套戦術とならざるをえず、ソロモン諸島・ニューギニア方面を中心に、制空権を失った前線拠点への部隊輸送に使用が続けられました。潜水艦など、駆逐艦以外の戦闘艦艇の輸送任務への使用も拡大しました。なお戦訓から、その後に建造された松型駆逐艦では、上陸用舟艇である小発の搭載が標準化され、生存性向上のため機関配置の変更がなされました。また1943年(昭和18年)には、輸送効率問題の解決策を盛り込んだ、鼠輸送専用艦というべき二種の輸送艦が計画建造されました。艦尾にスロープをつけて大発を発進できるようにした一等輸送艦と、戦車揚陸艦タイプで直接接岸できる二等輸送艦の2種。 ・ネズミ輸送と戦闘(ラバウル〜ショートランド〜ガ島ルンガ) ネズミ輸送の帝国駆逐艦部隊と、それを阻止しようとした連合軍水上部隊の間で、数次の海戦が発生。夜間活動を行うネズミ輸送の特性上、一般に夜戦となりました。ルンガ沖夜戦のように戦術的には夜戦を得意とした日本駆逐艦部隊がしばしば活躍した一方で、戦略目標である輸送任務には失敗するケースもありました。連合軍艦艇のレーダー運用能力が向上すると、ネズミ輸送部隊は苦戦を強いられるようになりました。 ・ガダルカナル攻防海戦など ・ミッドウェー海戦(1942/6/5)後のガダルカナル島付近海戦:〜(1942/8/7〜1943/11/25) ・1942年
・駆逐艦 秋月(あきずき)の装備:〜竣工:1942/6/11 (大日本帝国海軍の駆逐艦)、1944年改装で防空駆逐艦
こちらで ・ガダルカナル攻防海戦(ソロモン海々戦) をお楽しみください。 参考HP〜 ・ガダルカナル島の地図(日本語) ・ソロモン諸島西部州の地図(クラ湾はコロンバンガラ島とニュージョージア島の間) ・アイアンボトム・サウンドの地図(両軍の沈没船の場所地図) ・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。 15/10/5 |