切手で綴る 太平洋戦争 物語 第2部 <帝国の侵攻> 第6章 フィリッピン攻略 23 <帝国軍 ルソン島上陸> 1941/12/10 |
フィリピンの地図 フィリピン 1937/2/3 発行 |
東南アジアの地図と アメリカ極東軍司令官 マッカーサー将軍 南マルク共和国 1951 発行 |
フィリピン攻略作戦は、開戦初頭企図された作戦で、主として比島(フィリピン)のルソン島にある首都マニラと、ミンダナオ島のダバオの占領にありました。マニラは米国の極東における根拠地であり比島の軍・政・経の中枢でした。またダバオは、比島南部の軍・政・経の要衝であり、両者を占領することは全比島占領を意味し、戦略目的は達成できると考えられていました。比島攻略の大きな障害は米空軍、特にB17爆撃機が驚異で、航空母艦はハワイ作戦に充当していたので、基地航空部隊による航空撃滅戦を実施し制空権獲得後マレー作戦のような奇襲ではなく、正攻法にて上陸作戦を開始することが検討されました。 昭和16年12月8日早朝、台湾南部に集結した帝国海軍基地航空隊は比島にむけて出撃。濃霧のため敵機を発見できなかった帝国部隊もありましたが、13:30クラークフィールド、イバの両基地を攻撃し、撃墜・地上撃破約100機の戦果。第1撃を以て勝敗を一挙に決してしまいました。 以降約1週間に渡って帝国陸海航空隊の第11航空艦隊と第5飛行集団約500機による掃討作戦で、比島米空軍200機以上を撃破して比島航空撃滅戦は目的を達成し、比島方面の制空権を獲得しました。こちらで開戦初日の ・フィリピン空襲 をお楽しみください。 ▼両軍の兵力:〜
先遣部隊が12/10、12/12に上陸した後、本間中将の第14軍主力は12/22リンガエン湾に、第16師団主力は24日ラモン湾に上陸を開始。マッカーサー将軍は、帝国軍の戦力を過大に算出し、前進を遅滞させた上で米比軍の主力はバターン半島へ後退しました。なお、南部のミンダナオ島ダバオは12/20に占領。ミンダナオ島は掃討作戦に入りました。 ・フィリピン攻略作戦の戦闘経過抄:〜(1941/12/8-1942/6/3)
参考HP:〜 ・フィリピンの場所地図 ・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。 15/8/13 |
24 <マニラ占領> 1942/1/2 |
帝国軍、マニラに入城 マニラがオープンシティを宣言、1941/12/26 Fall of Manila to Japanese Frces 1942 マーシャル諸島 1992 発行 |
帝国軍は12/22にルソン島北西部のリンガエンに、12/24には南東部のラモン湾に上陸し、南北からマニラに進撃。米比軍はマニラを捨ててバターン半島とコレヒドール島に立てこもるため撤退したので、1941/12/26にケソン大統領がマニラ市を無防備都市(オープンシティ)と宣言しました。1942/1/2午後、マニラは第14軍のリンガエン湾上陸(12/22)からわずか11日で陥落。帝国はたいした抵抗を受けることなくマニラを1/2に占領しました。これは日・米の戦略の相違で、マニラ湾要塞に対して関心の薄い 大本営や南方軍はマニラ占領で比島作戦は残敵掃討の段階に入ったとして、第14軍から ・第48師団を蘭印(インドネシア)作戦へ ・第5飛行集団を泰(ビルマ)作戦方面へ、移動しました。 米比軍は退路を断たれることなく、バターン半島へ撤退後、頑強に抵抗しました。 ・第1次バターン半島攻撃(1/10〜2/8) 当時、帝国軍の主眼はマニラにあり、バターン半島への認識は全く無く、敗退した部隊などは簡単に撃破できると考えていました。帝国軍はバターン半島に、1942/1/10前後から残敵掃討のつもりで攻め入り、第65旅団も抽出された第48師団に代わり追撃の任を受け、1/12から攻撃を開始するも、米軍は密林の中に強固な防衛陣地を築いていて、激しく抵抗したので、大きな損害を出しました。また、米軍砲兵隊の砲撃と、歩兵部隊の反撃で死傷者が続出して、戦線は膠着状態となりました。第14軍はこの戦況を打開すべく木村支隊(歩兵第9連隊基幹)を投入するも、米軍が包囲して大損害(舟艇機動部隊は1/22全滅)を出し、2月を迎えました。1942/2/8に軍司令部(サンフェルナンドの戦闘指令所)で、その後の戦争指導に関して幕僚会議を開き、軍司令官 本間中将は熟慮の末、一旦攻撃を中止し、防勢に転じることに決し、大本営にその旨を報告しました。2/10には攻撃を中断し、反転命令による木村支隊残存兵の敵中突破を最後に、第1次バターン攻撃作戦は中止され、頓挫しました。 ▼両軍の兵力:〜
・第65旅団(1/1にリンガエン湾に到着、奈良中将、7.300人)に追撃を命じるも、この部隊は老兵が多く装備も貧弱な後方警備部隊で、リンガエン上陸後マニラ迄200kmの徒歩行軍で、へとへとに疲労していました。戦況が思わしくないので、1/16以降、第16師団木村支隊(木村少将, 第9連隊基幹, 兵力5,000)を増援として戦線に投入しました。
バターン半島の戦線膠着は大本営と南方軍を憂慮させ、米は完全に包囲下にあり、そのまま封鎖を続けていれば遠からず自滅することは確実。しかし各部隊の損耗甚だしいことに加え、米側の宣伝謀略による精神的影響は重視せざるを得なくなりました。米国に「シンガポールは落ちるも、コレヒドールは健在なり!」と言わしめました。 参考HP:〜 ・米・バターン半島防衛戦の場所地図 ・バターン半島の場所地図 ・フィリピンの地図(Google Map、日本語) |
25 <マックアーサー、コレヒドール脱出> 1942/3/11 I shall return ! |
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高速魚雷艇 USA 1992 発行 |
B-17:フライングフォートレス Flying Fortress:空飛ぶ要塞 パラオ 1992 発行 |
魚雷艇でコレヒドールから脱出した米軍総司令官マッカーサー大将 1942/ 3/11:フィリピン脱出 〜 1942/3/17:オーストラリア着 |
マッカーサー大将は、米大統領命令により家族・政府首脳とコレヒドール要塞から、高速魚雷艇に乗り込み’I shall return!’の言葉を残してミンダナオ島へ脱出しました。 1941/12/8の帝国軍の空襲に始まったフィリピンの戦いで、首都マニラを放棄して、迫り来る帝国の大軍隊をやり過ごし、米比軍をバターン半島からコレヒドール要塞島に撤退させ、その後「2ヵ月に渡って帝国の大軍隊を相手に「善戦」している」と、アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝されていました。そこで、米のルーズベルト大統領は、マッカーサー将軍が戦死または捕虜になった場合、国民の士気に悪い影響が生じかねないと考え、マニュエル・ケソン大統領(Manuel Luis Quezon y Molina, 1878-1944/8/1米NY没)と共にオーストラリアへ脱出するよう命じました。 マッカーサー大将は、後任をウェーンライト中将に託し、3/12コレヒドール要塞島から高速魚雷艇でミンダナオ島へ脱出、3/14到着。3/17ミンダナオ島のパイナップル畑の秘密飛行場からボーイングB17でオーストラリアのメルボルンに無事到着して脱出に成功しました。その後、オーストラリアで南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任しました。なお、脱出時にケソン大統領が将軍の口座に50万ドルを振り込んだ(2/15)という説有。 ・高速魚雷艇 PTボートの装備:〜 (Patrol Torpedo boat、アメリカ海軍の高速哨戒魚雷艇)
ヴォスパー社の70フィート型艇が英ソ連向けで量産。 |
26 <バターン半島占領> 1942/4/9 |
フィリピンの地図 | ||
バターン半島→ コレヒドール島→ マニラ→ |
←ビサヤ諸島 ←ミンダナオ島 |
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フィリピン 1995 発行 |
・第2次バターン半島攻撃(4/3〜4/9) 帝国の大本営参謀本部は、陸軍の名誉にかけてもバターン半島を攻略するという方針を立て、現地参謀長の前田正実中将を左遷して、参謀本部作戦課長の服部卓四郎大佐(1901-1960)みずから作戦を立てると共に、辻政信中佐(1902-1961)を作戦指導のために特派しました。 第2次攻撃は、東京の大本営が十分なる準備の後、兵力増強を発令し、特殊地形の訓練を実施して、第2次攻撃に備えました。
その後、援軍の到着を待って、4/3(神武天皇祭)に第2次攻撃が開始されました。24サンチ榴弾砲9門、15榴(15サンチ榴弾砲)25門、15加農(15サンチカノン砲)8門などの重砲を含め、300門に近い75mm以上の砲が一斉に火を吹いたのです。 日本軍の進撃は予想外に速く進み、9日にはバターン半島防衛米軍のキング少将が降伏し、バターン攻撃戦は1週間で幕を閉じました。
こうして、入念な帝国軍の準備と、米比軍の食糧不足・要人脱出からくる士気低下で、4/10に第2次攻撃は帝国の勝利となりましたが、帝国は、米兵12,000人、フィリピン兵64,000人、計76,000人の他に、難民と一般市民26,000人の捕虜の取り扱いに苦慮しました。 参考HP:〜 ・フィリピンの地図(Google Map、日本語) |
27 <バターン、死の行進> 1942/4/9〜4/27 |
Surrender of Bataan Deth March 1942 第2次世界大戦50周年記念シリーズ Fall of Manila to Japanese Frces 1942 マーシャル諸島 1992 発行 「バターン死の行進」が起こり多くの米比軍捕虜が亡くなりました |
フィリピン攻略戦の捕虜約10万人の移送に関していわゆる「死の行進」なる事件が起りました(4/9〜4/27)。これは、移送手段は「徒歩」によるものが一般的な帝国軍と、「車両」によるのが一般的な米軍の認識の相違で、当時の日本では常識的な対応でした。 全長は120kmで、その半分は鉄道とトラックで運ばれ、残り42kmを3日間徒歩で移動の予定なるも、マリベレスからサンフェルナンドの区間88km(42Km説有)を、将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で3日間移動。収容所にたどり着いたのは捕虜約7万6千人の内、約5万4千人で、約7千人から1万人が病気(マラリア、デング熱、赤痢など蔓延)の上に飢えや、疲労、殴打、処刑などで死亡したといわれています。また、現地人は帝国軍の警備兵の少ない中、多数が逃亡しました。 また糧食の不足やマラリアなどで米捕虜の多くがすでに体力を消耗しており、このことで帝国軍の「残虐行為」などとするのは不当だとする説も有ります。この「事件」の戦後の裁判は、当時の敗将マッカーサーの本間中将(戦後に刑死)への復讐劇だったとも言われていますが、帝国軍「B・C級戦犯」が処刑されました。 ・当初の捕虜輸送予定:〜 1.マリベレス〜バランガ(約30km、徒歩) 2.バランガ〜サンフェルナンド(約53km、トラック200台) 3.サンフェルナンド〜カパス(約48km、鉄道) 4.カパス〜オドネル(約12km、徒歩) 参考HP〜 ・バターン、死の行進の地図(日本語) |
28 <コレヒドール陥落> 1942/5/6 |
コレヒドール要塞島 (Corregidor) 米軍、最後の防衛拠点となった島 USA 1944/9/27 発行 |
帝国軍バターン半島を占領 コレヒドール陥落 5/6
帝国占領地フィリッピン 1943/5/7 発行 |
手を挙げるコレヒドールのアメリカ軍捕虜 Corregodor falls to Japanese May 6, 1942 アメリカ戦勝50周年記念シリーズ USA 1992 発行 |
・コレヒドール島の戦い、1942/5/5〜5/6、帝国の勝利 (Battle of Corregidor) バターン半島沖合いのコレヒドール島にはスペイン統治時代から外敵を阻止するための要塞が設置されていました。米軍は第1次大戦後、地下発電所を持ち、坑道には電車の走る本格的地下要塞を建設。昭和17年(1942)当時やや旧式ではあったものの沿岸砲台23、要塞守備隊13,000人の兵力が有りました。また、近接するフライレ島、カバロ島、カラバオ島にも沿岸砲が設置され、マニラ湾の入り口を制していました。1942/4/14帝国砲兵隊は、占領したバターン南端から、コレヒドール要塞へ砲撃を開始。直ちに同要塞からも反撃が開始され、約10kmの海を挟んでの砲撃戦が連日続きました。 帝国砲兵隊は、
参考HP〜 ・コレヒドール島の地図(Google Map、日本語) |
29 <アメリカ極東軍、降伏> 1942/5/7 帝国軍の勝利 |
フィリッピン派遣アメリカ極東軍降伏 在比米軍ウェンライト中将が星条旗を降旗 Fall of Corregodor 1942 マーシャル諸島 1992 発行 |
1942/5/7にウェーンライト中将は改めて全米比軍の無条件降伏を受諾。そして23:50マニラ放送を通じて全米比軍に投降命令を発し、幕僚を各地に派遣して伝達させました。こうして比島作戦は終了しました。 ウェーンライト中将(Lieutenant General Jonathan Mayhew "Skinny" Wainwright IV, 1883-1953)は、1942年の開戦当初はアメリカ極東陸軍(米比軍)で、マッカーサー大将を補佐し、バターン半島とコレヒドール要塞に立てこもり指揮を執りました。1942/3/12にマッカーサー大将がコレヒドール島を脱出してからは米比軍を指揮しました。1942/5/7コレヒドール要塞が陥落して帝国軍に降伏後、捕虜として満州に移送されました。1945年に帝国が連合軍に無条件降伏して開放され、1945/9/5大将(General)に昇進。1945/9月東京湾でのミズリー号上降伏調印式に列席。1946/1月にテキサス州フォート・サム・ヒューストンの第4軍司令官に着任。1947/8月に退役。1953/9/2にテキサス州(San Antonio, Texas)で亡くなってアーリントン国立墓地に埋葬されました。 ▼両軍の損害:〜
・両軍の編成:〜 ▼帝国軍の編成:〜 ・陸軍第14軍(軍主力34,856人、船舶部隊4,633人、第5飛行集団3,621人) 司令官:本間雅晴中将(1887-1946マニラにて略式軍服で銃殺刑) 参謀長:前田正実中将(1892-1953) ・第16師団 師団長:森岡皐中将(もりおかすすむ:1889-1959) ・歩兵第9連隊(上島支隊、12/22リンガエン湾上陸) ・歩兵第20連隊(師団主力、12/24ラモン湾上陸) ・歩兵第33連隊 ・木村支隊、12/12レガスピー上陸 ・三浦支隊、12/20ダバオ上陸 ・捜索第16連隊、野砲兵第22連隊、工兵第16連隊基幹 ・第48師団(開戦時兵力15,663人) 師団長:土橋勇逸中将(1891-1972) ・台湾歩兵第1連隊 ・台湾歩兵第2連隊 ・田中支隊、12/10アパリ上陸 ・菅野支隊、12/10ビガン上陸 ・歩兵第47連隊 ・捜索第48連隊 ・山砲兵第48連隊 ・工兵第48連隊基幹(12/22リンガエン湾上陸) ・第65旅団 旅団長:奈良晃中将(1888-1964) ・歩兵第122、第141、第142連隊基幹(開戦時兵力7,300、1/1リンガエン湾到着) ・戦車第4、第7連隊 ・野戦重砲兵第1、第8連隊 ・独立工兵第3連隊 ・第5飛行集団 集団長:小畑英良中将(1890-1944/8/11グゥアム島で自決) ・作戦機192機(重爆27、軽爆54、戦闘機72、偵察機27、直協機12) ・第16軍 ・坂口支隊(第56師団の一部、歩兵第146連隊基幹で、 12/20ダバオ上陸に参加の後、蘭印作戦に参加) ・増援部隊(2月以降到着) ・第4師団(2/27から4/3にリンガエン湾到着) 師団長:北野憲造中将(1889-1960) ・歩兵第8、第37、第61連隊、騎兵第4連隊、野砲兵第4連隊、工兵第4連隊基幹 ・第1砲兵隊(司令部は3/28リンガエン湾到着) 司令官:北島驥子雄中将(1888-1975) ・重砲兵第1連隊(45式24榴8) ・砲兵情報第5連隊基幹 ・永野支隊(2/26リンガエン湾到着) ・第21師団の一部 ・歩兵第62連隊基幹 ・川口支隊(4/10セブ島上陸、4/29コタバト上陸) ・第18師団の一部 ・歩兵第124連隊基幹 ・河村支隊(4/16パナイ島上陸、5/3カガヤン上陸) ・第5師団の一部 ・歩兵第41連隊基幹 ・帝国海軍 ・比島部隊 ・第三艦隊 司令長官:高橋伊望中将(1888-1947) 参 謀 長:中村俊久少将(1890-1972) ・重巡洋艦 摩耶 ・軽巡洋艦 長良 など ・南方部隊航空部隊 ・第十一航空艦隊 司令長官:塚原二四三中将(1887-1966) 参 謀 長:大西瀧治郎少将(1891-1945/8/16東京で切腹自決) ・作戦機308機 (艦上戦闘機123、陸偵15、陸攻146、大偵24機)。 ▼米軍の編成:〜 アメリカ軍・フィリピン軍(総数約15万人) アメリカ極東陸軍 総司令官:ダグラス・マッカーサー将軍 (少将待遇、Douglas MacArthur, 1880-1964、後に米元帥:Five-star General) ・アメリカ陸軍極東派遣部隊(31,095人) 司令官:ジョージ・グルナート少将(Major General George Grunert, 1881-1971) ・北部ルソン部隊 司令官:ジョナサン・ウェインライト少将、1942/3/22中将、後に大将 (Major General Jonathan M. Wainwright, 1883-1953) ・第26騎兵連隊(PS) ・第45歩兵大隊(PS) ・2個重砲兵大隊(PS) ・1個山砲大隊(PS) ・フィリピン第11、第21、第31歩兵師団 ・フィリピン第71歩兵師団(実際には極東陸軍司令部直轄) ・南部ルソン部隊 司令官:ジョージ・パーカー准将 (Brigadier general George Marshall Parker, Jr. 1889-1968) ・フィリピン第41、第51歩兵師団 ・ビサヤ・ミンダナオ部隊 司令官:ウィリアム・シャープ准将 (Brigadier general William Frederick Sharp 1885-1947) ・フィリピン第61、第81、第101歩兵師団 ・予備部隊(マニラ北方に配置) ・フィリピン師団(U.S. Philippine Division、フィリピン唯一の米軍正規師団、8,500人) ・第86野戦砲兵連隊(PS) ・フィリピン第91歩兵師団 ・極東空軍 ・フィリピン軍司令部(10個師団:定数7,500) (フィリピン人部隊:フィリピン・スカウト(PS:Philippine Scouts、11,957人) ・アメリカ極東軍司令部 ・港湾守備部隊(コレヒドール島などのマニラ湾入口を守備) ・5個沿岸砲兵連隊
こちらで ・フィリッピン占領地切手 ・ウェーキ島攻略 をお楽しみください。 参考HP〜 ・フィリッピン攻略戦の地図(日本語) ・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。 15/8/13 |