大航海物語 | カナダ
プリンスエドワード島 Prince Edward Island |
参考資料 |
CANADA プリンスエドワード島 シャルロッテタウン200年記念 カナダ 1969/7/1 発行 |
Canada | ||
アジア アラスカ カナダ |
カナダ付近の地図 北極諸島獲得100年記念 カナダ 1980/1/23 発行 |
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・プリンスエドワード島 Prince Edward Island 略称:PEI プリンス・エドワード島は、1543年にフランスの探検家ジャック・カルティエ船長が発見した島で、カナダの東海岸、セントローレンス湾に浮かぶ島で、カナダの州(Province)の一つでもあり、カナダの州の中では面積、人口共にもっとも小さく、気候は温暖で、土地は赤土で肥沃な所です。 州都:シャルロッテタウン(Charlottetown)、総面積:5,660ku、州人口:13万9,000人(2001)。プリンスエドワード州はセントローレンス湾の同名のプリンスエドワード島で構成され、同様にカナダ沿海州であるニューブランズウィック州とはノーサンバーランド海峡で隔てられるも、この海峡には1997年にコンフェデレーション橋(Confederation Bridge)が架けられ、プリンスエドワード島のボーデン=カールトン(Borden-Carleton)とニューブランズウィック州のケープ・ジューリマン(Cape Jourimain)とを結んでいます。 プリンス・エドワード島は、元々は先住民族のミクマク族(Micmacs、Mi'kmaq)族が暮らしていて、島の名前をアベグウェイト(Epekwitk:波の上のゆりかご)と呼んでいました。それをフランスがアカディア領(Acadia)の一部としてのフランス領時代にサン・ジャン島(Ile Saint-Jean)と呼んでいるも、1758年にフレンチ・インディアン戦争(七年戦争)で英軍が占領すると、英語式にセント・ジョン島(St. John's Island)と呼ぶも、1798/11/29にイギリス国王ジョージ3世(George III 1738-1820)の第4王子で、当時ハリファックス(Halifax)駐在の英軍を指揮していたケント公エドワード(Prince Edward, Duke of Kent 1767-1820、ヴィクトリア女王の父)に因んで、プリンス・エドワード島と改称し、1769〜1873年の間は独立した植民地でした。切手は1番切手を1861年に、最期は1872年に発行し、その後はカナダ連邦政府の切手に統合されました。 この島の特産はジャガイモであるも、それ以上に「赤毛のアン」シリーズを書いたルーシー・M・モンゴメリー(Lucy Maud Montgomery、1874-1942)が住んでいた島として名高い所です。その縁で、夏場は観光客で賑わいます。日本からの観光客も多く行っています。カナダが独立する際、カナダ建国会議(シャーロットタウン会議)が開かれたという由緒ある歴史の島という面もあります。1864年にシャーロットタウン会議(Charlottetown Conference, 1864/9/1-9)が開催され、1867年の連邦制発足とカナダ独立に向けての話し合いが行われるも、ニューファンドランド州と共にプリンスエドワード島は連邦に加盟せず、独立した植民地となり、アメリカ合衆国の一部になるかの検討をしていました。1870年代には鉄道の敷設を開始しするも、成功せず多額の負債が残り、この負債を相殺すると共に、本土との蒸気船交通の確保等の条件で、プリンスエドワード島は1873/7/1にカナダ連邦政府に加盟しました。 ・こちらでガスペ半島をお楽しみください。 参考:〜 ・シャルロッテタウン charlottetown シャルロッテタウンは1765年にセント・ジョン島(St. John's Island)の首都として建設され、国王ジョージ3世の王妃シャーロットにちなんで「シャルロッテタウン」と名付けられました。カナダのプリンスエドワードアイランド州の州都で、人口は32,245人、都市圏人口は58,358人(2001)。プリンスエドワード島内の半分以上の人々がこのシャーロットタウン都市圏に居住。 参考HP〜 ・セントローレンス湾付近の地図 ・マグダレン諸島の場所地図 ・プリンスエドワード島の場所地図(日本語) ・カナダの地図(日本語) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 03/10/10、04/12/8、14/5/5 |