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★アメリカ | ケーン軍医 1850 北極探検・ケーン水路発見 |
大航海物語 |
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USA | CANADA | |||
北極点→ グリーンランド→ グカナダ北部→ |
ケーンの航海地図とアドヴァンス号 アメリカ 1986 発行 |
. | カナダ 1981 発行 |
←ケーン水路 ←グリーンランド ←パフィン島 ←ハドソン海峡 ←ラプラドル湾 ←ラプラドル半島 |
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ケーン軍医は1850年グリーンランド西岸の北極圏でケーン水路を発見しました。1855年には乗船アドヴァンス号が氷に閉じ込められたので、アッパーマヴィック町まで徒歩で83日かけて生還しました。 |
・エリシャ・ケント・ケーン軍医 (1820/2/28〜1857/2/16) Dr. Elisha Kent Kane ケーンはアメリカのフィラデルフィア(Philadelphia, Pennsylvania)で生れました。彼の父(John Kintzing Kane)は地方裁判所判事でした。ペンシルヴァニア医学校に入学して2年目にリュウマチ熱にかかり慢性心内膜炎になりました。1842年同医学校を卒業。1843/9/14海軍の外科医助手(Assistant Surgeon)に任官しました。カッシング(Caleb Cushing 1800-1879)のアフリカ艦隊に配属され、中国との通商条約締結使節(望厦条約、Treaty of Wanghia 1844)に加わりました。そしてケーンはマデイラ、リオデジャネイロ、ボンベイ、セイロン、マカオからマニラへの航海をしました。フィリピンでは最近噴火したタール山(Taal)で火山研究用のサンプルを収集中に意識不明となりましたが、かろうじて脱出しました。そして病院船ワンポア号(Whampoa)の軍医を数ヵ月勤めてから、インドとエジプト、アテネとパリを通って帰国しました。メキシコ戦争(1846-1847)中は海兵隊に配属されていました。1847年にはメキシコで槍で負傷しながらも、ガオナ准将(Gaona)の息子を救出して英雄となって、フィラデルフィアへ凱旋帰国しました。 1850年ケ−ンは上級軍医官となり、同年と翌51年にイギリスの北極探検で遭難したフランクリン卿(Sir John Franklin, FRGS 1786-1847)のアメリカ人ヘイヴン(Edwin Jesse De Haven 1816-1865)救出遠征隊(1850-1851)にブリッグ型帆船のアドヴァンス号(Advance)とレスキュー号(Rescue)で編成されたアメリカ探検救出航海隊に主任医療士官(senior medical officer)として指名され参加しました。1853/5/31ニューヨークから第2次北極探検救出遠征隊を編成・指揮して出帆し、レンセラー湾(Rensselaer)で越冬しました。壊血病(scurvy)に悩まされ、時には死にかけながら、スミス砂州、後にケーン水路(Kane Basin (79°4′59″N, 73°4′59″W) )と呼ばれる前人未到の所を急いで通り抜けました。さらに、北極の近くへと航海して凍らないケネディ水路(Kennedy Channel)を発見しました。このルートはその後の北極点探検のルートとして使用されました。
参考HP〜 ケーン水路(Kane Basin) フランクリンの遭難した探検航海地図 (グリーンランド島西のカナダ北部、バッフィン島付近の地図) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2007/4/15 09/10/31追記 |