切手で綴る 運河 (Canal)
Panama

国連 1981 発行

パナマ運河
1914/8/15、開通
Panama Canal
大航海物語
   地図編

CANAL ZONE POSTAGE
パナマ付近の地図

パナマ運河開通25周年記念
パナマ運河地帯 1939/7/15 発行
REPUBLICA de PANAMA
パナマ運河ゾーンの地図

パナマ 1948 発行

CANAL ZONE POSTAGE
パナマ運河地帯

1914 パナマ運河開通25周年記念 1939
パナマ運河地帯 1939/7/15 発行
UNITED STATES POSTAGE
パナマ運河、ペドロ・ミゲル関門
Pdro Miguel Locks, Panama Canal


USA 大正1年 1913 発行

CANAL ZONE
ガツン関門 Gatun Lock
ガイラード関門 Gaillard Cut
クリストバル港 Cristbal Port
マデン・ダム Madden Dam
1914 パナマ運河建設50年記念 1964
USAパナマ運河地帯 1964/8/15 発行

・パナマ運河
 Panama Canal

パナマ運河はパナマ地峡を横断して,カリブ海(大西洋)と太平洋とを結ぶ運河。カリブ海岸のコロンから太平洋岸のバルボアに至る64.5kmの長さをもち、3組の水門と3つの人造湖をつないだ全長約80km、6対の閘門(長さ300m,幅33m,深さ22m)をもち、1914/8/15に開通、船舶通行航路の最小水深は約13m、最小幅はゲーラード水路の約192mです。平均的な船舶の運河通過の所要時間は約9時間。近年は1日当り平均37隻、年13,000隻以上の船舶が運河を通航。

1534年、スペインのスペインのカルロス1世がパナマ地峡(イスマス)を通る運河案の最初の調査を命令しています。それから最初の建設が始まるまで3世紀以上がたち、スエズ運河の設計・開通に成功したフェルディナン・ド・レセップスがパナマ地峡に海面式運河の建設を計画し、フランスの主導で1880/1/1に建設を開始しました。1881年パナマ運河会社の社長に就任しパナマ運河開削という難事業に取り組みました。マラリア黄熱病の蔓延により3万人が死亡や工事の技術的問題(難工事)と資金調達(資金難)の両面で難航し、会社は倒産して1889年に計画を放棄しました。

アメリカ合衆国は1902年に連邦議会でパナマ地峡に運河を建設することを決定。当初パナマ地峡は自治権をもつコロンビア領でしたが、パナマ運河の地政学的重要性に注目したアメリカ合衆国は、運河を自らの管轄下におくことを強く志向。1903/1/22にヘイ・エルラン条約がアメリカとコロンビアとの間で締結されましたが、コロンビア議会はこれを批准せず。1903/11/3にこの地域はコロンビアから独立を宣言しパナマ共和国となりました。アメリカ合衆国は10日後の11/13にこれを承認し、5日後の11/18にはパナマ運河条約を結び、運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得し工事に着手。1903年から工事を始め、3億ドル以上の資金を投入し、水路を閘門で区切って、船を上下させる閘門式として、1914/8/15に開通。運河収入はパナマに帰属。運河地帯の施政権と運河の管理権はアメリカに帰属。

1914/8/15のパナマ運河開通の頃に、その付近で黄熱病が流行していました。

1977年にジミー・カーター大統領が新パナマ運河条約を締結。当運河および当運河地帯の施政権は1999/12/31にパナマへ正式に返還され、アメリカ軍は完全に撤退。

2002年の実績では、年間通航船舶数は13,185隻。通航総貨物量は1億8782万トン(パナマ運河庁調べ)。 通航量の増大や船舶の大型化の流れを受けて2010年にも受入れ能力の限界が危惧され、2006年に運河拡張計画がパナマ運河庁より提案され、国民投票により実施されることが決定された。総事業費52億5千万ドルをかけて2007/9/3に着工開始し、2014年の竣工を予定し、新たに第3レーンを設け、完成後は現在の2倍の約6億トン(船舶トン数換算)の航行量を見込んでいる。総事業費6,000億円で、単独財務アドバイザーを日本の「みずほコーポレート銀行」が務める計画。既存の閘門の近くに新たに大型の閘門を増設する計画で第2パナナ運河とは別。

参考:〜
 パナマ運河地帯の地図
 パナマ運河の公式HP

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   09/3/18、令和 R.3/1/23 (2021)追記
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